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短編集

A( )C

作者: 白鳥加寿彦

 括弧のなかに入るのは、たぶんわたしなんだろうな。Bと書きこまれた答案を見て、ぼんやり、そんなことを考える。

 土曜日の昼下がり、チサトの開いた未就学児向けの学習塾にて。始めたばかりで人手が足りない、手伝いが欲しいという。用事もないし親友の頼みですもの、一も二もなく引き受けた。

 わたしの仕事はテストの採点と、子どもたちの授業中にひましてるお母さまがたの相手。採点といってもしょせん幼稚園児のテストだ、これはなんの絵ですか、リンゴとみかんは合わせていくつ、括弧に入るのはなんでしょう? こんな簡単なテスト、いいや、いっそクイズ集の解答が、たったの十二枚。十分もあれば終わってしまう。

 みんな満点。よくできました‥‥ちょっと簡単すぎたかな、簡単すぎだよね、いくらなんでも子どもをばかにしている。絵は「くるま」とか「でんわ」とかだし、足し算も和が十以下になるもののみ、両手で数えられちゃう。穴埋めに至っては、英語の問題だからハードルが高いかと思いきや、実は教室内に答えが貼ってある。

 ABCの表。イラストとその名前。

 これ、テストの意味があるの、と訊ねたことがある。チサト曰く、もちろん。

「だってまだ小学校にも上がってないんだよ。今大事なのは、きちんといすに座って問題に向き合うこと、勉強って楽しいなって思うこと!」

 そういうもの? お遊びみたいな勉強法。いまいち納得できないけど、そうなんだ、すごいね、とチサトを褒め称える。

 一日六時間、日給三千円。即日払い、お手伝いってことで給料明細は出ない。安い? 違う違う、両者両得、うちの会社は副業禁止だからすごく助かる。

 ちゃんとアルバイトさんを雇えるようになるまでの繋ぎ。ずっとこの賃金で働くわけじゃない。大丈夫、大丈夫。

 テストの採点が終わったら、別室で待っている保護者たちにお茶を持って行く。人数は毎回変わる。今日は五人。お母さまがたは控えめな声で、しかし楽しげになにやら盛り上がっている。

「どうぞ」

「あら、ありがとうございます」

 テーブルに広げた雑誌をどけてくれたので、すみません、ありがとうございます、と唱えながらお茶を並べる。愛想笑いは苦手。うまくできてただろうか。不安をよそに、保護者らは再び雑談に興じる。

 話題は来週の運動会のお弁当についてらしい。

「うちはね、お姑さんが観に来るってはりきってるのよ。隣の県なのに、はるばる! だから重箱で用意しなきゃ。子どもはハンバーグとか唐揚げが好きだけど、お姑さんは和食が好きなのよね」

「大変ね、うちは断っちゃったわ。面倒くさいもの。あとでDVD送るからって言って、なんとか諦めてもらったの。うちのお義母さんったら、このあいだ転んだはずみで足首ねんざして、ひょこひょことしか歩けないのよ。観るだけっていったっても、運動会なんか無謀なのに」

「二人ともいいお嫁さんねえ、うちなんか運動会のお知らせもしてないわ!」

 あっはっは。

 自慢か自虐か、話題は姑へ移る。このあたりでわたしは給湯室へ下がったけれど、興奮してきたのか保護者らの声は徐々に大きくなって、爆笑が起きたところで、わたしは再度別室へ参上した。

「すみません、子どもたちの気が散ってしまいますので、少しお控えください」

 子どもたちの気が散る、この言いかたが一番角が立たない。だって我が子のことだもの、我が子ががんばっているときにばか話で盛り上がってしまってるなんて、申し訳ないし恥ずかしいものね。急須を持って出るとなおいい、よかったらおかわりどうぞ、と置いていく。お母さまがたはこれでニコニコ。

 笑い声が急に静かになったのがかえって気になったか、チサトが教室からちょろりと顔を出した。不安げな面持ち。大丈夫よ、親指と人差し指でまるを作ると、彼女は安堵してほほ笑んだ。

 お茶汲みには自信がある。お茶県出身は伊達じゃないのよ。このお茶のせいなのかしら、チサト曰く、わたしは保護者らから評判がいいらしい。本当は毎日きてほしいくらい、と。

 どだい無理な話だ。平日は本業があるもの。でも、誉められるのは素直にうれしい。


「じゃあ、これ。今日もありがとう、助かったわ。そうそう、来週はお休みなの」

「そっか、運動会だもんね」

「うん、生徒さん、みんなお休みするから。また再来週、よろしくね」

 夕方五時。授業と片付けを終えて、バイト代もといお手伝い賃をいただく。次回の確認をして帰路についた。

 電車で一駅。あいにく会社とは反対方向、ゆえに定期外。交通費? 出ない出ない。ま、それくらいなら歩いて帰れる。

 ふとスマホを見ると、ラインが入っていた。カツヤだ。曰く、「夕飯食べに行っていい?」

 すぐさま「OK」のスタンプを返す。大丈夫、今日はお金、ある。

 冷蔵庫の中身を思い出す。納豆、オクラ、山芋、たまごに豆腐‥‥野菜かごに玉ねぎとナスがあったはず。お肉はなにがあったっけ? 冷凍庫には豚コマ、鶏ささみ‥‥は、アイツ、ぜったい文句言うわ。カツヤはこってり系が好き。

 じゃあ豚のショウガ焼きなんてどうか。たまごでとじて豚たま丼もいい。豆腐はみそ汁、納豆とオクラと山芋は混ぜてネバネバ小鉢。

 そんなことを考えていたらラインから新着メッセージのお知らせ。

「今日、昼は和食だったんだ~だから夜はハンバーグとかオムライスとかがいいな」

 おねがい! ハートを飛ばす素人丸出しのスタンプ。イラッとする。落ち着け落ち着け。大丈夫、大丈夫、大丈夫。

 了解、と返信。計画の練り直し。考えろ、考えろ、どっちが楽? うん、どう考えてもオムライス。オムライスなら鶏ささみでもいける。

 冷凍ごはんはあるから鶏ささみと玉ねぎとケチャップでチキンライスを作れる。あ、ケチャップはこのあいだカツヤが使い切ったから買わなきゃ。たまごもある‥‥けど、残り二つだ。これも買わなきゃ。

 オムライスにみそ汁は合わない、ナスとオクラのスープにしよう。ナスはいやがるかな? いや、いやなら食べなきゃいい。

 食べなきゃいい。そのほうがいいのよ、わたしだって。

 スーパーに入り、目的のものを探す。なるべく一直線に。おいしそうなものに誘惑されないように。だけどどうしても精肉コーナーを通らなくちゃならなくて、ついカツヤお気に入りのハンバーグが目に留まって、しかも珍しく割引シールなんてついていたものだから、悩んだあげく、結局一個、かごに放りこんだ。たまには、ね。ほら、今日は臨時収入もあったし。

 大丈夫大丈夫。

 帰宅してすぐ調理に取りかかる。冷凍していた鶏ささみをレンジで解凍。終わったら冷凍ごはんをチン。

 玉ねぎをみじん切り。フライパンを温めて、玉ねぎと鶏ささみを炒める。温めたごはんを投入、塩こしょうして、ケチャップを混ぜる。二人ぶんのチキンライスが完成。いったんフライパンを洗う。

 次はたまご。ボウルに割り入れて溶く。生クリームはないから牛乳で白ワインで代用。バターもないからオリーブオイルをフライパンにひく。フライパンを十分に熱したら、たまごを一気にそそぐ。

 ここでカツヤがやって来た。ベルが鳴る。でも今手を離すわけにはいかない、無視をしていたら、勝手に上がってきた。

「いらっしゃい」

「なんでお出迎えしてくれないの」

 間延びした、甘えた声で言う。たぶん今、子犬みたいな情けない顔をしているに違いない。わたしはわざと振り返らず、努めて素っ気なく答えた。

「鍵、持ってるでしょ」

 オムライス完成。続けて、ハンバーグを焼く。

「お、いい匂い!」

 荷物を置いたり上着を脱いだりとバタバタしながら、カツヤがうれしそうに寄ってくる。子どもみたい。汗臭さと熱を背中に感じて、もう、とため息をついて見せた。

「手洗いうがい! しておいで!」

「はいはい」

 ハンバーグ、完成。焼いただけだけど。半分に切って、二皿のオムライスにそれぞれ添える。かなりぜいたく。

 ‥‥と、わかるのはわたしだけで、カツヤは気にしてもくれない。

「ええー、ハンバーグ、半分だけ?」

 食卓に着き、自分の皿を前にして、カツヤは不満をあらわに顔をしかめた。

「メインはオムライスだもの。半分だって大サービスだと思うけど?」

「そうかもしれないけどさあ‥‥」

 ぶすっと口をとがらせる。まったく、もう。わたしも同じ顔をして見せて、うーん、仕方がない。わたしのぶんのハンバーグを、カツヤの皿に移す。

「いいの? サンキュー!」

 喜色満面。単純。食いしん坊で甘えん坊、小学生みたいな年下彼氏。わたしってばお母さんみたい。

 たまには彼女らしい扱い、されてみたいな。

「来週はね、塾、お休みなの。幼稚園の運動会なんだって」

「へえ。運動会かあ、懐かしい響きだね」

 口をモグモグさせつつ、きらきらした目をわたしにくれる。

「あ、じゃあさ、久しぶりにデートしよう! オフィスの近くにさ、新しいレストランができたんだ。イタリアンかな、フレンチかも、とにかくおいしそうなんだ。いっしょに行こう」

「いいね、ランチもやってるお店なの?」

「うーん、わかんない」

 カツヤの視線がふわりと泳いで、オムライスに着地する。

「夕飯じゃだめ? いいじゃん、次の日も休みだし」

「だって、ディナーじゃ高いんじゃないの?」

「メニューちゃんと見てないけど、高くても五千円とかじゃない? まさか一万円はいかないでしょ。あ、足りなさそ? なければおれ、貸すよ!」

 ニコニコと。

 また今度にしようとごまかして、ごちそうさまでした。食べ終えたシンクへ運んで洗う。カツヤはお風呂。洗っておいてと頼んだけど、たぶんシャワーで済ませて出てくるんだろう‥‥ほらね。

 わたしと同じ匂いを放つ髪と肌。遠慮なしにバスタオルを二枚も使う。それから鞄からスマホと充電器を出して、おもむろにコンセントに繋ぐ。

「そうそう、おれの最新スタンプ、今日発売になったから! 宣伝よろしくね」

 もうこちらをちらりとも見ない。


 括弧のなかにはきっと、わたしが入っている。

 姿形も、セリフも、身の振りかたももすべて、前後の文字によって求められたわたしが。


 いつもどおりぐだぐだと日曜を過ごし、いつもどおり月、火、水、木、金と働いて、今週は久々の二連休かと思った土曜日の朝、チサトから誘いがあった。夕飯でもいっしょにどうか、と。

「毎週顔を合わせてるのに、仕事の話しかできてないからさ、たまには。駅からちょっと離れてるけど、おいしいおそば屋さん、見つけたのよ」

「おそば?」

 せっかく休みだと思ったのに出かけるのはかったるい、だけどそばと聞けばとたんに心がはずみ出す。

 財布の中身を思う。いやいや、そばならそう高くもないだろう。考えたのちオーケーと返すと、じゃあ十一時に駅でね、と一方的に言って、チサトは電話を切った。

 十一時。あと三十分。着替えをしてメイクをして、駅まで五分‥‥いや隣駅だと二十分かかる。じゃあ十分しかない! 大慌てで支度をして、わたしは部屋を飛び出した。

 天気はよくない。雨が降りそう。そういえばカツヤ、今日は遅くなるって言ってたな。デザインのセミナーがあるだかなんだか。傘、持って行ってないんだろうな、きっと。

 おれのスタンプが大ヒットして大金持ちになったら結婚しようね、なんて言ってるけれど、一円にもならないセミナー通いをやめたほうがお金持ちへの近道だって、いつになったら気づいてくれるだろう。仕事だっておろそかになっている。夕飯のとき、会社のかたからよく電話が来て、都度、頭を下げている。情けない。

 そんな情けない男に惚れてしまった、情けないわたし。

 かぶりを振る。いやいや、今はそばだ。そばのことを考えよう。

 十一時、なんとか時間どおりに駅に着いた。歩いてきたの、と驚かれてハッとする。そうか、電車を使えばよかった。一駅だし、定期外だから、と口を滑らせると、チサトの顔が一瞬、曇る。しかしすぐに笑顔に戻って、じゃあ行こうか、と歩き出した。

「生徒さんのお祖父さんのお店なんだけどね。気に入ると思うよ」

「そうなんだ、楽しみ」

「おそば、好きだもんね」

 にんまりと笑う。覚えていてくれたのね。うれしい。

 道すがら、いろんなことを話した。当時中学生、初めて出会ったときのこと。同じ高校へ進んで、同じ部活に入ったけど、チサトのほうは一月でほかの部活へ移ったこと。わたしが進学のために地元を離れてなかなか会えなくなったこと。

 それが、チサトが結婚したら偶然、ご近所さんになったこと。

「さっちゃんがこの町にいてくれてよかったわ、わたし、一人も知り合いがいないんだもの。賑やかなのが好きだからさ、旦那だけじゃぜったい寂しかったと思う。あの人、今日も仕事だし――まああの人の塾は中学・高校生向けだから、当たり前なんだけどね。

 そうそう、塾のお手伝いもありがとうね。ようやく経営が軌道に乗ったのよ。さっちゃんのおかげだわ」

 遠くの空から華やかな音楽が響く。幼稚園はこのあたりなのかな。子どもたちの騒ぎ声もかすかに混じっている。通り過ぎるだけの人たちも、懐かしい賑やかしさにそわそわしている気がする。

「天気、終わるまでもつといいね」

「そうだねーみんながんばってるかなあ。あ、ここ、ここ」

 言われて見やれば、思わずギョッとした。住宅地に不似合いな長い行列。古めかしくもどっしりとした、立派な日本家屋に吸いこまれていく人々。

 わたし、このお店、知ってる。すごくおいしいけど、高い。今の部屋に越してきて早々に来て、食べて、お味に感動しつつ、その前後は節約料理に泣かされた。

「さ、並ぼう。早く並ばないと、これからもっと列は伸びるよ」

 チサトが手招きする。でも、すぐには応じられない。

 不覚、気づくべきだった、駅から離れたおいしいおそば屋さん、そう言われて、なぜこのお店を予想できなかった?

 立ち尽くすわたしに、チサトは笑って言った。まるですべてを見透かしたかのように。

 違う。見透かしていた。

「気にしないで、今日はわたしのおごり」

「えっ?」

「あのさ」

 乞うような、窘めるような、甘えるような、勝ち誇るような――同性なのにドキリとしてしまう、ニヤリといたずらなほほ笑み。

 敵わない。

「たまにはわたしにも、カッコ、つけさせてよね」

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