前編
森の中にぽっかりと広がる林間地。木苺の茂みからは甘酸っぱい香りが漂い、小川の水がさらさらと流れる音が心地良い。足元の芝はやわらかく、午後の日差しも暖かい。ごろりと仰向けになって寝転がるにはこの上なく快適な場所だった。
その林間地に、少年が1人と、少女が1人。並んで座っている。
「セーナ、歌ってよ。」
「ここじゃだめよ。森の魔物が寄ってきちゃうじゃない。長老にもだめって言われているのよ。」
「そっか。あーあ、聞きたかったなぁ。」
「ルインこそ、魔法の授業、戻らなくていいの?」
「別にいいよ。僕、今日の授業でやることも全部できるからさ。」
少年の名は、ルイン。まだ魔導師見習いだが、魔法の才能にあふれ、天才や神童と呼ばれている。隣にいる少女はセーナ。村の歌姫で、妖精のような美しい声を持っている。こちらも天才と呼ばれている。
「セーナこそ、こんなところで遊んでていいのか?」
「大丈夫よ。長老も大魔導師も、お昼休みだから気づいてないわ。」
歌姫は、村の中の何人もの少女の中から、たった1人だけ選ばれる。そして、選ばれた少女は村の長老と大魔導師が暮らす屋敷の一角に住み、毎日歌と神の教えを学んで暮らすのだという。さらに、魔導師以外の者とのかかわりを断絶しなければならないという厳しい掟がある。しかし、歌姫に選ばれるということは最高に名誉なことなのだ。
「そういえば、セーナ。前から気になってたんだけど、『森の魔物』って一体何なの?」
「ルイン、知らないの?」
「あんまり昔話とか聞かなかったからさ。よく覚えてなくて。」
「もう……。」
2人の住む村にある、伝説。
昔、この地に魔法と歌を愛する神が降り立ち、人々にこう告げた。
『歌を愛せよ、魔法を愛せよ。我はこの地に恵みをもたらす神なり。我は汝らに力を授ける。この地に生き、この地に没し、歌と魔法を広めるがよい。』
人々はその神の言うとおり、歌を愛し、魔法を愛し、この土地に住み着いた。すると不思議なことに、災いという災いは全て起こらなくなり、驚くほどの勢いで村は豊かになっていった。その頃に、魔導師の学校が設立され、歌姫を選ぶ風習も確立されたという。
しかし、ある時、思いもよらぬ事件が起きた。
夏の祭。毎年、森の中の林間地に祭壇を組み、やぐらを建てて行われる、神への感謝の儀式。歌姫は祭の最後の夜にやぐらへ登り、神へ感謝の歌を捧げる。
その感謝の歌の儀式で、事件は起きた。
真っ白な衣装に身を包んだ歌姫が、やぐらに登る。
神への祈りを捧げて、天使のような歌声が響いたその瞬間だった。
「グルルルルルァァァ!」
真っ黒な体に、赤くぎらぎらと光る目。背中に生えた禍々しい翼。手には鋭く長い爪。魔物としか言いようのないその恐ろしい姿に、歌姫も、人々もみな凍りついた。
そして、次の瞬間、歌姫と魔物は人々の前から消えていた。
初夏の柔らかな風が過ぎていく。
「……その魔物はね、最初に出てきた神様の魔法で封じ込められていたんですって。」
「へぇ……。」
セーナはどこか遠くを見ながら話していた。
「それで、続きはあるの?」
「うん。」
セーナは再び話し始めた。
歌姫を奪った魔物は、村を破壊し、人を殺し、暴走した。
再び、魔物を封印するために、村の魔導師という魔導師が集まって、歌姫を奪われたその土地いっぱいに魔法の環を描いた。
そして、魔物が再び林間地に足を踏み入れたそのとたん、まばゆい光が当たりを包み込み、魔法の力が魔物を地下の奥深くに封じ込めた。
それ以来、歌姫はこの森で歌うことを禁じられている。
魔物が再び、地上に姿を現さないように。
「ルイン、ここで歌っちゃいけない理由、わかった?」
「うん。……でも。」
「でも?」ルインはかかえたひざにあごを乗せて言った。
「どうしてその魔物、倒さなかったのかな?力のある魔導師がいっぱいいたなら、それくらいやっつけられるだろ?」
それもそうね、とセーナは微笑んだ。
「きっと神様のお告げがあったんじゃないのかしら?魔物を殺してはいけない、って。」
「そうかもな。うん、きっとそうだ。」
今座っているこの土の下に、恐ろしい魔物が眠っている。そう考えたら、少し怖くなってしまった。でも、こんなこと、セーナに言ったら笑われちゃうな。
「ねぇ、ルイン。」
「ん?」
「あと何年なの?」
「……あぁ、それか。」
セーナが言っているのは、魔導師の掟のことだ。
魔導師の道を選んだものは、幼い頃から魔法を学び、18になると旅に出なければならない。それは、魔法を極めるための修行で、どんなに危険な場所へもたった1人で行かなければならない。旅に出たきり帰ってこない者も多くいる。そして、一定の期間が過ぎると、再びこの村へ戻ることができる。その時には、大魔導師として屋敷に住むことが決まっている。
「あと、5年だな。」
「そっか……。あと5年なのね。」
そう言ったセーナの表情は、どこか寂しげだった。
「大丈夫だよ。あと5年、もっと魔法の勉強するんだからさ。きっともっと強くなるさ。」
「そうね。ルインなら大丈夫ね。」
風が吹き、さわさわと森の木が揺れた。
「そろそろ戻ろうかな。見つかったら怒られるわ。じゃあ、またね。」
「またね。」
セーナは長い藍色の髪をなびかせて、村のほうへ走っていった。
「……あと5年か。」ルインはつぶやいて立ち上がり、魔法学校のほうへ歩いていった。
「魔導師ルイン、そなたに旅の杖を授ける。魔法の道を極め、自らの鍛錬の旅に出よ。」
真新しいローブに身を包んだルインは、ひざまずいてその杖を受け取った。
18歳になった、穏やかな初夏の日。ルインは修行の旅に出る。
「では、行くがよい!そなたの身に神の御加護のあらんことを!」
村人たちに見送られ、ルインは村を出た。
村のはずれの、林間地。あの日と同じ、穏やかな陽の光が射していた。
「ルイン!」
「セーナ!?」
林間地に立っていたのは、歌姫、セーナ。
「……どうして、ここに?」
セーナに歩み寄り、たずねた。
「見送りに来たのよ。」
「でも、セーナ、お前……。」
本当なら、セーナはここにいてはいけないのだ。長老たちの屋敷で、旅人への祈りを捧げているはずなのだ。
「だって、歌ってあげたいんだもの。ルインのために。」
「え……?」
「あの日に言ったじゃない。私の歌が聞きたいって。だから私、ルインのために歌を作ったのよ。」
あの日から5年間、俺とセーナは数えるほどしか会っていない。
「だって、ここ……」
セーナが話してくれた、魔物の森じゃないか。
俺がそう言うと、セーナは微笑んで、言った。
「そうよ。だから、ルイン、守ってよ。魔法で私のこと、守って。」
失敗したら、俺はセーナはもちろん、故郷であるこの村をも傷つけることになる。
「……わかった。」
この頼みを断ってしまったら、俺が俺でなくなってしまうような気がした。セーナを裏切ってしまうような気がした。
さっき貰った旅の杖で、大きな魔法円を描く。セーナを守れるように。魔物が暴れないように。魔法の記号や呪文を書き加え、自分が知っている限りの守りの呪文をかけると、魔法円は白く輝いた。
「歌うわね。」
俺は力強くうなずいた。
セーナが大きく息を吸い、俺のための歌を歌う。
力強くて、優雅で、直接心に響いてくるような、素朴な歌だった。セーナの歌声は、どこまでも広がっていくようだった。
歌が終盤に差し掛かったところで、俺は異変に気がついた。
さっきまで力強く輝いていた魔法円が、弱々しく明滅している。
「セーナ!やめろ!逃げるんだ!」
遅すぎた。
魔法円は壊れ、地の底からうなり声を上げて黒い影が現れた!
「セーナ!」
黒い影、魔物がセーナに近づいてくる。
「逃げろ!セーナ!」
攻撃の魔法を投げつけるが、効かない。
「ルイン!」
魔物から発せられる生温かい不気味な風で、藍色の長い髪がなびいている。セーナが俺に助けを求めて手を伸ばす。俺がセーナの指先に触れた瞬間、目の前を黒い影がよぎった。
「嘘だ……。」
消えた。
魔物はセーナもろとも消え去った。
「セーナ……。」
俺のせいだ。俺の未熟な魔法のせいで、セーナは……。
壊れた魔法円の上にくずおれた俺の耳に、声が聞こえた。
「ルイン!」
「セーナ!?」
確かにセーナの声だ。
「セーナ、無事なのか!?どこにいるんだ?セーナ!」
「ルイン、逃げて!」
彼女の姿はどこにも見えない。
「お願い、逃げて!」
「でも……。」
「いいから早く!逃げて!!」
セーナの切羽詰った声に押されるようにして、俺はその場を逃げ去った。
俺は、セーナを殺してしまった。
唯一の親友だった、セーナを、俺が殺した。
「俺のせいだ……。」
俺のせいで、セーナは……。