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一 文遣い

やどりして 春の山辺に寝たる夜は 夢の内にも花ぞ散りける ─ 紀貫之 ─

(古今和歌集 巻第二 春歌下)

 まだ夜明けも遠い春の暁闇ぎょうあん、卯の花*の直衣のうしを身につけたひとりの男が、乗り込んだ牛車くるまの内に気だるく身を沈ませた。

 軋みながら大路を往く車に揺られ、物憂げな視線を彷徨わせるその美しい男の耳に、花の香りはいかがでございましたか、と問う従者の不粋な声が届く。閉じた蝙蝠かわほり*で口許を覆った男は、香りなど、と呟くと、深い吐息を落としてその涼やかな目をきつく閉じた。手折った花がいかようであったかなど、もうすでに男の記憶からは遠い。

 揺れに身を任せていくばくか、やがて車は延々と続く築地塀ついじべいの門に入る。彼は誰(かはたれ)どき*の息をひそめたような邸に、迎えに出た女房の衣擦れの音が尊大に響いた。


「いかがなされますか? 東北ひがしきたたいへ?」


 車から降りざま女房に問われた男は不快げに足を止めると、北の方の住まう対屋たいのやの方角へと視線を向けた。


「……いや。あちらもまだ休んでおられるだろう」


 そう答えると、女房はあからさまな態度で息をつく。それに苛立ちの混ざった一瞥を投げたのち、男はこうべを垂れる従者の傍で袖を翻し、妻戸の内へと静かに消えた。



     ***



 無為に時は過ぎゆき、風が吹くたび、散り初めの桜が蕾の膨らんだ山吹の茂みに儚い花片はなびらをはらりと落とす。

 微睡まどろみから目覚めればすでに日暮れの早い春の宵、暮れ染めた庭の景色に釣灯籠の火が淡く輝いていた。

 やがてやって来た従者に叔父が呼んでいると伝えられて、男はのろのろと身を起こし、身支度を済ませる。直衣に袖を通しながらそうだ、と思い出すと、女の許へただ一言、行けぬとだけ文をしたためた。


「どちらへ?」


 文を受け取りそう尋ねた従者は、油小路あぶらこうじの、と聞いてこれまた大仰にため息をついた。


「なんだ?」

「姫君をお生み遊ばしてからこちら、行けぬと伝えるたび恨み言がきつうなって参りまして」


 男はその言葉を聞いてやにわに眉をひそめ、吐き捨てるように言い放つ。


「では、二度と、とでも書き足しておけ」


 冷ややかな言葉に従者の眉間の皺がより深くなろうとも意に介さず、男は参るぞ、と足早に御簾をくぐり渡殿わたどの車宿くるまやどりへと向かった。

 やり場のない苛立ちに悩まされているのは、昨日今日の話ではない。

 右大臣家の二男という恵まれた身分にも左近衛中将という位に不満があるわけでもない、それでも男の心は生まれてから二十四年、 絶えずかつえたままだ。

 誰も信じられぬ。

 親も、その親に命じられ迎えた北の方も、夜毎通う女たちも。

 たとえどれほど情を交わそうとも、いや、交わせば交わすだけ、男の心には墨が滲むように虚しい影がさす。

 逃げ場はどこにもなかった。



     ***



 今宵(おとの)うた叔父は、そんな男がほんの少し心を許すことのできる唯一の人間だ。

 男の母の異腹ことはらの弟である叔父は、北の方をずいぶん前に亡くしてからは妻を持たず、独り邸に住まっている。

 大納言を務める四十もまぢかの寡黙なその身に漂う、何か目に見えぬものを追っているかのような気配は、男のそれとどこか似ていた。ゆえに叔父もまた男のことを放っておけぬのであろうか、なにくれとなく気にかけてくれているのだった。

 そんな叔父が、珍しく頼みごとをしたいと言う。

 住まいからそれほど離れてはおらぬ叔父の邸で、男は大殿油おおとなぶら*の灯影を背に腰を下ろした。


「伊勢へ?」


 思いもよらぬ頼みに、男は鼻白んだ声をあげた。


「そう。斎宮いつきのみや*にわたしの妹───藤命婦とうのみょうぶというそなたの叔母がいるのはご存じか」

「そういえば……聞いたことはあります」


 首を傾げつつ答えた男に、叔父は苦い笑いを零した。


「聞いたことはある、ね……。そなたの母の異母妹いもうとでもあるのだが」


 松重*の直衣をゆるく肩から羽織っただけの姿でゆったりと脇息きょうそくに凭れた叔父は、呆れたようにそう呟くと小さく首を横に振り、それから軽く咳き込んだ。


「そのがね、どうやら身体を壊してしまったらしい。すぐにでも駆けつけたいところだが、今のわたしには無理だ」


 男は口を閉ざしたまま、かすかに眉をひそめた。

 姫、と申されたか。未だ見ぬ叔母は、とうに三十も越えているだろうに。


「わたしの代わりに、伊勢へ行ってはくれぬか? そなたにしか頼めぬことだ」


 灯ひとつだけの薄暗い対屋で、叔父は今初めてまっすぐに男を見た。

 その瞳に宿る切実な光に、ああ噂はまことであったかと男はどこか感嘆にも似た思いを抱く。


 ───さほど遠くはない昔、狂おしい恋にその身を焦がしたひとりの貴公子がいたのだとか。

 彼の恋情はあまりに深く激しく、しかし、相手は母を同じくする妹姫であるがゆえに決して許されぬもの。

 姫は兄の想いの強さに怯え、しかし強くは拒めぬ己が弱さに慄き、ついにはそれに気づいた父によって伊勢へと遠ざけられてしまった。

 貴公子はまるで気がふれたようになって姫を追い可怜国うましくに*へと向かったが、斎王さいおうの傍近くに仕えることとなった姫に二度とまみえることは叶わず、ついにはその地で命を落としてしまったという。

 その話がまことか否かは、もはや誰も知らぬこと───


 そんな、まるで作り物語のように面白おかしく囁かれる噂、その貴公子が実はこの叔父なのではないかという話は、どこからか聞こえてきたことがあった。

 男は興味を覚え、今初めて目が醒めたかのようにその身を乗り出す。その様子を見た叔父は、男の心に気づいて苦い笑いを洩らした。


「頼まれてくれるか、光中将ひかるのちゅうじょう。文を届けて欲しい、ただそれだけだ」


 男によく似た涼やかな瞳を細め、多くを語らぬまま叔父はそう言った。



     ***



 都にあるすべての煩雑さから逃れるに相応しい頼みと、男はその翌日、従者もつけず一人で都を発った。

 そのまま東へと向かい、勢多せたを越える。

 胸にある預かった文の重みは、男が女たちに送る数多あまたの文とはきっと違うのだろう。その重みが男の背を押した。

 やがて垂水たるみ頓宮とんぐうを過ぎ、馬を走らせ丸二日。男も馬も疲弊していた。

 すでに伊勢国に入り、鈴鹿の峠もとうに越えた。しかし、黄昏どきの空は剣呑な雲をたなびかせ、男の胸に不安がよぎる。

 山道で夜を迎えるのは避けたい。雨に遭うのも厄介だ。

 樹々を揺らす不穏な風が男の心の恐れを煽り、それに追い討ちをかけるように、一寸先も見えぬほどの濃い霧が男を取り巻くように湧き出でる。

 早う、早う。

 その焦りがいけなかったのかもしれない。

 突如目の前に飛び出した鹿に、愛馬朝霧の前脚が跳ね上がった。あっと思う間もなく男はそのまま馬の背から振るい落とされ、不快に湿気った下草生える地に叩きつけられた。

 走り去る朝霧の蹄の音を遠く聞きながら、男はそのまま意識を手放した。



     ***



 やがて、どれほどの時が経っただろうか。

 白く淀んだ霧を縫う十六夜いざよいの月の光が、目覚めた男の頬をぼんやりと照らしていた。

 月の高さから見て、もうじき夜も明けるはずだと朧な意識の中で考えた男は、その身を起こそうとしてかつてない身体の痛みに覚醒した。落馬した時に、どこかを傷めてしまったらしい。

 朝霧のいる気配もなく、ここがどのあたりかもはっきりとは分からぬ。

 もしや、このまま誰にも気づかれず朽ち果てることになるのではあるまいか───突如恐怖に陥った男は、なんとか起き上がろうと喘ぐ息を吐いた。だが、その手は虚しく草を掴むばかり、身体はだらしなく横たわったままだ。

 男はふと何かに思い当たり、胸元に手を遣った。がさりと音がして、指先が叔父から託された文に触れる。ほ、と息をつくと、男は垂れ込める霧の中で諦めたように身体の力を抜き目を閉じた。霧に阻まれた男の衣は、しっとりと濡れていた。

 もしここで命尽きるとも、それもまた運命さだめ。叔父には申し訳ないが、いつの日か、通りがかった誰かがむくろと化した男に気づくことでもあれば、いずれその文も届けられよう。

 そんなことを考えると、不意にくつくつと喉の奥からわらいが起こった。

 なんという人生か。

 望まぬままこの世に生を受け、誰をも望まず、誰にも望まれずに生きてきた。そして今、誰にも知られずここで命尽きるとは、いかにもわたしに相応しいではないか。

 まなじりに浮かんだ涙が、なすすべもなく落ちていく。

 虚しい生を手放せるなら、ここで朽ちるのも悪くはない。そう考えながら、なぜに涙は溢れるのだろう。

 己が心の奥底に隠されていた矛盾した生への執着を思い知ったその時、曙の光がさすと同時に霧が薄れる。幽かな靄を残した頭上に広がる光景に今初めて気づき、男は横たわったまま目をみはった。

 桜だ。

 鬱蒼と茂る森にどこまでも続く、桜に覆われた廻廊。その、覆いかぶさるような薄紅うすくれないの中に男はいた。

 ただ視線だけを動かし、魅入られたかのようにその光景に酔う。それは息も止まるほどの、まるで天上の如き美しさ。

 薄紅がまた、じわりと涙に滲む。最期を迎えるに相応しいこの世のものとも思えぬ光景に、もういいではないかと、そんなことをすら考えた。

 誰も、男がいなくなったとて涙さえも流すまい。これですべて終わりにできる。ただ己の心にある未練さえ、手放すことができれば───

 そんなことを考え、男は淡い笑みを浮かべて目を閉じた。

 さわと風が吹き、はなが揺れる。その向こうでがさりと草を踏みしめる気配がして、やがて、ぶるると懐かしい朝霧の息の音が聞こえたような気がした。

 まさかとうっすら目を開き、そちらに遣った視線の先には紛うことなき愛馬の姿。

 そして、その横には手綱を引くひとりの女がいた。

卯の花の色目

表が白、裏が薄青(今の薄緑)。


蝙蝠

五本の骨の片面に紙を張った、男持ちの扇。


彼は誰どき

彼は誰? と問うほどに暗い夜明けの時を指します。


大殿油

宮中や貴族の邸で使った、油の灯火。


斎宮

天皇に代わって神宮に仕える斎王さいおう(いつきのひめみこ)が住んだ、伊勢にある宮のこと。斎王は、天皇が代替わりするたびに卜定ぼくじょう(占い)によって未婚の内親王や女王の中から選ばれ、一年間の野宮での潔斎ののち、伊勢へと群行しました。


松重の色目

表が青(今の緑)、裏が紫。


可怜国うましくに

伊勢国のことを指す言葉。日本書紀や万葉集にすでにその記載があります。現在は『美し国』と表記することが多く、「うまし」とは「素晴らしい」「美しい」という意味になります。



───ご無沙汰いたしております。


新しい物語をお届けいたします。

タイトルは『あかときづくよにさくはなは』と読みます。

お楽しみいただければ嬉しいです。

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