博物クラブ — 短編
この小説の頭の焚き火の話は半年くらい前の体験です。自宅の近所を歩いていたら、焚き火の匂いがして来ました。
すごく懐かしい気持ちになって、短編の出だしに使いました。出だしの焚き火の話以外はフィクションですが、楽しんでいただけたら幸いです。
その1 出会い
タッタッタッタッ!
小さな女の子が元気にかけていく。勢いよく立ち止まって振り向き声をかけてきた。
「おとーさーん。遅い!
おかーさん待ってるよ」
「あまり急ぐと転んじゃうよ」
娘のユキが焦れったいのか、プンプンと音が出そうな表情で待っていた。
「おいで」
僕は、側によると抱え上げ肩に乗せた。
「わかったよ。
でも走ると危ないからね」
「やった!」
僕の肩に乗って嬉しいのかすっかりニコニコ顔だ。
そのとき、ふと懐かしい香りに気がついた。鼻を刺激する煙っぽいんだけど、どことなく記憶を刺激する匂い。周りを見回すと遠くでステテコ姿のおじさんが一斗缶で火を起こしていた。
木質のものが焼ける匂いなのだろう。
思えばもう長いことこの匂いを嗅いだことがない。
子供の頃は建築現場の焚き火や落ち葉焚きの煙などに出会う機会があったものだ。
「いや、もっと大きくなった頃に嗅いだ。
あれは……」
僕は十年近く前のことを思い出していた。僕の人生の大きな出会い。
―― ☆ ☆ ☆ ――
いつもより遅い時間に駅で電車を待っていた。季節は秋口、布団を蹴飛ばしてお腹を冷やしたのか、腹痛でうちを出るのが遅くなってしまったのだ。学校には遅刻することは電話してある。
一限目には間に合わないのでのんびりと電車を待っていた。
僕は、東雲真仁、高校二年の男子、彼女いない歴一六年。本人はフツメンと思っているがモテた試しがない。別に男子が好きだとか、自分しか愛せないとか、そんなことはなく普通のつもりだ。ただ、地味で女の子とうまく話せないので会話が続かないのだ。
興味を持ってくれる子もいたけど、少し話しするといつの間にか話しかけられることがなくなっていた。男子とは普通に話せたのでハブられることはなかったが、クラスの周辺で目立たず話題にもなることのない空気のようなポジションになったのも当たり前だった。
その日は登校時間が違うだけ。自宅と学校を往復するだけの当たり前の日のはずだった。
ホームの際に立っていたのがいけなかった。いじっていたスマホから目を上げ、勢いよく振り向いた。飲み物を買おうと思ったのだが、周りが見えていなかった。振り向いた瞬間リュックに衝撃を感じ悲鳴が聞こえた。
「きゃあ!」
続けて怒号が聞こえた。あんな焦った声を聞いたのは生まれて初めてだった。
「女の子が落ちたぞ」
「いやまだ落ちてない。急げ。引きあげろ」
「助けて、だれか!」
「じゃまだ!どけ」
誰かに突き飛ばされた。助けに駆け寄ったサラリーマンにだった。慌てて振り向くと女の子がホームにしがみついている。周りでは数人のサラリーマンと思しき人たちが女の子に手をかけて引き上げていた。僕も慌てて駆け寄ったが、サラリーマンたちがじゃまで側で見ているしかなかった。
女の子は数人の屈強なサラリーマンに引き上げられた。まだ電車が来るまでに時間はあったと言うものの見ていた人々の間に安堵の空気が流れたのは当たり前だった。僕も安堵のため息をついた。自分のリュックに当たって線路に落ちかかったのだから当たり前だ。
「ごめんなさい」
僕の謝罪に女の子を助けてくれたサラリーマンたちの厳しい表情が少しゆるむ。もちろん睨まれたから謝罪したんじゃない。本当に申し訳ないと思ったんだ。僕はとにかく焦っていた。何度も詫びの言葉を述べていた。自分の浅慮で事故を起こしかけたんだ、当たり前ことだった。
その頃になってようやく駅員が数名走ってきた。
女の子に声をかけて無事を確認している。怪我もなかったようだ。
僕はその時にやっと気がついた、女の子の制服が自分の高校の制服だということに。
「事情はわかりました。事故だということですね。
記録を取るから、事務所まで来てください。
君、学校は?」
「あ、あの、授業に遅れちゃいます」
僕の抵抗は虚しかった。女の子と事務所に連れて行かれ、高校の名前や、なぜ通学時間が終わっているのに、ホームにいたのかとか。
注意しなければダメだとか、何度もお説教をされた。
理由を説明してもダメだった。授業をサボる不良のような扱いを受け、学校にまで問い合わせされた。学校からの返事と僕の説明が違ってなかったので、やっと言葉遣いが丁寧になって解放された。
そのときには、一時間以上経っていた。
僕がなんだかすっかり疲れ切ってしまったのも当たり前だった。
女の子は被害者なので名前ぐらいしか聞かれていなかった。扱いの違いに仕方ないとはいえさすがにムカついていたが、やつ当たりする訳にもいかずムッとしていた。
「東雲くん。
ごめんなさい、わたしもホームのギリギリを走っていたから。
でも、貸し一つ!」
「えっ」
僕はびっくりした、僕の名前を知っていることに。
慌てて女の子の顔をよく見るとなんとなく見覚えがあった。長い黒髪をポニテに留めて眼鏡の奥の瞳にいたずらっぽい光がある。
「えーと、ごめん。
同じクラス?
名前覚えてないけど……楠本……さん?」
駅員に答えていた名前を頑張って思い出した。
「うん、わたしクラスじゃ目立たないから」
そう言って微笑む笑顔は屈託がなかった。
「すっかり遅れちゃったな」
「東雲くん。これから予定ある?
暇なら付き合って!」
僕の答えも聞かず手を引っ張り走り出した。
「えっ、えっ。どこ行くの学校は?」
「いいから、良いところ」
ホームをさっき落ちかけた場所を過ぎ先へかけていく。彼女は止まらない。クラスでハブられて全然目立たない子とは思えないくらい積極的で元気だった。
乗り込んだ電車はいつもの降車駅を過ぎ、知らない駅で降り立った。
僕は断ることができなかった。女の子と手をつなぐ!学校と自宅の往復じゃない!ワクワクしていたんだ。
学校を休むなんて僕の当たり前じゃない。いつもの毎日じゃない!
—— ☆ ☆ ☆ ——
その2 博物館
初めて訪れたそこは、博物館だった。
僕の街に一つだけある。来たことはなかった。
いや、小学校の頃、授業で見学にきたことがあったはず。でも全然覚えてなかった。
「やった。
やっぱり空いてる。休日だと混んでるんだよね。特設展。
今週末で終わりなんだ」
「へー。
ここ、小学校以来だ」
『伝説の世界。古代ケルトからアステカの伝説と遺物展』
「見たかったんだ。
ねえねえ、すごくない?
こんな地方にやってくるのなんて信じられない。
でも、週末は混み過ぎてぜんぜんだめ。眺めるだけじゃあ満足できない」
物珍しそうに周りを見回す僕を無視して、彼女は独り言のように説明を続ける。
僕は何一つ知らないことで、ただ頷いているだけだった。
彼女は僕を誘ったくせにすっかり忘れて、展示品に魅入っている。時々説明なのか感想なのかわからないことを呟いている。
僕は手に残る彼女の手の感触を思い出していた。冷たくて細い指。でも力強く、僕の手を握る手のひらがだんだん暖かくなってくる感触。手から視線を上げて彼女の横顔を見る。展示物を覗き込む彼女の瞳が眼鏡の隙間から覗く。
好奇心でキラキラ光る瞳に長いまつ毛が印象的だった。走って上がった鼓動と、初めて手をつないだ異性を意識して上がった鼓動の区別はできなかった。
きっと僕はこの時にすっかり虜になっていたんだろう。
でも、その時はわからなかった。ただ、いつにない動悸に戸惑いを覚えているだけだった。
「あった。
これが一番見たかった」
彼女は後をついていく僕を一顧もせず、お目当の展示物に駆け寄った。彼女の勢いにその展示を見ていた人が場所を開け、ハンチングに指をかけ会釈してきた。彼女も目を合わせ、微笑みと感謝の言葉を返した。
「ありがとうございます」
『謎のオープス、ケルトとアステカの類似』
「これ、すごくない?
時間も空間もすごく離れた場所で見つかった遺物。それもオープスがそっくりだなんて」
「ウープス?」
さっき場所を開けてくれた人が拳を口元に当て笑っているのが見えた。
しかたない。恥ずかしながら、そのころの僕は歴史的なものは一切知らなかった。歴史の成績はお寒く、興味もなかった。
「ウープスじゃなくて、オープス。
……オープスはね」
彼女が浮かべた『知らないなんて?』という表情はすぐに笑顔に変わり教えてくれた。
「オーパーツとも言うわ。
『場違いな工芸品』のこと。
作るには、その時代の文明では考えられないレベルの技術や知識が必要な遺物のこと……」
それからしばらく彼女はオープスの解説をしてくれた。
先ほどの人が『ほう』と呟くのが聞こえた。そちらに視線を投げると、顔を隠すようにして僕たち、いや展示物からそそくさと歩き去っていった。
それから、並んで展示物を見た。解説を読んでなんだか解った気持ちにもなれた。
誰かと、なんだかんだと感想を言い合うのがこんなに楽しいことだとは思わなかった。
「しかし、意外だな。
楠本さんがこんなキャラクタだったなんて」
「学校で群れるの嫌いなの。
だって、つまんないじゃない。世の中には面白いことが沢山あるのに、自分が面白いと思えないことに時間使うなんて。
授業だってそう。うちの学校の先生の授業はつまんない。だったら、図書館や博物館で勉強した方が絶対面白いし、好きなことを好きなだけ勉強できるよ」
「えー、だって。試験は?」
「試験は教科書を読めばそこそこの点数取れるから、大丈夫。
出席数が足りて、単位が取れて、高校の卒業資格が取れれば、学校なんてそれで十分よ」
僕はびっくりしてしまった。そんな考え方があるんだ。大学受験とか不安じゃないんだろうか。僕には絶対無理だ。
「でもでも、親は大丈夫なの?
受験は?内申点とか……」
話しているうちに馬鹿らしくなった。
彼女はそんなことどう見ても気にしているように思えない。
「もー、面倒くさいわね。
東雲くんには関係ないことでしょ。
それともわたし《《と》》付き合ってくれるの?」
「えっ!
え、えーっと。それは?」
僕は絶句してしまった。まさか、告白……
「あ、
ちがうから、『わたしに』だから。
図書館とか博物館とかでの勉強のことだから」
彼女は慌てて説明をした。その頬がほんのりと赤みを帯びていたことはそのときは気がつかなかった。彼女も気がついて本当に焦ったと、教えてもらったのはずいぶん後のことだった。
「ああ、そう言う意味?
だったら、もう巻き込まれてるよ。
ここ、博物館だし」
そう言って僕は笑った。
彼女は、ペロっと舌をだして自分の頭に手をやる。その仕草が自然ですごく可愛く感じた。
すごく楽しくて、デートなんてしたこともなかったけど、もしかしたらこれはデートなのか? と考えていた時だった。
『Zoop、Zoop』
けたたましい音が鳴り響いた。
「なんだ、警報?」
警報は鳴り続けている。
『火災発生。館内から直ちに退去してください。
火災発生。これは訓練ではありません。館員は入場者を誘導して直ちに退去してください』
耳を劈く大音響とともにアナウンスが流れる。
僕は彼女の手を握り走り出した。
「火事だ!逃げよう」
観客たちが一斉に出口に向かう。
「どうしたの?
逃げないと危ないよ」
彼女は動こうとしない。
「展示物が!」
「そんなことより。
早く!逃げないと」
焦った僕は、彼女を引きずるようにしてその場から離れた。
彼女はずっと展示物のほうを見ていた。
その日はその後も大変だった。
博物館の外で様子を見ていると、消防車とパトカーの集団が集まってきて大騒ぎになった。
パトカーの台数が異様に多く、走り回る警官の数もやたら多かった。
それはそうと、火事はボヤだったんだろうか。煙も見当たらない。
「そろそろ、帰ろうか?」
なぜか睨むように博物館の方を見ている彼女に声をかける。渋々と僕を見ると困ったような顔をした後に駅に向かって歩き始めた。
「どおしたの?」
「うん、ちょっと気になったことがあったの。
でもなんでもない。きっと気のせい。
もう帰ろ」
そう言って彼女は笑顔になる。
「そこのキミ達。ちょっとまって」
何事かと振り向くと警官が走り寄ってきた。
「まずい、補導される?」
さっきの駅での件もあり嫌な予感がした。
でも、僕の予感は当たらなかった。
「博物館で盗難事件が発生しました。
これは博物館に入場されていた方、皆さんにお聞きしているんです。
いくつかお伺いしたいことがあります」
「ちょっと話を聞かせてもらえるかな?」
そう言って、スーツの刑事に声をかけられた。
僕らが見ていた展示物が盗まれたらしい。
僕はすっかり忘れていた。
いや気がついてもいなかった。でも彼女はそうじゃなかった。
「わたし見ました。怪しい人……」
刑事の目の色が変わる。それからが面倒だった。パトカーで警察署まで連れて行かれ、状況や不審者の特徴など微に入り細にわたり質問された。犯人は有名な窃盗団だったということだけ教えてくれた。
僕は先に聴取が終わったけど、彼女はもっと掛かったらしい。モンタージュの作成にも協力したって、次の日彼女はとても嬉しそうに僕に語るのだった。
母親が警察署まで迎えにきてくれ、結局、うちに帰り着いたのは午後八時を回っていた。
とうぜんのように、学校をサボったこと母親にえらく怒られた。
—— ☆ ☆ ☆ ——
その3 尾行
次の日なんだか気恥ずかしかったけど、それから教室でも楠本さんと話すようになった。
自宅の方向も同じだったので、勢い一緒に帰ることが多くなった。僕としては少しでも仲良くなりたかったので、いろいろ調整して帰る時間を合わせていた。図書館に探しに行って偶然を装って一緒に勉強したり。
これは、彼女には気がつかれていたらしい。だいぶ後でからかわれた。いまじゃストーカーって言われるかもしれない。でも可愛いものだったよ、嫌われたくないから自宅まで誘われるまでついて行くことはなかったしね。
一緒に勉強するようになって知ったんだけど、彼女は本当に授業は聞いていなかった。授業中は教科書を興味の向くまま読み進めたり、数学の受験問題集をパズルがわりに説いていたりしていた。
同じことは僕には無理だったけど、勉強の仕方を教えてもらった。これは役に立った。授業じゃ勉強の仕方は教えてくれなかったからね。
ある休日に隣町の博物館に一緒に出かけた時だった。
——じつのところ楠本さんとの関係は友達以上になっていなかった。
『なぜ、あのとき僕を博物館に誘ったの?』と聞いてみたことがある。そのときの彼女の答えは『なんだかつまんなさそうだったから。世の中にはこんな面白いことがあるよって、教えてあげたかった』だそうだ。
僕は好意を意識していたけど、とても変わった子だったので、交際を申し込むとか怖くてできなかったんだ。
きっと、そんな普通のことを(男女交際を普通と言っていいかは疑問はあるけどね)したらつまらないやつと思われる。とにかく面倒臭いと思ったら、きっと嫌われる。良くても話しかけても答えてもらえなくなる、って思い込んでいたから。
だって、群れるのはいやだと言って、メッセージIDも交換してもらえていなかった。
その割には、振り回されていた。授業をサボって公立図書館に付き合ったり、このあいだみたいに博物館に誘われたりしていた。でも、コンサートや演劇に連れていかれたのはつらかった。
いや財布がね。内容は彼女の解説もあって、すごく楽しかったんだけど、普通の高校生にはチケットの代金はちょっとね。うちはアルバイト禁止だったし。だったら、お小遣いもっと欲しかったなあ。——
「あ、あれ。
あの人、見覚えある!」
彼女が立ち止まって小さな声で叫ぶ。僕はすぐにわからなかった。とにかく周りを見回した。彼女が教えてくれる。確かに見覚えがあった。
「うん。確かに見覚えがある。
あっ。楠本さん!」
僕が頷くのと彼女が駆け出すのは同時だった。僕は慌てて追いかけた。
「突然駆け出して、どうしたの」
追いついて声をかけると、振り向きざまに人差し指で唇を押さえ小声で返事をしてきた。
「しっ! 気がつかれちゃう」
「えっ。あいつの後つけるつもり?」
「つもりもなにも、そんなのあたりまえじゃない。
博物館から展示品をそれもオーパーツを盗むなんて許せない。
絶対つかまえてやる」
「楠本さん、それは危ないよ。むりだよ」
「わたしが捕まえるなんて言ってない。
隠れ家見つけて警察に通報する!」
その男が歩いてくのに合わせて彼女は刑事ドラマのように体を隠しながら後をつけて行く。
どう考えても無理がある、そんな訓練なんて受けていないふつうの高校生の男女が、真似事の尾行をするなんて。刑事ドラマの尾行なんて視聴者にわかり易く演出してるんだもの。それを真似しちゃだめだよね。
と思っていたら。
「東雲くん、スマホ出して。
メッセージアプリでグループ作るから、これで連絡取り合おう。
このIDは、他で使ってないから」
やっとID教えてもらえたって、こんな時? 嬉しいのか複雑な気持ちだった。
それから、移動しながら尾行の基本をレクチャーされた。この人はなんでこんなこと知ってるんだと驚いてしまう。考えてみれば、『興味がいちばんの人』だから知っていてもおかしくなかった。
でも本物の犯罪者相手だよ、ただの高校生にはさすがに無理がある。
「止めようよ。
警察に通報すればいいんじゃない。ほら、調書を取られた時の担当だって刑事さんとか」
「もう、うるさい。
東雲くん、帰っていいから。
できるかじゃなくて、やるの!
わたしだってバカじゃない。本当に危なそうだったら逃げる」
そう言われて、好意を感じている子を置いて帰れるわけない。
一呼吸置いて答えた。本当なら止めるべきだけど、僕には止める手段がない。なら、付き合ってやる。
「わかった。
僕はなにをすればいい?」
そう答える以外の選択肢はなかった。思いっきり不満顔を浮かべて僕は頷いた。
「ありがとう。
東雲くん。さすが話がわかる。
そんな顔せずに、いいことあるかもよ(ハート)」
そう言って笑う彼女の顔を見ると、抵抗も何もなかった。彼女に巻き込まれることは、なれないが諦めていた。
—— ☆ ☆ ☆ ——
その4 博物クラブ
僕は目立たないように彼女から少し離れて、教えられたように少しでも自然に見えるように風景や店先を見ているふりをして後をついていった。彼女も建物の影から覗くなんてベタな仕草はしていない。お店を覗いたり、スマホを見ているふりをしながらさりげなくついていった。時々入れ替わったりしていた。
僕らは忘れていた、こっちが覚えているってことは、相手もこっちを覚えている可能性を。それも窃盗のプロだとしたら、拙い尾行がバレないわけもなかった。
男はゆっくりと歩いている。
だんだん、駅前から離れていく。
埋立地の工場の跡地にできた大規模商業施設から遠ざかる道を歩いている。昭和の香りの漂う、昔の賑やかさが偲ばれる大規模アパートがある地域に向かって歩いていた。再開発から取り残された地域だ。泥棒がアジトにするには似合いすぎな雰囲気が立ち込める街並みだった。
『もう、諦めようよ。
きっとこの辺りにアジトがあるんだよ。警察に調べてもらおう』
『まだ、だめよ。
もう少し先まで』
ときどきメッセージをやり取りしていた。
このあたりは人通りも少ない。先を歩く楠本さんを見失わないよう注意していた。はずなのに油断した。建て替え中と描いた工事現場を覆うパネルを過ぎたあたりで見失ってしまった。
「やばい、
楠木さん、どこだ」
慌てて探しに走る。慌てていたので歩行者数人とぶつかってしまった。
「なにすんだ!このやろう」
「ごめんなさい!」
「まて、逃げんな」
追いかけてきたが、それどころではなかった。
「いた!」
川縁に沿った遊歩道を奥に入ったところにいた。駆け寄る。
彼女は男に手首を掴まれていた。
「お嬢さん。どうして私の後をつけてくるんだ。
ほう、どこかで見たことがあると思っていたら、博物館にいた……
そこの彼もその時の。そうか……」
その男は僕の背後に視線を投げ眉を顰める。左手をポケットに入れたまま僕の方を向いた。
「彼女を離せ!」
「離してよ」
「離してもいいが、私の後をこれ以上ついて回られても困るのでね」
左手をポケットから少し引いて持っているものが僕らだけに見えるようにした。そこには黒い金属の塊が見えた。僕らがわからないと見た男はもう少し手をポケットから引き出す。
「うっ」
言葉が詰まる。それは紛れもなくナイフだった。なんでもグッズ屋で見たことがある。それがわかった瞬間、僕の背筋を怖気が這い上がる。頭の芯が痺れるようなめまいに似た感覚を覚える。
ナイフを持っている男に脅されるのが普通の高校生にはどれだけ怖いことか、それも生まれて初めての経験だった。
不良たちが脅しのために振り回すナイフじゃない(それだって、十分怖いけど)。本当の犯罪者が冷静な顔で隠すように見せるナイフは比較にならない。
彼女もショックを受けて、表情が固まっている。
「なんでもありません。この子があまりに失礼なことをしたので少し話をしていたんです。
おさわがせして申し訳ない」
にこやかでいて、それで冷酷な笑顔を浮かべて僕の背後についてきていた男性に挨拶する。
「その小僧も人にぶつかっておいて、おざなりな謝罪しかしなかったからな。
今時のガキは礼儀も知らない。よく、言い聞かせてやってくれな」
「まったくその通りです」
そういって会釈を返す。
不穏なものを感じたものの、関わるのはまっぴらだという表情で、追いかけてきていた男性は歩き去ろうとした。
「わ、分かりました。
僕たちは、このまま帰りますから彼女の手を離してください」
ぼくはなんとか声を絞り出す。とにかくこの場から離れたかった。
僕の声を聞いて彼女が決意の表情に変わる。途端、耳をつんざく甲高い音が辺りに響き渡った。防犯ブザーの音だ。
男の顔色が変わる。
なんでそんなことをしたのか後になっても覚えていなかった。
「捺稀さんの手を離せええ!」
僕は泥棒の男に飛びかかっていた。それこそ頭から突撃した。男も油断していたのか、ぶつかったそのままの勢いで倒れこむ。そしてそのままひと塊りに川の中に落ちていった。1.5mほど落下して水中に沈み込む。秋の水は冷たかった。
「うわー」
「きゃあ」
「女の子が川に落ちたぞ」
さっき立ち去りかけた男性が大声で助けを呼ぶ。案外いい人だった。
「警察呼んでください」
くしゅん。くしゃみをしながらも訴える。
「お願いします。さっきのやつ泥棒なんです」
彼女は助けられるや否や大声で訴える。僕も、負けじと声を上げた。
博物館の展示物泥棒の男は、川に落ちた僕らが助け上げられる前に自力で這い上がり逃げ去っていた。
僕らは駆けつけた警察官に説明した。やれやれとした表情を浮かべ白い自転車でやってきた警官に説明すると最初は疑っていたが、本署に問い合わせてくれた。しばらくすると表情を変え真剣な顔で通話機に向かって話し出した。
だんだん辺りが騒がしくなってきた。
その頃には、僕らは借りた毛布にくるまり救急車のそばで体を寄せ合い並んで座っていた。初秋の川の水は冷たくすっかり体が冷え切っていた。目の前には一斗缶を利用した焚き火が置いてある。近くの工事現場の人が気を聞かせて持ってきてくれたものだ。
今日の冒険について興奮した声で話し合っていた。本当に懲りない人だ。付き合っている僕も変わり者だな。
「楠本さん、いつも防犯ブザー持っているの?」
「そうよ、東雲くんに襲われた時のために」
「えっ」
慌てて顔を見るといたずらっぽい顔をしていた。僕がふうっと力を抜くと同時ににこりと笑った。
「嘘だよー」
ぺろっと舌を出す。
「ありがとうね。
さっき助けてくれて。
『捺稀さんの手を離せええ!』ってかっこよかったよ」
彼女は僕の顔を見てニヤニヤと笑っている。僕は顔を真っ赤にして黙り込んだ。
「……」
「ふふっ」
そういって彼女は正面に向き直り僕に寄りかかってきた。
「東雲くん。色々と振り回してごめんね。
でも、ほんと楽しかった。これからも遊んでくれる?」
泥川の匂いに彼女の甘い香りが混じる。
「もも、もちろん。
もう泥棒の尾行はまっぴらだけど……
これからもよろしく」
そのとき、風の向きが変わり、焚き火で燻る木切れの鼻を刺激する煙っぽい匂いが漂ってきた。
「そうだ、東雲くんのこと真仁くんて呼んでいい?
わたしのこと捺稀って呼んでいいよ」
―― ☆ ☆ ☆ ――
匂いがなんだか懐かしい。
捺稀はあの体験がとても楽しかったらしく、——僕はあれは二度とごめんだったけど——先生に交渉して『博物クラブ』なんて作っちゃったんだよね。もちろん、僕は最初から員数にはいっててさ。活動は『博物面白いことやる』だもの、いろんなことに引っ張り回されてたよ。
結局、交際を申し込むのにそれからずいぶんかかってしまった。
「おとーさん。
どおしたの。止まってたら遅れちゃうよ。
おかーさんに怒られるよ」
「ごめんごめん。
おかあさんと出会った頃のことを思い出してたんだ」
「えー、ほんとう。すてき、教えて」
「ユキがもっと大きくなったらねー」
「おとーさんのけち」
僕は、妻の捺稀が調査旅行から戻ってくる駅に向かって足を早めた。
了
Copyright 2019© 灰色 洋鳥
長編の第2部を書き溜めているのですが、なかなか進みません。自分の表現力の至らなさから煮詰まっています。
それだけではないのですが、勉強をかねて短編をもっと書こうと思ったのです。長編を書きながら、時々に短編を描いていくというのが自分のペース的にあっているみたい。
元々、僕はちょっと変わった子に惹かれる癖があって。それは恋愛的なものでもなく、男女問わず親しくなりたいという欲求ありました。とはいえ、コミュ力が低いので実際に親しく交流するということは少なかったです(笑)。まあ、あまりに個性的な人、乱暴な人はだめですが。
博物クラブで登場する楠本捺稀さんは、高校時代に知り合ったら、きっととても好きになっただろうなって娘です。本当は彼女にしたらすごく大変だと思いますけどね。
というわけで「博物クラブ」楽しめていただけましたら嬉しいです。