やきもちやき
私のお母さんは主婦にはあるまじきお寝坊さんで、休日などは大抵朝の十一時頃まで絶対に起きて来なかった。
彼女は寝る事に命を燃やしていた。
彼女の生きる事、すなわち、寝る事なのだった。
「朝ごはんまだー?」などと起こしに行こうものなら、布団に固く潜り込み、その中で烈火のごとく怒り狂って威嚇をする様な人だった。挙句の果てには「中途半端に起こされたから、いつもより起きれないから!」と昼になっても起きて来ないという暴挙を起こす。
そのクセ、自分のお楽しみ(ママ友との旅行とか)がある日の朝は、キッチリ早起きして無駄に凝った朝ごはんを作り、「皆起きるの遅いよ!」と我々をお寝坊さん扱いするのだった。
なので、冷静に考えれば朝七時半にかけた電話に、お母さんが出る訳が無いのだった。
でも、私は子犬ちゃんの事で頭がいっぱいだった。
肌色キャミソールに柔肌を包んだお母さん画像の下の方に見える、小さな三角の柔らかそうなお耳に、もっと君の事知りたい欲がそそられる。
チラリズムというヤツだな、このカメラマン、只者では無い。と、私はピンと立つ犬耳を見て微笑んだ。
肌色キャミソールから薄っすら乳首が透けて見えるチラリズムも画像には含まれていたけれど、こちらは今後パット付のキャミソールをチョイスして是非止めて頂きたいと思いました。まぁ、後私の出来る事と言えばパート先の知り合いとかに送って無い事を祈るくらいだ。無邪気な貴女に幸あれ、アーメン。
それにしても……そうだなぁ、実家にお正月以来帰ってないから、ちょっと顔を出さなきゃなぁ。子犬ちゃん見たいし。
私は主に子犬ちゃんに想いを馳せて、帰郷を考えていた。
*
私の家は田舎にある少し古い一軒家だ。
田舎だから、無駄に広い。
庭も広くて、ガーデニング好きの父が綺麗な草花をたくさん植えている。
特に、お父さんお手製の組み木のアーチ門に添う様に生い茂っている夏雪葛は、毎年真っ白な花をモリモリと咲かせていて、私はそれが大好きなのだった。
『ただいまー。帰って来たよ』
『あら里緒奈ちゃん、お帰りぃ。元気にしてた? 仕事はどう?』
『まぁ、ボチボチかな……』
玄関で出迎えてくれたお母さんが、ふと私の後ろに誰かいる事に気が付く。
背の高い、立派な若者だ。
『里緒奈ちゃん、その方は……?』
『ん……えへへ、今日は彼の紹介をしたくて来たんだ……』
『カパ郎です。初めまして。りおなさんとは、真面目にお付き合いさせて頂いております』
『まぁ……なんて素敵な方なの……。里緒奈ちゃん、おめでとう! さ、上がって上がって!』
*
なんてねなんてねー!? ぎゃほー!
私はベッドにゴロゴロ転がって悶えた後、ふぅ、と溜め息を吐いた。
……どこの世界に……
「りおなー。起きとるかのー?」
ロッジの外で、カパ郎の声がした。
私はハッとして、ベッドから起き上がり、急いで玄関へ向かってドアを開けた。
カパ郎が、待ち切れない様子でドアの隙間からヒョイと顔を覗かせた。
そうすると、ハンサム以外の形容詞が当てはまらない、優しい目元だけが見えて、少しだけドアを全開する事を躊躇する。
―――『おかあさん、こちら、カパ郎さん』
けれど、彼の顔の全貌が見えたら見えたで、堪らなく愛しく思えるのはなんでだろう。
キラキラ輝く朝日を逆光にして微笑む彼は、なんて素敵なんだろう。
今の私にとって、くちばし? は最早愛しさ百パーセントのパーツになっていた。
カパ郎が朝ロッジまで来てくれたのは初めてで、私は嬉しさにドキドキした。
「おはよう、カパ郎」
「おはようじゃ」
カパ郎は挨拶をしてから急にソワソワして、私から目を逸らし、照れている様子で首の後ろを掻いた。
「昨夜は、その……夢中になってしもうてすまんかったの……」
昨夜、カパ郎はキスを物凄く気に入って、途中私が呼吸困難になりかけるという事故が起こっていた。(まさか喉まで……カッパの舌は長かった)
私はこのまま死んでも良いと思っていたので、気にしていなかったけれど、カパ郎はあわや女を殺しかけた罪悪感に、昨夜は猛反省の夜だったらしい。
もしかして……だから帰っちゃったの? カパ郎。
「え……う、ううん。そんな事無い……その……嬉しかったよ」
私はそっとカパ郎をロッジの中へ引き入れて、彼の逞しい胸に頬を寄せた。
カパ郎も、私の背に大きな手を回して囁いた。
「俺もじゃ」
「私の方が嬉しかったもんっ」
「なら、何度でもしてやるぞ」
「もう、カパ郎ッてば覚えたてのクセに……っ」
などとやっていると、『敵襲だー! 敵襲だー!!』とベッドルームで喚く声が聴こえて来た。
「な、なんじゃ!?」
カパ郎が咄嗟に私を敵襲から守る様にしてくれたのでキュンとしながらも、私は『敵襲だー!』と聴こえて来るベッドルームへ駆けて行き、喚くスマホをカパ郎に安心させる様に見せた。
「大丈夫大丈夫。ほら、チロリンが鳴ってるだけ」
うーたんが『王子と私♡』の画像を時々送って来ていたので、メッセージ着信音の『チロリン♪』を聞いてからカパ郎はスマホを『チロリン』と呼んでいた。
何となく祖父母チックなネーミング感覚だけれど、そんな事を言ったら口調からして突っ込まなければいけなくなるし、別に特に問題でも無いのでどうでもいいのだった。
「なんじゃチロリンか」と言う顔でカパ郎は私を見守った。
カパ郎は人の着信画面を覗いたりしない紳士なのだった。
さて、私の着信画面にはシンプルに『会社』の一文字が表示されていた。
この『会社』の一文字と『敵襲だー!』が妙に合って、私は気に入っている。
そしてやはり、会社からの連絡は敵襲以外の何物でも無いのだった。
人差し指を唇に当てて、カパ郎に「シー、だよ」と合図した後、私は画面に指をスライドさせて、敵襲着信に応答した。
どうせ欠席の連絡をしようと思っていたところだったし、自分からより相手からかかって来た方が、こちらも腹が座る。
「はい、妹尾です」
『おい妹尾、何してる』
トゲトゲした声は、「二十五歳を過ぎた女性社員は可愛がらない」というキモいポリシーを持つ上司のものだった。因みに私は二十五を迎える前から可愛がって貰っていなかった。
お局たちからはCHD(CHIBI・HAGE・DEBU)と陰で呼ばれている。お肌はツルツルどころかギトギトの彼は、そう、嫌われ者だった。
もちろん私も大嫌いである。
何してるかって? カッパと恋しています。ふふんっ! と思わず言ってしまいそうになるのを我慢して、「まだ出社時間では……」と言うと、
『ああん? 言って無かったか? 盆連休で逆上せ上った頭をスッキリさせようってんで、連休明け初日の今朝は八時集合でラジオ体操なんだよ!!』
「え!? イヤ、聞いてないです」
チッ、と大きな舌打ちが聴こえて来た。
厭に粘つく音が、連絡スルーされていた怒りと共に不快感を誘った。
でも、まぁ良いや。
「部長、すみません。私ちょっとインフルエンザになったので、今日から一週間以上有給取ります」
『はぁぁ~!? 夏に風邪ひくってお前、正真正銘のバカだな!? 汚ねぇヘソでも出して寝てやがったんだろ? おっぱいはどうだ? 出してたんか? しわしわだから、みっともなくて出せねぇか!! ぎゃはは!!』
誰がしわしわおっぱいか。二百五十歳じゃねーぞ。もし私が本当にインフルエンザで弱っていたら、追い打ち以外の何物でも無い暴言の数々に歯を喰いしばって耐えた。
だって仮病だから。
「ア……薬の副作用で頭が朦朧とします……では失礼します」
『おい! 稟議書のファイル何処かだけ教えろ!!』
ウルセー!! そんなもんの場所くらい上司だったら把握しとけやハゲ!!
「アア……駄目だ……◎×▽〇◇☆~……」
プッ、と通知を切って、私は「はぁ……」とため息を吐いた。
フッ、ズル休み案外簡単だな。
妙な背徳感と達成感に寄っていると、カパ郎の視線を感じた。
見れば、くちばし? を尖らせている。
「どうしたの……?」
ま、まさか、私の不真面目さに怒っているんだろうか。
適当に生きている女なんか軽蔑なんだろうか……でも、でも、カパ郎と今後を話し合う時間が「今」欲しいんだよ……うう、怒ってる……?
「今のチロリンはなんじゃ」
「え……職場からの連絡で……」
「本当かの……」
「う、うん。どうして?」
「男の声がしたんじゃが」
「え、ええ? 上司だよ!?」
「本当かの……」
イヤイヤ! 冗談じゃない!!
CHDとの仲は最悪なのに、なんでそんなに膨れるのカパ郎!?
カパ郎はプイッと私から顔を背けて、リビングルームへノシノシ歩いて行くと、くちばし? を尖らせたままソファに沈み込む様に座った。
思い切りふてっていて、私は唇がブルブル震えるのを我慢できずに破顔する。
「……カパ郎ッて……」
「……なんじゃい」
「ううん、ねぇ、サンドイッチ食べる?」
私はニヤニヤしながら小さなキッチンで働き出した。
カパ郎は、「ふん」と鼻から息を吐いてソファから暫くチラチラこちらを見ていたけれど、やがて近寄って来て面白く無さそうに私の横をウロウロし、出来上がったキュウリのサンドイッチをお皿に盛る頃には、私にぴったりくっついて「ホントじゃの?」と一言言った。
私は笑って、彼のくちばし? にキュウリを一本突っ込んだのだった。
たくさんお互いを知ろうね、カパ朗。