phase3「すれ違い」
「引き受けることにした、って……?」
魚のようにぱくぱくとさせた口から、途切れがちな声が聞こえる。
小刻みに体を震わせる穹に、美月は小さく、しかしよどみなく頷いた。
美月は家に戻ってきた後、すぐさま穹の部屋に向かった。穹は不意を突かれたように目を丸くしたが、すぐにお帰りと言ってきた。だが、美月の左手首を見るなり、その目がぎょっと大きく開かれた。
そんな穹に、美月は自分の決意をはっきりと伝えたのだ。
「何言っちゃってるの?! 姉ちゃん正気?!」
穹が詰め寄ってきた。普段は垂れ目がちの目が、今はきっとつり上がっている。
「前々から正気だよ。ずっと迷ってたんだ、これでいいのかって。迷うってことはさ、その答えに納得がいってないってことでしょ? だから、納得がいくほうを選んだ」
「危ないよ! この前あんなに危険な思いや怖い思いしたこと、もう忘れたの?!」
「忘れてない。全然。だから正直な話、怖い。でも、もう決めたことだから、変えられないし変えたくない」
穹は大きくかぶりを振った。
「危険すぎる! この先どんな目に遭うかわからないのに……! やめておいたほうが絶対にいいよ! 危険だとわかってるものに、わざわざ首を突っ込む必要ない!」
口調に怒気が混じっている。
穹がこんなに怒るなんて。
珍しい態度に美月は目を丸くし、ふっと笑って首を横に振った。
「首を突っ込まないでいて、後悔するほうがもっと嫌なんだ、私」
「姉ちゃん、間違ってるよ! お人好し通り越して、ただの馬鹿だよ!」
吐き捨てるようにそう言ったところで、穹はまずいと感じたのか、気まずそうに口を閉じた。姉の様子を、そっと窺う目つきで見る。
「うん、だね。違いない」
美月は屈託なく言った。軽く自嘲するように、面白おかしく笑ってみせる。
「心配しなくても、穹も同じようにしろって言ってるわけじゃないよ。私一人でやるって決めたんだから、穹に迷惑はかからないよ! だから、大丈夫!」
「大丈夫じゃない!!!」
明るく、軽い調子で言った。そんな美月の調子を吹き飛ばすかのような勢いで、穹は怒鳴った。
美月は目を見開いた。穹は俯いているが、その顔が濃い怒りの色で染まっているのはよくわかる。
穹、と伸ばしかけた美月の手を、強くはたいてきた。
「そういうことじゃないのに……!」
顔を上げたその目には、怒りと、ほんの少しの悲しさも混じっているように見えた。
穹は美月のことを睨み付けると、美月を押しのけ部屋を出て行った。
階段を下りる音。玄関のドアが荒々しく開き、閉じられる。
美月が急いで後を追って家の外に出たが、穹の影すら見えなかった。
「ミヅキ、今ソラが物凄い勢いで出て行ったが……」
電柱の影から、ハルが顔を覗かせた。
「うーん……。どうしちゃったのかなあ……」
夜になれば帰ってくるとは思う。が、なんとなく戻ってくるまで待つのは気が進まない。
穹が一番行きそうな場所は、どこだろうか。まず一番思いつくのは、本がある場所だ。
他にはどういう所があるだろうか。河原、空き地、公園……。
あれこれと候補を思い浮かべ、もう思いつく箇所をしらみつぶしに探していくかと覚悟を決める。
「ねえ、穹がどっちに行ったか見てない?」
ハルは、あっちに行ったと、指を指した。
その方向を見た美月は、ふいに頭の中に、ある光景が浮かび上がった。
はっ、はっ。
勢いつけて走り出したはいいが、しばらく経つと息が切れ始めた。
一度立ち止まり、呼吸を整える。
どうにか脈拍が正常に戻ると、穹は心持ち速めな足取りで、再び歩を進めだした。
(姉ちゃんの馬鹿、姉ちゃんの馬鹿……)
同じ言葉が、ぐるぐると脳の中を周回する。
――穹に迷惑はかからないよ――
美月は言った。裏表も何も無い笑顔で。
そうじゃない。そういうことじゃないのだ。
違う、と言いたかった。でも、説明できなかった。代わりに口からついて出た言葉は、ただの理不尽な怒りだった。
頭が真っ白になって、その後真っ赤になった。何も考えられなかった。
陽が西に傾き始めている。世界が、夕方の気配を纏い始めている。巣へと帰っていく鳥の群れの下を、穹は一人、家とは反対方向に歩いていた。
住宅街を抜けた穹は、無意識に商店街の方向へと向かっていた。
ずっと早足で歩き続けていたが、そのせいで足が痛み出し、疲れが出始めた。
情けなく思ったが、穹は速く歩くのをやめ、とぼとぼという足取りで歩いていた。
商店街は、夕飯の買い物をする者、家路へと急ぐ者。商店街は、昼間とはまた違う喧噪に包まれていた。
辿り着いてから、どうして僕はこんなところに、と穹は我に返った。
しかし引き返す気も起きず、そのまま道なりに進んでいく。
様々な店が建ち並んでいる。活気が伝わってくる。自然と、そちらに目が行く。
こんな時だからか。目にしたそれらで引き起こされるのは、姉との思い出ばかりだ。
小さい頃、よく美月と二人でこの商店街まで、おつかいをしにやってきた。
格好つけて重い方を持とうとして、いつも上手くいかなくて泣いていた。美月は呆れた目をしながら、穹の持てなかった荷物を易々と手にしてしまう。
情けないし悔しかったが、格好いいなと少しだけ感じたのも、否めない。
穹が成長してある程度持てるようになると、二人それぞれ同じくらいの重さの荷物を持つようになった。まるで対等になれたようで、穹は嬉しく思っていた。
今はもう、おつかいは一人で充分に出来る。
美月と穹の通っていた小学校は、この商店街を抜けた先にある。
小学生の頃、たまたま帰りに居合わせて一緒に帰ったとき、この商店街で買い食いなぞした。
美月は他の子よりも食べることに貪欲だった。
どこからか食欲の誘られる香りがすると、途端に美月の目はきらりと輝いた。
コロッケや中華に焼き鳥、焼き芋や鯛焼き、アイスクリームなどを調達してくる。
穹は最初の内は躊躇っていたが、一度買い食いすることの味を占めてしまうと、逆に乗り気になった。
きっと今同じものを食べたとて、あの時と同じ味はしないのだろう。
幼い姉弟が、向こうからやってくるのが見えた。
女の子は小さなシャベルやスコップが入ったおもちゃのバケツを、男の子は船のおもちゃを持っており、残っているもう片方の手は繋がれている。
すれ違う瞬間、その姉弟と、過去の自分と美月の姿が重なった。
穹は、そのまま歩き出した。姉弟が歩いてきた方向に向かって。
自分がこの商店街まで歩いてきたのは、無意識ではなかった。
心の奥底で、「そこ」に向かうことを、求めていたのだ。




