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宵闇の壺

作者: 倉名まさ

 宵闇の壺


 石畳の街路に月明りが降りそそぐ。

 灼熱の気候を過ごすバレンティオの人々の夜は長い。

 わけても、今宵は一年に一度の特別な日―――火祭りの夜だ。

 陽が落ちてからが、祭りの本番だった。

 市長の短いあいさつの後、市街の七つある広場のかがり火に、一斉に火が灯される。

 歓声が湧き、人々の笑いが街路にこだました。

 ただでさえ、うだるような熱帯夜に炎の熱が加わり、蜃気楼さえ生む。

 けれど、誰もかれもそんなことお構いなしだった。

 玉の汗を浮かべ、頬を上気させながら、むしろその熱気を楽しんでいる。

 広場には露店が立ち並び、昼日中以上の賑やかさをみせる。

 しかし、炎から少し離れれば、街路には夜のしじまが待っている。

 人の姿は影となり、男か女かの区別もつかない。

 人々の笑い声も途端に遠くなり、夏の虫が鳴くこえが微かに聞こえる。

 光と闇、喧騒と静寂、絢爛と素朴。

 それらが矛盾なく同居しているのが火祭りの夜だった。

 ゆっくりと夜は更けていく。

 勇壮なるテティオの牛追い祭りや、狂騒を生むサビールのトマト祭りなどと違い、バレンティオの火祭りは素朴な庶民の祭りだ。

 人々は花冠や民族衣装で思い思いに着飾り、炎を囲んで酒と音楽を楽しむ。

 男達は肩を組み麦酒をかかげ、女達はかかとを石畳に打ち鳴らして踊り、恋人達はサングリアを手に街路樹の傍らに腰掛け、互いを見つめ合う。

 祭りもたけなわという頃合い……。

 いつの間にか、大広場の中央、かがり火の前に一人の男が立っていた。

 羽根付き帽子と黄土色のマントをまとった、古風な吟遊詩人の装いだった。

 彼は手にしたギターをつま弾いた。

 決して大きな音ではないが、夜空に澄み渡るように、その音色は辺りに響いた。

 広場に集まった者達が彼に注目する。


「今宵はめでたき火祭りの夜、そのとばりにふさわしい物語をこの場にお集まりの皆さまに、謳って聞かせるといたしましょう」 


 拍手とちょっとした喝采が湧く。

 耳目を集めたとみるや、彼はさらに手にしたギターで旋律を紡ぐ。


「おお、偉大なる詩神ムシュケーよ。この詩を謳い終えるよう、我に力を授けたまえ。

 これはうるわしき都バレンティオから出で、砂漠の魔族の支配からアンダルシオ半島を解放せし、戦乙女聖テレジアの知られざる物語。

 その始まりは、かの有名な四皇魔族との闘い、コンポステーラ戦役の勝利の後。

 偉大なる勝利に酔いしれた喜びもつかの間、運命の三姉妹は戦い終わってなお、英雄に試練を授けたのであった―――」


 詩人の奏でるギターの音色は、ごうごうと巻き上がる炎にもかき消されず、広場によく響いた。

 朗々と謳う彼の歌声も同様だ。

 詩人の語りに耳を傾けながら、バレンティオの人々は思いを馳せる。

 三百年の昔、このバレンティオが都市国家だった頃……。

 バレンティオの女領主にして、アンダルシオを砂漠の魔族から解放した英雄の物語に。

 煌々と燃え盛る火祭りの炎にも負けない熱情を心に宿した戦乙女の雄姿に。


 早馬を駆るテレジア。

 赤いマントと革の軽鎧に身を包んで、白馬にまたがるその姿は勇ましくも麗しい。

 短く刈り込んだ赤毛も目に鮮やかだ。

 戦装束なのもそのはず。

 彼女は自らの領地バレンティオを出で、難敵、四皇魔族が一柱ヴェロナオスを打ち破ったその後であった。

 だが、その瞳には憤怒と悔悟の念が燃えていた。

 息せき切って馬を駆るその姿は、とても揚々たる勝利の凱旋には見えない。

 何より、いま、彼女はたった一人だった。

 彼女と生死を共にすることを誓い合った戦友達の姿がない。


「くそっ」


 短く呪詛の声を吐くテレジア。

 彼女の脳裏に浮かぶのは卑劣なる妖術師ウコロの邪悪な笑み、そして彼に囚われた仲間達の姿だった。

 大一番の戦を終え、バレンティオの居城へと帰還するその途上。

 昨晩テレジアが泊まった宿、それがウコロの用意した罠であった。

 幻術にたぶらかされたとテレジア達が気づいた時にはすでに遅かった。

 テレジアの仲間達は全て、ウコロの用意した魔法の檻に閉じこめられた。

 ウコロは邪悪な妖術師ではあるが、テレジアに恨みがあるわけでも対立しているわけでもなかった。

 彼が罠を用意したのは、テレジアを利用してある要求を満たすためだった。

 人質と引き換えに妖術師がテレジアに要求したこと、それは―――、

 

「ここ、か……」


 愛馬の背から飛び降り、テレジアは眼前にそびえるそれを見上げた。

 高い、おそろしく背の高い山だった。

 ふもとからでは雲に隠れてその天頂を見定めることもかなわない。

 しかし、高さにはふつりあいなほど、その山は細くやせて見える。

 岩壁と赤い土が見えるばかりで、お世辞にも雄大とはいいがたい。

 禍々しさすら感じさせる情景だった。

 テレジアの眼前にあるのは、いかなる城塞よりも堅固な崖だけだ。 


「”白魔の山”とはよく名づけたものね」


 ウコロから告げられたその名をテレジアはつぶやく。

 その光景にテレジアは気が委縮しかけていることを自覚していた。

 夏風邪にでもやられたかのように、背筋を震わせる悪寒が止まらない。

 夏場だというのに、背筋が凍えるような怖気を感じる。

 それが尋常の山でないことを、剣技同様霊的修練を積んだテレジアはすぐに見抜いていた。

 いかなる戦場にあっても勇気を失わず、どんな困難なめにあっても己と仲間たちを鼓舞して戦ってきた戦士テレジアも、この時ばかりは得も言われる不安にさいなまれていた。

 主とともに戦場を駆けた駿馬も、人よりも鋭敏な直感でもってその山にわだかまる瘴気を感じ取ったようで、純白の毛に覆われたその身をこわばらせていた。


「こんな場所が領内にあったなんて……」


 人里離れた奥地とはいえ、このような魔境がアンダルシオ半島内にあるという事実を、放っておくわけにはいかない。

 いずれどんな災いが人々に降りそそぐか分からない。

 砂漠の魔族との戦いが激化する前に、一度本格的に調査する必要があるかもしれない。

 だが、いまはそれは置こう。

 それよりも大事なのは、この山にあるという、妖術師ウコロが欲している”宵闇の壺”を手に入れること。

 そしてなにより、囚われている仲間達を救出することだ。

 ぎり、とテレジアが奥歯を噛みしめる音がした。

 仲間を奪い去った卑劣な老魔術師、ウコロの顔を頭に思い浮かべる。

 その顔に貼りついているのは、人を思い通りに操ることに愉悦を感じて浮かべる、下卑た笑みであった。

 それを思い出すと、怒りで全身が火照る。

 それ以上に腹が立ったのは自分自身に対してだった。

 一時の勝利に酔いしれ、気をゆるめた。

 己の慢心が仲間達を窮地に陥れたのだ。

 怒りを勇気へと変え、白魔の山に一歩を踏みだす。

 この巨峰それ自体が不気味な怪物に思える。

 怪物は不気味な笑みを浮かべ自分を手招きしている。

 テレジアはそんな錯覚に陥った。

 登頂に挑む前に、いまとなっては唯一となってしまった戦友に語りかける。


「お前は一足先にバレンティオに戻っていて。すぐにみんなと一緒に私も戻るから」


 そう言い聞かせてもテレジアの愛馬は白魔の山の前から一歩も動かなかった。


「お願い。ここにずっといてはあなたにもどんな災いが襲い掛かるか分からないわ。

 あなただってこの山の瘴気は感じているでしょう」


 白馬はふるふるとたてがみを左右に揺らし、なおいっそう強く大地を踏みしめる。

『そのような場所だからこそ、ご主人様を一人残すわけにはいきません』

 言葉よりも雄弁に、その黒い大きな瞳は語っていた。


「……主に似て、ほんとに頑固な子ね」


 とうとうテレジアの方が根負けする。


「アルハンドラ中を訪ねたって、あなたほど忠義者の従者をもった騎士は見つからないわ」


 白馬は誇らしげに、あるいは当然だと言いたげにぶるると鼻を鳴らす。


「登山を楽しんだらすぐに戻ってくるから、いい子にしててね」


 愛馬の首に抱きつき、しばしの別れの抱擁を交わすテレジア。

 しかし、高峰への一歩を踏みだすその時には、彼女の顔つきは戦士のものへと戻っていた。


 しかし、どこから登ったものか、登頂路を探しあぐねるテレジア。

 いくら白魔の山の周囲を歩いても、人間の侵入を拒むように切り立つ崖は途切れることなく続いていた。


「お前さんでなければ、あの山は登れんのじゃよ。バレンティオ領家の血筋を持つお前さんでなければな」


 妖術師ウコロはテレジアをけしかける時、そんなことを言っていた。

 だが、テレジアも、垂直に切り立つ崖を登攀する技術も道具も持ち合わせていない。


「でたらめ言ってくれるわね。クソ陰気な妖術師が」


 悪態をつきながら、なおもテレジアは白魔の山の周囲を巡る。

 一刻も早く、この場所を離れたい。

 そんな衝動を、邪悪な妖術師への怒りを沸き立たせることで抑えこむ。

 ちょうど山の周りを半周ほどした頃だった。

 テレジアは、崖をくり抜いたような洞穴を見つけた。

 人一人が余裕でくぐれる大きさだ。

 入口だけでは、それが天然のものか人工のものか判別しがたい。

 しかし、テレジアの直感は、それが”当たり”だと告げていた。


「あのクソじじいを信じるなら、この中に入れるのはわたしだけってことね」


 意を決し、テレジアは洞穴へと一歩足を踏み入れた。

 これで、このほら穴がただのクマの巣穴か何かだったとしたら笑えるな、などと思いながら……。


 明かりを用意する必要はなかった。

 テレジアが足を踏み入れた途端、両の壁に備え付けられた松明が一斉に灯ったのだ。

 その数は目に見える範囲でも数十はくだらない。


「なんなの、これは……」


 テレジアは茫然とつぶやく。

 それは上り坂の回廊だった。幅は狭く、大人一人がやっと歩けるくらい。

 天然の洞穴でないことだけははっきりとした。

 まるで磨き挙げられた真鍮のように、丸い天井も壁も鈍色の光沢を放っていたのだ。

 いったいどれだけの労力があれば、これほど均一に岩肌をなめし、回廊を整えるられるのか。

 坂は緩やかな螺旋を描き、右に折れている。

 幾何学の魔術だろうか。歩いていると、現実感が失われ、なんとはなくめまいをもよおす造りだった。

 道幅は狭く、分かれ道もない。いま挟撃でもされたら、かなりしんどいことになるだろう。

 そんなことを思いながら、テレジアは回廊をひた歩く。

 段々とその傾斜はきつくなり、やがてはっきりとした登り坂となる。

 いったい誰がなんのためにこんな洞穴を造ったのか……。

 最初、ひとりでに松明に火が点いた時は、何事が起こるかと思ったが、いまのところ人はおろかテレジア以外に動くものの姿はない。

 なにか得体のしれない幻術に化かされているような心地悪さを感じる。

 テレジアの脳裏に、昨晩嵌められたウコロの宿の一件がよぎる。

 いっそ、形ある敵が立ちはだかってくれる方が、よほどやりやすかった。

 どれほど歩き続けた頃だろうか。

 一本道だった回廊に初めて変化が表れた。

 扉だ。

 テレジアの前に、鉄製の、仰々しい扉が見える。

 体感からして、白魔の山の中腹辺りだろうか。


「開けるしか……なさそうね」


 テレジアはいつでも抜けるように腰の剣に手を沿えつつ、もう片方の手で重い扉を押し開いた。


 とたん、空中に足を踏みだしたような浮遊感がテレジアを襲った。


「なっ……」


 落とし穴にでもはまったか、とテレジアの身がこわばる。

 だが、次の瞬間にはテレジアの両足は土の地面を踏んでいた。


「なに、ここは……?」


 テレジアは半ば茫然と周囲を見渡す。

 広い、広大とも呼べる空間がそこには広がっていた。

 蒼くペンキを塗りたくったような球状の天井。東屋と白いテラス。刈り込まれた植木。

 そして、所狭しと生えているのは青々とした葉を茂らせる草木だった。

 テレジアが見たこともない植物ばかり。

 庭園というより、植物園と呼ぶべきだろうか。


「私は山中にいたはず……」


 非現実的な光景に、頭がくらくらとするテレジア。

 博学の軍師セルバンティスがいればなにか見解を述べてくれたかもしれないが、その彼も他の仲間達とともに囚われの身だ。

 ただテレジアには、目の前にある現実を受け入れるしか術はなかった。

 背の高い草木に阻まれ、視界は悪い。

 いつどこに、敵が潜んでいるかも分からないなかを進むのは、気持ちの良いものではなかった。

 弓術士に狙われたら不利な地形だ。


「ほんとに、なんなの、これは……」


 誰かに問いただそうにも、相変わらず人の気配はない。

 テレジアは孤独な行軍を続けるしかなかった。

 見たこともない極採色の花や、人の身体ほどもある葉を持つ木など、その傍を通るだけでもぞっとする植物もあった。いまにもこちらに襲い掛かってきそうに思える。

 だが、テレジアは案外あっさりと自分がくぐったのとは別の扉を見つけた。

 似たような鉄の扉だ。

 おそらく白魔の山の上へと続く出口だろう。

 そう考え近づくテレジア。しかしそこで、耳慣れた音がテレジアの耳に飛び込む。

 馬を駆る、ひづめの音だ。


 群生する植物の中を、小さな影が息せき走っていた。

 まだ十にも満たないような、少女の姿だ。

 そして、それを馬に乗り追いかけるもう一人の姿。

 漆黒に染められた鉄の全身鎧を身にまとっている。

 頭にも黒い兜をはめているため、顔は分からない。

 甲冑の肩には三日月のような紋章が彫りこまれていた。

 騎士の紋章も、少女の衣装もテレジアには見慣れないものだった。

 いかなる状況で騎士が少女に掣肘を加えようとしているのか、それは分からない。

 ―――だが。

 無防備な少女の命を奪おうとするものが、正義であろうはずはない。

 ためらうことなく、テレジアは駆けだした。

 ここに彼女の仲間達―――”暁の踊り子”レナルがいれば「またお嬢のおせっかいがはじまったよ」と呆れたかもしれないし、巨森族の戦神官ゴードンなら「いまはそのような時ではありませぬぞ」といさめたかもしれない。

 だが、この時テレジアは一人きり、制止するものはなかった。


「止まりなさい、黒衣の騎士よ!」


 両者の間に躍り出ると、テレジアは勇ましい声で呼ばわった。

 テレジアが一寸もためらわず飛び出たのと同様に、黒騎士もまた寸毫も躊躇しなかった。

 突如乱入したテレジアの存在をいぶかることすらせず馬を駆り、手にした長刀を振り上げる。


「止まれと言ったはずだ!」


 テレジアも自らの剣を抜き放つ。

 そして真上から放たれた斬撃を、頭上に振りかざした刃で受け止めた。

 耳障りな金属音が鳴り響いた。

 圧倒的不利な態勢でありながら、大地を踏みしめたテレジアの両脚はこゆるぎもしない。


「なにっ!?」


 これには黒騎士も面貌の奥から、かすかに驚きの声を漏らした。


「先に手を出したのはそっちだからな。あとで文句を言わないでよ」


 いささか子どもの喧嘩じみたことを呼ばわるとテレジアは正中に剣を構える。

 その瞳はらんらんと輝き、口は獰猛に笑っていた。

 貴族の社交界では男たちが彼女とダンスをする権利を競い合うほどの容姿に恵まれたテレジアだが、戦いを前にしたその姿は夜叉のごとくであった。

 そして、その姿こそ彼女の本性であることを、親しい仲間達は知っている。

 馬上の敵との戦い方なら嫌というほど身体に叩き込まれていた。

 膂力の次は、疾さを見せつけるテレジア。

 素早く馬の側面に回り込む。

 圧倒的機動力と破壊力を持つ騎馬だが、小回りが利かないことが難点だった。

 騎士が馬首を巡らす間もなく、テレジアは馬の後ろ脚、その腱を切り裂く。

 痛みに馬は甲高くいななき、どうと横に倒れた。

 だが、黒騎士の立ち回りも見事だった。

 歴戦の武者であっても、いまのような場面では落馬し、下手をすると愛馬のひづめや胴の下敷きとなり、絶命することも少なくない。

 だが、黒騎士は甲冑の重みを感じさせない身のこなしで、馬が暴れるその前に地上に飛び降りていた。


「やるじゃない……!」


 テレジアの中に、感嘆の念が湧き、軽く口笛を吹く。

 無防備な少女を襲っている時は、騎士の風上にも置けない相手だと思った。

 だが、このわずかな立ち合いだけでも相手が好敵手であることが分かる。

 そして”強き者”はそれだけでテレジアにとっては敬意の対象であった。


「なら―――敬意を込めて全力で相手をするわ!」


 テレジアと黒騎士がほとんど同時に地を蹴った。

 そこからの二人の剣戟は、もしこれが武闘会場の一騎打ちであったなら、万来の拍手喝采をよびこんだこと間違いなしの、見事なものだった。

 テレジアも、自分と互角に渡り合う暗黒騎士の手腕に、内心舌を巻いた。

 ―――バレンティオの近衛騎士に加えたいくらいだわ。小さな女の子を襲うような心根は正さないといけないけど。

 力比べの鍔競り合いの後、二人は同時に飛びのく。

 一時的に両者に間合いが生まれた。

 その一瞬、黒騎士は兜に手をやり、脱ぎ捨てた。

 その下から現れた姿は―――、


「え……女……の子?」


 艶やかな長い黒髪。長いまつげに紅い唇。

 どう見ても女の顔だった。歳はテレジアよりやや上くらいだろうか。


「なにをそんなに驚いている。

 すばしっこい貴様相手に、視界の狭まる兜はかえって不利だと思っただけだ」

「な、なるほど」


 テレジアは上の空で、間の抜けた返事をしてしまう。


「……今度はなにを笑っている」

「いえ、別に……」

「不気味な奴だ」


 自分と同レベルで戦える同姓の騎士に出会ったのは、テレジアにとって初めてだった。

 立場も今の状況も一時忘れ、テレジアは喜びに沸きあがる。

 ―――領主様の悪いクセがでたよ。

 と、仲間達がいればさぞ呆れたことだろう。

 テレジアは、剣を正眼に構え、まっすぐに黒騎士と相対した。

「我が名はアルハンドラのテレジア。黒衣の女騎士、改めて―――いざ尋常に勝負よ」

「…………」


 黒騎士は無言で剣を構え、地を蹴る。

 再び剣戟を交える甲高い音が鳴り響く。


「ちょ、ちょっと。一騎打ちの時には名乗りくらい上げなさいよ」

「……生憎、私の生国にそのようなしきたりはない」


 黒騎士の鎧も、ふるう大剣も明らかに重量のあるものだ。

 にもかかわらず、テレジアにまったく引けを取らない速さで立ちまわっている。

 ―――ほんとに、やるわね。

 一見互角なようだが、戦いが長引けば自分の方がやや劣勢になりそうなことを、テレジアは内心しぶしぶ認める。


「なら―――これはどうかしら!」


 テレジアは相手の鎧ではなく、手にした剣に狙いを定めて斬撃を放った。

 相手の上段の降り下ろしに対し、下から剣を薙ぎ払う形だった。

 だが、黒騎士は手にした剣を弾かれたりはしなかった。

 わずかに上体がのけぞっただけだ。むしろ、技を仕掛けたテレジアの方に大きな隙が生まれる。


「……愚かな」


 黒騎士が小さくつぶやく。

 ―――いまよ……!

 テレジアは剣をぱっと手放し、黒騎士の懐に飛び込んだ。


「なにッ!?」


 まさか、得物を手放すとは黒騎士も思わなかったのだろう。

 一瞬、反応が遅れた。そして、その一瞬でテレジアには十分だった。

 鎧の段平を持ち手にし、腰に組み付く。そして、足を払いつつ、膝をかがめる。


「―――アルハンドラ流、闘牛落とし」


 それは剣技というより、格闘技の一種であった。

 黒騎士の身体がふわりと宙に浮きあがり、一瞬後に頭部から地面に打ち付けられる。


「……ぐ」


 立ち上がろうと黒騎士の手に力がこもるが、その腕が持ち上がることはなかった。

 黒騎士の意識は飛んでいない。おそらく、痛みもほとんど感じていないだろう。

 だがこの技をまともに受けたものは、全身が痺れたように動かなくなり、小一時間は地面に横たわることになる。

 合戦の際にはあまり使う機会はないが、一対一の決闘であれば相手にいくら体力が残っていても無力化できるため、絶大な威力を発揮した。


「……まさかこのような形で敗北を喫するとはな」


 自失の態で黒騎士は茫然とつぶやく。

 痛みもなく地に横たわるというのは初めての経験であったろう。

 テレジアは剣を納めるときびすを返す。


「―――とどめを刺さないのか」

「必要ないわ」


 黒騎士の呼びかけに、テレジアは背中越しに応えた。


「偶発的に起こった戦いに、これ以上血を流してもしかたないでしょ」


 戦士としてのテレジアは博愛主義者ではない。必要とあらば非情に徹せられたし、戦場では敵の命を奪うのにもためらいをもったりはしない。

 だが、この黒衣の女騎士にはなんの恨みもなかった。

 もとより、襲われていた少女を助けようと衝動的に割って入っただけだ。


「……と、そういえばあの子は―――」


 テレジアは自分が助けた少女の姿を探した。が、どこにもその姿は見当たらない。

 二人が戦っている間に、とうに逃げ出したのかもしれない。

 それならそれで構わなかった。

 これ以上の寄り道は彼女に許されていない。

 仲間のため、一刻も早く宵闇の壺を見つけだすべきだ。

 そう決意をあらたにし、奥へ進もうとした矢先だった。


「助けてくれてありがと、お姉ちゃん」


 弾むような幼い声が、テレジアのすぐ真下から聞こえた。


「うわっ」


 テレジアは踏みだそうとした足を止め、思わずのけぞった。

 自分のあごの下に、小さな人影があった。

 さきほど、黒衣の騎士に襲われていた少女だ。

 それにしても、いつの間に懐近くに潜り込んだのか。テレジアはまったく少女の気配に気づかずにいた。

 黒騎士との決闘に勝利し、気が緩んでいたのだろうか。

 だとすれば、自分は何度同じあやまちを犯せば学ぶのか。


「あやうくあの護衛に殺されるところだったよ」


 とても内容にそぐわない、明るい声で少女は言う。

 ―――えっ、なに。この感じ……。

 テレジアは腕が鳥肌立つような、奇妙な危機感を覚えた。

 少女の仕草も声音も無邪気そのもので、年相応に見える。

 だが、その瞳の奥底には、それを装っているような得体の知れなさが感じられた。


「ねえ、お姉ちゃんは宵闇の壺を探しているの」

「知っているの、あなた!?」


 テレジアの問いには答えず、少女は腕を組んでうーんとうなっている。


「お姉ちゃんには命を助けられたお礼をしないといけないよね。ちょっと待ってて。うんしょ、と」


 少女は上衣を脱ぎ捨てるような仕草をする。


「な、何を……?」


 少女の意図が分からず、テレジアは困惑する。


「これをあげるわ」


 そう言って彼女がさしだしたのは絹織の衣だった。

 純白、というよりあまりに薄手で透明に見える。

 実際、テレジアはその衣のあでやかなアラベスク紋様を、少女が着ている上衣のものだと思っていた。

 背の低い少女がまとうとケープのようだが、テレジアの肩にかけたならショールのように見えるだろう。

 不思議なことに、テレジアが手渡されたそれを肩にかけると、完全に無色透明になり目に映らなくなる。


「これは燐光のレースと呼ばれているの。わたしの命を救ってくれたお礼にこれをあげる。きっとあなたの役に立つはずだわ」


 少女の声音は言葉の内容ほど誠実な響きではなかった。

 どこかテレジアを試して面白がっているような気配があった。

 そして、そんな態度をいつまでも捨て置くほど、アルハンドラの女領主テレジアはおおらかな性格ではない。


「あなたが何者か知らないけど……」


 テレジアは一度は収めたその剣を、再び鞘からすらりと抜き放つ。


「わたしをだまそうとしているなら容赦しないわ」


 そしてそれを、少女の喉元に突きつけた。

 鋭い刃を前にしても、少女は微塵も怯えの色をあらわさなかった。

 テレジアの気迫がただのおどしではない、と気づいていながらなおそれを気にもとめていない、そんな様子だった。


「あは、変なお姉ちゃん」


 少女の笑声にはあざけりがまじっていた。


「あたしの命を助けておいて、今度は自分で殺そうとするの?」

「殺しはしないわ。あなたが知っていることを全部話してくれたらね」

「何も言えないわ」


 少女はさりげない所作で半身をよじり、剣線からずれる。


「わたしにできるのはそれを貸してあげることだけ。じゃあね、がんばって、お姉ちゃん」

「あ、こら、待ちなさい!」


 少女はくるりと背を向け走り去る。

 あまりに無防備過ぎる背中に、テレジアは虚を突かれた。

 追いかけようか、と考えたが、少女が走ったのはテレジアが元来た方角だ。

 これ以上の寄り道をしている猶予はテレジアにはなかった。


「まあ……いいわ」


 少女のことは頭から追い出し、テレジアはもう一つの扉に向かった。

 この植物園に入った時と同じように、片手で鉄の扉を押し開ける。

 再び、投げ飛ばされたような浮遊感がテレジアを襲う。


 一瞬のちには、テレジアは元来たのと同じような回廊に立っていた。

 もうこの程度のことでは、テレジアは驚かなくなっていた。

 黙々と、上へと続く回廊を歩き続ける。

 外の様子も分からず、代わり映えのしない回廊は時間感覚を狂わせる。

 気が遠くなりかけながら、テレジアは螺旋状の回廊を登り続けた。

 歴戦の戦士である彼女も、さすがに膝がこわばるのを感じはじめた。

 ―――修業時代を思い出すな。

 師の命で、社の段を何十往復もした記憶がテレジアの胸の内でよみがえる。

 あまり思い出して愉快になれる記憶ではない。

 もういい加減、山頂ではないか、何度そう思ったか分からない。

 幻術によって同じ場所を永遠歩かされているのではないか。そんな危惧もわく。

 だが、ひたすら登りつづける以外に、彼女に残された策はなかった。

 幸いにして、テレジアの悪い予感は外れた。

 いっそ回廊の中で仮眠をとろうか、そんなことを考えはじめた矢先―――、

 とうとう、洞穴の出口がテレジアの前に姿を現したのだ。

 松明のものとは違う、外の明かりがまぶしく映る。

 思わず駆けだしたくなる衝動を抑え、テレジアは気を引き締めながら、その出口を慎重にくぐった。

 

 信じがたい光景がそこにはあった。

 雲を貫く、天空の山頂。

 そこには壮麗にして巨大な石の建造物があったのだ。

 神殿とも宮殿とも思えるその建築群は地上の王国にも劣らない、いやそれ以上の規模を誇った。

 優に百人の神官が暮らせるだろう大きさだ。城塞都市にも似ていた。

 雲の王国。そんなおとぎ話のようなフレーズがテレジアの脳裏をよぎる。

 風がごうごうとうなり、髪をたなびかせる。

 その中で、テレジアは天空の都市を探索した。 

 この巨大な建造物のなかで、どこを目指せばいいのか。

 宵闇の壺が秘宝の類だとすれば宝物庫だろうか、それとも主の住まう本殿だろうか。

 推測を巡らせてみても、どれが何の建物か分からない以上、あまり意味がなかった。

 結局、一番大きくて豪奢な建物を目指すことにする。

 人の気配はしなかった。どこか一所に潜んでいるのか、まったくの無人なのか……。

 近づくにつれ、それがさらに驚嘆すべき建造物であることが分かる。

 巨大な石壁のすべてが整然と積み上げられ、虫の入る隙間もない。

 地上のどこにも、これほど素晴らしい城壁を見たことがない。

 少なくとも、バレンティオの石工に命じたところで、何百年かけてもこのような建造物を造りあげることは不可能だろう。

 その造りも、正確な曲線や直線を描いており、何らかの数学的・あるいは天体的規則に基づいていると思われた。


「セルバンティスがいたら、興奮で動かなくなりそうだな」


 テレジアは、博学なる軍師の名をつぶやく。

 しかし、テレジアの眼には、この建物は偉大というよりも不気味なものに思えた。

 白魔の山が抱く瘴気をこの建物からは、さらに濃厚に感じる。

 感動よりも不快感の方が勝り、早くこの場を離れたくなる。

 そして、テレジアは気づいていなかった。

 自分が思っている以上に疲労を蓄積させていることに。

 そして、高地の希薄な空気とわだかまる瘴気が、疲労した身体を蝕んでいることを。


「……くっ」


 意識がかすれる。そう自覚した時には遅すぎた。

 テレジアの頭がぐらりと揺れる。

 一瞬後には、彼女は気を失い、地に倒れ伏していた。 


「……ここは?」


 意識を取りもどすとほぼ同時に、テレジアは己の犯した失態に気づいた。

 敵地で気を失うなどもっての他だった。周囲と自分の状況を急ぎ確認する。

 気を失ったその場所ではなかった。

 綺麗に均された砂地の上に、自分は身を横たえていた。

 その周囲は、円形に区切られ、石造りの階段状になっていた。天井はなく、空が見える。

 その巨大で整然とした造りからして、テレジアが探索しようとしていた空中都市の建造物の一つであろう。

 円形闘技場を一瞬テレジアは想像したが、それよりも祭儀場と呼ぶ方がふさわしい気がした。

 とすれば、テレジアは燔祭に捧げられる供物といったところだろうか。

 誰がここまでテレジアを運んだのかは知らないが、幸いにいして身につけた革鎧も腰に帯びた剣もsのままだった。


「お目覚めのようだな、麗しき乙女よ」


 頭上から声が降ってきて、テレジアは身構えた。

 声のした方を振り向く。そこには一際幅広の階段があり、その頂点に玉座が備えられていた。

 そこに座しているのは一人の男。

 その横にかしずいているのは、植物園で倒した黒騎士だった。いまは兜を脱ぎ、長い黒髪をあらわにしている。

 男はテレジアに呼びかけたのち、玉座から立ち上がり、ゆっくりと階段を降りてくる。

 紫の華美な鎧をまとっていた。実用よりも儀礼用の鎧といった趣だ。

 黒衣の女騎士が警護しようとするのを、手で制する。


「余は白魔の山―――そして、この黒月の神殿が主、パルマ・レオンハルト・ウルグスタフである。レオンと呼ぶことを許そう」

「バレンティオのテレジアよ」


 膝を軽く折り、形ばかりの礼をするテレジア。

 しかし、その形相は不審者を前にした警護犬さながらに、いまにも噛みつかんばかりだった。

 近づいてきて分かったことだが、男は恐ろしいほどの美形だった。

 怜悧なまなざしに切れ長の面立ち。くせっ毛のテレジアがうらやむような、黄金色の長髪。蝋人形のように白い肌ながら、濃紺の鎧に包まれた長身からは、たくましい肉付きが感じられる。

 宗教画から抜け出た、人を惑わす悪魔そのものの姿だった。

 頭では警鐘を鳴らしながらも、テレジアはその男の容姿から目を離せずにいた。

 舞踏会でまみえる地方貴族など比ではなかった。

 純然たる美そのもののごとき青年は、未知の生物に等しかった。


「ようこそ、白魔の山―――そして我が黒月の宮殿へ」


 薔薇の香りが匂いたつような官能的な声音だった。

 男は諸手を広げ、テレジアを歓迎するそぶりを見せる。


「レオン陛下、早速で悪いけど宵闇の壺のありかを教えて」


 男のペースに乗るまいと、テレジアは単刀直入に用件を告げる。


「もちろん、いいとも。あれはこれよりそなたのものだ」

「は?」


 まさか快諾されるなどとは思わず、テレジアは我が耳を疑った。


「それだけではない。この天空の王国の財産は全てそなたと余のものとなるのだ」

「……なにを言っているの?」


 男は幼子を諭すような甘やかな声で言う。


「これだけ言ってもまだ分からないか。余はそなたを我が妻として王国に迎えようというのだ」

「はぁ?」


 テレジアは呆気にとられ、しばし言葉を失った。

 小国の一領主として、貴族から求婚されることはしばしばあった。

 だが、これほど尊大であけすけなプロポーズを受けたのははじめてだ。

 ふつふつと彼女の中に怒りが湧く。


「冗談じゃない。誰がこんな山奥のド田舎に好きこのんで嫁ぐっていうのよ」

「そなたは我が王国の真の姿を理解していないのだ。いいだろう。我が花嫁となるそなたには知る権利がある」


 ふと上を見上げると、黒衣の女騎士が、ものすごい形相でテレジアを睨みつけていた。

 その眼には嫉妬の炎が燃え上がっている。

 ―――そんな目を向けられる覚えはない!

 と、テレジアは抗議したかった。


「さあ、参ろうか。我が花嫁よ」

「いい加減に―――」


 テレジアは鉄の籠手をはめた右手で、平手打とうと身構えた。

 だが、その腕が持ち上がることはなかった。


「なに……をしたの……」

「ふむ、その気勢の強さ。まことに余の妻にふさわしい。実に素晴らしい」


 テレジアは、自分とレオンを包む黒い光に気づいた。

 見上げると、上空に浮かぶそれは……、


「黒い……月?」

「いかにも。あれは余とそなたを寿ぐ天の祝福よ」


 レオンはテレジアの顎をつかみ、己を向かせる。

 テレジアにとってそれは未知の感覚だった。

 あの目を見てはいけない、心は警鐘を鳴らすのに視線を逸らすことができない。

 意識が海洋を漂うように揺らめく。


「う……くぅ……」

「まだ抗おうとするか。実に素晴らしい。それでこそ、我が伴侶にふさわしい」


 テレジアの視界の中、レオンの姿が何倍も膨らんで見える。

 黒い光に包まれ、周囲の祭壇が溶け消えて見えなくなる。

 その次の瞬間―――、幾つもの異なる情景が同時に立ち現れた。

 冬枯れの荒野。赤い星のまたたく砂漠。灰色の水面の海―――、その中にはテレジアが通り過ぎた植物園の情景もあった。

 言い知れぬ超常的な感覚でもって、テレジアは理解した。

 それらはすべて白魔の山がその内に抱く領土なのだ、と。

 物理的な法則を越え出て、この山は立ち現れたすべての光景とつながっている―――。


「そう、その通りだ」


 テレジアの思考を読んだように、レオンが首肯した。

 その声音には奇妙な残響がかかり、テレジアの頭の中でこだました。


「そして、いま見せたのは領域のほんの一部に過ぎぬ。その全てを余とそなたが統治するのだ」


 幾つもの情景は立ち消え、再び何もない暗黒の空間がテレジアとレオンを包む。

 テレジアは、その空間を不快とは思わなくなっている自分に慄然とした。

 いや、それどころか―――、

 意志を奪おうとするのは力による押し付けでもなければ束縛でもない。

 どこまでも甘やかで蠱惑的な支配だった。

 テレジアが味わうことのなかった官能的悦びにも似ていた。

 どんな怠惰も誘惑も己が使命のためと退けてきた。 

 女性としての悦びなど生涯自分には無縁だと思っていたし、また半島に解放をもたらすまではそのような悦びを享受すまいと誓ってもいた。

 だが、いまこの時、テレジアを束縛する支配に屈することは、たとえようのないほどの快楽を彼女に与えた。


「そなたは雄々しく勇敢だ。そして下界の者としては稀なことに霊的修練も積んでいる。


 これほどまでに我が伴侶にふさわしき乙女は他にいまい。

 だが、地上の勇猛など、天空の覇者たる余の前では児戯に等しい」

 暗黒の渦がテレジアを包みこんでゆく。

 その中で、テレジアのまとう鎧が一つずつ剥ぎとられていく。

 革の鎧、鉄の籠手、腰の剣、膝当、ブーツ……。

 テレジアは力なく、幾つもの戦場で己を護ってきた防具が奪い取られていくのに、身を任せた。

 麻の服も脱がされ、とうとう肌着すら奪われ、身を包むものは何もなかった。

 それなのに、テレジアに凌辱されたという屈辱感は湧かなかった。

 いっそ、自分を解き放ったような心地よさすら覚える。

 柔肌のすべてをあらわにした時、そこに立つのはもはやアルハンドラの戦士テレジアではなかった。

 ただ一人の、か弱き、無垢なる乙女でしかなかった。

 レオンの腕がゆっくりと自分に伸びる。


「いや……」


 そのまま、魂の深奥までもわしづかみにされそうだった。


「レオン……」


 自身が抱いているのが恐怖なのか期待なのか、それすらテレジアには分からなかった。

 ただ、じんと痺れた脳で、無抵抗に次の瞬間を待つ。

 が、男にはじめて狼狽の気配が生まれた。

 世界を支配する蜜のごとき甘やかな黒い光に亀裂が入る。


「これは……燐光のレース!?」


 男の声にテレジアもまた正気に返った。

 無防備な裸体と思っていた自分を護る、レース織の衣に気づく。

 透明だったそれはいまは白い輝きを放ち、白鳥の羽のごとく彼女の全身を包みこんでいた。

 それに気づいた瞬間、テレジアは正気に立ち戻った。


「―――ッ!」


 言葉にすらならない、恥辱の怒りがテレジアの中で吹き荒れる。

 それはまやかしの悦びを一挙に吹き飛ばした。

 今度は逆にテレジアが男への精神干渉を試みる。

 レオンの支配から逃れるためには、この世界において相手を屈服させるしかない、そう悟ったのだ。


「余の聖域に土足で足を踏み入れるなあッ」

「あなたに受けた屈辱も同じことよ」


 いまやテレジアは怒りの化身だった。

 憤怒の激情は燃え上がり、火柱となって世界を焼こうとする。

 その時、テレジアは男の正体を見た。

 ―――絶世の美男子? 冗談じゃない。

 この者は、この世界を覆う闇の化身、そのものだった。

 白魔の山にはびこる瘴気もこの者から発せられていたのだ。


「化け物め……」


 怒りの炎を巻き上げ、闇に屈するまいと精神の限りを尽くすテレジア。

 だが、レオンだったものの闇は大海のごとく広大で、果てが見えない。

 どれだけ炎を逆巻かせようと、闇はあとからあとからテレジアを覆いつくそうと迫りくる。


「おとなしく余に従っていれば、苦しまずに済んだものを」

「……く、冗談じゃないわ。男に仕える淑女を演じるくらいなら、わたしは地獄の業火の方を選ぶ!」


 自分の言葉が強がりであることを、テレジアも内心認めていた。

 彼我の力の差はあまりに歴然としている。それでも、テレジアの怒りの炎は収まろうとしなかった。

 ―――その時、両者の間に新たな力が割って入った。


「くくくく、あはははは。この時を待っていたわ。あなたが無防備に自分の暗黒を全てさらす、この時をね」


 甲高い哄笑が沸き起こる。

 テレジアを包む闇の力がぐんと弱まった。

 テレジアが見上げると、闇の中に浮かぶ何者かの姿があった。


「……あれは」


 テレジアはすぐにその正体を知った。

 それは植物園でテレジアが救った少女であった。

 少女はテレジアには一瞥も与えず、狂ったように哄笑をあげ続けている。


「やめろ、やめろおぉぉぉ!」


 レオンの上げる絶叫がテレジアの耳をつんざく。

 闇の力がとぐろを巻き、ごうとうなり、そして弱まっていく―――。

 その後何が起こったのか、テレジアにはほとんど理解できなかった。

 あまりに人間の知覚の限界を越え出ていた。

 あるいは再び気を失っていたのかもしれない。

 テレジアが正気を取り戻した時には、黒い月の光はもう存在していなかった。

 気づくと再び祭壇の中心に、テレジアは立っていた。革の鎧とマントも身につけたままだ。

 レオンも黒衣の女騎士の姿もどこにもない。

 いるのはテレジアと―――例の少女だけだった。

 彼女はもはや年端のいかない、いたいけな少女の仮面を脱ぎ捨てていた。

 その瞳は恍惚にとろんと潤み、だらしなく歪んだ唇からはよだれを垂らしていた。

 このうえなく、みだらであけすけな悦びに浸っている姿であった。


「ああ……なんて美味しいのかしら」


 テレジアのことなどまるで目に入っていない様子で、うっとりとつぶやく。

 以前一度だけ、テレジアは貧民窟でこれと同じ表情をしている者達を見たことがある。

 強い幻覚作用と依存性を持つ植物を常用している、中毒者たちの目にそれは酷似していた。

 なんとはなく不快感を覚えながら、テレジアは少女に呼びかけた。


「……なぜ私を助けたの?」


 少女は悦楽を邪魔されて、うっとうしげにテレジアを見た。


「助ける? あなたを? やめてよね、お姉ちゃん。わたしの目的はそんな低次な世界とはなんの関わりもないの」


 テレジアは無言で腰の剣に手を沿えた。

 それを見た少女は、はぁ、とため息をつき言葉を継ぐ。


「いいわ。ついでだから教えてあげる。あなたに助けられたのも事実だしね。

 わたしの正体は、”闇を喰らうもの”そう言えばわかりやすいかしら」

「闇を喰らう者?」


 少女はまだどこか夢見るような遠い目をしながらも、淡々と説明を続けた。


「そう。あのレオンと名乗った、闇の世界の住人が私達一族の糧なの。と言っても、あなた達地上の動物の捕食行為とはだいぶ意味合いが違うのだけど……説明しても分からないだろうしいいわ。ともかく、わたしはずっとあの極上の闇を狙っていたの。あの護衛の存在もあったし、レオンが闇をさらけ出す機会もなくて半ば諦めかけていたけど……あなたのお陰で喰らうことができたってわけ」

「わたしを餌にしたっていうの?」


 得体の知れぬ化物の釣り餌にされたとあっては、アルハンドラ領主のプライドが許さない。

 歯を剥き、テレジアは少女をねめつけた。


「ギブ&テイクでしょ。あなただって、燐光のレースを貸してあげたから助かってるんだから。

 剣をちらつかせるのはやめて。ほんとに狂犬みたいなお姉ちゃんだね」

 納得したわけではないが、テレジアはひとまず手にした剣を鞘に納める。

「あなたとわたしが争っても何の得にもならないわ。あなたの用事はこれでしょう」


 そう言って、少女はてのひらを差し出す。

 その上には、土色の壺が乗っていた。


「これって……まさか、これが、宵闇の壺なの?」

「そうよ。あなたも地上の戦士にしては少しは霊感もあるんだから、感じるでしょ」


 テレジアが想像していたよりもずっと小さなものだ。

 それさえ手渡されたなら、テレジアとしてももうこの場所にも、少女にも用はなかった。

 テレジアは少女から壺を受け取り懐にしまうと、渋々といった様子で少女の手を握った。


「いいわ。”闇を喰らう者”なんて存在も不気味だし、利用されたのは癪だけど、これに免じて貸し借りなしにしてあげる」

「そう、ありがと。じゃあ、お礼代わりに教えておこうかしら。いい? 本当に仲間を助けたいと思うなら、この壺を魔術師に渡してはだめよ。その代わり、壺をかかげてこう呪文を唱えるの」


 少女はテレジアの耳元で”その言葉”をささやく。

 終始ふてぶてしげな闇を喰らう者であったが、その言葉を口にする時だけは、畏れを抱くように声が震えていた。

 今度こそ、少女に背を向けテレジアは祭壇の外に歩きだす。

 おそらく、あの少女と再び会うことはないだろうし、そう願うのがお互いのためだった。

 再びあの回廊をたどって山を降りるのかと思うとげんなりする。

 だが、仲間達を奪還するために休んでいる暇はない。

 それに―――あの陰気な妖術師に一泡吹かせてやれる。

 テレジアは”闇を喰らうもの”から告げられた滅びの言葉をしかと胸に刻んだ。

 妖術師が慌てふためくさまを想像すると、獰猛な笑みが自然と浮かぶテレジアであった。

                                          -了-

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