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犬派の私が猫を飼う理由

作者: ミノリノキ
掲載日:2026/01/28

 夕暮れに川沿いを走る。川に架かる橋から先の橋を渡り戻り1周2km。早歩きよりも少し早い程度のペースで周回する。ランニングは中毒になりやすい趣味で、自分のペースで楽しみながらも、達成感は自己承認欲求を満たし継続するほどにやめられなくなる。自分で自分を苦しめて、励まして、褒めて、他者に依存しないのがよい。川表は狭く雑草や木々が乱雑に生い茂っている。街中にあるきれいな川ではないが魚も生息しいるようで、たまに川鵜がきて川底をうかがっている。支流からの流入口が狙いめのようだ。川沿いの土手は少し高台で信号も電柱もなく、宅地は離れているから空が広い。見上げると地球の丸みを感じ、川風に吹かれながら走ると少し大げさだが自分がまぎれもなく地上に存在する生命体であることを認識できる。


 さて2周目を走るが、私のランニングの楽しみはそれだけではない。川沿い夕暮れ時は散歩コースとしても人気があり散歩犬と多々すれ違う。黒柴・茶柴犬の2匹連れや洒落た服を着た美脚のイタグレ、カゴ車に乗せられたパグ。小太りの女性に連れられたピーグルはいつも申し訳なさそうに歩いている。必ず私に吠える白のマルチーズは嫌いだ。希望に満ち溢れたような笑顔で小走りする子柴犬はこの上なくかわいい。時折開催されている散歩者同士のコミュニティも楽し気である。私は犬を飼っていなく犬散歩集会に参加することはままならないので、走る速度を緩めてその脇を静かに駆け抜ける。私は只のランナーでしかない。

 子供の頃に実家で犬を飼っていた。当時は野良犬が珍しくなく、学校に迷い込んできた子犬を拾い帰り両親から飼育の許しを得た。そのオスの子犬は末っ子の私が名付け親となり、弟というよりは子分を得たような気分だった。庭先で番犬となり、日々私の帰りを喜びで迎えてくれる子分は、私が成人した翌年までその職務を全うした。今は家庭を持ち仕事の時間が不規則で余裕がなくペットを飼うことは諦めている。いや、違う。人間の都合で内なる野生を秘めたままに蓋をして良いものかとの疑念がある。果たして私の子分は幸せに生きたといえるのだろうか。走りながら思考にふける。


 3周目。家には水分と糖分の補給にコーラを用意している。過度な疲労は免疫を低下させ風邪をひきやすい。風呂に入り汗を落とし乳酸菌飲料で腸を整えよう。動物の基本構成は口と腸と肛門なのだという。口から栄養を取り込み、腸で吸収し、代謝後の不要物を排泄する。他の脳や心臓などの臓器はそれを不随する機関として後から組み込まれたという考えで良いのだろう。すべて脳で考えて体を制御コントロールしているのではなく、基となる自己意識はどのような仕組みになっているかは人体を研究する上で最大の謎だという。それは、心や魂は存在するのか否かという命題にも繋がる。クラゲは脳を持たないが自己と他者を明確に区別できている。そうでなければ大変だ。腹が減って自分を食べてはいけないし、捕食者がきたら逃げるか攻撃しなければ生き残れない。重要な判断は腸で下されている。妻が腹が減りだすと機嫌が悪くなるのはごく自然で当たり前のことなので、捕食されることはないが食事前はあまり話しかけないようにしている。


 昨日の夕食は何だっただろうか。向い席の長男は食事中もスマホをチラチラ覗いていた。推しの活動を日々チェックしているようだった。女性との浮いた話は聞いたことがなく、少し心配だ。トランジェンダーの知識は備えている。約40人に1人はLGBTSの計算で学校のクラスに一人はいることになる。身近にいても不思議はない。仮にだが、カミングアウトがあったとしても父親として受け入れる心の準備はしておこう。女性の遺伝子はXXで男性の遺伝子はXYだが、Y遺伝子は劣化しやすく、損傷は更なる遺伝により修復されることはないという。Y遺伝子の損傷具合により男性らしさといわれる現象や行動は様々に発現されるのだろう。これは性志向が人それぞれという根拠のひとつで、グラデーションのように性別は線引きもあいまいで多様になる。現状において全ての生物活動で絶対的な真理を求めれば、それは多様性に尽きる。多細胞生物は雄雌の配合から多種多様に枝分かれし、偶然を含め地球環境の変化に適応した種族が子孫を残してきた。息子もまた連綿と続く多様性の産物そのもので尊い存在だ。食事中のスマホぐらいで腹を立てるのはやめよう。


 橋の上で少し歩き、呼吸を整える。昨年に娘が他界した。19歳までの人生だった。早すぎる死にいたたまれない心痛と喪失感が全身を覆いつくす。私は神や仏を信じていないが、ニュートンやアインシュタイン、湯川秀樹らの天才達が構築を重ねた物理学を信用している。この宇宙で138億年前のビッグバンを起源にし、熱力学第二法則はエネルギーや物質が必ず分散することを説明している。全ての物質は素粒子からなる原子・分子で構成されているが、それらはいずれ空に漂う煙のように解け薄まり広がり続ける。時間軸の長さに意味がないとすれば、存在した事実だけが価値を持つ。

 振り返れば後悔しかない。過去は過去においてのみ尊いのかもしれないが、誰も過去に捉われないことなどできはしない。それならばいっそ、気ままに生きる猫に教わりたい。知っているに違いない。今を生きていればそれで幸せだと諭されたい。私たちは葬儀の帰路に腹が減り肉まんを3人で食べた。肉汁が口に広がり胃に沁みわたる。車中に匂いがこもり、運転席の窓を開けた。あの日、私は猫を飼うことを決めた。再び走り出し、家路についた。




 







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