3話
最初期の異変の一つは、医療関連のある統計に表れていた。
高度な医療を望む人間の割合が、統計的に有意と言えるギリギリの数値ではあったが、低下の傾向を示していた。
世の中が不景気であれば、経済的な理由で医者に高い金を払えない人間が増えるのは道理であろう。しかし転生者景気と呼ばれるほどの現在で、そんなことがあり得るだろうか。
ほとんどの関係者は気にも留めなかったが、同時に救急隊員の離職率も僅かではあるが上昇していた。
これについては、大部分の人間が「軟弱な最近の若者達」という使い古された単語で納得してしまっていた。実際に上昇率は年齢と反比例していたために、それ以上追及されることもなかった。
世界規模で起きているこの二つの現象に、明確な説明をつけられる者はいなかったが、一部の医療従事者は嫌な空気を感じ取っていた。
問題が顕在化したのは、とある国での交通事故と、それに起因する訴訟からであった。
突然の事故に巻き込まれ、重篤な後遺症が残ってしまった被害者の少年は、救急隊員に対して「望まぬ救護を行ったために、後遺症に苦しむこととなった」事に対する慰謝料を請求したのだ。
少年の弁護団は、声高に主張した。
「原告は交通事故でそのまま死亡さえすれば、高確率で素晴らしい転生人生を享受するはずであった。それをふいにしたばかりか、辛くて重い後遺症を抱え込む療養生活をせざるを得なくなったのは、望んでいない救護活動を行った救急隊員の過失によるものである」
「現に原告は、事故現場において一切の救護活動を拒否していた」
一連の主張は様々な形でメディアに取り上げられた。
面白ニュースの類として騒ぐ者もいれば、世相を反映したニュースとして多少なりとも注視するものもいた。
だがもっとも真剣に捉えていたのは医療関係者だったのは、間違いのない事であった。
この裁判は彼らが感じていた、いわく言い難い嫌な空気に明確な形を与えるものであったからだ。
果たして、後遺症が残るとわかっていて無理に治療するのは正しいのだろうか。
高額の医療費を投入して完治させたとして、その後の患者や家族の生活を考えればそれで救われたと言えるのだろうか。
これらの疑問に対しては、以前であれば明確に否と言えたことばかりである。
だが、転生という現象が明確に証明された現在でもそう言えるのだろうか。しかも不幸な事故や病気の結果としての死には、高確率でチート付きの恵まれた転生がされるという研究結果まであるのに。
結論として裁判は少年側の敗訴に終わった。
既存の価値観からすると常識的な結果に落ち着いた裁判であったが、その判決理由が物議をかもした。
「少年が救護を拒否したのは、負傷によって意識が混濁していた時の事であり、彼が正常な判断能力を欠いていたと救急隊員が判断したのは正当である」
言い換えるならば、正常な判断ができる状態において救護を拒否するのならば、それを救護するのは罪に問われかねないという事であった。
大なり小なりヒポクラテスの誓いを重んじる者たちにとって、これは衝撃的という言葉で片付けられないほどの事件であった。
この判決を受け、転生を希望する有志達による救護拒否カードが作成された。それは「転生カード」と呼ばれ、各国の若年層を中心に普及していくことになる。
裁判の正統性やカードの是非について、様々な議論が行われた。法的な観点や倫理的な側面から、あるいは宗教的見解から、そして感情論に至るまで。
医療関係者のみならず、政治家、批評家、ネットの住民まで。是々非々入り乱れた大論争が繰り広げられた。
それでもまだ、事態は安楽死の延長線上の問題であった。
安楽死を認める線をどこに引くかは、文化や宗教によって差があった。そのハードルが転生の証明によって一律に引き下げられた。
ただそれだけの事なのだと。
ただそれだけの事のはずであった。
それだけの事ではあったが、社会全体に死を許容する雰囲気が広まりつつあるという事を認識させるには十分であった。
この雰囲気は社会の下層と呼ばれる階級に顕著であったが、セレブ階級にも無縁であったわけではない。どのような社会のどのような階級であれ、ある程度の割合で己を不遇だと捉える人物は存在する。
死後が全く未知の世界ではなく、その先に転生が待ち受けているものだという知識が、彼らにどのような影響を与えるか。
それはわずかではあるが、世界の死亡率の上昇という形で表れ始めていた。そしてそれは、転生者達が世に出て初めて顕在化した負の側面でもあった。
当然の事ながら各国の指導者達は、この問題を認識してはいた。認識したうえで、有効な手を打てないでいた。
一度事実として広まってしまったものを、再び否定するのは難しい。そして現実の政府は、陰謀論の世界の如く完璧な存在ではない。
そして誰もが有効な手を打てないでいる間に、後の世界の流れを決定づける事件が発生したのである。