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四 秘された過去

 確かに文をことづけはした。だが、まさか娘自身が届けに行くと誰が思うだろう。しかも馬を駆って。

 甲斐甲斐しく馬の世話をする娘の背を、男は珍しいものでも見るかのように眺める。

 うちきを身につけ衵扇あこめおうぎで顔を隠していたあの夜と、ずいぶん様子が違う。鄙の娘らしく元結もとゆいで髪を束ね、袴もつけずしびら*を纏い、扇の代わりに今は馬草まぐさを抱えている。男は戸惑い、黙ってその姿を見守ることしかできなかった。

 月明かりの下、娘が不意に男を振り返る。そうして、まだいたのかと言わんばかりに男を見遣ると、手にした馬草の束をどさりと置いて、男の横をすり抜けた。


「待て、どこへ行く?」


 男のぞんざいな物言いに、はたと娘の足が止まる。くるりと振り返った娘は、男をきつく見据えた。


「夜も遅うございます。どうぞ、お戻りを」

「……他に言うことはないのか?」


 さすがの男も鼻白んで、呆れたように呟く。


「少しは打ち解けてくれてもよいではないか。会うたびにこの調子では埒も明かぬ」

「あなたさまが、一向にお分かりくださらぬからです」


 相変わらずにべもない娘の返事に、男はため息を落とした。


「……とにかく、文のことは礼を言う。お受け取りいただけたか?」

「はい」

「して、文の返事は?」


 男の問いに、娘は瞳をちらと揺らした。


「……ございませぬ」


 瞬間、叔父のことが脳裏に浮かんだ。


「ない? なぜだ? 文はまこと渡せたのか?」

「わたしが直にお渡しいたしました」

「そなたが直に?」


 男はますますもって分からなくなった。命婦みょうぶに目通りが許されるとは、いったいこの娘は何者なのか。それも分からぬままでは立ち去ることもできぬと男は娘に近づいた。

 ついに娘も深い息を吐き出し、小さく首を横に振ってから、こちらに、と腰かけられるだけの石を指し示す。

 言われるまま男がそこに腰を下ろすと、娘もまた少し離れたところにある桶の上に座った。娘は今、顔を隠そうとはしていなかった。


「───わたしは、斎宮いつきのみやで、藤命婦とうのみょうぶさまの女童めのわらわとして仕えていたことがあるのです」


 藤命婦とは、叔父の想いびとでもあった男の叔母のことだ。思わぬえにしに男は耳を疑い、視線を上げた。


「なんと……?」

「ゆえあって、幼い頃は斎宮にて過ごしました。藤命婦さまにはよくしていただき、たいそう可愛がっていただきました。文字が読めるのもそのお陰です」


 そこまで言うと、娘は懐かしいものでも見るような瞳で、東の空の弓張月を見上げた。


「今はもう、床から起き上がることもままならぬご様子で……寂しいことです」

「そんなに具合がお悪いのか?」


 男は、己が叔母と血縁のあることを知られぬよう、慎重に言葉を選ぶ。娘は黙って頷いた。


「これから夏が来れば、お身体ももっとお辛くおなりでしょう。何もお力になれぬのが歯がゆい……そんなですから、お返事もお書きにはなれませんでした。いえ───」


 何かを言いかけ、そうして一度口を噤んだ娘に男はそっと視線を向ける。

 憂いに沈む娘の横顔が、月の淡い光に照らされている。鄙の格好をしていようが袿を纏っていようが、娘の凛とした風情は美しかった。


「たとえお元気でいらしても、命婦さまは決して文などお書きにならぬはずですが」


 娘が呟いた言葉に、男は眉を寄せる。


「それは、なにゆえに?」


 娘はまた月を見上げ、幾度か瞬きをして、それからまた己が手に視線を落とした。


「命婦さまはもう、充分に……充分過ぎるほどに苦しまれましたもの。ですから」

「……どういうことだ? 苦しまれたなど、聞き捨てならぬ話」


 男の無自覚に尊大な態度が娘にも癇に障ったのだろう、頑なに強い口調で言い返す。


「まさか、兄君さまとの昔の噂をご存じないわけではございますまい」

「それは……」


 男はたじろいだ。このような態度で女にものを言われたことなど、未だかつてなかったからだ。


「あれは噂でもなんでもございませぬ、紛れもない真実。そして───」


 何かを言いかけ、娘はまたふ、と口を噤んだ。

 男は戸惑うばかりだ。未だかつてこのように正直に感情をさらけ出す女に出会ったことはない。

 口を閉ざした娘は、それまでの口調とうって変わってどこか儚げな雰囲気を醸し出す。不思議な娘だ、と男は思った。


「そして?」

「───いえ」


 言葉を濁されたことで娘に拒絶されたような気がして、男は苦々しげに呟いた。

 

「どういうことなのか、さっぱり意味が分からぬ」


 思い通りにならないことが男を無自覚に尊大な態度を取らせ、娘もまた男の態度に気持ちを逆なでされて、苛立ちを隠そうともせず声をあげる。


「まだ、お聞きになりたいのですか?」


 吐き捨てるようにそう言うと、娘は立ち上がり、落ち着こうとするかのように肩で大きく息をした。

 娘の纏う月影が長く伸びる。

 娘はじっと足下を見、それからついと顔を上げてまっすぐに男を見た。


「では、教えて差し上げましょう。わたしは……わたしの父は、あなたさまが預かってこられた、あの御文の送り主そのお方です」

「……え?」


 これでよろしゅうございますか? と問われ、男はその瞬間動くこともできず、ちらと視線を動かしただけだった。

 予想だにしなかった答えに、喉に声がはりついたようになって、何も、ただの一言も言えなかった。

 この娘は───この隣に座る鄙の娘は叔父上の娘だというのか?

 無理やりに聞き出したその事実はつまり……この娘はわたしの従妹ということなのか?

 男は凍てついた視線を娘に向けた。

 つい先ほど美しいと思った娘の顔が叔父の面影と重なる。伏せられた瞳を覆う睫の影ですら叔父の、ひいては己のそれと似通うている───


「……驚かれましたか?」


 娘はもうすっかり穏やかさを取り戻し、苦く笑いながらそう尋ねた。

 悟られてはならぬ、男はそう考えた。

 何があったか詳しいことは分からぬが、己の身分は隠さねばならぬ。でなければ、男もまた叔父のように拒絶されてしまうだろう。この屋敷の人々に。今、目の前にいる美しい娘に。

 一度ぎゅっと目を瞑った男は、下を向いたまま絞り出すように答えた。


「驚きました」


 それを聞いた娘は、ふふ、と笑った。笑うのを見るのは初めてだった。


「たとえわたしが誰の娘であろうと、わたしは今までどおり何も変わりませぬ。そのようにいきなり態度を変えずとも」

「変えてなど」

「変わりました、言葉遣いが」

「……」


 男は身体の力を抜くようにもう一度息を吐き出し、静かに尋ねた。


「このあたりの者は皆、それを知っているのか?」

「斎宮では、藤命婦さまのほかはどなたもご存じありませんでした。すべては命婦さまのお心の中に……だからこそ、わたしは心苦しゅうて」


 叔母がどういう経緯でそのことを知ったのかは分からぬが、未だまみえたこともない叔母にとって、兄である叔父の人の道を外れた恋心がまったく関係のない土地の娘の人生をも狂わせた、それがどんなにやるせないことであったかは、さすがに男にも想像はつく。その贖罪の意識から、叔母はこの娘の面倒を見ることを決めたのだろうか。

 なんということだ、と男は無意識に膝の上の手を握りしめる。

 都にいる一族の誰がこの娘のことを知っているのか。叔父は?


「お……父上に会うたことは?」


 これにもまた、娘はきっぱりと首を振った。


「ございませぬ。会いたいとも思うておりませぬ。わたしはこの一志で生まれた娘、都のお方とは縁も所縁ゆかりもないのですから」


 そう言うと、娘はそばにある木にそっと身を凭せかけた。それは、都ではついぞ見たことのない木だ。


「村の者は皆、わたしが誰の娘であるか知っています。だからこそ、わたしは祖父さまがどれほど姫らしく、などと言おうとも馬に乗るし、仕事も手伝います。わたしの生きている場所は都などではなく、この一志なのですから」


 ここで受け入れられ、生きていかねばならぬのですから───娘の言葉には強い意志が見えた。


「しかし、あるじどのはなぜ……」

「あのような暮らしを強いるか、でしょうか? それは……わたしたちの住もうていたのがもし都であったなら、きっとおまえはそんな風に暮らしていたに違いないと。祖父さまは罪滅ぼしをしているのだと思います」

「罪滅ぼし?」

「母を守れなかったことへの。でき得る限りの贅沢な暮らしをさせ、誰の目にも触れぬよう屋敷に閉じ込めて……わたしを守ってくれているのでしょう」


 そこで娘は遠くを見つめ、それから小さく笑った。


「もう、逆らうことにも疲れました。わたしがああすることで、母を喪った祖父さまの心が救われるというのなら、わたしは喜んで袿も着ます。……従うばかりではないけれど」


 娘はそう言って、足元にある小石をこつんと蹴飛ばした。

 それを見て思わず男も小さく笑い、そして、その転がった小石を見遣る。ぽつんと、草の上にたったひとつ転がった石。


「……ともに、都に帰るか?」


 気づけばそう、呟いていた。

 考えるよりも前に口をついて出てきた言葉に男自身が驚き、娘もまた、目を見開いて男を見返した。


「なにを……」


 独りにしてはならぬと思ったのだ、と男は心の内で呟いた。男の睦言にも慣れた口はだけど、その言葉を決して言えなかった。


「……都へ行けば、あるじどのも喜ぶのではないか?」


 それを聞いた娘はしばらくじっと窺うように男を見、やがて、何も分かっておらぬとでもいうように小さく首を振った。


「わたしはここで生まれ育った身、帰るなどとそんなことは考えられませぬ。それに祖父さまも……母も、決してそんなことを望んではおらぬでしょう」


 そのまま、居心地の悪い沈黙が落ちる。

 いつも啼いている郭公ほととぎすが今宵は啼かない。重苦しい静けさが二人を包み、男はたった今口走った、都へ、という言葉を激しく後悔した。

 小さくくちびるを噛み、男は言う。


「そうだな」


 雲が流れて月を覆い、二人を照らす淡い光が闇に吸い込まれた。


「ここはいいところだ。都よりも、きっと……」


 都よりきっと。

 やるせない感情に襲われ深い吐息をつくと、娘がそっと語りかけた。


「では、あなたさまもこのままここでお暮らしになりますか?」


 静かな、どこまでも静かな鄙の夜更け、月の消えた闇に輝くあたたかなともし火のような娘の言葉。


「そうだな、それも悪くない」


 しばらくの間をおいて、男も穏やかな声で静かに答えた。それが決して叶わぬことだと知りつつも。

 娘が小さく吐息をつき、そして言った。


「……もう遅うございます。早うお戻りなさいませ」


 どこへ? そう心の内で問い返しながら、男はまた頷く。


「そう、だな」


 風が吹き、月を覆っていた雲が払われて、やわらかな月の光が二人を照らした。

きぬの上から腰に巻いて身につけた、裳の略装。雑仕女ぞうしめなど下級の女房や平民の女性が着用しました。

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