第3話:燃料と儀式
東の砦にある食堂「盤上の羊亭」の裏口は、建物の影に隠れていつも薄暗い。
表通りの広場からは、地鳴りのような歓声がここまで響いてくる。第104回外征、リソース評価「A」。その文字が掲示板に刻まれた瞬間、街は熱病に浮かされたような祝祭に包まれた。
「……英雄様のお帰りね。まったく、いい迷惑だわ」
私は吐き捨て、手元にある巨大な獣肉の塊に包丁を叩きつける。遠征が成功すれば、砦には新鮮な肉が運び込まれる。
厨房の奥では父が鼻歌まじりに大鍋を振っているが、それを捌く私の仕事は倍に増える。砦の食堂の娘として、私の日常は、血抜きと、灰汁取りと、酒樽を担ぐ荒くれ者たちの相手で埋め尽くされているのだ。
不意に、裏口の重い扉が軋んだ。
潜り込んできたのは、街中の少年たちが喉を枯らしてその名を叫んでいる「英雄」本人だった。
「……いつもの席、空いてるわよ」
私は顔も上げずに指差す。
ガレノスは無言でカウンターの隅、一番影の濃い場所に腰を下ろした。彼はここでは短剣を振るわない。ただ、疲弊しきった体を引きずる、一人の「空腹な常連」だ。
「……まずは肉だ。厚く切ってくれ」
「わかってるわよ。燃料不足で倒れられたら寝覚めが悪いしね」
鉄板の上に肉を放り込む。弾ける脂の音と、暴力的なまでの香ばしい匂い。
私は肉を焼きながら、彼が外した籠手の先に目をやった。
指先が、微かに震えている。
鎧の肩口には、検収官さえも見逃すような深い擦れ跡。魔獣の爪が、あと数ミリ深ければ彼の命を刈り取っていただろう痕跡だ。
掲示板に踊る「A」という記号。
人々はそれを歓喜で迎えるが、その「A」を維持するために、この男がどれほどの「生」を削り、どれだけの死線を踏み越えてきたか。私はこの距離で、彼の疲弊した呼吸を通じて肌で感じ取っている。
「はい、お待たせ。岩塩は多めにしておいたわ」
皿に乗せたのは、拳ほどもあるステーキだ。
ガレノスはそれを、言葉通り「喰らった」。洗練された英雄の仕草ではない。生きるために必要なエネルギーを、必死に体内に取り込む獣のような食事だ。その姿に、さっきまでの熱狂的な「英雄ガレノス」の影はない。
肉を半分ほど平らげたところで、私は温めておいた小鍋を差し出した。
「……それと、これが本命でしょ。土の香草スープ」
安らぎを与えるハーブと、少し泥臭い根菜を煮込んだスープ。
ガレノスの動きが、そこで初めて止まる。
彼は一口ずつ、確かめるようにスープを啜った。
「……今日のスープは、少し香草が強いな」
「あんたの鼻に魔獣の泥が詰まってるだけでしょ。文句があるなら自分で作りなさいよ。」
「……いや、これでいい。……生き返るな」
そう呟いた彼の横顔に、一瞬だけ、鎧の内側に隠された「人間」が滲み出る。
戦場で見捨ててきた穏やかな土の匂い。それを取り戻すための、静かな儀式。
私は彼と交わすこの会話を、密かに楽しみにしていた。英雄でも死神でもなく、ただの一人の「客」として私の料理に難癖をつけ、あるいは満足げに喉を鳴らす瞬間を。
私はいつも通りの接客を装いながら、空になった肉の皿を下げる。彼に「お疲れ様」なんて安っぽい言葉はかけない。そんなものは、この砦の食堂には似合わないから。
「食べ終わったらさっさと行きなさいよ。表でファンたちが、あんたの『英雄らしい顔』を待ってるんだから」
「……ああ。そうだったな」
ガレノスは不敵に口角を上げると、再び鉄の籠手をはめ、獲物を屠るための短剣を背負って立ち上がった。
彼が正面から店を出た直後、歓声がここまで聞こえる。
私は店の入り口を見ることなく、ガレノスが飲み干したスープ皿を、冷たい水の中に沈めた。




