第8話 椎名千尋という女
よろしくお願いします!
迷った挙句何も決めることが出来なかった俺は、結局普段仕事に行く時の格好で集合場所に急いでいた。
黒を基調とした服でそれなりに値段がしたので、おそらくダサくはない…と思う。
日本は昨日から12月に入り、天気の良い昼間でもやはり空気は冷たく、緊張と小走りで火照る俺の身体を、この気温が冷ましてくれるのがどこか心地良かった。
冬は好きだ。基本的に夜の時間が長く、その独特な寒さと雰囲気が心を落ち着かせてくれる……
世間ではよく人肌恋しい季節と言われているが、俺にはまだその理由が分からない。
今年も分からないままなのだろうか……
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着いた!時計を確認すると集合時間である13時の1分前だった。
何とか間に合った…
辺りを見回すと、いつもとは違う、少し大人びた格好でスマホと睨めっこをする椎名千尋を見つけた。
…あ、あれ…?千尋ってあんなに可愛かったっけ?
少し高そうなチェスターコートを身に纏う彼女は仕事の時とはまるで雰囲気が違い、俺はそのギャップに完全にやられてしまった。
しかし、あくまで後輩。俺は冷静を装って声をかけた。
「よう千尋、待ったか?」
「……」
…え、無視?? いや、俺の声が小さかったのか?
「千尋、今日のお前なんだか大人っぽいな」
俺は何かの間違いだと思い、再び千尋に声をかけた。
「……」
やはり返事が無い......先程のケダモノ疑惑で俺のことを避けているのか??
まずいな、千尋の機嫌を取り戻さない事には話も聞いてもらえないし、誤解も解けない。
「なぁ千尋、さっきのは誤解なんだ!せめて話だけでも聞いてくれないか??お前の好きなもの何でも奢るから…!!」
「…?どうしたんですか瀬良さん?そんなに真剣な表情をして……」
ようやく俺の存在に気がついた彼女は耳からイヤホンを外し、返事をした。
イヤホンしてたのかよ…ワイヤレスだから全く気がつかなかった…恥ずかしい。
でも千尋には気付かれていないし、それだけは不幸中の幸いだったのかも知れない。
「いや、何でもない…」
「そ、そうですか。」
俺の悲しい表情を見た千尋は、それ以上は深く聞いてこなかった。気が使える良い子じゃないか。
「…ねぇ瀬良さん!」
少しスマホをいじったかと思えば、今度は笑顔で千尋が俺に話しかけてきた。
「ん?どうした?」
「これ、一緒に聴いて貰えませんか?とっても気に入ってるやつなんですけど……」
そう言って彼女は、片方のイヤホンを外して俺に差し出した。
「え……?つけても良いのか?」
初めての展開に俺は戸惑うしかなかった。
「つけないでどうやって聴くんですか??…あ…それとも何か変な想像してませんか?」
「そ、そんな訳ないじゃないか!!」
主導権を握られたくなかった俺は、千尋が差し出したイヤホンを手に取り、躊躇なく耳につけた。
「ふふ…変な人……それじゃ流しますね!」
しかし、これは俺が夢にまで見た展開じゃないか!!
ドラマや漫画の中だけのシチュエーションかと思っていたが、現実でも起こるものなんだな……しかもこんな簡単に。
…っていかんいかん、ちゃんと曲に集中しないと後でまた千尋の機嫌を損ねてしまうかもしれない。
そう思って、耳に神経を集中させた。
《…よう…ったか…?…ザザ…》
何だこれは?曲…じゃないみたいだ。
しかも雑音が酷くてよく聞き取れない。
「千尋、もうちょっと音量を上げてくれないか?ちょっと聞き取りづらくて…」
「あーはいはい…。分かりました…笑」
何を笑ってるんだこいつは?
そんなに童貞の焦る姿が面白いのか?
《…誤解なんだ!》
男の人?が叫んでいるように聞こえる。。
《お前の好きなもの何でも奢るから!!》
「さっきの俺じゃねえか!!!!!」
人生で1番の大声だった。
「…笑笑…瀬良さん…面白すぎ…笑笑」
よっぽどおかしかったのか、千尋は口を押さえ、涙が出る程の笑いを必死に堪えている。
「お前、気づいてたのに無視してたのか?」
「はい…もう笑い堪えるのが辛かったです…笑笑」
「悪魔かよ……」
異性とイヤホンを共有するという初体験も虚しく、完全に手のひらの上で踊らされてしまっていた。
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先程の一件で完全に主導権を握られた俺は、千尋の要求通り駅近くのハンバーグが美味しい店に来ていた。
「何でも頼んでいいんですよね?」
「あぁ、そういう約束だからな。それに迷惑もかけたし……好きなものを頼んでくれ。」
「やった!」
そう言って、彼女と俺はそれぞれ食べたいものを注文してあの事について話し始めた。
「それで瀬良さん、この3日間何があったんですか?」
先程までの無邪気な表情とは違い、少し真剣な顔で彼女が質問してきた。
「少し長くなるけど…それでもいいか?まぁ、ゆっくり食べながら聞いてくれ。」
「は、はい。」
「実は3日前の夜……
〜〜〜
俺は、事件に遭遇した事や殴られて入院したこと、救った相手が大物アイドルだったこと、全てを彼女に話した。
「…にわかには信じがたい話ですけど、瀬良さんの話し方的に、事実なのでしょうね。」
かなり驚いた顔をしているが、どうやら俺の真剣さが伝ってくれたようだ。
「ありがとう。…それとこの事は誰にも言わないでくれないか?俺が事件に絡んでいる事は世間にも公表されていないし、万が一知れたら結城さん達にも迷惑がかかってしまうかも知れない。」
「分かってますよ、こんな事他の人に言っても信じて貰えませんし。」
「助かるよ……」
俺が話を終えた時、2人の皿の上にはもう何も残っていなかった。
そして俺たちは食後にコーヒーを頼み、もう少し話を続けることにした。
「それで瀬良さん、犯人の顔は見ていないんですか?」
「それが、どうもあの時の事をあんまり覚えていないんだ。全体的に靄がかかってるっていうか...何かとても大事なことを忘れている気がするんだ。」
「事件解決に繋がるヒントとか…ですか?」
「いや、それすらも分からないんだ…」
そう、あの時俺は何かを見た。
絶対に忘れてはいけない何かを……
しかし事件から3日経った今も何も思い出せないでいた。
結局もやもやしたまま俺たち2人は店を出た。
〜〜〜
「じゃあ瀬良さん、今日はご馳走様でした!明日からはちゃんとお仕事に来て下さいよ?」
「もちろんだ。俺こそ改めて3日間すまなかった。」
「いえいえ、瀬良さんが無事で本当に良かったです。
それと、今日奢ってくれた分で全部チャラです!」
「お前っていい奴だな…」
「それに、今日のこれって一応デートですよね…?」
「え?い、いやこれはその…謝罪の意味を込めてというか……」
「…冗談ですよ。瀬良さん、顔真っ赤ですよ?」
「お前、俺の反応を楽しんでるだろ……」
「バレました?…それじゃ瀬良さん、また明日!今日は事件に巻き込まれないでくださいよ?」
「余計なお世話だ。」
結局、最後まで俺は彼女の手のひらの上で踊らされていた。
「それじゃ、お前も気をつけろよ。」
そう言って俺たちは別れ、それぞれ家に帰った。
読んで頂きありがとうございました!
では!