オンライン作家からみる表現世界の変化
一章 激増するオンライン作家
1、ケータイ小説ブームの到来
まず最初に、オンライン作家たちの環境について論じる必要がある。
オンライン小説の発展を考察する際、外すことが出来ないのが2002年頃、ケータイ小説というジャンルが確立したことだろう。当時、携帯電話は第三世代携帯という、高速でデータ通信を可能とする機種へと移行していた。NTTドコモが発売した「FOMA」はその先駆けであり、これに続くようにauやソフトバンクが参入してくる形となる。高速データ通信が可能になった当時は着うたフルやレトロゲームのダウンロードなどが利用でき、携帯電話が次第にインターネットメディアとして利用者に受け入れられるようになってきていた。電話やメールといった単純なコミュニケーションツールだけではなく、娯楽性を帯びたメディアとして作りかえられていったのである。そして、携帯電話が更に大きな進化を遂げ、ケータイ小説ブームを作り出した原因の一つが、パケット定額制の登場である。
パケット定額制がオンライン小説にいかなる影響を及ぼしたのかは、ケータイ小説の始祖とも言えるYoshiの『DEEP LOVE』の存在との比較によって分かってくる。『DEEP LOVE』がネット上で連載されていたのは2000年の10月からであり、書籍化に踏み出したのはそれから2年後の出来事である。結果的に本作は200万部以上を売り上げる大ヒットとなったが、この書籍化に踏み出した要因が、読者たちからの「お金がかかる」という要望からだった。当時はパケット定額制がなかったために携帯電話で小説を読むというのは、ページを更新するごとにパケット代がかかることから簡単ではなかったのだ。下手にネットを利用すると万単位の金額が発生してしまう。よって、Yoshiは作品の書籍化に踏み切り、結果として成功を得ている。
その後、パケット定額制がauによって導入された2004年、この頃から携帯電話から利用できるSNSやブログ等が登場しはじめる。その例の一つとして『恋空』が連載されていた魔法のiらんどの存在が挙げてみよう。mixiなどの大手SNSサイトも活動を始めた頃であるが、魔法のiらんどはSNSでありながら小説投稿機能を搭載していた。この後、モバゲータウン等を初めとするSNSサイトは小説投稿機能を順次搭載していき、一連の「ケータイ小説ブーム」を作り上げている。パケット定額制によって月額4000円程度で利用できるようになったことにより、『DEEP LOVE』で問題視されていた携帯電話から見ると多額のお金がかかってしまうという問題が解決したどころか、携帯電話から小説を執筆するという新しい執筆形態が生み出された。オンライン小説は本来、PCからキーボードによって打ち出される小説の形態であった。しかしここから、SNSサイトだけではなく、元々PCからの投稿を扱っていた小説投稿サイトも携帯からの接続を可能にし、オンライン小説は「携帯電話から」と「PCから」という二つの投稿形態を持つこととなった。この投稿形態は、PCの前という固定された場所でしか活動出来なかった執筆環境を、時や場所を選ばずに行えるようになるという変化をもたらした。
そして、もう一つ注目しなければならないのはユーザー層の問題である。総務省が調査した『通信利用動向調査報告書 世帯編』によると、2005年当時にパケット定額制に加入していた50パーセントは中高生が占め、年齢が増すごとに加入率は減少している。ケータイ小説がその内容について論じられる際、多くは「若者文化」であるとか、主なユーザー層が若者にあったからこその文化であると論じられているが、そもそもケータイ小説を不自由なく読むことの出来るパケット定額制加入者の半数が若者であるならば、そのような状況が作り出されてしまうこともおかしくはない。もちろん、その後にパケット定額制加入者は増加していき、高年齢層を除く大体の携帯保持者は利用することとなる。よって、時代を経れば経るごとに「若者文化」などという言葉は使い辛くなるだろう。だが、当時パケット定額制に加入していたほとんどが若者であったとすれば、同時にそれはSNSの利用者の年齢傾向でもあるだろう。つまり、新たな執筆の環境に「若者の」「アマチュア」が爆発的に増加したことを意味するのだ。
このように、オンライン小説は従来のPC投稿から活動の場を広げ、また本来執筆などということとはまったく無関係であったSNSユーザーをも巻き込んでいくことになる。そして、この現象こそが、オンライン小説の「いま」を作っていく。
2、SNSが設立した投稿機能の影響
まずは、元々インターネット上の小説投稿とはどのような場であったのか。それを少しだけ振り返ってみようと思う。
元を辿ればインターネット上の小説とは個人で運営するサイト上に掲載されるものが多かった。そのような個人サイトは検索サイト等に登録することで自身の作品を宣伝することで、かろうじてソーシャルな場に作品を置くことが出来ていた。その後、小説投稿サイトが登場したことにより、不特定多数の作家たちが一つの場に集まって執筆活動をするという場が設けられ、互いに感想などを送りあうことで切磋琢磨する形式が取られ始めた。しかし、そうした場であってもコミュニティは酷く小さく、作品という単一の存在が乱立しているような、ネット上でありながらソーシャリティとはかけ離れたものだったと言える。
サイトの多くがBBS(掲示板)の形態を持っていたことが、初期小説投稿サイトの主な特徴として挙げられる。掲示板と言っても、多数の人間が作り上げているTRPG的な要素(『リリイ・シュシュのすべて』や『まおゆう』などの掲示板を利用した読者参加型形式)はない。ただ、多くの作品が新作が投稿されるたびに画面上から流されていくという形が取られているのだ。一つの画面上に存在できる時間というのは限られており、作品は時間が経つごとに姿を確認することが困難になっていく。例えば、1998年から運営されており投稿サイトの中でも古参である「作家でごはん!」というサイトは、作品に対するコメント欄と小さな伝言板、そして新着順に並んでいる作品群によって構成されている。しかし、新着小説は常に更新されていくので、自分が投稿した作品が翌日には画面の1ページ目から消え去っていることはざらにあった。また、別途に用意された掲示板により一応のコミュニケーションは取れるものの、それは一言掲示板のようなもので、やはり作品の保存、コミュニティということを考えると最低限の形しか取られていない。ここに評価システムを加え、その中でも高得点の作品を殿堂入りとして無限に掲載する場を設けたのが「ライトノベル研究所」である。ここも同様に掲示板を設けて作家同士のコミュニケーションを支援したり、創作指南をユーザーの意見から募ってページを構成するなどの工夫をしているが、やはり作品が画面上から流されていくという現象だけはBBS形式を取っている以上どうしようもないことだった。
このような創作の場で活動してきた作家たちに対して、SNSとはどのような場であったのか。
SNSの大きな特徴は個人ページの存在である。中でも飛躍して大きな利用者数を誇るモバゲータウンは個人ページのほかに、アバターを設けることによってユーザー独自の自分を演出する手伝いをしている。mixiなど、他のSNSにも見られる通り、個人ページを構成する基本的な要素は「写真」「日記」「プロフィール」「コミュニティ」などが主である。そのすべてがユーザーを彩るステータスとなり、個人間コミュニケーションを円滑に進めるための手段となっている。小説投稿機能は、ここに加わって一つのステータスとなることが出来ているのだ。わたしは何々という小説を書いていますというのは、その特定個人に興味のある、または交流のあるユーザーにとって興味を引くものであるし、逆に小説から入ったユーザーが作家に興味を示すという逆輸入のパターンもあり得る。この戦略は意図的であるにせよないにせよ、自己というものを構成することに多大な意味を持つSNSにとって、とても有益な方法であると言える。SNSではそれまで執筆にまったく興味のなかったユーザーたちが多くを占め、先述したケータイ小説の流行も相まって、手軽に書けるという点から爆発的にケータイ小説家を増やすこととなった。
その戦略を知ってか知らずか、小説投稿サイトにも登録制のサイトが登場するようになった。2004年から運営を始めた「小説家になろう」というサイトでは「写真」という要素こそないものの、マイページにて自分の作品を完全に管理することが出来ていた。その後、多数の要素をマイページに加え、活動報告やプロフィールの設定、ツイッターとの連携などソーシャルメディアを有効に活用する形を取っている。また、作品が作者ごとに管理することが出来ているために、SNSのように作家に対するアプローチが容易になっている。BBS型では作家自身が自分のメールアドレスや管理しているサイトのURLを乗せなければ作家にコンタクトを取ることは出来なかった。しかし、マイページが出来たことでメッセージ受信ボックスが配備され、手軽に作家にコンタクトを取ることが可能になっている。
この受信機能がオンライン作家には割と重要な役割を果たしており、オンライン作品から作家へと繋がるラインはすべてのサイトが完備しているわけではないため、たとえ作家を発掘したとしても、必ずコンタクトが取られるわけではない。オンライン小説からデビューした作家は幾らかいるが、その中で自費出版や新人賞受賞作家でないものは少ない。2011年に電撃文庫から発売された『魔法科高校の劣等生』などは作者の佐島勤は活動報告の中で「編集者が見つけてくださった」とコメントしていることから、いきなりネット上からデビューした作家であることが分かる。また、大手コミュニケーションネットワークであるTwitterを活用する形で橙乃ままれの『まおゆう』などは、元々BBS型(2ちゃんねるのスレッドで執筆)だったものがデビューにこぎつけている。橙乃ままれはほか、『ログ・ホライズン』という作品の出版もしているが、これも元はインターネット上に上げられていた小説である。
SNSの利点とは、そういった作家・読者間のコミュニケーションの力にほかならない。BBS型を取る投稿サイトは主に作品保存の役割と他者からの評価を受け易い鍛錬の場としての意味が強いが、SNSによる投稿形式は作家というものをBBS型よりも強く押し出すために、そこには作品以外に「個人」の空間が存在する。今まで、読者が作家のことを知るということはほとんど出来ないでいた。「相手を知る」ということは人とのコミュニケーションを行う上で重要な要素である。SNSの小説投稿機能は、作品という空間に個人間コミュニケーションの場を設けた新しい形だと言えるだろう。
3、集団創作
映画『リリイ・シュシュのすべて』は掲示板で書かれた読者参加型の実験小説であった。基本的には作家の岩井俊二によって進行していくが、途中書き込まれた一般人のものも取り込んでいこうとしていた。作品の内容自体がインターネットを舞台としており、リアリティを演出出来る点など、作品単一で見ても実験的でありながら合理的な試みであったと言える。しかし、こうした試みはインターネットだからこそ出来ることであるものの、果たしてそれが新しいということ以外に何かインタラクティブな表現媒体として成果をあげたかと問われれば、少し首を傾げざるを得ない。世界観を共有したという点は究極的に言えばブレインストリーミング的な要素であるし、掲示板であるために厳密な意味で個人間コミュニケーションがあったとは考えにくい。結局、作家というものは大体単一の存在であったため、一部のコミュニティを持つものたちがリレー小説をしたり、素人が2ちゃんねる等の掲示板に書き込んで作っていくスレッドのようなもの以外で、真に作品を読者参加型にしたものはその後現れなかった。
対して、SNSの投稿機能はどうであっただろうか。リアルタイムで進行する連載小説は、一話が更新されるごとに読者のコメントが付く。それは単純な感想をはじめ、物語の内容に関する要望のようなものまで混じっていた。
読者のコメントに対して作家がフィードバックしていく形がインターネットの小説には多く見られる。無論、先述した通りコミュニケーションの一環として行われている活動なのだから当たり前と言えるが、先の展開が決まっている決まっていないに関わらず、読者の意見を取り入れながらリアルタイムで更新されていく物語は、まさに読者参加型の創作を意図しない形で成しえているのだ。掲示板を利用した読者参加型は集団創作の塊のような存在ではあるが、2ちゃんねる等の掲示板で作られる物語は、物語として認めることが出来ても小説の体を保っているとは言いがたく、やはりケータイ小説等に見られた現象と同様のものと扱うのは問題があると見えるので、初めにこれは別物であると明言しておきたい。
SNSにはコミュニティが存在している。それは、同じ趣味を持った人間を集めるサークルのようなもので、オンライン小説にも同様に「作家コミュニティ」が存在する。このことは今更語るまでもないが、その内容は大体が宣伝か、もしくは「私は~~という小説を書いています。興味があったら絡んでください」という自身のコミュニティを広げようとする行為である。こうした行為が作家のコミュニティを広げ、集団創作の環境を整えていく。
今から語るコミュニティはサイト側の運営が用意したものではなく、作家というワールドクリエイターを中心とした彼らの世界観に生きるコミュニティである。前述したような明確な枠組みのあるコミュニティを形成したのち、読者とコミュニティを巻き込んだ集団創作がはじまっていくのである。
例えば、ある作家の作品をお気に入り登録したSNSユーザーが百人いたとする。この百人には色々な知識や技術を持った人がいると思うが、恐らく自分が好んだ作品をお気に入り登録したに違いない。または、その小説の内容にある種の共感、もしくは作家の年代や経歴などに近い人間がコミュニティ内に集まってくる。そのコミュニティが作家の世界観を壊すことはない。
作家と読者があるコミュニティを形成すると、排他的な空間がそこに生まれる。いわゆる馴れ合いと呼ばれるものの原因となるが、双方に干渉しあっているために今まで作家と読者が保っていた距離感というのが一気に縮まっているため、現実に存在する友人間における喧嘩のようなものが、ネット上で発生するのだ。そして、ある作家の創作物の世界観を共有し合い、ここはああしたほうがいいだの、こうしたほうがいいだのと、切磋琢磨とも違う世界の構築が始まる。『リリイ・シュシュのすべて』のように実験的な試みではなく、自然とそうなっていく様が見受けられる。
これは、いわゆるマイページを持った者同士だからこそ生まれる交流の仕方ではないだろうか。先ほど排他的だと書いたのは、コミュニティを形成する上で自らの居場所に対して害のありそうな人物を徹底的に排除していくという試みが、ネット上でも行われるからにほかならない。書かれた感想を削除したりだとか、自らが求めていないコメントに対して辛辣であったりだとか、そういう行為が必要となってくる。自らが用意した世界観を破壊しようとする外敵を排除する動きが出てくるのだ。交流の取捨選択が、創作物の上で行われているのだ。明確な枠組みがあるわけではないが、それは確実に強固なコミュニティを生み出し、こうして完成したコミュニティによって作品は集団創作されていく。
二章 創作のコミュニケーションツール化
一節 ブログ化する執筆(?)
同じく紙媒体から電子メディアに取り込まれていったものとして、日記が挙げ、小説との比較を行っていこうと思う。日記は、日々の出来事を継続的に記録していくものである。小説と同じく、紙媒体によって書かれていた日記は、およそ人に公開されるべきものではなかった。完全にプライベートな空間に保管されるものであり、ましてや、自分に起きた出来事を整理する意味合いを持つ日記が「他者」を意識して書かれるということなどはほとんどありえなかっただろう。
しかしこれが、ネット上に乗って配信されるウェブログとして電子メディアに取り込まれたとき、日記は自己充足的なものであること以外に、他人とのコミュニケーションというものを前提とする書き方がなされるようになった。ただノートに記録するだけの日記であるならば5W1Hを簡潔に記すだけでもよければ、箇条書きでさえ構わない。記録することに意味があり、それ以上の目的を持たないからだ。しかし、web日記は公開設定を非公開にでもしない限りは常に人の目にさらされることになる。これはもちろん日記の執筆者も意識することとなり、結果としてブログ上の日記とは意識的であれ無意識的であれ、他者を意識しながら書かれた文章となる。私たちがネット上で書く「今日は何々がありました」という一文は、常に不特定多数の誰かを意識していると言える。2006年辺りではブログの利用者数は2000万人を超えていたという調査が総務省によってなされているが、この前後では多少特殊な職に就いているもの(風俗嬢など)の体験談を交えたブログが書籍化に至っていたりと、それは当人の日々を記したノンフィクションであるのにも関わらず、創作物として昇華されていたのだ。
web日記には恐らく二種類あり、先述したような特殊な体験談でドキュメンタリー的なエンタメ性を持った日記と、本当にただの一般人が書く日常を吐露しただけの日記だ。前者が懐古的な、自己の再構築であるとすれば、後者は現在の精神を排泄のように吐露するものである。大きく違うのは、前者はどんなネガティブな要素を含んでいても、ネット上に自身の体験を語る以上それはある種英雄譚的な意味合いを持つ。周りからの反応で自己を充足させる目的もあるかもしれない。しかし、後者はどこまでいっても発散行為である。英雄譚であれば多少修飾された文章にもなろうが、発散行為さえもそのままweb上に流すのではなく、ある程度の綺麗な形が作られている。口語調で荒々しく愚痴を吐いていようが、改行や句読点などの日本語の持つ文章の法則性などから脱出することは出来ない。web日記の特徴の一つでもある「コメント」が付けば、それに返信してしまうという空間的な行儀の良さなど、紙媒体の閉鎖された日記では決して起こりえなかったことが他者の目によって引き起こされている。これはもはやただの発散ではなく、自身のうちからこぼれ出すものを無意識の創作技術によって整えていると考えてもいいのではないだろうか。それは小説を書くという文章的な技術ではなく、他人から見られることを考えて書く、という技術のことだ。私たちは普段気にはしていないかもしれないが、例えば行と行の間にもう一つ改行を入れてみるだとか、文字のフォントや色を変えてみたりだとか、そういう創意工夫はただ吐き散らすだけの日記ではなく、創作的な面を持つと考えても不都合はないだろう。
web日記はコミュニケーションツールであるというのを今更宣言してもごく当たり前のことのように感じるが、紙媒体から発展していき、閉じた空間から開けた空間へと放たれた媒体の一つであることを忘れてはならない。発散行動が他者の目を介すことによって、ある創作的な面を持つことを認めた上で、一章で扱ったSNSを取り上げてもう一度考えてみたいと思う。
ここで一つ、ある現象を扱うことにする。ケータイ小説ブームがはじまり、多くのケータイ小説作家が増えた後、『恋空』を初めとする実話を元にした(本当かどうかは定かではない。実際、『恋空』は初めノンフィクション小説として発表されていたのにも関わらず、矛盾点などを指摘された後に「実話を元にした」と直されている)作品群、「リアル系ケータイ小説」というジャンルが蔓延した。売春や強姦、薬物、重い病といったような内容を扱った作品が爆発的にその数を増やし、一時期はケータイ小説と言えばこのような内容の小説なのだと思われてもおかしくないほどだった。1章でも触れたが、これらを論じる際、ケータイ小説の主なユーザー層が中高生の女性に集中していたのもあってか、時代背景を探った上での若者文化や、あるいは少女のリアルという観点によって語られてきたものである。もちろん、そのような一面は決して否定できるものではないし、それらは間違いなくケータイ小説を象ってきたものだろうとも思う。
私はSNSにおける小説投稿とは、マイページを作り出す上での一つのステータスとして数えられていると論じた。マイページには無論、日記投稿機能もあり、そういう意味でいえばこの頃のSNSユーザーは二つの創作を一つの媒体で行っていたといえる。先ほど日記に関しては少しだけ述べたが、日記という発散行動が他者の目によって創作性を帯びた反面、執筆という創作行動は逆に創作性を失ったのではないかと考えている。リアル系ケータイ小説という現象を扱うのは、この現象がただ単なる「流行」という言葉で片付けられるものではないと考えるからだ。
創作のネタとなるものは一体なんだろうか。恐らくは、自身の体験や空想力などが挙げられるのではないだろうか。では、その中でも自身の体験を「物語経験値」として考えてみたい。
物語経験値とは、作家自身が持つ今までに吸収してきたリアルやフィクションの知識としてまず定義してみたい。リアル系ケータイ小説の作家たちが持つ物語経験値を勝手に推し量ることはかなり印象的な話になってしまうが、ある程度の推測は出来るのではないだろうか。というのは、彼らケータイ小説作家たちにとってもっとも近くにあったフィクションの手本とは、ケータイ小説作家のサクセスストーリーであった『恋空』がまず挙がるからだ。次いで、『世界の中心で愛を叫ぶ』といったようなヒロインの死と恋愛が描かれた作品が爆発的なヒットをしているということ、『冬のソナタ』の事故、記憶喪失の要素を持った純愛ストーリーの流行、また当時流行したJ-POPの歌詞を引用しているケータイ小説作家も多く、このようなフィクション作品が時代の前後に多数存在している。この事実をケータイ小説家たちの物語経験値の平均として数えることで、ある程度の経験値を割り出すことが出来る。そして、これを引き出すのが、創作のブログ化である。
この節の初めに日記はweb日記へと移る際に、発散行動が創作性を帯びたと指摘した。そして、その逆に創作は創作性を失ったと述べた。それは、創作活動がSNSの中で「日記」と「小説投稿機能」が同じマイページのステータスとして扱われるうちに、その両方が互いに同一の性質を帯びてきたと私は指摘したい。
小説の執筆も究極的に考えれば発散行動の一つである。だが、小説を世に送り出し、評価されるものとして執筆している作家たちにとっては「空想と思想の発散」であり、自身の自我的な部分から湧き出るものではない。対して、マイページのステータスの一部として小説投稿をする作家の執筆とは、web日記に見られるような自己の発散ではないだろうか。
例えば、あるユーザーが小説を執筆してみようと思い当たる。まず、この発想は他者から小説の内容を評価されたいという願望から来るものとは限らないことを述べておく。これは、自身のステータスを広げ、その上でステータスを評価されることを望んで行っている行為である。というのは、1章で作家中心のコミュニティ形成の話をしたが、そのコミュニティで淘汰される人物というのは批評家やアンチといったような、作家の世界観を破壊しにやってくるものたちである。単純な小説の評価を受けたいのであれば多少自尊心が傷つくことはあっても、評価は糧になるという思考が作家にはあるため、疎まれることはあまりない。だが、ユーザーにとってステータスである小説が批評されるということは、ある種の自己否定を生み出している。これを排除し、コミュニティを形成していくのが特徴であると1章でも指摘した。
次に、ユーザーはどんな物語を書くかを思考する。この創作のプロセスに物語経験値が利用される。そして、web日記を書く「発散行為」として、創作がアウトプットされるのではないだろうか。これは、SNSの小説投稿機能のある種のライブ性が引き起こす創作行為である。更新速度が隔日から週一といったような速度で更新されるオンライン小説は、自身の作品を吟味する時間などほとんど与えられない。つまり、自身の中に「物語経験値」を利用したある物語が形成された瞬間に、アウトプットを行うという創作プロセスが取られているのではないだろうか。これでは、一日の出来事をまとめるために書く日記とほとんど変わらないプロセスを踏んでいることになる。
空想的な経験値が多く蓄積されているユーザーは空想的な物語を書くし、現実的な経験値が蓄積されているユーザーはリアルな話を書く。リアル系ケータイ小説は恐らく後者に当たるが、加えて空想的経験値がSNSコミュニティのサクセスストーリーである『恋空』のような物語に引き寄せられていくのではないだろうか。集団創作が引き起こすのは、既に形成されたコミュニティの創作に適応する経験値がワールドクリエイターとそれに参加するユーザーのものに傾倒することである。故に、『恋空』の出身地である魔法のiらんどではリアル系ケータイ小説が蔓延し、不思議な創作空間を生み出していたのではないかと、私は指摘したい。
捕捉のようなものになるが、これは何も魔法のiらんどだけで起こっている現象ではない。例えば、同じくSNS形式を取っている「小説家になろう」というサイトは一章で説明したと思うが、このサイトではファンタジージャンルの作品のランキング上位が、大体「異世界トリップ(異世界召喚もの)」もので占められているという現象が起きている。もちろんこのサイトはファンタジージャンルが特別発展しているサイトでもないし、異世界ものを推奨しているわけでもない。2012年12月に筆者が確認したところ、小説家になろうサイト内のファンタジージャンルにおけるランキングを少し抜粋してみると、以下のようになる。
1位『異世界迷宮で奴隷ハーレムを(異世界トリップ)』
2位『理想のヒモ生活(異世界召喚)』
3位『リアデイルの大地にて(VRMMO)』
4位『Arcana Online(VRMMO)』
5位『ウォルテニア戦記(異世界召喚)』
6位『この世界がゲームだと俺だけが知っている(VRMMO)』
7位『Knight's & Magic (異世界転生)』
更にTOP10までを眺めると、異世界トリップとVRMMORPG(Virtual Reality Massively Multiplayer Online Role-Playing Game)、つまり仮想空間での異世界RPGがすべて占めている。こちらは川原礫がネット上で公開し、書籍化からアニメ化までこぎつけ人気シリーズとなった電撃文庫の『ソード・アート・オンライン』からの流れだと考えてよいだろう。これは世間の流行に合わせたものだと言ってもいいと思うが、異世界トリップものはサイト内で一定の支持層を常に付けながらランキングを牛耳る形となっている。この現象については2節で論じるとするので、ここでは割愛する。
他者の目によって創作性を帯びたweb日記と、他者の目を借りて形成していく一部のオンライン小説は、似たような一面を持つ。元々プライベートな空間にあったはずの日記と小説はソーシャルメディアの中に取り込まれたとき、どちらもその性質を変化させた。流行という現象がある以上、似通った作品が多数世に排出されること自体は決して珍しいことではないが、オンライン作家たちがあるソーシャルな場に組み込まれていくことによって生み出された表現世界は、他者の目によって操作されていると言える。
2節 宣伝活動とタグ付け
1章で過去、オンライン作家たちが個人運営のHPで作品を公開していた頃、作品を読んでもらうためには宣伝サイトに登録する必要があると述べた。これはブログなども同様で、たとえ面白い記事を書いたとしても多くの人に見てもらうことは筆力だけではどうにもならない環境が今でも存在する。SNS環境によって作家同士がつながり、彼らが単一の存在として乱立しているような状況こそ回避されたものの、この膨大なネットワークの中で自分の作品を見知らぬ誰かに見てもらうというのは並大抵のことではない。
作家のインターネット上での宣伝活動には幾つかの形が存在している。一つはランキングサイトへの登録である。HPや作品のどこかにランキングサイトへ接続するURLやアイコンを設置し、読者にクリックしてもらうことでアクセス数を記録し、その数でランキングを集計して知名度を高めるものである。これはブログ等で多く使われており、宣伝効果はあるものの、人気ブロガーが結果的には上位を占めることになるという欠点を抱えている。小説投稿サイトが登場してからは、別に掲示板を設けて更新情報を書き込むことによって宣伝する形が取られた。これは投稿サイト自体が用意してる場合もあれば、有志が作り上げて運営しているものもある。今まで扱ってきた投稿サイトやSNSはすべて宣伝掲示板が個別に存在するほか、完全に独立して様々なサイトから宣伝するユーザーが集まっているところもある。ことSNSに関して言えば、彼らの作品の価値を決めるのはアクセス数が多くを占めているために、沢山の人に読んで欲しいと願うのならば宣伝は必須事項となる。自分が参加しているコミュニティの中で宣伝したり、Twitterなどで広く宣伝する必要が出てくるのだ。
膨大なネットワークの中で自分の作品を売っていくためには、書いて投稿するだけはどうにもならない部分が存在している。とにかく、目の付くところに作品を置かなければならない。だが、上記の手段を持ってしても、ある程度の自主性が必ず伴うために、そうでない作家たちは結局膨大な情報量に埋もれていくことになった。
しかし、それは投稿サイトを運営する側も懸念の一つであったのか、タグ(tag)というものが小説投稿の機能の中に登場した。これはSNS型投稿サイトのみが持つ特徴である。「付箋」という意味を持つこのシステムは、作品間の関連付けを行い、検索しやすくさせるためのものである。大まかな括りを例に挙げれば、「ファンタジー」「SF」「文学」といったようなジャンル分けもタグによって行われる。タグは作家自身が自由に設定できるもので、ジャンルや登場人物の要素、物語の傾向などを読者に分かり易く伝えると同時に、似た傾向の作品をそのタグから探すことが出来る。例えば、自分が書いている作品が感動する作品だということを売っていきたいのであれば「感動」というタグが付くし、ヒロインの立ち位置が妹であったりすると「妹」などというタグが付く。そしてそのタグを検索すれば、同様の要素を売りにしている作品にたどり着くのだ。
これは東浩紀が『ゲーム的リアリズムの誕生』の中で語っていた「データベース消費」的な考え方が出来る。キャラクターがいわゆる萌え要素の集合によって構成され受容されてきたという考え方をそのまま、作品が多くのタグ付けの集合によって構成され受容されたと考えることは出来ないだろうか。『動物化するポストモダン』のキャラクター消費の例で、「デジ・キャラット」というキャラクターは、「猫耳」「鈴」「メイド服」「アホ毛」といったようなオタク的要素から構成され、その後に物語が作られていると論じている。同様の考え方をオンライン作品のタグに関連付けて考えてみる。例えば小説家になろうサイト内で総合ランキング4位に位置し書籍化もされた『Arcana Online』のタグを見てみると、先ほど紹介した「VRMMO」をはじめ、「カード」「兄妹」「侍」「巫女」といったようなキーワードを確認することが出来る。「VRMMO」は先述した通り『ソード・アート・オンライン』の流れを見ることが出来、「カード」は「VRMMO」のゲーム性を表し、「兄妹」は主人公とヒロインの関係性、「侍」「巫女」はキャラの外見的、職業的要素を表している。特に「VRMMO」というデータベースの属性は、既に世に出ているプロの作品を参照しているため、「VRMMO」という要素は直接「『ソード・アート・オンライン』っぽい物語」という要素の消費行動を引き起こす。そしてこれが膨大な数の作品に見受けられる現状、「VRMMO」は既に解体され、オンライン作家たちに消費される存在となったと言っていい。
データベース消費的な一面を持つタグ付けという行為は、創作物に大衆性を帯びさせる。「VRMMO」というデータベースに管理された作品群、という枠組みに取り込まれることによって、作品は「VRMMO」好きのユーザーたちのコミュニティに放り込まれるのだ。それは「巫女」にしても「侍」にしても「カード」でも同じことで、つまりは読者を意識した戦略がそこに見え隠れしている。
話を戻すと、どうにかして読者に自分の作品を読んでもらわなければならない状況では、とにかく「分かりやすい要素」が読者に好かれる。ある種、ライトノベルがキャラクターのデータベースを参照としてキャラクターを立て、絵師などの力によって激しい力を伴ったデータベース消費を引き起こしているものだと仮定するならば、その現象が作品単位で行われているオンライン小説のタグ付けという行為は、消費という観点から見ればとんでもなく合理的な手法に思える。こうしてオンライン小説はついに、完全にソーシャルな空間に取り込まれていったのである。
3節 消費者観点から見たオンライン小説
今まで、作家の戦略や創作プロセスにばかり触れてきたが、これまでに何度も述べている通り、オンライン小説は作家と読者の関係性によって構成されているものであるために、作家だけではなく、読者のほうにも普通の紙媒体の小説を読むということとは違った消費の観点が見えてくる。
そもそも、オンライン小説は無料で読むことの出来る創作物である。発生する料金と言えば通信費くらいなもので、それも定額制によって解消された。つまり、根本からして書物である小説とは消費の形態が異なる。
注目したいのは、作品の中に見る作家の影である。私たちが読書する際、物語への没入をしているときに作者の影はちらつくだろうか。もちろん、好きな作家の本を読んでいる最中であれば「ああ、この作家はやっぱり面白いものを書くな」と思うことはあるかもしれないが、私たちが感情を移入しているのは登場人物であって作家ではない。基本的に私たちは作家のことを知らないのだから、創作物は創作物として楽しむだろう。ただ、オンライン作品は読者と作家の距離がほぼ存在しないことから、読了後、すぐに作家に感想を伝えることが出来るし、作家は公開した作品の感想が一日も経たないうちに返ってくる。また、作家が読者に公開しているプロフィールや日記、Twitterなどでのつぶやき等は、読者が創作物とともに消費していくものになる。
読者が何を消費しているのか、というのは難しい問題である。作家、作品がコミュニティやデータベース上に取り込まれていったのと同様に、読者たちもその場に取り込まれているのだ。先述した通り、作品がデータベース上で管理されるようになったことで読者が目当てである属性を持った作品を探し出すことは非常に容易である。しかし、読者はデータベース消費を行うと同時に創作物と作家の両方を消費しながらコミュニティを形成し、しかもそれは複数存在する。何も、ある一読者が「兄妹もの」の「純愛」を常に求めているわけではない。時には「勇者」が登場する「悲劇」のストーリーを求めていることもあるだろう。読者が求める作品のタイプを、この莫大な情報を管理するメディアの中でさえも探し出すことが容易になった現在、彼らの消費は飽和状態にあると言える。これは音楽メディアにも同様のことが言え、Myspaceなどの音楽SNSに見られる音源公開の場が増えたことや、youtube等の動画サイトが音源を扱っているために、音楽を求めるユーザーの手元にその音源が届かないということは、ほとんどありえない状況になっている。
こうなると、次に問題になるのはアマチュアが活動するオンライン小説という舞台はかなり重度の玉石混合の状態になることだ。もちろん、アマチュアが書いているのだからユーザーもそれは承知の上で利用していることだろうが、音楽メディアと違って小説は約4分半では何の感動も得られなければ、正確な作品への判断を下すことも出来ないという点だ。更に、音楽というメディアは「聴く」というモノ的消費行為に対しては敷居が低いが、「作る」となるとプロとアマのボーダーは強い線引きが生じるのに対して、オンライン小説は「読む」という消費行動に対して「作る」という行為が非常に近しい存在になっており、仮にデータベース消費が成り立っているのだとすれば、玉石混合状態を正しく評価することが困難になっている。オンライン小説のプロ・アマのボーダレス化が激しいのは、まったくの素人であったはずの人間が書いた作品が書籍化され、それが横書きであったり、ネット上での読みやすさを意識した改行がそのままになっていたりと、従来の小説と同じである必要がなかったことからも分かるだろう。作家の筒井康隆は2007年の『日経エンタテインメント!』の中で「表面的に似ていても本質的にレベルの違う作品の区別がつけられず、自分でも簡単に書けると思って(錯覚して)しまった。だからオンライン小説・ケータイ小説が生まれた」と発言しているが、これは、例えば「VRMMO」を消費する読者にとって、真に価値のあるものは物語の本質的な質ではなく、「VRMMO」であることにあると考えていいだろう。ここで重要なのは、読者が持つ「VRMMO」の基準となる価値観が時代で定められており、読者の基礎的な物語経験値として存在していることだ。そして、この「VRMMO」の価値観を、読者は作家と共有することになる。
しかし、この感覚は一人で楽しむものであっては意味がない。多くの同様の消費者がメディアの中で消費者の隣にいることが大切である。お笑いの舞台を見ているとき、観客が一人であったら私たちはきちんと笑えるだろうか。ある種、笑いは周りの笑い声によって誘発されるものでもある。小説は読んでいる最中は決して誰かと共有し合うことのできないものだったが、作家に読者がいるように、読者にも同じものを読んでいる読者がリアルタイムで存在しているのだ。その価値観の共有が、読者にとっては何より新たな体験であったと言えるだろう。
3章 表現世界の変化
1節 共有される創作世界
ここまで私は、電子メディアに取り込まれたオンライン小説がどのような性質を帯び、どのように消費されていったのかを論じてきた。オンライン小説は兎にも角にも、膨大な情報が行き来するインターネット上で埋もれないために、コミュニケーションを強要される場へと放り出されてしまったといっていいだろう。それは、本来個人の空間の中でゆっくりと熟成を待つように創作されてきた文学が、他者の中に共有されていったことを意味するのではないか。既に何度も述べたが、作家はワールドクリエイターである。ただし、それは実際に商品として読者の手へと届けられてから共有されるもので、決して創作の段階で共有されるものではなかったはずなのだ。創作という表現世界は確実に変化した。元々他者が介入する余地のなかった小説という書物の創作は、ソーシャルメディアの中で自己の世界から飛び出していった。
オンライン作家と読者の関係を「コール&レスポンス」の状態にあると指摘したい。コール&レスポンスとは本来、アーティストの呼びかけに対して呼応する形で演奏を継承していく楽式であるが、今回想像して欲しいのはもっと俗な例である、音楽アーティストのライブでのアーティストと聴衆の楽曲中のやりとりだ。例えばヒップホップアーティストのライブで「言えよ、say ho!」「ho!」というやりとりを聴いたことがないだろうか。このやりとりこそがコール&レスポンスである。一体何の話かと思うかもしれないが、コール&レスポンスにはオンライン作家が持つ独特の空間性が秘められている。
元々、ライブで壇上に立つアーティストと聴衆は同じ空間にいながら別の存在である。それはエンターテインメントの発信者と受け手の関係と同様に、基本的に聴衆は聴衆であってエンターテイナーではない。しかし、コール&レスポンスはそれを一体化させることが出来る手段である。一つの楽曲の中でアーティストが聴衆に何かを呼びかけ、それに呼応する形で聴衆が何かを言う。この対話が完成してはじめてその楽曲は完成するのだ。そこには、アーティストのものであった楽曲が、ライブという空間の中で聴衆と共有された瞬間が存在する。逆に、聴衆はその楽曲が自分たちのレスポンスを期待していることを知っている。とある段階までアーティストが作り上げた楽曲を、自分たちが完成させることを知っているのだ。現在では、アイドル系グループや声優などのライブに見られる「オタ芸」と呼ばれる動きも一つのコール&レスポンスであろう。アーティストと聴衆が一体となって楽曲を作り上げる空間が、そこには存在している。
オンライン作家はインターネット上で作品を連載し、宣伝し、コミュニケーションを取っていく中で、読者との世界観の共有が行われていると論じてきた。一話更新するたびに、世界観を共有するコミュニティの仲間たちから感想や意見が寄せられ、それに答えていく形で連載を続ける作家と読者の関係性は、このコール&レスポンスと一致しないだろうか。集団創作の空間は、決して一方通行ではない。ワールドクリエイターが作り出した世界観の中で、読者は同時に、ワールドクリエイターに世界を与えている。共有される創造世界とは、ワールドクリエイターの世界観がコミュニティに共有されるのではなく、ワールドクリエイターを含むそのコミュニティ内部の表現世界を共有する。アーティストが行うコール&レスポンスにしても、楽曲の世界観を与えられているのは何も聴衆だけというわけではないだろう。アーティスト自身、コールをしたらレスポンスが返ってくる、その一体感を聴衆から与えられているのだ。
ところで、ソーシャルメディアには集合知という概念が存在する。多数の人間があるサービスに様々なコンテンツを集合させる。youtubeであれば動画を、Flickrであれば写真を、wikipediaのようなネット百科事典であれば各人の知識を集合させている。集合知には四つの条件が必要とされており、ジェームズ・スロウィッキー氏の『『みんなの意見』は案外正しい』の中では、以下のように語られている。
「意見の多様性(それが既知の事実のかなり突拍子もない解釈だとしても、各人が独自の私的情報を多少なりとも持っている)、独立性(他者の考えに左右されない)、分散性(身近な情報に特化し、それを利用できる)、集約性(個々人の判断を集計して集団として一つの判断に集約するメカニズムの存在)という四つだ」(ジェームズ・スロウィッキー 2006)
百科事典wikipediaなどは意識すればこれに当てはまることがすぐに分かる。そして、様々なサービスはコンテンツを各人から集合させることにより、この集合知のシステムを作り出しているとも言える。これらと同様に、小説投稿サイトも各人から「小説」というコンテンツを集合させ、一種の集合知を作り出していると言えそうである。がしかし、SNSのようなある程度の個人間コミュニティを形成し、コール&レスポンスのような創作のライブ性を帯びてくると、これは「集合愚」に当たるものへと変貌する。
集合愚は明確な定義を行えないが、「衆知=集合知」に対するものとして「衆愚=集合愚」という見方が一般的なようである。ある、コンテンツや各人の意見や言葉を集めているサービスの中で、私たちがどのようにそれを活用しているのか、あるいは活用するのかは、私がこの論文を書いている際に幾つものwebページを閲覧していることからも、重要な集合知と集合愚を分ける問題である。
百科事典wikipediaは、論文を書く際によく教授などから「参考にする分には構わないが、鵜呑みにしてはならない」と言われるが、それは何故か。もちろんそれは誤った情報が散見されているからでもあるが、これは私たちが集合愚に落ちるからである。wikiのような集合知の特性を持ったものは、先述した四つの条件の中にある「集約性」の性質を持っている。つまり、wikiから意見を引用するというのは、集合知によって集まった各人の意見を引用しているのではなく、ネット上でシステムが集約させ平均化を取ったものを使うということになるからだ。集合愚の話題をすると、現在では脱原子力発電の話題がよく挙がるが、それは例えばテレビで放映される「脱原発」「反・脱原発」というキーワードが原子力発電問題の平均化された意見の一つであり、私たちはまるで自分の意見かのようにその言葉を利用する。がしかし、それは前述のwikiから引用した意見とまったく同じプロセスを辿る行為であり、私たちは「考える」という個人の行為を省略化されている現状が見受けられる。
オンライン小説のコール&レスポンスのシステムは、統合された価値観の集約が引き起こすものであるが、1章2章と論じてきたSNSに取り込まれたものの特色は集合愚によって成されている危険性がある。そうなれば、作家の創作行為は「考える」というものを集合愚によって省略化されてしまっているとも指摘できるだろう。ある種それは、熱狂的なアーティストのライブの中にいる感覚なのかもしれない。果たしてそこで何が起きているのかを理解しないまま、コール&レスポンスを行えば、共有された創作世界は集合愚の一途を辿る。美しいともいえる一体感の中で、作家たちは愚の中に取り込まれないように意識する必要があるのではないだろうか。
2節 オリジナル救済計画
東浩紀の『動物化するポストモダン』の中で、ジャン・ボードリヤールのシュミラークルというポストモダン社会に作品・商品の原作と模倣の区別が困難になる現象が取り上げられているが、オタク社会の一面を少なからず持っているオンライン小説では、確実にその特色を持っている。2章で扱った「VRMMO」の話題にしてもそうだが、2010年にライトノベルの出版社の一つであるGA文庫の編集者がTwitter上で「第1回(GA文庫対象のこと)後期から、第2回の頃に多かったのは「禁書っぽいの(鎌池和馬『とある魔術の禁書目録』のこと)」。」とつぶやいている。突然この時期になってその現象が起きたのは、『とある魔術の禁書目録』がアニメ化され放映されていたことで知名度が高まったからだと思われるが、この流れは西尾維新や京極夏彦に森見登美彦、もっと言えば村上春樹のような作家も同様の現象を引き起こしている。西尾維新であればその文体や強烈な個性を持つキャラクターを模倣していると思われる作家たちのことを「西尾チルドレン」と呼んだり、村上春樹はその生き様さえも「ハルキスト」なる人々に模倣されている。『戦国BASARA』などが流行り始めれば歴女なる人物たちが姿を現しはじめ、いまに至るまで戦国時代や新撰組、大奥に三国志といった歴史上の題材を扱う作品が急増していった。
私たちの「オリジナル」とは、一体どこへ消えていってしまったのだろうか。ネット上に挙げられていた「ネットワーク社会の自我と表現 ~新しいメディアと文学~」という論文に、「ミニオレ」という概念が登場するのだが、これを用いて論を進めてみよう。
ミニオレは訳せば「ミニ=mini(小さい)」「オレ=俺(自分)」のことであるが、筆者のモフモフ氏がこう定義している。
「自分の創作欲求が、友人との日常会話の最中に、図らずも少しずつ零れ落ちていく様を、自分の創作欲を実体化させたような小さな分身が逃げていくという比喩で表したのが、始まりである。自我の断片とも言うべきものだろうか。」
この論は2000年に書かれたもので、まだSNSなどが発展する前の論であるから、非常に先見性に富んだものである。インタラクティブ性、ライブ性を持った創作は論じてきた通り、オンライン小説ではもはや当たり前の存在となっている。これは創作意欲だけの問題ではなくなってきているのだ。私たちが普段友人などとリアルで会話をするコミュニケーションの場は、ソーシャルメディアの中に確実に移りつつある。単純に、ミニオレを発散する場が増えてきているのだ。
ミニオレが発散されると、本来自分の中で熟成させなければならない創作の自我がどんどん薄れていく。その逆に、創作のために取り込むデータベースは十二分とも言えるほど完備されている現代では、恐らく創作の反転が起きている。熟成させるためのミニオレはソーシャルメディアによって消費されていき、その分創作を行うためのミニオレの代替物が集合知のメディアによってもたらされている。ただしそれは、既に誰かの集合意見として構築されたwikiであったり、ボードリヤールの言うシュミラークル的なオリジナルなき二次創作物であったりと、直接ミニオレの代わりにはなれない情報がなだれ込んでくることになる。結果、作家の中からオリジナル性は薄れていってしまうのだ。
もはやソーシャルメディアが私たちの生活の中に当たり前のように存在するようになった昨今、この現象から脱却することは不可能であると思われる。では、オリジナルを失わないためにはどうしたらよいのだろうか。
この情報社会の中で集合愚に陥らないことが、恐らく重要ではないだろうか。発達した電子メディアによって多数の意見や知識を取り入れることができるようになったということ自体は、何も害をなさない。ミニオレの過剰な発散によって自我の断片が次々と零れ落ちていく現象も、その代替物がしっかりとミニオレの代わりを成せば問題ない。同じような設定を持つ作品が溢れかえることも、時代を考えれば仕方がないことだと言える。だが、私たちがそれをまるで当たり前のように考え、無思考のままに受け入れてしまうことは、最終的に無視できないほどにシュミラークルに支配された世界になってしまうことを意味しないだろうか。集合知と集合愚の境は非常に曖昧で、たった一つの意識が「知」を「愚」に変えてしまう。それらをきちんと選択し、正しくミニオレとして吸収していく必要があるのではないか。
人間の経験や知識はそのまま創作に流用されることが多い。しかし、他者の知識のままにものを扱えば、それは集合愚であるのだ。オリジナルとは何かの模倣であったとしても自身のうちから出てくるものでなければ認められない。作家自身のオリジナルというものを、読者にも正しく認識してもらえれば、それは正しいオリジナルへの回帰となるだろう。
結論 機能的メディアの可能性
結局、ソーシャルメディアに取り込まれた表現世界はどうなったのだろうか。ここで一つ、作家である村上春樹の言葉を引用してみようと思う。
「物語を書いていくことは、自分の魂の中に降りていく作業です。そこは真っ暗な世界。生と死も不確かで混沌としている。言葉もなければ、善悪の基準もない世界」(信濃毎日新聞,2008.3.30)
この言葉は、ユングの集合的無意識を思わせるようなアプローチで表現されたものであるが、ソーシャルメディアに取り込まれた創作は、果たして「自分の魂の中に降りていく作業」と言えるのだろうか。むしろ、オンライン作家たちが降りていくのは様々な情報メディアによって作り出された創作のデータベース的な世界ではないだろうか。自身のうちから「降りていく」と表現するほど深く、静かに創作を思うことは、恐らくオンライン作家たちには許されてない。自己的な世界に生きることが従来の小説家たちが行ってきた創作の形なのだろうが、他者の目の力の強制力によって、インターネットに存在している限りは創作がその力の下から解放されることはありえないだろう。
ならば、オンライン作家たちはそれを正しく利用しなければならない。電子メディアは常に進化し続けている。いまや携帯電話はスマートフォンやタブレットへと移り、機能的には既にPCと何ら変わらないレベルまで高まってきている。ネットワーク機能の一切を廃し、メモ帳と辞書の機能しか持ち合わせていない小型デジタルメモ帳の「ポメラ」の登場など、執筆環境はいまだに変化を遂げている。
Twitterや動画サイトなどの発展も執筆環境を変化させるだろう。Twitterでは既に、「ツイノベ」と呼ばれる120字程度の小説を投稿する文化が存在しているし、最近では『ニンジャスレイヤー』という、外国の作品をTwitter上で翻訳し連載するという形態を取っていた作品が書籍化されるなど、どこからどんな作品が生み出されるかまったく予想もつかない。動画サイトではVOCALOID文化がcosMo@暴走Pの楽曲『初音ミクの消失』のノベライズや、世界観を同じとしたじん(自然の敵P)の楽曲群が『カゲロウデイズ』としてノベライズしたりしている。小説投稿サイト「ラノベジェネレーション」では挿絵がつくことを前提とした創作を行っており、ネット上のコミュニケーションを上手く利用した試みがもたれている。イラスト投稿サイト「pixiv」でも小説投稿機能が実装されたりと、ほかジャンルとの結びつきもこれから増えていくことだろう。
作家たちは、これらを取り込んでいく姿勢が必要であると言えるだろう。例えば、筆者の友人はヴィジュアルノベルゲームを製作しようとした際に、一般的な販売方法であるDVDでの販売をまず第一に排除し、携帯電話やスマートフォンのアプリか、実現できるのであればタブレットを利用したいと口にしていた。そして、その宣伝方法はニコニコ動画で画面そのものを公開し、具体的な情報拡散はTwitterで行うらしい。もはや、他者の目が集中している場に身を自ら置き、その間に他者から寄せられたコメントなどを取り入れていくことが可能なのである。
多少悲観的な目で論を進めてきたと思うが、メディアの進化に伴う表現世界の変化は、むしろ好意的に捉えることができるだろう。私たちが他者との繋がりによって得られるものは手に余るほど大きい。絵師やプログラマーとの共同制作も可能であろうし、既に成功している作家たちとの繋がりも、今まで紙媒体によってただ新人賞や新聞社に投稿するだけではない、世に出るための大きな門ができあがったのだ。物語表現はいま、インターネットの存在によって様々な形に変容することができる。むしろ、これからの時代こそ、彼らオンライン作家が求められるものとなっていくのではないだろうか。
【邦文単行本】
本田透(2008)『なぜケータイ小説は売れるのか』ソフトバンククリエイティブ
速水健朗(2008)『ケータイ小説的。――”再ヤンキー化”時代の少女たち』原書房
大塚英志(2001)『定本 物語消費論』 角川文庫
東浩紀(2001)『動物化するポストモダン オタクから見た日本社会』講談社
東浩紀(2007)『ゲーム的リアリズムの誕生』講談社
石野純也(2007)『モバゲータウンがすごい理由~オジサンにはわからない、ケータイコンテンツ成功の秘訣~』マイコミ新書
ジェームス・スロウィッキー,小高尚子訳(2006)『「みんなの意見」は案外正しい』角川文庫
山下清美・川浦康至・川上善郎・三浦麻子(2005)『ウェブログの心理学』NTT出版
信濃毎日新聞(2008/3/30)『村上春樹さんインタビュー』信濃毎日新聞
【webページ】
平成17年通信利用動向調査報告書世帯編 総務省 <http://www.soumu.go.jp/johotsusintokei/statistics/pdf/HR200500_001.pdf>2012年10月30日
「ネットワーク社会の自我と表現」1 <http://www2.plala.or.jp/mofumofu/thesis01.html>2012年7月22日
【文字数】23110字