世界五分前仮説と異世界転生
そこに立っている自分を自覚した時、僕は世界五分前仮説が本当であるかのような感覚を覚えた。
この世界は五分前に創られたのだ。過去の痕跡や記憶もその時点で創られた。だから、誰もその事実に気が付かない。
唯一、僕一人を例外として。
――もちろん、そんな事があるはずもないのだけど。
それは僕がその時、その世界について全く何も分からない状態だったからそう錯覚したに過ぎない。
そこはどこかの会社のフロアのように思えた。
真っ当な状態なら、清潔感のあるホワイトカラーのエリート達が、上品に談笑でもしているのかもしれない。が、生憎、その場は激しく破壊されていた。
ガラスが割れて散乱し、天井の一部は剥がれ落ちていて、亀裂の入った壁にはいくつもの穴が空いている。
――そして、
たくさんの人が死んでいた。
軍人のような思える人もいれば、会社の役員風の中年男性、OLっぽい若い女性や何かの研究者のような出で立ちの人も。
銃で撃たれたような傷や、斬撃に思える傷。中には首がはねられた死体もあった。血が散乱している。何処の誰がやったのかは分からないが、いずれにしろ個人の犯行ではないだろう。これだけの殺戮となると、軍隊か何かの特殊部隊が彼らを襲ったと考えるのが最も妥当だ。
そのうち、僕は崩れた天井がカウンター席に引っかかったその下に何かの気配がある事に気が付いた。
屈んでみると、そこには一人の少女がいた。いや、少女に見えはするが、実際はもっと年齢は上かもしれない。僕はこの世界の事は何も分からないのだから、その可能性だって考慮しなくちゃならない。
……実は僕がこんな経験をするのは、これで二度目なのだ。
その昔、僕は日本という国で暮らす普通の高校生だった。名を野戸大介という。信じてくれないかもしれないが、ある日、交通事故で死んだと思ったら、僕は見も知らぬ異世界に転生していたのだ。
異世界に転生した時に何が作用したのかは分からない。しかし、僕は超人的な力を獲得していて、元いた世界の知識も使って、その異世界で大暴れをした。
もっとも、“力のある立場”というのはそんなに楽なものじゃない。
その力を狙った有力者達、頼って来る民衆、そして何より、その力に驕り溺れる己自身に克たなくてはならなかった。
謀略に巻き込まれた僕は、さんざん人の醜い姿も見て来た。
はっきり言って、それは辛く悲しい体験でもあった。
少女は酷く怯えた表情で僕を見ていた。ただ、少しばかり驚ているようにも、不可解そうにしているようにも見える。
無理もない。
きっと、酷いショックを受けたんだ。
「大丈夫? 怪我はない?」
僕はその少女にそう話しかけた。少女は戸惑っているようだったけど、やがてこう話しかけて来た。
「あなたは誰? 何処から来たの?」
“良かった日本語が通じるみたいだ”
そう思いながら、僕はニッコリと笑ってこう答える。
「僕は野戸大介。信じてはもらえないかもしれないけど、こことは違う異世界からやって来たんだ」
それを聞いて、少女の目が泳ぐのが分かった。
「そう」と、一言。
きっと、頭がおかしいヤツだと思われている。僕はそう不安になった。
「出ておいで。僕が守ってあげるから。そんな所にいたら、天井が崩れて潰されてしまうかもしれないよ」
しかしそう僕が言うと安心したのか、まだ強張った顔ではあったけど、崩れた天井の下から少女は這い出て来た。
しかし、その時だった。
割れたガラスの外、建物を囲むようにして軍隊らしき連中が突然現れたのだ。手には機関銃だろう武器を持っている。しかも、連中は何も言わずにいきなり発砲して来た。
僕を狙ったのか、この少女を狙ったのか、或いはその両方か。
僕は少女に抱きついて銃弾を防いだ。背中を撃たれたはずだったが、振動を感じるくらいで痛みはほとんどない。
銃弾が止むと、身体に自然と力が入った。思い切りジャンプをすると、空高く飛翔する事ができた。
――なるほど、またか。
そう僕は思った。
以前の異世界転生の時も、僕は凄まじい力を手に入れていたが、どうやら今回も同じであるらしい。
僕は少女を抱えたまま、そこから離脱した。取り敢えず、安全に過ごせそうな場所を探さなくては。
人気のない住宅地だろう所にまで辿り着くと、僕は少女を降ろした。誰も住んでいないだろう家の一室で休むことにする。
少女の名前は木垣天子というらしかった。変わった名前に思えるが、僕はこの世界について知らないから本当にそうかどうかは分からない。
「襲われた理由はよく分からないわ」
そう彼女は語った。
彼女の説明によれば、彼女は普通の女子高生で、偶々両親に付き添ってあの会社のフロアにいたのだそうだ。
「わたし、お腹が空いたから、何か食べ物を探したいのだけど」
まだ少女は僕を警戒しているようだったけど、それでも普通に話をしてくれるようにはなっていた。
「分かった」と、それに僕。
「でも、危ないから、僕が探して来るよ。君はここで待っていてくれ」
外に出て軽く辺りを探すと、保存食か何かの自動販売機を見つけた。クッキーとパンの間のような、お菓子風の食べ物。
甘そうだから、きっと彼女も満足するだろうと思って僕はその自動販売機を壊してそれを取り出した。申し訳ないとは思ったけれど、こちらも余裕のない立場だ。仕方ない。
ついでに近くの飲み物の自動販売機でジュースもゲットすると、僕は直ぐに彼女が待っている家にまで戻った。
ところがだ。
彼女の姿が何処にも見えないのだった。
不安になった僕は、外に出ると意識を集中した。すると、これも転生時に得た能力なのか、彼女の通った痕跡が分かった。
彼女の足跡。それが印をつけたように続いているように見える。
彼女が急いで、まるで逃げるように走っているのが分かった。何があったのだろう? 僕はその痕跡を追った。
しばらく進む。すると、目の前にさっきと同じ格好をした軍隊の姿が目に入った。少女はその中心で、軍隊に囲まれている。
「彼女を放せ!」
そう大声で僕は叫んだ。
きっと彼女はこの軍隊から逃げる為に走っていたのだろう。
しかし、それに彼女はこう返すのだった。
「違うわ! わたしは、自分からこの人達に助けを求めたの!」
僕はそれを聞いて不思議に思う。
「なんだって? どうして? さっき、その軍隊は君の事を撃ったんだぞ?」
「違うわ」と、それに彼女。
「この人達が撃ったのはあなた。もちろんわたしも巻き添えにするつもりだったけど、それはあなたをそれだけ恐れているから」
僕の頭はその言葉に混乱した。
「どうして僕を恐れる必要があるんだ? 僕はさっきこの世界に転生してきたばかりなのに!」
そう叫ぶ。
すると彼女はこう言った。
「本当に覚えていないのね。さっきの人達を殺したのは、あなた自身なのよ?!」
僕は愕然となる。
「――なんだって?」
「あなたの正体は、異世界からやって来た救世主なんかじゃないわ。最新型、究極の殺戮兵器よ!」
それから彼女は説明を始めた。
核兵器よりも恐ろしい兵器は何か?
それは、たった一機でその国の住民全員を殺せる程の力を持った殺戮兵器だ。核兵器は敵国になら撃つ事ができる。しかし、当然ながら、破壊力が高過ぎて自国内では使う事ができない。つまり、もし軍に自国に攻め入られたなら、核はあまり役に立たなくなる。攻め入って来た軍が、どの国のものか分からなかったなら脅す効果もない。
もちろん、そんな軍隊がいきなり攻め入るなんて不可能だろう。だが、それが極めて小規模ならばどうか?
秘密裏に敵国に忍び込ませ、殺戮を開始できるような。
――そして、その殺戮兵器こそが、自分なのだという。
この国……、“日本”はそんな兵器を開発したのだ。
「問題は、たった一機で一国を亡ぼせる程の力を持ったあなたをどう制御するのか、だった。
AIの力を信じる一派は、AIによる制御を主張した。しかし、AIに対する恐怖を訴える人達はそれに強く反対した。飽くまで、人間を中心にしたいという要望も強かった。でも、流石に“個人”に、そんな力を与える訳にはいかない。
だから、日本はその妥協案として、人間の人格をベースにした制御装置を開発する事にしたのよ。
適合者を慎重に選び、その人格を元にAIを育て、そしてそうしてあなたという殺戮兵器は完成した!」
――何の話だ?
そのまったく身に覚えのない話に僕は目を白黒させた。
彼女はまだ語った。
「だけど、人間の人格は脆かった。柔軟に対応を可能にするようにAIに自己言及…… つまり、自身を創り替える能力を与えた事もまずかったのかもしれない。
あなたの人格の元になった人は、とても純粋な人だった。だから、あなたを利用しようとする醜い人間達に耐え切れなかったのでしょうね。やがて状態は悪化し、そして遂には暴走、研究施設で殺戮を行ったのよ」
「いや、待って」と僕は言った。
「もしかしたら、本当に僕の身体は、君の言うように殺戮兵器なのかもしれない」
そこで言葉を切ると、僕は大きく息を吐き出しながらこう続けた。
「けれど、僕の精神は違う。僕の精神は、異世界で生まれ育った野戸大介という高校生で……」
ところが、それに彼女は「野戸大介なんていないわ!」とそう怒鳴るのだった。
いない?
僕はその言葉に何故かショックを受けた。
「それは随分と昔に流行った異世界転生ものの小説の中の主人公よ!
殺戮を終え、その自らが起こした惨状に耐え切れなかったあなたはわたしに向って訴えたの!
“どうか、こんな醜い世の中に、いや、なにより自分自身に負けない、強い人間を教えてくれ! 僕はその人間の心をインストールする!”と。
もちろん、わたしはそんな人間なんて知らない。だから、苦し紛れで、その異世界転生の主人公の名前を言ったのよ。己の力に慢心せず、それに打ち克った主人公の名前。そうしたら、あなたは本当にその主人公の人格をネットからインストールし始めた。
それが誰かが遊びで創った人格がネット上に転がっていたものなのか、それとも、小説の内容からあなたが勝手に創り出したものなのかは分からない。
だけど、インストールし終えたあなたは、本当に自分を“野戸大介”だと信じ込んでいたわ……
わたしは刺激をしないように話を合わせて隙を見て逃げ出した。それが真相」
僕はその話を信じなかった。だけど、ネットに接続すると…… (僕には考えるだけでそれが可能だった) 本当に異世界転生ものの小説の主人公に、“野戸大介”という名があった。
小説の内容も、そっくり僕の記憶と同じだった。
彼女が言った。
「あなたの人格はとても脆くて不安定なの。だって、本当は存在していないものだもの。
だから、お願い。あなたが本当に自分を異世界からやって来た救世主だと思っているのなら、大人しく殺されて。
それが世界の為なのだから」
その言葉で、僕は思い出した。
さっきの連中を皆殺しにしたあの感覚を。
――やっぱり、殺すしかないのかな? この女の子は殺したくなかったのに……
そして、そう思って涙を流した。