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そこにいない人 午前11時48分 ~告白

作者: 時司 龍
掲載日:2026/03/11

 渡辺がその話を聞いたのは、取引先の会社でだった。


 昼前のオフィス。ブラインド越しの白い光が、整然と並んだデスクの上に斜めに落ちている。コピー機が一定のリズムで紙を吐き出し、キーボードの音が細かくフロアに散っている。

 

 営業の男が、少し照れた顔で言った。


「いやあ、この前、結婚しまして」


 拍手がぱらぱら起きる。立ったままの雑談の輪。軽い笑い声が広がる。

 渡辺も、その輪の中にいた。


「おめでとうございます」

 言いながら、誰と?と思う。


 一瞬、頭に浮かんだのは彩の顔だった。

 同じ支社で働く同僚。

 仕事はきっちりしている。現場もちゃんと見ている。感情で判断するタイプでもない。淡々としているのに、困っている人がいるとさりげなく手を貸す。

 渡辺は、そういうところを信頼していた。


 だから。


 この営業の男がこちらの会社に来るたび、自然と彩の近くにいるのを見ていた。

 打ち合わせが終わると、何故か彩の席の方へ来て話しかける。帰る時間が重なれば、エントランスのガラス扉の前で並んで立っている。


 ただ。

 一度だけ、不思議に思った事がある。


 こちらがこの会社へ出向いた時、この男は、彩に対してきちんと距離を取っていた。

 仕事相手としての距離。

 それ以上でも、それ以下でもない。

 まるで。

 こちらの会社で見せる顔とは、少し違うように。だが渡辺は、当時、その違和感をうまく言葉にできなかった。


 ただ。

 彩が時々、少しだけ柔らかい顔で笑うのを見て・・・ああ、あの人なのか。何となく、そう思っていた。


 だから。

 渡辺は、つい口を開いてしまった。


「あの」


 営業の男がこちらを見る。

 渡辺は、できるだけ軽い調子で言った。


「彼女って、別の人じゃなかったでしたっけ?」


 その瞬間。

 空気が、わずかに止まる。

 近くで書類をめくっていた手が止まり、キーボードの音が一つ消える。

 コピー機だけが、紙を送り出す音を続けている。


 そして渡辺は気づく。


 男の隣に立っている女性。淡い色の服。整えられた髪。そして、左手の薬指。

 光る指輪。


 ・・・あ。

 遅かった。

 周りの視線が、静かに集まる。


 営業の男は一瞬だけ表情を止めた。

 ほんの一瞬。


 それから慌てて笑う。


「ああ、あれ?」

 手を軽く振る。

「違う違う」

 笑いながら言った。

「向こうが勝手にそう思ってただけ」


 その言葉が落ちた瞬間、フロアの空気が、すっと冷える。渡辺は誰だとも一言も言っていないのに、確定した誰かを指している事に皆が気づいた。


 そんな言い方、あるかよ。思ったが、口には出せない。

 結婚相手らしき女性は、小さく微笑んだまま立っている。

 営業の男は何事もなかったように話を続ける。


 仕事の話。

 次の案件の話。


 渡辺は、何も言えなかった。

 彩は、どう思っていたんだろう。

 あの男の事を。

 それとも。

 本当に、そんなつもりじゃなかったのか。

 どちらにしても。

 今さら何かを言える立場ではない。

 渡辺は小さく頭を下げた。


「失礼しました」


 軽く笑って、その場の空気に溶ける。

 それで終わりだ。

 誰もそれ以上触れない。


 コピー機がまた紙を吐き出し、キーボードの音が少しずつ戻る。

 さっきと同じ昼前のオフィス。


 ただ。

 渡辺の胸の奥にだけ、重たいものが残った。

 守れたわけでもない。


 ただ、余計な事を言っただけだ。

 彩のため、なんて。

 結局は、何もできない自分の、ただの自己満足だ。

読んでくださってありがとうございます(*_ _)

ポイントを入れてもらえると、嬉しいです。

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