読者として 我が儘を言ってよい
山本潤子 京都元曲竹田の子守歌
を 聴きながら
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PCが壊れるという不注意を数分前に行い、悲しい。……机やっぱりいるなぁ、コーヒー零さない程度の広い机が。新しい中古PCが届くまでタブレットで……。
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話は、大幅に変わるけれど、私は、読者は、我が儘でよいと思っていて……、今回は、そのような思考を書き出すことに致します。
何故、私が読者は、我が儘で良いと思考するのかというと、本来読書とは自らの欲が向かうままに、限りなく自由に心を解放して貪るように読むことだ、と思考するからです。読書をしている間は、私も目の前のあなたも平等です。
読書をする際、その作品の評価を行おうとする評価者を、批評家を、私は、尊敬しますが、私自身は、そのような読書をしたくはありません、
評価は、読書ではないと思えてしまうからです。私は、自らの心を開き、自由に解放した思考の海にうっとりと漂い溺れたいのだから。そのような自由に切れ目が入れられるような評価する視点を差し込んだ読書は、得意ではないのです。読書は、本来、自らの欲のまま、自らの為に行うものでしょう。感情を救われてなにかを見つめる、自らの内に沈む。それでよいではないでしょうか
私は、それが、読書の本来だと思考します。
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だからこそ、敢えて、こう、目の前のあなたの目をじっと見つめながら言いたいと思います。
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読者は、自らの欲や楽しみの為に、それだけに貪欲に我が儘で居てよいのです。期待した楽しみを得られなかった悲しみを感想欄にぶつける自由もあります。
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勿論、それだけの我が儘を悲しみを作者にぶつけるには、それ相応の文章力も要するでしょうが……。作者は、読者をブロックする権利を持ち合わせていますから。
私は、だからこそ、より言うのです。
読者は、我が儘であってよい、貪欲に娯楽を求めてよい、けれど、その要求を主張出来る程のそれ相応の魅力ある読者であれ。と
要求をただ要求でぶつけるのは魅力ある読者ではなく、もはや、人ですらない、なにか別の生きものであるのでしょう 生きものですらないなにかに作者は、まともに相手をしたりいたしません。ブロックを致します。
さ、笑い話を言っているのではありませんよ。……今一度、胸にしっかりと手をあてて、自らは、魅力ある読者かしら、と思考してみてご覧なさい。……きっと目の前のあなたの口調は、変わり、行動は変化し、その内思考は変わり、視野は広がりをみせるでしょうに。
私は、敢えて主張いたします。
読者は、貪欲であれ、我が儘であってよい。けれど、魅力ある読者であれ。
『魅力ある読者であれ』




