二 命拾い
女が馬の手綱を引くなど、男にはおおよそ想像もできぬこと。
まさか妖ではあるまいかと、自由のきかぬ手で腰の刀あたりをまさぐる。
気配は徐々に近づき、男の鼓動が速くなった。
ゆっくりとした足取りで一歩、また一歩と近づいてくる女と朝霧が、横たわる男のすぐそばで立ち止まり、男は我知らず身を強ばらせる。
「……このお方? おまえのあるじは」
囁くような声が聞こえた。その、愛馬への問いかけは思いもかけずとても若い声で、朝霧もまたぶるると鼻を鳴らした。
男は刀に手を置いたまま視線を動かし、己を見下ろしている女を見る。
雑仕女*の如きいでたちはいかにも鄙めいており、男に向ける不躾なほどにまっすぐな視線は、都にいてはついぞ向けられぬ類いのもの。
曙の光を背に受けてその顔までははっきりと分からなかったが、恐らくは男より年若い娘であろう。
男は誰かと問おうとしたが、襲われた胸の痛みに眉をひそめ、ただ呻き声が洩れただけだった。
しばらく黙って男を見下ろしていたその娘は静かに朝霧を引いて男から離れ、衣の裾から出た娘の足が男の視界をかすめた。
人に出会うた安堵と改めて自覚した身体の痛みに男は大きく息をつき、娘の背に視線を向ける。ほどけば身の丈も越えるであろう髪が、無造作に結わえられて腰のあたりで揺れていた。
娘は木の枝に手綱を結びつけ、もう一度男の許へと戻ってくると、またもの問いだげな瞳で今度は男のそばに膝をついた。
「都のお方?」
男は娘を見上げ、しばらくしてから黙って頷く。
「起き上がれませぬのか?」
こくり、もう一度頷くと、娘はそっと朝霧を振り返った。
「あなたさまのお馬をお借りしても構いませぬか? 誰ぞ助けを呼んで参りますゆえ」
女の身で馬に? そんな思いが男の顔に出ていたのだろう、娘は静かに笑った。
「ここは伊勢、都の貴なる姫君とは違います」
そう言うと娘は、男の視線の前にそっと片手をついて立ち上がった。その手のすべらかな白さに男はわずかに違和感を覚えたが、それを口にする前に手綱をほどいた娘がいともやすやすと馬に跨る。桜の枝を縫って差し込む曙の光に今初めて、娘の涼やかな瞳と薄く色づいた頬が一瞬見えた。鄙つ女とも思えぬ娘の整った顔に、男は視線を奪われる。
「急いで参りますゆえ、どうかお心強く」
娘はそう言い置いて、なんの苦もなく朝霧を走らせ桜の廻廊を立ち去った。
やがて蹄の音も聞こえなくなると、男はまた全身の力を抜いて天を仰ぎ見る。
いったい今のは夢なのか、それとも妖の見せた幻か。
いよいよ明るくなった桜の下で、男は小さく笑った。悪くはない。これが今生で見る最期の光景だとすれば……悪くない。
そんなことを思い、そうして男はまた意識の闇の底へと落ちていった。
***
次に男が目を覚ましたのは、あの桜の廻廊の草の上ではなく、きちんと掃き清められた家の内だった。
低い天井には梁が見え、壁は土でできている。明かり取りの格子のすきまから光が差し込み、埃の浮かぶさまを照らしていた。だが、褥も衾*も、質素ながら都のものと変わらない。
そしてまたその現実感溢れる質素さゆえに、未だ生かされていることを男は知る。
そっと身を起こしてみた。痛みはまだあるものの、身体を動かせなかったあの時よりは幾分よくなっているようだ。
枕辺には盥に汲まれた水も置かれていた。手を浸せば、冷たさに身体が一気に覚醒する。
ここはどこなのかと男は見回してみたが、時折、鶯の啼き声がするほかには物音ひとつしない。
男は小袖姿のまま、枕辺に置かれていた烏帽子を被るとゆっくりと褥を出た。
戸を開けて見れば、少し傾きかけた陽の光があたりを暖かく照らしていた。庭というほどもない土地の向こうに生垣のようなものがあり、その向こうにもまた草蘆*がいくつか見える。それらの家々と比べれば、男のいる家は屋敷と呼んでも差し支えないほどには立派であった。
振り返ると隣の棟が見えた。どうやら三つの棟を持つ屋敷らしい。藁葺の屋根に鶯が羽を休めているのが見えた。
「おお、お目覚めなされましたか」
不意にしわがれた男の声がして、庭先から老いた男が鍬を持って姿を現した。
「いや、これはよかった。一昼夜眠り続けておられたのですぞ。お身体は大事ございませぬか? まだ起きてきてはよくありませぬ、早う横に」
老いた男は鍬を置くと男の許へとやってきた。顔に刻まれた皺は深かったが、なかなかに思慮深そうな瞳を持っていると男は思った。
「忝い。貴殿が助けてくださったか」
「村の者どもが山で倒れておられたあなたさまを見つけ、我が家へ運んで参ったのです。雨のくる前でよろしゅうございましたな」
それを聞いて、男はふと思い出した。
「ああ……あの娘」
「娘?」
屋敷のあるじはそう問い返すと、はて、と首を傾げた。
「ええ、山で落馬したわたしを見つけ、助けを呼びに行くと馬に乗って───」
「さあ、娘は存じませぬが、あなたさまの馬ならお預かりいたしておりますぞ。それからほれ、衣も洗うておきましたゆえ、あとでお持ちいたします」
あるじはそう言うと、何か食べ物を持ってくると言い置いてそそくさとその場を離れていった。
男は訝しげに瞳を眇め、ふと何かに思い当たったかのように胸元を探る。それから慌てて内に戻ってあたりを見回した。
ない。叔父から預かった文が、どこにもない。
これはまずい、と男は褥の上に座り込んだ。
早うあるじに聞いてみねばならぬと男は気も急いて、誰かある、と声をあげると、しばらくして一人の若い女が男の身につけていた狩衣を運んできた。
まさしく雑仕女のようなことをしている者なのだろう、男を一目見た女は乱れた髪を精一杯押さえつけてわずかに頬を染め、ひれ伏さんばかりに戸のところで座り込む。
「な、なにかお手伝いすることがありますれば……」
己を見た女のこのような態度には慣れている。あからさまに何かを期待している女の陽に焼けた首筋と手を見て、男はしばし思案してから小さく笑って尋ねてみた。
「着替えを手伝ってもらうことはできようか?」
は、と消え入りそうな声で頭を床に擦りつけたその女は、わたしはできませぬが姫さまならば、と口走り、それからはっと言葉を呑み込んだ。
「姫?」
男が問い返すと、がばと顔を上げた女は青ざめて首を幾度も振り、今のは聞かなかったことにしてくれと懇願する。ちらとそちらに視線を投げた男は、この機を逃してはならぬと何気ないふりでなおも尋ねた。
「そうか。ではもうひとつだけ。わたしが山にいた時、ひとりの娘御に会うたのだが、それが誰かご存じか?」
女はそれにも頑なに口を噤み、ふるふると首を振ってもう一度深々と頭を下げると慌ててそこを立ち去っていった。
「ふん……」
男は思案げに眉を寄せ、それから、そこに置き去られた狩衣を確かめたがやはり文はない。
姫、と言ったか。かような鄙の地で姫と呼ばれるとは、いったいどういうことか。
自身で衣を身につけて褥の上に腰を下ろすとやがて、屋敷のあるじの妻だという者が夕餉を運んできたが、無言で膳を置くとまたそそくさと出て行ってしまい、文のありかを問うこともできぬままだ。
暮れなずむ空を開け放した戸から眺める。畑仕事から戻ってきたらしい者たちのざわめきが近く遠く届いた。都ではついぞ耳にしたことのない日々の営みの音に男が物珍しく聞き耳を立てていると、屋敷のあるじがふいと顔を覗かせた。
ご不便はございませぬか? と尋ねられ、ただ礼を述べることしかできぬと答えた。偽らざる心境だった。これほど、心が凪いだのは久しぶりだ。
ここはどこかと問えば、あるじは、一志でございますと答えた。一志は、群行*で最後の滞在地となる頓宮もある場所だ。ならば、馬を走らせ櫛田川を越えると、斎宮はもうじきなはずだった。
「なりませぬぞ、そのようなお身体で馬に乗るなど。しばらくは養生なさらねば」
「文遣いを頼まれていたのだ。一刻も早う届けねば」
「斎宮へでございましょうか? なんなら代わりにお届けいたしまするが」
あるじはそう言って、人の良さそうな笑顔を見せる。
「いや……実は肝心の文が見当たらぬ。心当たりはないか?」
「文、でございますか?」
あるじは首を傾げてまるで見当もつかぬような顔をしたが、また村の者に探させましょうぞ、と請け負った。
「そなたは、斎宮に行くこともあるのか?」
男は尋ねた。一志から斎宮へは、さほど遠くはないとはいえそれなりに距離もある。
「このあたりの者は、斎宮へ勤めに出るものも多うございます。採れた作物もお納めしておりますし、何かと縁深い土地柄かと」
あるじはそう言うと、長く話してお疲れが出てはいけませぬ、どうかお休みに、と男を褥に追いやり出て行った。陽も山の端に隠れ、あたりはあっという間に闇に沈みゆく。
届けられた乏しい明かりひとつ灯る中、男は褥に横になって考えた。
あの時、確かに胸元にあったはずの大切な文を山に落としてきたというのか。しかも、一志で足止めされるなど、なんとおかしなことになったものだ。
このまま文が届けられねば、叔父上に申し訳が立たぬ。斎宮にいるという叔母上の容体も分からぬ今、悠長なことをしていられる時ではないというのに。
じじ、と音を立てて火影が揺れた。すでに寝静まったらしい屋敷の気配に目を閉じれば、早くも郭公の啼く声が思わぬ近さから聞こえてくる。
その声に混じって、戸の外からもし、と囁く声が聞こえてきた。
男はぎくりと目を開き、戸の方を見遣る。もう一度、もし、と女の声がしてかすかに戸が揺れた。
よもや、昼間のあの下女が忍んできたのではあるまいな、と起き上がって刀を手に取った男は、戸の傍に寄ると、何者? と誰何する。
男の声音に怯んだのか戸の外にいる女は一瞬黙り込んだが、それから抑揚を抑えたような声で、御文を、と囁いた。
男は驚いてよく考える前に戸を引き、そして見た。薄紅梅の袿を身につけ衵扇を手にした、おおよそ鄙にはそぐわぬ女の姿がそこにあるのを。
雑仕女
内裏や公卿の家で雑務をこなす召使いのこと。
褥
敷布団のようなもの。
衾
この時代用いられていた、掛布団の原型。
長方形のほか、袖や襟がついたものもありました。
草蘆
草葺きの小さな家のこと。
群行
斎王が都を出て伊勢国にある斎宮に下向する、その旅とそれに伴う一連の行事のこと。
野宮での一年間にわたる潔斎ののち、帝に「都のほうにおもむき給うな」と額に別れの小櫛と呼ばれる櫛を戴いた斎王は、もう二度と都の方を振り返ることは許されぬまま、葱華輦に乗って勢多(現在の瀬田)、甲賀、垂水、鈴鹿、一志の各頓宮(天皇御幸や斎王群行に合わせて仮に作られる宮)に一泊し、六ヶ所の川で禊を行いながら、六日かけて斎宮に向かいました。群行は神宮での神嘗祭に合わせて長月(旧暦九月)に行われ、数百人規模の行列だったといわれています。