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三 鄙の日々

 よもやそれが桜の廻廊で出会ったあの娘だとは、男は最初気づくことができず、ただただ呆気にとられ、しばし言葉を失った。

 なぜかような場所に、かような女が?

 やはり物の怪の類いかと刀を握り直し訝しむ男の前に、娘は扇の陰からそ、と文を差し出す。そのすべらかな白い指に見覚えがあった。


「そなた……」

「ご無事で何よりにございます」


 やわらかな娘の声にも聞き覚えがあった。男は恐る恐る差し出された文を手に取る。それは間違いなく叔父の書いた文だ。


「なぜ、そなたがこれを?」


 その場に膝をつき、男は尋ねた。娘は密やかに、桜の下で、と囁く。


「この地で文字を読めるのは祖父じじさまとわたしのみ。祖父さまの手に渡ってはならぬと思い、隠しました」


 そう言った娘はなおも深く頭を下げると、その場を立ち去ろうとした。男は咄嗟にその薄紅梅の袖を捕らえる。


「待て。そなたは誰か? なぜ、あるじどのの手に渡ってはならぬ?」


 娘は言おうか言うまいか逡巡しているようだったが、やがて意を決したように、背けていた顔を扇の陰で男に向けた。


「恐れながら、御文のおもてを拝見いたしました。この地に所縁ゆかりのお方のものかと」


 男は眉をひそめた。なぜ分かる? という男の無言の問いに気づいた娘は、手蹟にございます、と答える。


「その手蹟をよく存じております。祖父さまは、そのお方のことをよく思うてはおりませぬ。ゆえに───」

「なぜ?」


 やんわりと話す娘に、男は畳みかけるが如く問うた。いったい、叔父がここ一志で何をしたというのか。

 娘はまたしばらく黙り込んだのち、ぽつりと答えた。


「かつて、この家に寄られたことがおありだからです。詳しいことは、わたしは存じませぬが」


 思いもよらぬことを聞いて、男は動揺した。

 あの、叔父が伊勢にまで妹姫を追った話。失意のうちに都に戻った叔父がその後、伊勢に向かったことはなかったはずだ。

 どうにも解せぬ。


「それは、ずいぶんと昔の話ではないか。文の主が、なんぞ失礼なことでも?」


 娘は黙り込み、それからどこかはぐらかすかのように、ふ、と笑った。


「さあ? いずれにせよ、御文は確かにお渡しいたしました。どうか、今宵ここでわたしとまみえたことも祖父さまにはご内密に」

 娘はそう言うと、いっそう頭を下げる。

 男は、娘の背に流れ落ちる豊かな髪を見た。今は結わえられておらぬそれは、思ったとおり背の丈よりも長く、夜の闇よりなお黒かった。

 どこか別れがたく、男は口実を探す。


「待て。そなたには……感謝している。その、わたしを見つけてくれて」

「わたしは何も。あなたさまのお馬が、知らせに参ったのです」


 淡々と話す娘は顔を伏せ深く扇を翳したまま、ぴくりとも動かなかった。


「何があったか、もっと話を聞かせてくれぬか? 明日の宵───」

「わたしに会うたこと……いえ、わたしのことを知ったとも、祖父さまには決してお話しになりませぬよう」


 娘は男の言葉を遮るようにそれだけを言うと、男を残し、静かにそこから立ち去った。



 ***



 翌日、男は屋敷のあるじに連れられ、愛馬朝霧と再会した。

 きちんと世話を受けていたらしい朝霧は疲れた様子も見せず、男を見ると鼻を鳴らし喜んだ。

 その道すがら、探しに行ったが文は見つからなかったと謝るあるじに、男はなんとも気まずい思いで口を閉ざす。もちろん、娘について語られることはないままだ。

 日々、男の許に朝餉夕餉を運ぶあるじの妻に至っては、未だ男と言葉を交わそうともしない。

 都を出て早や五日、現実から隔絶されたかのような不思議な心地で時を過ごし、都での暮らしがどこか遠く感じられるようにもなっていた。

 父は、兄は……母は、男の不在をどう思っているのだろう。いや、そもそも不在であることをご存じであろうか。

 北の方は───ふと、そこまで考えて脳裏に年若い北の方の面影が浮かび、男は追いやるように目を瞑った。

 逃げても何も変わらぬことくらい、分かっている。

 それでも今、ここにいる時くらいは逃げても許されるような、そんな気がした。

 男は日暮れを待ち、やがて宵が来ると、あれほど止められたにもかかわらず娘の居場所を探して屋敷の内を彷徨った。

 都と違い、日が暮れればさっさと寝てしまう屋敷の者たちの目をかいくぐるのは容易い。夜毎に女をおとない歩いた身でもあれば、足音を忍ばせ様子を窺うのもお手のものだ。

 一番離れた棟から、わずかな灯りが洩れていた。まわりもそこだけ美しく花など植えて整えられ、明らかに他の場所とは様子が違う。

 男はそっとその棟の戸に身を寄せ、一度あたりを窺った。人の気配はない。山吹の花がつましく咲いていた。

 娘が昨日そうしたように、ほとほとと戸を叩く。しばらく待ったが返事はなく、もう一度叩いてみる。

 さわり、と内からかすかな衣擦れが洩れ聞こえた。聞き慣れたその音は、明らかに男も身に纏う絹の音だ。間違いないと男は娘の真似をして、もし、とひそめた声をかけた。


「……何をなさっておいでです」


 張り詰めた空気を震わせるような娘の声が聞こえてきた。ただ一言だけで、娘は男をそれと気づいたようだった。


「明日の宵に、と言うたではないか」

「……」

「そなたを捜していた」

祖父じじさまに見つかっては大ごとになります、困りますゆえ早うお戻りを」


 もしこれが都の女なら、と男は苦笑まじりに考えた。光中将ひかるのちゅうじょうと呼ばれる男のこのような言葉に、こうまでにべもない返事を返してきた女はついぞいなかった。

 軽く咳払いをして、男は言葉を続ける。


「そなたに頼みごとがある」


 そう言うと、内の気配が消えた。それが頑なな拒絶なのか、次の言葉を待っているのか、壁に隔たれた男にはさっぱり分からぬ。男はなんとか様子を探ろうと耳を澄ましたが、埒も明かぬのでそのまま続けた。


「そなたが見つけてくれたあの文を、できるだけ早く斎宮いつきのみやに届けたい。あるじどのに頼むつもりであったが、それはまずいのであろう?」


 返事はない。

 

「わたしが行こうと思うておったが、あるじどのに止められた」

「それは……」


 ようやくわずかな言葉が聞こえ、聞いていたのかと男は息をつく。


「それは?」

「……まだ無理にございましょう」

「それゆえ、そなたに頼んでいる」


 淀みなく男が言えば、それきりまた返事は途絶えた。

 郭公ほととぎすの啼き声も今夜は近い。山から下りてきているのだろうか。


「……わたしに、どうせよと?」


 やがてため息まじりに聞こえてきた娘の半ば呆れたような声に、男は空を見上げながら言った。


「あるじどのに知られぬよう、斎宮に文を届けるすべはお持ちか?」


 娘はまた黙り込む。東の空には臥待ふしまちの月が昇っていた。


「ない、わけでは……」


 困り果てたようなその声に、男は思わずうっそりと口許に笑みを浮かべた。

 元々、人のよい娘なのであろう。そうでなくば身元も知れぬ、見知らぬ男の命を助けようなどとは思わぬはずだ。

 そして男は、他愛もないこのようなやりとりをどこか楽しんでいる己に今初めて気づく。男の気を惹き、男の意に沿うことばかりを考えているような都の女たちとの関わりは、どこまでも退屈だったというのに。


かたじけない。ではこの文をお願いできるか」


 言いながら、男は足許に咲く山吹の一枝をそっと手折り、手を伸ばせばようやく届く高さにある明かり取りの格子の隙から、文とともに投げ入れた。

 ぱさりと文の落ちる音と一緒に、娘の息を呑む気配がした。そのまま、敢えて娘の返事も待たず踵を返せば、とにかく早うお戻りを、という焦りの滲む娘の声が男の背に届いた。男は思わずくつくつと笑い声を零し、どこか晴れ晴れとした心地でその場を離れる。

 ばさりと鳥の飛び立つ羽音がして、そうしてまた、あたりは静寂に包まれた。



 ***



 日々供せられる食事は質素なものの、都におればおいそれとは口にできぬ山海の珍味が当然のように並ぶ。

 運んでくるあるじの妻がこれ以上ないほどに無愛想なのはいただけないが、朝な夕なそのようなものを口にして、日が暮れれば眠りに落ちる、穏やかな鄙の暮らしは男の英気を養い、日を追うにつれて身体もよくなっていった。

 一志いちしの屋敷に運び込まれて八日が経った。昨日はできなかった動きが今日はできる、もはや馬を駆ることも無理ではないと思えるほどであるにもかかわらず、男はそのことを隠し、日一日と屋敷での滞在を引き延ばしている。

 陽のある時に娘の気配を感じることはない。愚かしく娘の住まいに近づくようなこともしなかったし、昼間にはあるじや屋敷の人間が立ち働いているので、屋敷内ですらうろつくことも憚られた。

 与えられた棟で木々の緑などを眺めながら、時に物思いに耽り、時に鄙の風情を窺い、美しい春の空を見上げ、鳥の歌を聞く。都のやしきとあまり変わらぬ時の過ごし方であるのに、男はどこか解き放たれたような心地よさを覚え始めていた。

 そしてふと気づけば、いったいあの娘は何者か? と、いつもそのことをばかり考えている。屋敷の誰もが奇妙なほどに触れようとはせぬ、あの娘。

 さまざまに推測を巡らしてもみたけれど、実際のところはまったく分からぬ。

 いとも易々と馬を駆りながら、次に現れた時にはまるで都の女のような様子を見せた。

 どうにも気になり、その日春の夜も更けつつある頃、夜闇に紛れて男はそっと娘の住まいの方へと向かった。

 しかし洩れ出した灯の光も見えず、しんと静まり返ったままだ。

 もう眠ったか。男は思った以上に落胆している己の心には気づかぬふりをして、では朝霧の様子をと、厩のある屋敷の裏手へと行ってみた。

 ようやく出たばかりの弓張月が、男の行く手を照らす。

 月の浮かぶ東の方角を見ながら、斎宮いつきのみやはあの先のもう少し南であろうか、などと考えている時だった。遠くから馬の駆ける音が徐々に近づいてくる。やがてぼんやりとその背に乗る人影が見えて、男は驚きにこれ以上ないほどその目を見開いた。

 娘だ。

 あの落馬した日に桜の下で初めてまみえた時と同じ格好をしている。

 娘もまた男の姿を認めて一瞬の動揺を見せたが、すぐに凛とした視線を前に向けると裏手にある厩の前に馬をつけ、男の目前ですたりと地に降り立った。


「かような所でかような時分に何をなさっておいでです? 早うお戻りなさいませ」


 娘は馬の手綱を引きながら、帰れと一つ覚えのように男に言った。


「そのような姿で、いったい───」


 さすがの男も蝙蝠かわほりを口許に添え、言葉に詰まる。

 娘はちらと男に視線を投げ、馬を繋ぐと水を与えた。


「あなたさまからお預かりした文を届けに」

「斎宮まで? そなたがか?」

「無事お届けいたしましたゆえ、ご安心を」


 そっけない娘の言葉に、男はなにを言うべきか分からぬまま呆然と立ち尽くした。

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