六 合歓
『暁月夜に咲く花は』最終話です。
「あるじどのは、いつからお気づきでいらした?」
薄っすらと曙の光が明かり取りの格子から忍び込む中で、男は屋敷のあるじと向かい合っていた。娘はあるじに言われ、住まいに戻されている。
「……さあ、二、三日前からですかな?」
思いのほか穏やかな表情のままのあるじは、それでも視線を床に落として答えた。
「驚かなかったと言えば嘘になります。だが、あの子のことだ、こういうこともあるとは思うておりました」
そもそも、山で倒れているあなたさまを見つけたのもあの子でしたから、とあるじは弱々しく笑った。
「できることなら、あなたさまに会わせとうはなかった。もはや取り返しもつかぬ話だが……」
そこまで言うと、あるじは言葉に詰まってぎゅっと目を閉じた。
男は、年老いて肉の落ちたあるじの細い肩を見た。今、この老人に男の望みを押しつけるように通すべきか、分からなかった。
「───あの娘御は……」
「わしどもは、合歓と呼んでいます」
「合歓?」
「ほれ、あなたさまがお立ちだったところの側に立っておった木です」
「あの木は、合歓と?」
おや、ご存じありませなんだか? とあるじは小さく首を傾げ、それからどこか遠くを見つめるような目をした。
「もうじき花も咲き出します。あの子が生まれた暁の頃にも、ちょうど合歓の花のいい香りがそこら中に……」
そこまで言うとあるじは昔を思い出したのか、小さく鼻をすすった。
「あの子がどなたのお子であるか、もうお聞きで?」
「……大納言、どのと伺いました」
私の叔父だ、とはこの期に及んでも言えなかった。じっと男を見ていた屋敷のあるじは、やがて静かに息をついた。
「なぜ、あのようなことになったのか……こればかりはもう、人の縁とは奇なるもの、としか言いようがなく」
二十年ほど前、妹姫に拒まれ、打ちのめされて這々の態でなんとか斎宮から一志まで引き返した叔父はここで力尽き、男と同じようにこのあるじの介抱を受けたのだ。
その時何があったのか、ひと月足らずの滞在ののち都へと帰っていった叔父は、あるじの大切な一人娘に子を残した。
あるじがそのことを知ったのは、一人娘の腹が膨らんできてからのこと。その時のあるじの驚きは、同じような経験を持つ男にとっても想像に難くない。
合歓の花咲く初夏の頃、時満ちて可愛らしい女児を生み落とした一人娘はそのままこの世を去り、残されたあるじは怒り、悲しみ、そして決意する。
この忘れ形見の娘だけはなんとしても守ってやらねば。できる限りのことをして育てていかねば。
それでも、父親たる叔父に娘のことを伝えなかったのは、どうしても、どうしても、一人娘にした仕打ちが許せぬからだった。
あるじは、都の貴族である叔父の残した、鄙では考えられぬほどの過分な礼をすべて忘れ形見の娘のためにだけ使った。住まいを整え、衣も都風なものを身につけさせ、やがて、伝手を頼りにまだ幼かった娘を斎宮の藤命婦の許へと送り出した。
「……命婦さまにはわしが話しました。この子はあなたさまの姪である、と。あの頃、わしは何も知らずに都へ帰って二度と現れぬ、あの子の父が憎うて憎うて、どうにも許せませんでした。その怨みを妹君であられた命婦さまにぶつけてしまったのです。だが、それも今となっては申し訳のないことをしたと思うております。命婦さまはただ、その胸ひとつにお収めになって、決して都の兄君には伝えようとなさらぬままだったのですから」
苦しむべきは叔父であったはずなのに、そのすべてを代わりに引き受けた叔母の心はどこにあったのだろう。
実の兄である叔父上のことを庇おうとなされたか、反対に、土地の娘などに子を残したことが許せなかったからか。それもすべて、叔母上が叔父上のことを憎からず想うておられたがゆえか───
「あの子を、都へお連れなさいますのか?」
不意にあるじにそう問われ、男は驚いて顔を上げた。
「都から早馬が来ているのだとか……あなたさまを捜しに参ったのではありませぬか」
「……」
「それとも、あの子を置いて都に戻られますか?」
あるじの言葉の真意を掴めず、男は眉をひそめる。
先ほどの男と娘の話を聞いていたのだとしても、絶対に許しはせぬであろうと思っていたのに。
「わしどもも、もう老い先は短うございます。あの子の行く末が心配でなりませぬ。もしあの子が望むなら……」
あるじはそう言って、また寂しそうに笑った。
「この半月、あなたさまを拝見しておりました。あなたさまはきっと、あの子の父のようなことはなさらぬと、そんな気がしております……違いますか?」
心の奥底まで覗き込むような目でじっと見つめられ、男は思わず背を伸ばした。
このあるじは、男が都でどのような人間だと思われているかを知らぬのだ。
都びとなら知らぬ者はおらぬ光中将、手折れぬ花はないとまで噂され、どれほど享楽的な日々を送ってきたことか───そんな男を信じて娘を託してもいいと、この老いた祖父は言うのか。
男はしばし考え、慎重に心のうちに言葉にする。
「任せておけと言えるほど、わたしはできた人間ではありませぬ。都にはさまざまなしがらみもある。正直……まだ迷うております」
「そう……ですか」
あるじは小さく吐息して、しばらくじっと床を見つめていたが、やがて顔を上げると、いつ出立なさいますか? と尋ねた。もはや、ここに残ることも許されぬのだと男は悟った。
「明日にでも」
「分かりました」
あるじは頷くと、静かにそこから出て行った。煌めく光が、格子の向こうで朝を告げていた。
***
支度というほどのこともない。
住まっていた棟の褥を片づければ、出立の準備はもう整っていた。
礼として置いていけるものも持ち合わせていない。都に帰ったのちに届けさせるよりあるまい。
男はまだ、心を決められずにいた。
何を迷うことがあろう? 娘の祖父にさえ許されたのだ、娘を連れて行けばいいではないか。そう考える反面、無理強いをしてまで都に連れ帰り、あの誇り高い娘の心を傷つけたくはないとも思う。
娘の言うことも、もっともだった。
いきなり都の邸に連れ帰ったとて、その反発は目に見えている。もし、本気で娘の将来を考えるなら、男には先にすべきことがある。
それでも───今、娘と離れることに耐えられるのかと考えれば、このまま連れて行ってしまおうという気にもなるのだ。
答えの出ぬ思考に男は深い深いため息をつくと、静かに外に出た。
朝になってから泥のような眠りにつき、目覚めた時にはすでに昼を過ぎていた。
この光景を見るのも今日が最後と思えば、記憶にとどめておきたくてあたりを彷徨う。夜ごと娘と語らった屋敷の裏まで行って、厩にいる愛馬の朝霧に都へ帰るぞ、と声をかけた。
遠く、南東の方角を見遣る。あの道から、馬に乗った娘が現れたのだったか。
結局、斎宮にすら辿り着かず、叔母にも会えずじまいであったが、今さら何を、とも思えた。叔父上とも似通うこの顔を、叔母上は見たくもないだろう。
郭公の啼く声がする。その声はきっと、いつまでもこの一志のことを思い出させるに違いない。
木々と草の匂いを運ぶ夕風に吹かれ、男は天を仰いで目を閉じた。
これからどのように生きていけばいいのか、よく分からなくなっていた。
「……中将さま」
背に声を聞く。やわらかな、今、誰よりも聞きたかった女の声が男を呼んだ。中将、と。
驚きに言葉もなく振り返れば、いつもと同じように褶を纏った娘がいた。
「お戻りになられる前に、お見せしたいところがあるのです」
初めて陽の光の下で見た娘は、そう言って微笑んだ。
***
馬を駆る。
娘の乗る馬を追って、男も馬を走らせる。
やがて辿り着いたのは山の中。それはきっと、男が倒れていた場所とそう離れてはいないだろうと思われた。
桜の時季はとうに過ぎ去り、今、頭上に広がるのは一面の薄紫。
生い繁る木々に絡みついた藤、そして背の高い桐の木に咲く薄紫の花。それらが、やわらかく差し込む黄昏の光を浴びて、この世のものとも思えぬ美しさで輝いていた。
男は馬を降り、息を呑んで花を見上げる。
落馬したあの時と同じ、天上の如き世界が二人を包んでいた。
「……これは」
「桐の花、それから藤。いちどきに咲くのです」
そう言いながら娘もまた、頭上に広がる光景に視線を向けた。
「美しゅうございましょう? できることなら、合歓の花もお見せしたかったけれど」
ゆるやかな風が吹いて梢高くに咲く桐の花を揺らす。藤の香りが甘く漂う。
娘は、静かに告げた。
「ここが、わたしの生きていく場所です」
男は何を言うこともできず、ただ黙って娘を振り返る。それが娘の意思であり、答えだと気づいたからだ。
「……都へは行けぬ、ということか」
絞り出すようにそう言えば、娘は静かに男の傍に立った。
「……わたしは母を知りませぬ。母が辛い思いをしたのか、わたしを身ごもったことが意に反したことだったのか、それとも幸せであったのか、それはもはや知りようもない。でも、祖父さまがあのように怒り、当てつけのように藤命婦さまにわたしを預けたのには、それなりに理由もあったはず。祖父さまの思いも無碍にはできませぬ」
「しかし、あるじどのはあなたを都へと───」
「伊勢しか知らぬ祖父さまはご存じないのです。都へ参れば、どのような暮らしが待っているかなど」
都にも似た斎宮の暮らしを知る娘の静かな声に、男は眉を寄せた。
「あなたが恐れるような暮らしはさせぬ」
「祖父さま祖母さまを見捨てよと?」
「充分に援助はしよう」
「それはやはり、召人になれとのことではございませぬか」
娘の物言いは、いつもとまったく変わらなかった。変わらぬその態度に、昨夜は確かに揺らぎかけたようにも見えた娘の心が、また頑なに閉じたことを男は知る。
目の奥がつんと痛くなって、それからなぜか笑いが出た。
ひとしきり笑い、そうして額に手を遣る。見事な娘だ、そう思った。
娘は、そんな男の様子を黙って見つめる。
やがて、男が額に手を遣ったままその涼やかな目を閉じたのを見ると、そっと男の近くに寄り、その袖に触れた。
「中将さま。わたしの……従兄の君」
諭すように、ゆっくりと娘が呼びかける。男は手の陰で静かに双眸を開いた。
「……ご存じだった? いつから?」
「祖父さまが教えてくれました。よく似ておいでなのだそうです……わたしのお父さまに。中将さま」
「わたしは」
「あなたさまがそのようなお血筋のお方と知っていれば、決して家に入れることはございませんでしたのに。この心のうちにも。今となってはもう、手遅れ……」
最後の煌めきを放って、陽が沈む。
名残の光が風を呼んで、木立の中に立つ二人を攫うように吹き抜けた。
もはや、これ以上は抑えることもできなかった。合歓、とその名を呼んで、男は娘を強く抱き寄せる。その手のうちに抱いてなお、足りぬとでも言うように強く、強く。
娘は拒まなかった。そっと男の胸に頬を寄せて、その身体の重みを男に預けた。
「これでよいのです。中将さま。わたしはここを離れることはできぬのですから」
「あなたのため、都の邸にこの光景を作ろう。桜も藤も、桐も……合歓も」
「わたしは都には参りませぬ」
なぜ、と男が呟けば、娘はもう聞いてくれるな、とでもいうようにそっと手を背にまわした。
「中将さま───」
「わたしは……わたしの諱は、春恒と」
娘は、腕の中から男の顔を見上げた。そうして、まっすぐにその瞳を合わせ、そっと男の頬に触れる。
「春恒さま。早う、お戻りなさいませ」
どこに? 誰の許へ?
男はこらえ切れず、娘の手を取り密やかな涙を落とす。それと知れぬように、娘の頭を己の胸に押しつけながら。
娘は男の背を優しく、愛おしく撫でた。
「春恒さま。今宵は晦日、月に邪魔されることもございませぬ。朝が来るまで、ゆっくりとお話いたしましょう。忘れることのないように」
どこかで、名残を惜しむように郭公が啼いている。
月のない、どこまでも深い闇夜に、吐息のような花の香りが静かに二人を包んだ。
完
───これにて一応の完結です。お読みくださり、ありがとうございました。
あとがき http://ncode.syosetu.com/n7758cr/3/
参考文献***
《書籍》
五島邦治/風俗博物館(2005)『源氏物語と京都 六條院へ出かけよう』光村推古書院
長崎盛輝(1996)『かさねの色目 ─平安の配彩美─』京都書院
『新版 古今和歌集』(高田祐彦訳注)角川学芸出版(角川ソフィア文庫)
《ウェブサイト》
斎宮歴史博物館
http://www.bunka.pref.mie.lg.jp/saiku/
(2016年6月現在)