五 心と願い
桜が散る。
一斉に芽吹きだす木々の下で紅の花が咲き始めて、山にも村にも至るところに躑躅があると知った。
都よりも遅い一志の春が日増しに濃くなっていく。男の調子もすっかり元に戻りつつあった。
───帰らなくてはならぬ。帰らなくては。
***
有明の月*は日ごとに細くなり、あの弓張月の夜から幾日か、男と娘の夜は重なるようになった。
皆が寝静まったあと、二人はどちらからともなくそっと屋敷の裏に向かい、いよいよ遅くなっていく月の出の頃までをそこで過ごす。
何をするでもない。ただ、ともにいて話すだけ。
それぞれに抱えていたやり場のない孤独を他愛もない話で埋めようとし、互いの存在がそれぞれの心に密やかな救いとなってなお、二人は決してそのことを認めようとはしなかった。
互いの人生は本来決して交わるものではなかったはずで、それは恐らくこれからもそうだと、二人は痛いほどに理解していた。だから、男は己が誰かということも娘の血縁であるということも秘めたままであったし、娘もまた、あなたさまは誰かと尋ねない。互いの名すら知らぬまま、それでも逢わずにはおれぬ危うい感情がどんどんふくらんでいくのを、どちらも見て見ぬふりでやり過ごす。
そして───そんな二人に気づかぬほど、屋敷のあるじも愚かではない。
***
細い細い二十九日の月がようやく東の空に姿を見せた夜明け前、ふいに娘は男に尋ねた。
「都を出て、もう幾日?」
男は星のまたたく空を見上げ指折り数える。
「ああ、もう十四日……半月ほどか」
娘は小さくうつむいて、そうしてぽつりと言った。
「都からの早馬を見ました」
男はぎくりと肩を揺らす。
「いつ?」
「宵の口に。斎宮の方角へと向かわれました」
男はまばたきを繰り返し、なぜもっと早うに言わぬと、そんなくだらぬことを口の中で呟きながら立ち上がった。
光中将、かの物語の貴公子もかくやと都びとの間で囁かれる右大臣家の二男。
半月も都から姿を消せば捜しに来ぬわけはない。朝廷からも、右大臣家からも。
「だから、早うお戻りなさいませと申しましたのに」
動揺を隠せぬ男の背に向かって、娘はいつもの如く突き放したように言った。それすらももう男には慣れた口ぶりであるのに、その時はどうしても聞き流すことができなかった。
「都には、あなたさまをお待ちの方がいらっしゃるのです。早う───」
「分かっておる!」
男は声を荒げ、娘はびくりと口を噤んだ。
遠くの田から、蛙の無遠慮な鳴き声が聞こえてくる。
男は心を鎮めようと目を閉じ、深く息を吸い込んだ。
「……分かっている」
もう一度呟くと、背に娘の微かなため息が聞こえた。
分かっている。叔父上も気を揉んでおられるに違いない。文の返事が届かぬことも、己が文遣いを頼んだ甥が都に戻って来ぬことも。
父上は……母上も、この身を案じておられるのだろうか。
北の方は、女たちは───
一志に暮らしてどこか現実味を伴わぬ日々を送り、いつの間にか都が遠くなっていた。
もう、このままでもいいではないか? わたしが帰らずとも、都はきっと何も変わらぬ。そんなことをすら考える男の心の葛藤を知ってか知らずか、娘は静かに繰り返した。
「お戻りなさいませ。都に」
言葉尻がかすかに震えて、娘もまたそのことを隠すように立ち上がる。そして、そこにある小さな石をいつかのようにこんと蹴飛ばした。
「……祖父さまが寂しがりますけれど」
「厄介払いができて、安堵なさるだろう」
娘の言葉にどこか救われたような気持ちになって、男は小さく笑った。
「本当に……都のお方のお世話など、祖父さまも懲りているはずなのになんと物好きな」
「……」
笑いも続かず黙り込んだ男に、娘はくるりと振り返り、嘘です、と微笑んだ。
「祖父さまの相手をたくさんしてくださいましたでしょう? 老いた身には楽しかったようです」
確かに、何もすることのない男は、陽のあるうちにはよく屋敷のあるじと話をして過ごした。相変わらず娘のことは秘して何ひとつ語ろうとはしなかったが、鄙の暮らしに根づいたあるじの話は男にとってなかなか興味深いことであった。
「……明日には、遣いの方が一志にも捜しに寄られるでしょう。村の者たちには、知らぬと答えるよう申しておきました。でも、祖父さまは何と答えるか」
男は、ただ黙って娘の言葉を聞いていた。早う早うと繰り返す、そこに反論の余地はない。
だが、都に帰ってどうなる? また、以前と変わらぬ日々を送れというのか? あの虚しく過ぎていくだけの日々を?
「お支度もございましょうから、今宵はもう───」
「ここに残ることは、許されぬのかな?」
男は、空に向かって吐き出すように呟いた。それからゆっくりと娘を振り返る。
「どうであろう?」
───では、あなたさまもこのままここでお暮らしになりますか?
「あのような……冗談を、まさか本気に?」
張りつめたような娘の声が、男の耳にはまるで悲鳴のように聞こえた。
「あなたさまには都にお待ちの方々が───」
「あなたはそれでいいのか?」
娘が繰り返す言葉を最後まで聞かず、男は問うた。
「独りで……やがてはあるじどのとていなくなるこの一志で、ずっと独りで暮らしていくと」
「されど、あなたさまには都にお待ちのお方が」
互いに言いたいことを言えぬままもう何度、この問答を繰り返したことだろう。
男はふいと視線を逸らし、そこにひょろりと立つ芽吹いたばかりの奇妙な木に視線を置いた。
「……そうだな」
夜明け前の静けさに、男の声がやけに大きく響いた気がした。心のどこかで抑えていた箍が外れ、男の口から己を貶めるかのような言葉が溢れ出す。
「確かに、わたしには北の方がいる。心は通うておらぬがね。通う女たちも……ああそうだ、姫もいるぞ。わたしの子ではないが」
そこまで吐き捨てるように言って、娘のなんともいえぬ視線を感じ、いたたまれなくなって口を噤んだ。心から溢れた苦々しい思いは出口を失い、そのまま男の内に渦巻く。
そうだ、誰も……親ですら信じられぬ日々、望まぬまま受け入れた北の方は童同然の幼い姫。誰と関わろうともどんな女と情を交わそうとも、誰も男の心など見ようともせず───否、男とて誰の心も見ようとはしていなかったのだ。
そうして体裁だけを整え、光中将などと呼ばわれ、虚しく煌びやかな実のない日々を送るようになったはいつからか。
何がいけなかったのか。何が間違っていたのだろう。
そして今、己の目の前にいる娘。
この娘のなんと率直に心の内を語ることか。娘の飾らぬ物言いや心映えは、それだけで都にあっては得難いものと思える。
ここを発てば、都に帰れば、この娘を手放さねばならぬではないか。
男は、決然と娘の方を向いた。娘はただじっと、男を見つめ返す。
「ともに都に帰らぬか?」
男は静かに、だが数日前に同じ言葉を言った時とは違う確信を胸にいだいて言った。
娘は答えなかった。男はもう一歩、娘に近づく。
「ともに帰ってはいただけぬか?」
娘は男の真意を見極めようとするかのように、男の目をまっすぐに見つめ、ずいぶんと長い間黙り込んでいた。
「……あなたさまのお邸で端女として召し使ってくださると?」
「まさか」
「では、どういうおつもりで? 半月も不在になった挙句、鄙の女など連れ帰ればどのような謗りを受けるか、あなたさまとてお分かりにございましょう?」
「……」
「そのような蔑みに耐え、誇りを捨ててあなたさまの召人*として生きろと?」
視線を逸らすことなく、だけどその手は身につけた褶を握りしめて言った言葉の最後は、かすれて闇に吸い込まれた。
「ばかな。あなたとて都の貴族の血を引く者、お父上に話せば……」
「何を考えておいでです? わたしはそのようなこと、はなから望んではおらぬと申しているでは───」
「わたしが望んでいるのだ!」
強い口調でそう言ってしまってから、男ははっと息を呑んだ。
何を言った? わたしが何を望んでいると?
娘は震える手を握りしめ、何も言うことができずに、それでもまっすぐに男の目を見ていた。思わずくちびるを噛んだ男もまた、娘から視線を逸らせずにいる。
この娘を望んでいる。この娘の心を欲している。片時も離れず傍にいて欲しいと願っている───それは男にとって初めての、圧倒的な支配力を持つ感情だった。
かろうじて互いの姿が見えるほどの淡い淡い月の光が二人を包む。
娘の瞳に潜む意思が揺らいでいるのを、男は見た。
「わたしは……」
どうしてもあなたを都に連れて帰りたい、そう伝えようとした時だった。
「……そこで何をしておられる?」
屋敷のあるじの声がした。
有明の月
十六夜以降の、有明(夜明け)の空に昇る月のこと。
召人
貴人の邸に仕える女房でありながら、主人の妻妾としての役割も果たす女人のこと。
主人の愛人であることは公然の秘密となっており、北の方でも認めざるを得ない存在でした。ただし、子どもができても邸内で育てることはできず、子を手放すか邸を出て行くか、の選択が迫られる程度の立場でもありました。