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近世 大砲と鉄砲による城塞の形態変化

 時が近世と呼ばれる時代になり鉄砲や大砲が本格的に運用されてくると従来の城塞もその形を変えなければならなくなった。”鉄砲の銃口から国家が生まれ、大砲の砲口から帝国が生まれる時代”攻撃側の火力の増大に合わせて城塞もその形を変えなければならなくなったのは必然であった。


 

 今回は城塞の話をする前に少し脱線して中世と近世て何が違うん? というあたりから話をして変化した戦争の様相をざっくばらんに想像してもらってから開始する。


戦場に各種の火薬兵器が本格的に登場すると地方領主たちは皆この新兵器を何とか大量に配備しようと躍起になった。よく信長の鉄砲運用を引き合いに出して彼の先進性ガーという様な説明がなされるが大体の大名はこの新顔の兵器の強さを理解していた。



 ではなぜ武田は織田になれなかったか? それは火薬兵器群はとてつもない金食い虫だからである。

まず硝石の入手が困難で、糞便から硝酸塩を入手する硝石丘や類似の方法はどこもしていたが、硝酸塩をたっぷり含んでいそうな畜舎の土は農村の貴重な肥料源として使われていたので供給源は不足していた。イングランドでは火薬製造業者と農民とで便所の土の奪い合いになり国王が火薬製造の為土を集める人間に特権を与えたほどである。


自然採取できるインドや中国から或いは硝石鉱山のある南米から輸入しなければ大量には手に入らなかった。この状況は近代にドイツがハーバーボッシュ法を開発するまで変わらず、交易を独占した者が陸の戦争を支配するという状況であった。


つまりは前述の”鉄砲の銃口から国家が生まれ、大砲の砲口から帝国が生まれる時代”というのは語弊があるのだ。鉄砲を手にしたものがではなく、鉄砲や大砲と言った金食い虫共に浴びるほどの金を与えられたものがそうでないものを駆逐していった結果、それが中世から近世にうつるプロセスで地方領主の寄り合い所帯に過ぎない王国がひとつの王権の元で固まり”国家”という概念が誕生したのである。



 さてこのように中世から近世になると軍隊の質は跳ね上がり、必然その養成費、維持費は跳ね上がった。

小国では賄えず、大国でも簡単に破綻するほどに軍隊は金食い虫となったのだ。どのぐらい金食い虫かと言えば南米を侵略し悪辣な手法で金銀財宝を奪ったスペインが破産するほどである。




 さてやっと近世型の城塞である星型要塞に話が進む、この時代の特徴は低く分厚い城壁である。

坑道作戦を阻止するため壁は深く埋められ壁を守るために堡塁が築かれている。中世型の城の特徴であった高い城塔は姿を消したが、これを大砲による城への一方的な蹂躙の結果と考えるのは早計である。火薬兵器は攻城側に多大の恩恵を与えたが防御側にもそれを与えたのである。


 そもそも中世の城になぜ城塔が必要であったかと言えば少ない弓兵を効率よく運用するためである。言ってしまえば、無理やり射程を伸ばすことで守れる範囲を広げようという腹である。鉄砲の大量配備により城壁に並べた銃兵が一斉射撃をすれば、石を投げたり昇って来た敵兵を切り倒すより遥かに効率的に敵を撃退できた。城壁に大砲を据え付けることで以前の攻城塔などの鈍重で巨大な攻城兵器は簡単に撃退できるようになった。




この時代には面白い逆転現象が世界各地で起きている。それまで築城のために良質な石が手に入れられなかったため日干し煉瓦や土で造られた城壁の厚い城が以外に大砲に対し高い防御力を発揮したのだ。

阿片戦争のときにイギリス軍は定海県城に砲撃を加えたが城壁を破ることは出来なかった。

(もっとも、中世型の城であっても単純に砲撃だけで城壁を破るのには大量の弾薬がいるのだが)


 良く、日本の城は攻城兵器に弱く欧州の城に比べて遅れていると言われているが恐らく基本的な構造は攻城兵器に強く落としにくさだけ考えるなら大差がないかむしろ苦労する可能性が高い。

というのも日本の城は欧州のそれと異なり巨大な土塁である石垣と何重にもある縄張りからなっており。

攻城兵器が役立つのは一番外壁部分を落としても更に内に内に防壁があるので西洋型の攻城兵器の有用性が限定されるのだ。



 大砲で城を落とした例として最も有名な例は家康の大阪城攻めだが、この例は図らずも石垣の大砲に対する防御的優位性を証明している。


 大阪城は北を淀川、東を平野川に挟まれ、北東に天守閣がありそこから西と南に広がるような造りになっている。つまり敵が大軍を展開できる西と東にその防御力が展開されている造りをしているのだ。更に西側も北と東ほどではないがすぐの所を木津川が走っているので攻城側が最大兵力を展開できるのは南側に限定される。いまやっている大河ドラマ『真田丸』もこの南側の防御を強化するための出城である。


砲撃の話に戻るが徳川軍は西と南、そして北の淀川の中州である備前島の三か所から砲撃を加えた。

使われたカルバリン砲は当時最新式の長射程砲で大阪城が造られた頃には想定もされていない代物である。

いずれの砲門も大阪城をすべて射程に納めていた。とは言えこの時代の大砲は狙った所にまともには着弾しないので現代の砲より着弾の観測が重要であったのだが西と南の砲門は石垣に阻まれ着弾の観測が出来なかったため思ったよりも効果が出なかった。天守閣に最も近く直接照準できる備前島の砲門が大阪天守に直撃を加え豊臣側に衝撃を与えることに成功したのである。



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