「用済み」と言われた庶子メイド、八年分の経験を引っさげて転職したら、侯爵家のご子息から求婚されました
「ご主人さま。馬車を用意してあります」
朝食を終えた父に、ソフィアは声をかけた。
「馬車?」
「はい。本日から三日間、王都中央通りで収穫祭がございます。十時を過ぎますと混雑しますので、九時には出られたほうがよろしいかと」
「ああ、そうか。今日は伯爵との会談だったな」
「はい。先方には十時半に到着するとお伝えしてあります」
「分かった」
父――マルール子爵は、立ち上がった。
「お父様!」
そこへ、明るい声が飛んでくる。
異母妹のカミラだった。
「カミラ。どうした?」
「見てください! 昨日いただいたの!」
カミラが胸元のネックレスを見せる。
「ほう。綺麗じゃないか」
「でしょう? 伯爵家御用達のお店で選んでくださったんですって!」
「さすがは伯爵家のご子息だな。お前ももうすぐ伯爵家の一員か」
「もう、お父様ったら」
父は嬉しそうに笑った。
「可愛い娘が立派な家に嫁ぐのだから、父親として鼻が高いよ」
「ご主人さま」
「なんだ?」
「そろそろ出られたほうが」
「ああ、そうだったな」
父は時計を見る。
「では行ってくる」
「いってらっしゃいませ」
「お姉様」
カミラがソフィアを見る。
「私のお部屋のお掃除、もう終わった?」
「はい、カミラさま。朝のうちに」
「新しいドレスのお手入れは?」
「そちらも済ませてあります」
「さすがお姉様!」
カミラは笑った。
「ありがとう!」
「いえ」
「ではソフィア。お前は下がれ」
「はい。ご主人さま」
ソフィアは一礼して、食堂を出た。
◇
ソフィアは、マルール子爵の娘である。
ただし、正妻の娘ではない。
父と使用人だった母との間に生まれた庶子だった。
母が亡くなったのは、ソフィアが十一歳のとき。
それから八年間。
ソフィアはマルール子爵家で、メイドとして働いてきた。
父のことは「ご主人さま」。
正妻は「奥さま」。
異母妹は「カミラさま」。
それがソフィアにとっては当たり前だった。
給金をもらったことはない。
一度だけ、十二歳のころに尋ねたことがある。
『私も、大人になったらお給金をいただけるのでしょうか?』
すると奥さまは、とても優しく微笑んだ。
『何を言っているの? あなたは家族でしょう?』
『はい』
『お給金なんて他人行儀なもの、家族の間で渡すわけがないじゃない。家族なんだから、お互いに助け合うのは当然のことよ』
『そうなのですか』
『そういうものよ。あなたも、この家の役に立ちたいでしょう?』
『はい!』
だから、そういうものなのだと思っていた。
十一歳のころは、雑巾がけや食器洗いといった下働きだけだった。
十二歳のとき、料理番が一人暇を出され、厨房の仕事を任されるようになった。
『ソフィアの作るスープは美味しいわ』
奥さまにそう褒められたのが嬉しくて、毎朝誰よりも早く起きて、厨房の火を起こした。
十三歳のとき、洗濯係が一人辞めた。
それからは屋敷中の衣類の手入れや、繕い物もソフィアの仕事になった。
『本当に手先が器用ね。ソフィアがいてくれて助かるわ』
そう笑いかけられるたびに嬉しくなって、期待に応えようと夜遅くまで針を動かした。
十四歳になると、計算が得意なことを見込まれ、帳簿つけと使用人たちの勤務表作りを任された。
いつの間にか、使用人が辞めても、新しい人を雇うことは少なくなっていた。
その一方で、カミラの新しいドレスや宝石は、少しずつ増えていった。
『見て、お姉様! お父様に買っていただいたの!』
『まあ。綺麗ですね、カミラさま』
『でしょう?』
嬉しそうな妹を見ると、ソフィアも嬉しかった。
十五歳で、出入りの商人との値段交渉を任された。
十六歳では、子爵家の来客や社交の日程管理まで引き受けた。
十七歳になるころには、父が出かける日の天候や王都の催しを調べ、時間どおりに到着できるよう馬車を手配するのもソフィアの役目になっていた。
屋敷の誰もが、ソフィアを頼りにした。
困ったことがあれば、父も、奥さまも、カミラも、決まって同じことを言った。
『ソフィア、お願いね』
その言葉が、ソフィアは好きだった。
仕事を覚えれば覚えるほど、家族の役に立てる。
頼ってもらえる。
必要としてもらえる。
だから、誇らしかった。
もっと役に立ちたいと思った。
そうして。
気づけば、十九歳になっていた。
家族なのだから、これくらい働くのは当然なのだ。
ソフィアは、心からそう思っていた。
◇
その日の夕方。
「ソフィア。少しいいかしら」
奥さまに呼ばれ、ソフィアは応接室へ向かった。
部屋には父とカミラもいた。
それから、見覚えのない若いメイドが三人。
「新しい方ですか?」
「ええ」
奥さまが頷く。
「カミラも、もうすぐ伯爵家へ嫁ぐでしょう?」
「はい」
「これからは伯爵家の方々が、この屋敷へいらっしゃる機会も増えるわ」
「はい」
「そのとき、あなたがメイドをしているのは外聞が悪いのよ」
「私が、ですか?」
「あなたは一応、主人の娘でしょう?」
「はい」
ソフィアは頷いた。
カミラが笑顔で言った。
「だからね、お姉様。もう大丈夫なの」
「大丈夫?」
「新しいメイドを三人も雇ったのよ」
「はい」
「もう、お姉様は用済みなの」
「……用済み」
ソフィアは、三人のメイドを見た。
三人もいる。
確かに、自分一人よりずっと多い。
「そういうことだ」
父が言った。
「お前も十九歳だ。いつまでもこの家でメイドをしているわけにもいかんだろう」
「はい」
「家を出て、自分の人生を歩め」
「自分の人生……」
考えたことがなかった。
朝起きて、屋敷の仕事をする。
夜になれば、明日の仕事を確認する。
それがソフィアの一日であり、八年間だった。
「分かりました」
ソフィアは頭を下げた。
「今まで、お世話になりました」
「え?」
カミラが目を丸くした。
「お姉様、今日出ていくの?」
「はい」
「でも……本当に大丈夫なの?」
「そうですね……」
ソフィアは少し考えた。
そして、三人の新しいメイドを見る。
「皆さんがいらっしゃるのでしたら、大丈夫なのでは?」
「え?」
「私一人の代わりに三人もいらっしゃるのですから」
「いや、そうじゃなくて、お姉様が」
「私?」
ソフィアは首を傾げた。
「仕事を探します」
幸い、荷物は少なかった。
数着の服。
母の形見の、小さな髪飾り。
それだけを鞄に詰めて。
ソフィアは、その日のうちに八年間暮らした屋敷を出た。
◇
翌朝。
「朝食はまだか?」
マルール子爵が苛立った声を上げた。
「も、申し訳ありません!」
新しいメイドが頭を下げる。
「市場へ魚を買いに行った者が、まだ戻っておりません!」
「魚くらい、すぐに買えるだろう」
「それが……昨夜から海が荒れているそうで、値段がいつもの倍近くに……」
「倍!?」
料理長が慌てて厨房から出てくる。
「昨日のうちに他の食材を仕入れておけばよかったのですが……」
「なぜ仕入れなかった!」
「いつもは、ソフィア様が前日に市場の状況を確認してくださっていたので……」
「なら、ソフィアを呼べ!」
しん、と静まり返った。
「……旦那様」
「なんだ」
「ソフィア様は、昨日、家を出られました」
「…………」
父とカミラが顔を見合わせる。
「あ」
◇
同じころ。
ソフィアは、王都の求人掲示板の前に立っていた。
「お仕事……」
働かなければ、生きていけない。
幸い、八年間メイドをしていた。
掃除、洗濯、料理。
帳簿つけに仕入れと価格交渉。
使用人十二名の勤務管理に、月平均四十名ほどの来客対応。
あとは馬車の手配と、簡単な裁縫。
ソフィアは、自分にできることを指折り数えた。
「……これだけでは、難しいでしょうか」
少し不安になった。
何しろ、初めての就職活動である。
これまでは家族だから働いていただけで、自分の仕事が他家でも通用するのか、ソフィアには分からない。
求人票を見る。
侯爵家。
住み込みのメイド募集。
読み書きのできる者優遇。
計算のできる者、なお可。
「侯爵家……」
ソフィアは不安になった。
子爵家とは違う。
侯爵家ともなれば、メイドにも相当な能力が求められるに違いない。
もしかすると、百人の盗賊に襲われても一人で撃退できなければならないのかもしれない。
あるいは、庭にキマイラが現れたら討伐するとか。
「……剣は使えませんね」
かなり不安だった。
けれど、募集要項には剣術必須とは書かれていない。
「……応募するだけなら、大丈夫でしょうか」
ソフィアは、おそるおそる求人票を手に取った。
◇
「採用です」
「え?」
面接が始まって十分後。
ソフィアは採用された。
「今日から働けますか?」
侯爵家の家令が、身を乗り出している。
「今日から、ですか?」
「できれば今から!」
「そんなに人手が足りないのですか?」
「……人手?」
家令が何とも言えない顔をした。
「あなた、前の屋敷で何をしていたんでしたっけ?」
「メイドです」
「使用人十二名の勤務表を組み?」
「はい」
「商人との価格交渉もやって?」
「はい」
「帳簿管理も任されて?」
「はい」
「月四十名ほどの来客予定をこなす?」
「はい」
「それでメイド……ねぇ」
「はい。メイドです」
ソフィアは頷いた。
家令は額を押さえた。
「……とにかく採用です」
「ありがとうございます」
「こちらこそありがとうございます!」
「ありがとうございま……す?」
なぜ雇う側がお礼を言うのだろう。
侯爵家とは、不思議なところらしい。
◇
翌朝。
収穫祭の三日目。
「旦那様。馬車を用意してあります」
「馬車?」
朝食を終えた侯爵が顔を上げた。
「本日も王都中央通りで収穫祭がございます。十時を過ぎますと混雑しますので、九時には出られたほうがよろしいかと」
「そうだったのか」
「はい。先方には十時半に到着するとお伝えしてあります」
「助かるよ。ありがとう」
「ありがとうございま……す?」
ソフィアは思わず礼を返した。
侯爵が首を傾げる。
「なぜ君がお礼を言う?」
「え?」
「君が先を見越して手配してくれたんだから、私が礼を言うのは当然だろう」
「そうなのですか?」
「そうだと思うが……」
「分かりました」
ソフィアは頭を下げる。
「では、どういたしまして」
侯爵はしばらく黙ったあと、笑った。
◇
そのころ。
「馬車はまだか!」
マルール子爵家では、父が玄関で叫んでいた。
「申し訳ありません! 中央通りが収穫祭で大渋滞しておりまして!」
「今日は伯爵家と婚礼の打ち合わせなんだぞ!」
「いつもは前日に馬車を押さえていたそうなのですが……」
「なら、なぜ昨日のうちにやらなかった!」
「それをされていたのが、ソフィア様で……」
「…………」
マルール子爵は黙った。
◇
一か月後。
「ソフィア」
「はい、旦那様」
「今月の食費なんだが」
「何か問題がございましたか?」
「いや。逆だ」
侯爵は帳簿を指差した。
「先月より二割近く下がっている」
「はい」
「どうやった?」
「三つの商会から見積もりをいただいて、品目ごとに仕入れ先を変えました」
「いつ?」
「先日の休日に」
「休日?」
「お散歩のついでです」
「散歩のついでに商人三人と価格交渉したのか?」
「はい」
侯爵はしばらく黙った。
「給金を上げよう」
「え?」
「倍にする」
「ええっ!?」
ソフィアは、この屋敷に来て初めて大きな声を出した。
「そ、そんなにいただけません!」
「なぜだ?」
「だって、私は普通に働いただけです」
「その普通の仕事で、我が家は毎月かなりの金額を節約できるんだ」
「でも……」
「それと、休日に働いた分は別に払う」
「別に!?」
「当たり前だろう」
「……そうなのですか?」
侯爵は椅子にもたれた。
「君の前の勤め先では、どうしていたんだ?」
「勤め先……」
ソフィアは少し考えた。
「マルール子爵家では、給金をいただいたことはありません」
「……一度も?」
「はい」
「八年間?」
「はい」
「なぜ?」
「家族だからです」
侯爵の表情が止まった。
「家族だから、働くのは当然だと教えていただきました」
「…………」
「旦那様?」
「ソフィア」
「はい」
「君が今までしてきた仕事に、価値がなかったわけじゃない」
「え?」
「むしろ逆だ。金を払ってでもやってもらいたい仕事だったから、私は君を雇っている」
ソフィアは黙った。
「仕事に……価値が?」
「ああ」
侯爵は帳簿を指差す。
「少なくとも、この二割には間違いなく価値がある」
「…………」
ソフィアは、帳簿を見た。
八年間。
同じようなことをしてきた。
市場を見て。
値段を比べて。
商人と話して。
少しでも安く、少しでも良いものを仕入れる。
それは、家族だから当然のことだと思っていた。
「私の仕事って……お金をいただいてもいいものだったのですね」
「もちろんだ」
「そうなのですか……」
不思議だった。
何も変わっていない。
ソフィアは、今までと同じように働いているだけなのに。
ここでは。
「ありがとう」と言われる。
高い給金をもらえる。
役に立てば、褒めてもらえる。
休日にした仕事には、別の対価まで払ってくれる。
同じ仕事なのに。
ずいぶん違うものだった。
◇
さらに一か月後。
「ソフィアさん、ありがとうございます!」
若いメイドが頭を下げた。
「何がですか?」
「妹の誕生日、休めるようにしてくださって」
「希望休に書いてありましたから」
「でも、前はなかなか休めなくて……」
「そうなのですか?」
「ソフィアさんが勤務表を作るようになってから、みんな希望の日に休めるようになったんですよ」
「人数が足りなくならないように組んだだけですが」
「それがすごいんです!」
「そうなのですか?」
厨房へ行けば、料理長が言う。
「ソフィアさん、この前は助かったよ。急に子どもが熱を出したとき、代わりを見つけてくれて」
「お子さんはもう大丈夫ですか?」
「ああ。おかげさまでな」
「それは良かったです」
「ありがとう」
「……どういたしまして」
最近、少しだけ慣れてきた。
ありがとうと言われたら。
どういたしまして、と返せばいいらしい。
廊下の向こうで、その様子を見ている青年がいた。
レオナルド。
二十二歳。
侯爵家の一人息子である。
「ソフィア」
「はい、レオナルドさま」
「人気者だな」
「私がですか?」
「君以外に誰がいるんだ」
「偶然では?」
「何がどう偶然なんだ……」
レオナルドは苦笑した。
◇
その夜。
「レオナルドさま」
「ん?」
「少し休まれたほうがよろしいかと」
執務室で書類を読んでいたレオナルドが顔を上げる。
「まだ大丈夫だよ」
「ですが、先ほどから三度、目元を押さえていらっしゃいます」
「見てたの?」
「たまたまです」
「夕食も半分ほど残されていました」
「そこまで見てたの?」
「たまたまです」
「…………」
レオナルドは、じっとソフィアを見る。
「何でしょう?」
「いや」
彼は笑った。
「たまたま、か」
「はい」
「分かった。今日はここまでにするよ」
「そのほうがよろしいかと」
ソフィアが出ていったあと。
レオナルドは、閉じた扉をしばらく見つめていた。
◇
「合わない……」
数日後。
経理室では三人の文官が頭を抱えていた。
「どうされました?」
「ソフィアさん。この帳簿なんだが、どうしても数字が合わないんだ」
「拝見しても?」
「ああ」
ソフィアは帳簿を受け取った。
五分後。
「ここでは?」
「え?」
「こちらの支出が、先月分にも二重で計上されています」
「…………」
三人が固まった。
そこへレオナルドがやって来る。
「どうした?」
「レオナルド様……二日探していた間違いを、ソフィアさんが五分で見つけました」
「また?」
「また、とは何ですか?」
ソフィアが首を傾げる。
レオナルドが額を押さえた。
「ソフィア」
「はい」
「君、自分がものすごく有能だって分かってる?」
「いいえ」
「即答なんだ」
「旦那様から、私の仕事には価値があるとは教えていただきました」
「うん」
「ですから、以前よりは分かっているつもりです」
「お」
レオナルドの顔が明るくなる。
「ただ、有能かどうかは……」
「そこまで来て、なぜ止まる!?」
「え?」
「いや、いい。もういい」
レオナルドは深く息を吐いた。
そして、何かを決めたように顔を上げる。
「よし」
「はい?」
「ソフィア。ちょっと来てくれ」
◇
連れて行かれたのは、中庭だった。
「ソフィア」
「はい」
なぜか侯爵夫妻までいる。
少し離れたところに並んで、こちらを見ていた。
「僕は、君がこの家に来てから、ずっと見ていた」
「はい」
「仕事ができる。よく気がつく。誰かが困っていたら、言われる前に助ける」
「はい」
「君が来てから、使用人たちも前より楽しそうだ」
「それは良かったです」
「それに、僕自身も、君といる時間が楽しいんだ」
「そうなのですか?」
「うん。だから」
レオナルドは一度、息を吸った。
「僕のそばで、これからも領地の切り盛りを手伝ってくれないか?」
「はい」
「……即答?」
「お仕事ですよね?」
「まあ……仕事も含まれるけど」
「でしたら、喜んで」
侯爵が嬉しそうに頷く。
「これで我が家も安泰だな」
「ありがとうございます」
レオナルドが固まった。
「…………」
「レオナルドさま?」
「待って」
「はい」
「もしかして、伝わってない?」
「何がでしょう?」
レオナルドは両手で顔を覆った。
そして言った。
「だから」
顔を上げる。
「僕と結婚してほしいって意味なんだけど」
「え――――っ!?」
中庭に、ソフィアの声が響いた。
「いやか?」
「いいえ、喜んでお受けします」
レオナルドに安堵の表情が浮かんだ。
◇
「ソフィア!」
その声がしたのは、ちょうどそのときだった。
門のほうから、男が駆けてくる。
ソフィアは振り返った。
「……マルール子爵?」
男の足が止まった。
この屋敷を出るまで。
ソフィアは彼を「ご主人さま」と呼んでいた。
けれど、今はもう違う。
「ソフィア……」
「どうされました?」
「帰ってきてくれ!」
「……帰る?」
「お前がいないと、屋敷が回らん!」
ソフィアは首を傾げた。
「ですが、新しいメイドさんが三人いらっしゃいますよね?」
「三人では足りん!」
「三人もいるのに?」
「人数の問題ではない!」
「そうなのですか?」
「仕入れも、帳簿も、使用人の勤務も、来客の予定も、馬車も……何もかも滅茶苦茶だ!」
「まあ」
ソフィアは驚いた。
「でも、私が戻ったら、新しいメイドさんたちのお仕事を取ってしまいませんか?」
「そんなことはどうでもいい!」
「ですが」
ソフィアは本気で困った。
「私の代わりに三人も雇ったから、私は用済みになったのですよね?」
「それは……」
「でしたら、戻らないほうが皆様のお役に立てると思うのですが」
「ソフィア!」
「それに」
ソフィアは、もう一つ思い出した。
「私がメイドをしていると、伯爵家の方々への外聞が悪いのでは?」
「…………」
「カミラさまも、もうすぐ伯爵家へ嫁がれますよね?」
父の顔が引きつった。
「そ、それは……」
「でしたら、やはり戻らないほうが良いと思います」
「違う! 今は事情が違うんだ!」
「事情?」
「お前が必要なんだ!」
ソフィアは目を瞬いた。
「私が?」
「ああ!」
「でも」
少しだけ考えて。
ソフィアは言った。
「私、ここのお屋敷、気に入ってるんです」
父が黙った。
「皆さん、とても親切です」
「…………」
「お仕事をすると褒めてくださいます。ありがとう、とも言ってくださいます」
「…………」
「お給金もたくさんいただけます」
「給金……」
父の顔色が変わった。
「この前は、倍にしていただきました」
「倍!?」
「休日にお仕事をしたら、その分も別にいただけるそうです」
「…………」
「私、知りませんでした」
「何をだ?」
「私が八年間していた仕事って、お金をいただいてもいい仕事だったのですね」
父の顔から、血の気が引いた。
「家族だから働くのは当然だと思っていました」
「ソフィア、それは……」
「でも、旦那様が教えてくださいました。私の仕事には価値があるって」
父は何か言おうとして、口をつぐんだ。
「……君をマルール子爵家へ戻すつもりはないぞ」
侯爵が静かに告げた。
「こ、侯爵閣下……!」
「貴殿がソフィアの父親か」
「は、はい」
「彼女は十一歳から八年間、貴殿の屋敷でメイドとして働いていたそうだな」
「それは……」
「最初は簡単なお仕事だけでした」
ソフィアが補足する。
「ソフィアは少し黙っていようか」
隣にいたレオナルドが、ソフィアの肩にそっと手を置いた。
「はい」
ソフィアは素直に頷いた。
侯爵は改めて、マルール子爵を見る。
「八年間、給金は?」
「…………」
「一度も?」
「家族のことですので……」
侯爵の眉が動いた。
その隣で、レオナルドが父を見る。
(……息子よ)
(駄目ですからね!)
(まだ何も言っていない)
(顔に『この子爵家を潰していいか』と書いてあります)
(……よく分かったな)
(父上の顔を見れば分かります)
「……?」
ソフィアは二人を見比べた。
何も喋っていないのに、なぜか会話しているように見える。
「マルール子爵」
侯爵が言った。
「一つ聞きたい」
「は、はい」
「ソフィアが有能だと、気づかなかったのか?」
「…………」
マルール子爵は答えられなかった。
思い返す。
会談の日には、馬車が用意されていた。
魚が高い日には、いつの間にか別の料理が食卓に並んでいた。
使用人は必要な日に休み、それでも屋敷は回っていた。
客を招けば、必要なものはすべて揃っていた。
帳簿を見ても、金額が合わないことなどなかった。
何も起きなかった。
だから。
何もしていないのだと思っていた。
違った。
何も起きないように、ソフィアがすべて整えていたのだ。
「私は……」
マルール子爵が呟く。
「八年間、何を見ていたんだ……」
「?」
ソフィアが首を傾げた。
「私、有能なのですか?」
「そこからなのか!?」
レオナルドが思わず叫んだ。
「旦那様には、仕事に価値があるとは教えていただきました」
「うん」
「でも、有能かどうかは……」
「有能だよ!」
「そうなのですか?」
「そうなの!」
レオナルドが力いっぱい断言した。
「ソフィア」
父がもう一度呼んだ。
「頼む。帰ってきてくれ」
ソフィアは父を見る。
そして。
「申し訳ありません、マルール子爵」
ソフィアは頭を下げた。
「私、こちらではまだ用済みではないみたいなので」
「まだ、ではない」
侯爵がすぐに訂正した。
「え?」
「今後一生、ウチにいてもらうのだからな」
「そうなのですか?」
「さっきのあれ、忘れたの?」
レオナルドが苦笑する。
「ソフィアにはもう、この家にいてもらう約束をしています」
「……約束?」
マルール子爵がレオナルドを見る。
「はい」
レオナルドはソフィアの隣に立った。
「僕と結婚してもらうことになりました」
「…………」
父が固まった。
「け」
「け?」
「け、けけけっ、こ、こここここ……」
「?」
「結婚だとぉ!?」
侯爵家の庭に絶叫が響いた。
「はい」
「侯爵家の!?」
「はい」
「跡取りと!?」
「そうなるな」
侯爵が答える。
マルール子爵は頭を抱えた。
カミラが伯爵家へ嫁ぐ。
それをどれほど誇らしく思っていたことか。
伯爵家の人間が来たとき、庶子の娘がメイドをしていては外聞が悪い。
だから追い出した。
その娘が。
侯爵家の跡取りと結婚する。
「外聞……」
父が呟いた。
「どうしよう……」
「?」
ソフィアには、なぜ父が頭を抱えているのか分からなかった。
◇
「まあ!」
今度は、侯爵夫人の声が響いた。
「ソフィアちゃん、八年間もお給金をもらっていなかったの?」
「はい」
「どうして!?」
「家族だから働くのは当然だと」
「まあ……!」
侯爵夫人は両手を頬に当てた。
そして、にっこり笑った。
「八年間も無償でご家族に尽くしていたなんて、なんて良いお話なのかしら」
「良いお話……ですか?」
「ええ。今度のお茶会で、皆さまにもお話ししなくちゃ」
マルール子爵の肩が跳ねた。
「い、いや、それは……」
「あら?」
侯爵夫人が微笑む。
「何か問題でも?」
「…………ございません」
「そう。よかったわ」
にこにこ。
侯爵夫人は、とても楽しそうだった。
なぜかマルール子爵だけが青ざめていた。
◇
「では、マルール子爵。お気をつけて」
家令に見送られ、父は帰っていった。
その背中を、ソフィアは見送った。
不思議な気分だった。
八年間。
毎日顔を合わせていた人。
ずっと「ご主人さま」と呼んでいた人。
けれど。
もう、ご主人さまではない。
「ソフィアちゃん!」
「はい?」
振り返った瞬間。
侯爵夫人に抱きしめられた。
「辛かったでしょう!」
「辛い……ですか?」
「もう大丈夫よ!」
「はい?」
「あなたはもう、ウチの子なんだから。何も心配しなくていいのよ!」
ソフィアは目を瞬いた。
「ウチの子……ですか?」
「ええ!」
「母上。まだ結婚してないけどね」
レオナルドが言う。
「あら、するのでしょう?」
「しますけど」
「だったら同じよ!」
「ずいぶん気が早いなあ……」
十一歳から八年間。
ソフィアは、家族だから働くのが当たり前だと思っていた。
お金をもらわなくても。
褒められなくても。
ありがとうと言われなくても。
役に立つのが当然なのだと思っていた。
けれど、どうやら。
家族というのは、それだけではないらしい。
「……あの」
「なあに?」
「少し、苦しいです」
「あら、ごめんなさい!」
侯爵夫人が慌てて腕を緩める。
侯爵が笑った。
レオナルドも笑った。
家令まで笑っている。
「……?」
どうして笑われているのか。
今ひとつ分かっていないソフィアだった。
最後までお読みいただき、ありがとうございました!
天然有能メイドのソフィア、いかがでしたでしょうか?
「面白かった!」「ソフィアの続きを読んでみたい!」と思っていただけましたら、ぜひ下の☆☆☆☆☆から評価をいただけると嬉しいです!
ちなみに、続編ではソフィアが軍の兵站管理を任され、本人は普通にお仕事をしているだけなのに、なぜか「無敗の女神」と呼ばれる……。
『婚約者について戦場を回ってるだけなのに、なぜかメイド軍師様と呼ばれて困ってます』
……なんて構想もあります。
反応が良ければ、続くかもしれません。
今後ともよろしくお願いいたします!




