雨上がりの匂い
夕立というのは本当に面倒なやつだ。
どんなに晴れていたとしてもあっという間に雲がかかり、運悪く屋外にいた人達を瞬く間に濡れねずみにしてしまう。そして、またすぐに去っていく。
まるで、気まぐれな女みたいな、夕立。
「あ、夕立だ」
由衣が窓の外を見て呟いた。
僕もその声ではっと現実に引き戻された。この世界にいるのは僕と由衣だけではないという、ごく当たり前のことを思い出す。
「ねぇ、もうちょっとだけいてもいい? 夕立が止んだら、すぐに帰るからさ」
「あぁ、構わないよ」
さっきまでは、いつまでもここに居続けると主張するような顔で僕の隣にいたのに、事が終わるとこれだ。何て味気ないんだろうか。
けれど、仕方ない。彼女の性格など、とうに分かり切っている。彼女はそういう女なんだ。
彼氏という尊重すべき存在がいるにも関わらず、彼女は僕に近付き、僕と情事に及ぶ。もう何度目のことか分からない。彼女とセックスした回数を数えるのは、途中でやめた。
別に彼女と付き合いたいとは思わない。こんな女と付き合っても苦労するに決まってる。分かっているのに、僕には彼女が魅力的に思えて仕方ない。
けれど、僕が彼女を支配していられるのはベッドの上で体を重ねているときだけだ。
半裸のまま、僕に背中を向けて座り窓の外を眺めている由衣。白くて華奢な背中。ぽっきりと折れてしまいそうな首筋。その後ろ姿を見つめているだけで、体が疼く。僕は彼女と愛し合いたいんじゃない。自由気ままで気まぐれな彼女を拘束し、支配したいんだ。
「なぁ」
「ん?」由衣が振り向く。僕と目が合う。
「お前、ずっとここにいろよ」
「え? 何言ってるの?」
冗談やめてよ、と彼女は乾いた笑い声をあげた。
「割りと本気なんだけど」
——雨音がやけにうるさく聞こえる。耳障りな、ザラザラした音質。僕と由衣の世界が邪魔されている。
「どうして……?」
由衣は何処か悲しげな顔で小さく呟いた。僕に向けられた、余りにも剥き出しな言葉。
瞬間、僕に向けられた軽蔑の眼差し。僕を打ちのめすにはそれだけで十分だった。
「冗談だよ。本気にすんなって。お前にはあいつがいるじゃねーか」
そう、笑って誤魔化そうとしたのに、由衣は何も言わない。軽蔑のそれとはまた少し違う、冷めた瞳で空を見つめている。
「本当に、冗談なの?」
また一段と小さな声で彼女は呟く。雨音にかき消されそうなほど、小さな声で。
「当たり前だろ? 冗談じゃないとお前困るだろ」
「そう……だね」
俯いたまま、由衣はすっと立ち上がった。かと思うと、すぐに服をかき集め始めた。何も言わずに、無駄な動きも一切なく、てきぱきと彼女は動いている。終始俯き加減で、無言で。
そんな悪い冗談を言ってしまったのだろうかと、僕は不安にならざるを得なかった。いや、僕としては本当に冗談と受け止めてくれればありがたいと思って口にした本心だったのだが。
彼女が着替えている間、何度か話しかけてみたが反応はなかった。
「帰るね」と、唐突に彼女は言った。
「え? あ、うん……でも雨が」
「もう止みそうだから大丈夫。ありがとう」
そう言われて窓の外を見ると、いつの間にか雨は止み、雲の隙間から光が漏れ出していた。
「本当だ」と僕が呟くのが早いか否か、彼女から目を離した一瞬の隙に、由衣は僕の部屋から出て行ってしまった。言葉通り、逃げるように。
心なしか彼女の声は震えているような気がした。僕に背中を向けて話していたので表情は分からない。——泣いていたんだろうか。
泣いていたとしたら、何故?
僕はいても経ってもいられなくなり、アパートの前の通りを見渡せるベランダに飛び出した。由衣が泣いているのか、ただそれだけを確かめたくて。
通りには、由衣がいた。早歩きでこちらを見向きもせず歩いていく。タイミングが悪かった。また顔を見ることが出来なかった。
頭を抱え、その場にうずくまった。どうしたらいいのか分からない。何か取り返しのつかないことをしてしまった気がする。
頭を使ってきちんと考えたいことがたくさんあるのに、雨上がりの匂いが邪魔をする。
優しいようでいて、刺激的な、体の何処かをくすぐるような雨上がりの匂い。この匂いに、由衣の匂いが混ざっている気がする。懐かしくて、でも今までに知ることのなかった不思議な匂い。
夕立に打たれた訳でもないのに、僕は濡れていた。
了
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