そこにいない人 午前11時48分 ~告白
渡辺がその話を聞いたのは、取引先の会社でだった。
昼前のオフィス。ブラインド越しの白い光が、整然と並んだデスクの上に斜めに落ちている。コピー機が一定のリズムで紙を吐き出し、キーボードの音が細かくフロアに散っている。
営業の男が、少し照れた顔で言った。
「いやあ、この前、結婚しまして」
拍手がぱらぱら起きる。立ったままの雑談の輪。軽い笑い声が広がる。
渡辺も、その輪の中にいた。
「おめでとうございます」
言いながら、誰と?と思う。
一瞬、頭に浮かんだのは彩の顔だった。
同じ支社で働く同僚。
仕事はきっちりしている。現場もちゃんと見ている。感情で判断するタイプでもない。淡々としているのに、困っている人がいるとさりげなく手を貸す。
渡辺は、そういうところを信頼していた。
だから。
この営業の男がこちらの会社に来るたび、自然と彩の近くにいるのを見ていた。
打ち合わせが終わると、何故か彩の席の方へ来て話しかける。帰る時間が重なれば、エントランスのガラス扉の前で並んで立っている。
ただ。
一度だけ、不思議に思った事がある。
こちらがこの会社へ出向いた時、この男は、彩に対してきちんと距離を取っていた。
仕事相手としての距離。
それ以上でも、それ以下でもない。
まるで。
こちらの会社で見せる顔とは、少し違うように。だが渡辺は、当時、その違和感をうまく言葉にできなかった。
ただ。
彩が時々、少しだけ柔らかい顔で笑うのを見て・・・ああ、あの人なのか。何となく、そう思っていた。
だから。
渡辺は、つい口を開いてしまった。
「あの」
営業の男がこちらを見る。
渡辺は、できるだけ軽い調子で言った。
「彼女って、別の人じゃなかったでしたっけ?」
その瞬間。
空気が、わずかに止まる。
近くで書類をめくっていた手が止まり、キーボードの音が一つ消える。
コピー機だけが、紙を送り出す音を続けている。
そして渡辺は気づく。
男の隣に立っている女性。淡い色の服。整えられた髪。そして、左手の薬指。
光る指輪。
・・・あ。
遅かった。
周りの視線が、静かに集まる。
営業の男は一瞬だけ表情を止めた。
ほんの一瞬。
それから慌てて笑う。
「ああ、あれ?」
手を軽く振る。
「違う違う」
笑いながら言った。
「向こうが勝手にそう思ってただけ」
その言葉が落ちた瞬間、フロアの空気が、すっと冷える。渡辺は誰だとも一言も言っていないのに、確定した誰かを指している事に皆が気づいた。
そんな言い方、あるかよ。思ったが、口には出せない。
結婚相手らしき女性は、小さく微笑んだまま立っている。
営業の男は何事もなかったように話を続ける。
仕事の話。
次の案件の話。
渡辺は、何も言えなかった。
彩は、どう思っていたんだろう。
あの男の事を。
それとも。
本当に、そんなつもりじゃなかったのか。
どちらにしても。
今さら何かを言える立場ではない。
渡辺は小さく頭を下げた。
「失礼しました」
軽く笑って、その場の空気に溶ける。
それで終わりだ。
誰もそれ以上触れない。
コピー機がまた紙を吐き出し、キーボードの音が少しずつ戻る。
さっきと同じ昼前のオフィス。
ただ。
渡辺の胸の奥にだけ、重たいものが残った。
守れたわけでもない。
ただ、余計な事を言っただけだ。
彩のため、なんて。
結局は、何もできない自分の、ただの自己満足だ。
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