宥如に落ちる
2012年6月4日、随分と気持悪い夢を見たので思い出しながら書き出した。
僕の庭には団地があります。
黒くて、わさわさしています。よくよく見ると、トゲトゲしています。
遠くから見ると、雲丹の雑技団が千鳥足で歩いているようです。
僕はこの団地にまた潜ってみました。
するとどうでしょう、造花は歌い、小鳥の剥製は咲き乱れ、ルーベンスが埋立地の絵を描いたようです。
もう三月も終わりなのだな、と僕がひとりごちていると、いつもの銀色の人が現れました。
「やあノゾミちゃん、今日も占いかな?」
この人は、僕の事をノゾミちゃんだと思っているのです。
ノゾミちゃん、というのが誰なのかは僕にも分かりませんが、
少なくともこの銀色の人が、ノゾミちゃんであるようには思われます。
だってこの人の目玉の中には、「ノゾミノゾミノゾミ」って書いてあるんですから。
もしかしたら、ただ単にこの人の考えていることが、外に溢れだしているだけなのかしらん、
なんて考えがひょうっと思いつくと、僕は途端に背中に寒気の走る思いがしました。
だって、この人はノゾミちゃんなのです。そうに決まっています。
でもこの人は、ノゾミちゃんが欲しくて仕方が無いのです。
ああいつか、この人が鏡を見たら、おお、この人は、目玉をほじくり出してしまうでしょう!
「ノゾミちゃん、青い顔してるね。おなかでもすいたの?」
銀色のノゾミちゃんは、ノゾミちゃんこと僕に、にこやかに話しかけて来ます。
瞼の無い剥きだしの目玉を押し潰すように歪めながら、笑顔らしき表情を作ります。
「僕は、僕はもう、お洗濯しなきゃだから、じゃあ」
僕は銀色の人に、返事にもならない返事をしました。
銀色の人は、心底呆れたような顔をして、洗濯物になりました。
溶けかけたコンクリートの階段を登りながら、僕はこの団地に誰かが住む日のことを考えていました。
いつかここにも人が来ます。家族連れです。お父さんと、お母さんと、小さな女の子。
小さな女の子の名前はノゾミちゃんと言って、真っ白いシーツが何よりも大好きな女の子です。
僕はノゾミちゃんと暮らします。お父さんとお母さんは銀色になってしまうでしょう。
だって、親というものは、漏れなく献身的であるものですから。
黒い階段を登り終わって屋上に着いた僕は、銀色の人だった洗濯物を手に取ります。
白いシーツです。太陽に照り返って、きらきらと輝いています。
僕はその人をベランダにかけました。
真っ黒でトゲトゲケバケバしたコンクリートに、真っ白で滑らかなシーツが泳いで、
まるで白雪姫の葬送のようです。
じゃあ差し詰め僕は林檎なのかしら、僕に林檎はあったかしら。
僕の心臓は、紅いかどうか分からないもの。林檎かどうか分からないもの。
「僕の血が紅かったら、僕は白雪姫の口紅になってあげるのに。
息吹の通わない白雪姫の、山羊の乳のような白い肌に、
僕の紅い血を塗って、死化粧をしてあげるのに。
僕の心が林檎だったら、山羊の乳に林檎を沈めて、ノゾミちゃんを白雪姫にしてあげるのに」
小鳥が言いました。
「山羊の乳に、アンタの血を塗ってごらん。紅なんか、着きゃしないよ。
混ざっちまうだけでさ。乳に血を落とせば落とすほど、黒く濁っていくだけだよ」
小鳥の剥製は時々、僕に向かってものを言います。
でも僕は知っているのです。この鳥には、心も無ければ、声も無いことを。
この剥製がものを言うのは、僕の気紛れなのです。考えも無ければ、道理も無い。
ですから僕は……返事をしません。僕は、僕と僕に話しかけます。
「林檎の花を咲かせよう。白い花弁を風に散らせて、この星を白雪姫にしてあげよう」
僕の林檎で死ぬのだから、僕の血をせめて、口唇に通わせてあげよう。
それが僕の、まだ出会ってもいないノゾミちゃんへの、せめてもの罪滅ぼしでした。
次々とシーツをベランダにかけて、四方のベランダを、僕は真っ白に塗り潰しました。
うっかりしたことに、洗濯バサミを忘れてしまいました。でも特には問題がありません。
この場所には、風が吹かないのです。太陽から照り返った熱が、どんどん空にこもって行きます。
シーツはまだ、一枚だけ残っています。干すところは、もう残っていません。
どこか干せる所はあったものじゃなかったかしら、と僕はベランダから下に、顔を張り出します。
相も変わらずこの団地は、どうして建っているのか不思議なぐらいの建物です。
見渡せば、真っ黒なコンクリートが、焼け糞の焼き墨みたいに、これでもかという風に雑に立て掛けてあって、そのシッチャカメッチャカの塊の上の隅に、また次の塊が、土人の赤ん坊の作ったヤジロベエの様に、無造作に積まれているだけなのでした。
僕は眩暈を起こしました。
「ああ、この歪な炭田の上に立っている僕は、もしかしたら僕自身、歪な炭塊ではないのかしら。
この野放図なヤジロベエの上に、同類でないものが立っている筈は無い。僕は炭なのだ!」
すると団地のずっと根元の方から、叫ぶ声が聞こえて来るのでした。
「アンタ、自分が炭だって?バカバカしい。もう一度言ってごらんなさい!炭だって!?」
叫んで来たのは、造花でした。ああなんだ、僕は炭ではないのです。
造花には、目も耳もないのに、どうして分かるのでしょうか?ああ、花があるからでしょうか。
自分が炭ではないということが感ぜられると、僕は途端に足元がしっかりしてきたような感じがして、そして団地は途端に、足場がしっかりしなくなるようでした。
それ見たことか!この団地には、炭でないものが、立っている筈が無いのです!
「あ、ああ、あああああ」
団地がガラガラと崩れて行きます。傾いた足場から僕は足を滑らせて、空に投げ出されます。
一瞬だけふわりと時が止まったような感じがして、
その後はただひたすら、怒濤、怒濤、怒濤でした。
まず天に昇って行ったのは、シーツでした。光が翼を広げたように、バサバサと天に昇りました。
そうして花が、鳥が、中空に投げ出された僕のことを、取り残して羽ばたいて行きます。
残された素裸の大地が、僕のことを睨んでいました。迫って来ました。昇って来ました。
そして、擦り抜けて行きました。大地も僕を取り残して、天に昇って行きます。
僕はと言うと、バラバラになった団地と一緒に、大地の下に潜んでいた、真っ白な中空に置いて行かれたのでした。僕とこの炭塊だけが中空に、捨て置かれたのでした。
僕は浮かんだまましばらくボーッとしていて、いつしか眠りに落ちました。
僕が次に目を覚ましたのは、自分の体が、落ちているのを感じた時でした。
僕は歯車の中を落ちていました。見知った歯車、真っ白な歯車、黒い輪郭の歯車---
歯車の真ん中は、鈍色のビスで留められていました。よく見るとそれは、銀色の人でした。
ここは、時計の中です。僕の知っている時間です。僕の知っている時間の中を、僕は今落ちている。
体を回しながら、目を回しながら、僕は時計の中を斜めに落ちて行きます。
透明な螺旋階段を転げ落ちるように、僕は何も無い中空を、転げ落ちて行きます。
風です。風が吹いて、僕を飛ばしているのです。心地よい風、不気味な風、知らない風が---
ここはきっと、懐中時計の中だと僕は思いました。僕は誰かの懐の中で、風に振り回されているのだと。誰かの時間に、僕の知らない人の、僕の知ってる時間に、僕は翻弄されています。
歯車の下の遥か遠く、真っ白い円盤のような大きな歯車の上に、白い女がいるのを僕は見ました。
どうやら僕はあの、大きな歯車の回転に合わせて、この中空を転げ落ちているようでした。
女と目が合いました。紅い目をしています。女が僕に気がついた瞬間でしょうか、僕の体を引っ張る力が、ぐうんと強くなりました。僕は女の方へ引き寄せられて行きます。この真っ白な中空を、押し潰されんばかりに押し出されています。
僕の体は、どんどん落ちて行きます。僕の心は、もっと早く落ちて行きます。
白い女のところまで、もう少しです。女の目が、どんどん大きくなって行きます。
ああ、落ちる、落ちる、3、2、1---
白い円盤の上に僕は、もんどりうって転げ落ちました。不思議と痛みはありませんでした。
僕はようやく、女の姿の全てを、はっきりと見ました。
女は白い肌をしていました。拒絶するような白、無の色とはこういう色を言うのでしょう。
女は黒い髪をしていました。吸いこまれそうな黒、無の色とはこういう色を言うのでしょう。
女は紅い目をしていました。女は紅い唇をしていました。女は紅い舌をしていました。
女は---女は生きていました。生きている紅でした。僕の知らない紅でした。
「あなたは、ノゾミですか?」
僕の口は、開いていました。返事なんて聞きたくもないのに、聞いてしまいました。
もしも女がノゾミでなかったら、女がノゾミでなかったら---僕は、僕は。
女は口を開きませんでした。キョトンとした顔を浮かべながら、体を投げ出して、
そうしてずっと、僕のことを見つめているのです。紅い瞳で、僕を突き刺して来るのです。
僕は女の許へ、ゆっくりと歩き出しました。一歩ごとに不安が、膨れ上がっていくようでした。
僕は女の前で、膝を崩れさせました。女の瞳が、僕の前に迫って行きます。
僕は女の肩に、手を触れました。温かい肩でした。手の平から、頭にまで、女の熱が通いました。
僕は泣き出しました。
女の投げ出された体の、投げ出された胸に、顔を埋めて、さめざめと泣きました。
零れ出した涙は、女の体を濡らして行きます。どこまでも、どこまでも濡らして行きます。
女は、茫然とした顔をしているだけでした。僕は泣いているだけでした。
そうして僕は、白い女の、乳房の先の赤色を口に含みながら、
いつまでも、いつまでも、泣いていました。