第25話 メイドの居ぬ間に命の選択
時間は日の出前。朝霧にまどろむ冒険学部のグラウンドに、3つの影がゆらめいていた。
俺とラオフー先生が距離を開けて対峙し、両者の仲立ちをするようにセイレンが立つ。先に口を開いたのはラオフー先生だった。
「……賭け試合、とな? そなたらしくない事を思いつくではないか」
あごに手を当て、頭をひねるようにしてラオフー先生が言う。
疑わしげな視線を風と流しつつ、俺はあらかじめ用意していた答えを暗唱した。
「一晩考えた結果、これしか無いと思ったんです。どうせラオフー先生は何を言っても考えを変えないだろうし、無駄な時間を使うくらいなら白黒はっきりさせた方がいいかなって」
「して、勝算はあるのか?」
豪胆な笑みを浮かべるラオフー先生。
しかしそれは嘲笑ではない。この人は俺がどんな策を引っ提げてきたのか楽しみにしているのだ。
これまでは大してやる気を見せなかった教え子からの唐突な挑戦状。それは武術家ラオフーの琴線をいくばくか震わせたことだろう。
だから俺は先生の期待に応えるべく、意味ありげな笑みを見せてやった。
(もっとも、先生が考えてるようなものじゃないんですけどね)
どうあれラオフー先生を乗せることは成功した。俺は地面を擦るように半歩進むと、軽く右手を挙げた。
「俺が勝ったら、二度と生徒を危ない目に遭わせないでください。学園側のルールに従って、まっとうな講義をするように」
「よかろう」
「そんなにあっさり承諾していいんですか? 後悔しますよ」
「たわけ。乳飲み子の甘噛みを恐れる親がいるものか」
「ロイヤルコーギーを甘く見ない方がいいですよ」
「ろいやる……何だと?」
「いえ、何でもありません」
余裕綽々な態度にムカッときたが、悔しいことにラオフー先生の認識は正しい。俺と先生の間には親子ほどの実力差がある。
「しかし、そなたが負けた場合はどうする? こちらと釣り合う条件を用意できねば賭けにはならぬぞ」
「安心してください。先生が今一番欲しいものを差し上げますよ」
俺は小粋に指を立て、
「俺が負けたら、昨日の騒ぎで先生が処分を受けないようにエカテリーナ先生を説得します」
「できるのか!?」
ラオフー先生は面白いように食いついてきた。やはりこの人でも上司は怖いのか……。
「簡単ではないですけど、俺がゴネれば何とかなります。エカテリーナ先生は俺に甘いので」
「ならばよいが……むう」
「信用できませんか?」
「そうではないが……そなた、女遊びは程々にせねばならんぞ。劉国では美姫にかまけて身を持ち崩す者も多いのでな」
「そういうゴネ方じゃありませんよ、このエロ親父」
この人は俺とエカテリーナ先生の関係を何だと思っているのだろうか。
いやでも、客観的に見ると若いツバメと言えなくもないのか? 俺的には親戚のお姉さんくらいの立ち位置だと思っているのだが。
というか、親戚のお姉さんも割と誤解を招く表現なのでは……?
「ソウタさん、本当に師範と戦うつもりなんですか?」
脱線しつつあった思考を呼び戻したのは不安げなセイレンの声だった。
俺たちが賭け試合をすると聞いた時から彼女はずっとこんな調子だ。応援するでもなく止めるでもなく、ただ途方に暮れたように俺とラオフー先生を見比べている。
「セイレンは俺に勝ち目が無いと思ってるのか?」
「いえ、ソウタさんならあるいは……と考えています」
自分から勝負を仕掛けておいて何だが、その評価は俺を買いかぶりすぎだと思う。そう言うとまたややこしくなるので黙っていたが。
「ですが、問題は勝ち負けではありません。仮に勝ったとして、それに何の意味があるんですか?」
とがめるような目でこちらを見るセイレン。
「力づくで相手を従わせても根本的な解決にはなりません。それどころか、私たちと師範の間により深い溝ができるだけです」
「ああ、俺もそう思うよ」
「分かっているならどうして……!」
なおも言いすがるセイレン。だが俺は彼女の口元に指を当て、
「大丈夫だよ。セイレンが心配してるようなことにはならないから」
「…………」
口を封じられたセイレンは悩むように視線を巡らせていたが、やがて観念したように目を閉じた。
「……分かりました。ソウタさんを信じてみます」
「ありがとう。失望はさせないから」
そう言ったのは自信の表れではなく、心の中の逃げ道を塞ぐためだ。半端な心構えではラオフー先生の眉一つ動かせない。
セイレンは俺に道を譲ると、戦いの邪魔にならないように素早く距離を取った。
東の空が白み始める。俺は夜明けを待たずして、すぐに戦いを始めることにした。
「そろそろ始めましょう、ラオフー先生」
「確認は要らぬ。そなたの好きな時に仕掛けてくるがよい」
身構える俺に対し、ラオフー先生は楽な姿勢を保ったままだ。両手を腰の後ろに当てて、お手並み拝見といった風に俺を眺めている。
「先手を譲ってくれるのはありがたいですけど、後で言い訳しないでくださいね」
「抜かせ、小童」
俺たちは互いににやりと笑い──直後、俺は全力で地面を蹴った。
全速前進。相手の出方など一切考慮せず、最短距離で間合いに突っ込んでいく。
ラオフー先生ほどの実力者に小細工など通用しない。それどころか、逆手に取られて返り討ちにされるのがオチだ。
必要なのは死地に飛び込む勇気。刺し違える気で挑んでようやく五分の勝負ができるのだ。
「はあっ──!」
相手を射程に収めると同時、俺は勢いを乗せて拳を放った。
シンプルな正拳突き。軌道は読みやすいが、それゆえに速い。
風切る一撃がラオフー先生の胸元に迫り……しかしそれが届くことはなかった。
「いつもながらまっすぐな拳よな。鍛錬は怠っていないようで安心したぞ」
「──っ!?」
避けたのではない。そらされたのだ。
知らぬ間に、ラオフー先生が片手を前に出していた。彼が平手をあおぐように振るえば、それだけで俺の拳はあらぬ方へと曲げられてしまう。
が、その程度のことで気落ちしている暇は無い。俺は即座に向き直り、乱打するように攻撃を重ねた。
「うむ、よい調子だ。ではもう少し続けるがよい」
それでもラオフー先生には届かない。俺の猛攻を適当にいなしながら、稽古を見る時と変わらぬ調子で話しかけてくる。
「これでも心配しておったのだぞ。若いそなたがか弱い女中らに囲まれて腑抜けてはおらぬかとな」
「たしかにメイド学科は戦うための学科じゃありませんけど、お遊び感覚でやってる人は一人もいません。現場が一番きついなんて考え方は時代錯誤ですよ!」
「されど、修羅場に身を置かねば見えぬものもある」
駄目だ。どれだけ打ち込んでも全く手ごたえがない。まるで柳を相手にしているみたいだ。
「今の俺ならもうちょっといい勝負ができるんじゃないか?」とか思っていた過去の自分を殴りたい。これでは遊ばれているのと変わらない。
今はまだ様子見に徹しているが、ラオフー先生が本格的に動き始めたらその時点でおしまいだ。
勝負に飽きたラオフー先生に小突かれてあっけなくKO、という結末だけは絶対に避ける必要がある。
初っ端から計画が狂ったことで俺は焦っていた。
早く有効打を与えなければ、と事を急いだ俺が、さらに踏み込んで至近の一撃を見舞おうとした時。
「……えっ?」
知らぬ間に、ラオフー先生が両手を出していた。
しなやかに動く手が、安易に突き出された俺の腕に迫る。
妖しげにうごめく指が服の袖をつかんだ時、
「──っ!」
俺はとっさに動いていた。体をひねって上着を脱ぎ捨て、転びながらも退避。
ラオフー先生の腕が複雑な軌跡を描く。
直後、俺の上着が──一瞬前まで腕を通していたはずの部分が、くの字に折れ曲がった。
ひやりとした感覚に背筋を震わせた後、俺は思わず、
「ラオフー先生の卑怯者っ! 関節技なんて一度も教えてくれなかったじゃないか!」
「一度に詰め込みすぎればそなたを混乱させてしまうと思ってな。何事にも順序というものがあるのだ」
「順序すっ飛ばしてトロールをけしかけた人が言うことかっ!」
「心得違いをするでない。戦いに関わる者が何を置いても学ぶべき事。それが覚悟なのだ」
俺の上着を背後に捨て去ると、ラオフー先生はこちらに視線を向けた。くすんだ金の瞳に映るのは、険しい顔でにらみ返す俺の姿だ。
「ソウタよ。そなたは戦場を目にしたことがあるか?」
不意の質問。俺は少し考えた後、
「魔物との戦いなら何度も経験したことがありますけど……そういう話じゃないんですよね?」
「左様。むき出しの生と死がせめぎ合う場所。修羅がうつしよに残した爪痕よ」
「…………」
俺は構えを解くことで話の続きを促した。
「劉国の南方にある斉安で、ある時反乱が起きた。官軍が中央に参じた隙を狙ったものだった。賊どもに大義は無く、彼奴らは略奪を繰り返しながら砦へと迫った」
「他に戦える人はいなかったんですか?」
「わずかだが、いた。砦には留守を任された指揮官が一人と、着任して間もない新兵が100人ほど。経験は浅いが、みな才気にあふれ、武勇に秀でた者たちだった」
とくとくと語り続けるラオフー先生。
「賊の数は500を超えていたが、いずれも弱者をいたぶることしか知らぬ無頼の輩であった。勝機ありと見た指揮官は急ぎ新兵を集め、打って出ることにした」
「結果はどうなったんですか?」
「賊は略奪した武器で身を固めていたが、所詮は烏合の衆にすぎぬ。過酷な訓練を乗り越えてきた新兵たちの敵ではなかった。賊はことごとく敗れ去り、あとはわずかばかりの残党を始末するのみとなった」
だが、と吐き出すような一言。そこにはただならぬ感情が含まれていた。
「一本の矢が全てを変えた」
「矢……ですか?」
「賊の一人が苦し紛れに射掛けた一本の矢が、偶然にも新兵の足を貫いたのだ。命を奪うほどの傷ではなかったが、その一撃は勝利に浮かれる若者たちに"死"を意識させるには十分であった」
俺は何となく理解していた。これはいつものくだらない長話ではない、と。
「新兵の絶叫が戦場にこだますると、たちまち恐慌が始まった。恐怖に蝕まれた者は武器を捨てて砦へと逃げ込んだ。逃げ遅れた者は赤子のように泣いて命乞いをした。勢い付いた賊どもが砦に火をかけた時、指揮官は砦を手放すように叫んだ。しかし、燃え盛る砦から出てくる者は誰一人としていなかった」
余韻を飲み下すように一息つくと、ラオフー先生は結びの言葉を紡いだ。
「官軍が砦に戻った時、生き残っていたのは指揮官ただ一人であった。……たった一本の矢が、新兵たちの未熟な心を打ち砕いたのだ」
「……それが、危険な講義を続ける理由だったんですね」
そうではないかという予感はあったが、それがたった今確信に変わった。
人間は弱い生き物だ。どれだけ立派な志を抱いていても、ふとしたことで心は揺らぐ。
過去の歴史を見ても、精強な部隊が恐怖に囚われてあっけなく壊滅する例は枚挙に暇がない。
だからこそ、戦いに臨む者はフェザーが言うところの"最悪の瞬間"を意識する必要がある。
ラオフー先生は生徒に強さを求めていたのではない。どんな時でも自分を見失わない心を、覚悟を求めていたのだ。
「覚悟なくして勝利なし。覚悟なくして大義なし。己の心にすら打ち勝てぬ者が戦場に出たところで、いったい何を成し遂げられようか? 大志ある若者が哀れにも己を失い、命を失い、果ては誇りまで失われる様を座して見ていろと言うのか? ──否!」
吠える。
「ならば私は一本の矢となろう。彼らの足を穿ち、その痛みでもって戦のなんたるかを教えよう。未来ある後進に死と語らう術を伝えること、それこそが老いた虎の宿命である!」
「その矢が生徒たちに取り返しのつかない傷を残したとしても、ですか?」
「恥と恐怖に塗れた骸をさらすことに比べれば、志敗れ郷里へと帰る方がまだしも良かろう」
俺は今初めてラオフーという人間と向き合っていた。
この人は生徒を軽んじてなどいなかった。生徒の熱い思いを誰よりも理解し、彼なりに誠意をもって教育に当たっていたのだ。
かつての過ちを二度と繰り返さないために。生徒たちがいずれ直面することになる事態を乗り越えられるように。
フェザーの言っていた通り、これはまさしく予行練習だった。
「なるほど、よく分かりました」
これほど強固な意志で動いている人に掛けられる言葉なんて、俺には一つしか思い浮かばなかった。
「ラオフー先生の言うことにも一理あります。中途半端な覚悟しか持たない人間はもろい。冒険学部の生徒はそこそこ優秀だけど、本当の意味で強い人なんてほとんどいません。それが入学したての1年生なら、なおさらだ。強い魔物に出くわしたが最後、泣きべそかいて逃げ回ることしかできないでしょうね」
「おお、そなたも分かってくれたか。では──」
「で、だから何?」
俺は次に来るであろう事態に備えて全身を強張らせ──しかし、それすらも間に合わなかった。
衝撃。
天地がひっくり返る感覚と共に、巨大な棍棒に殴られたかのような激痛が全身を襲った。
流転する視界。俺は無我夢中で地面を引っかき、転がる体にブレーキをかける。
顔を上げると、そこには凄まじい光景が広がっていた。
平らだったはずのグラウンドがメチャクチャにえぐれていた。泥道のわだち、もしくは巨大な獣が地団駄を踏んだ跡のようだ。
何をされたのかは分からない。だが俺は知っている。それを成したのは獣ではなく、たった一人の人間だということを。
「…………」
破壊の中心に立つラオフー先生は、盛り上がった両腕をゆっくりと広げながら息を吐きだしていた。
全身から立ち上るもやは単なる湯気か? それともあふれ出る闘志が俺に幻覚を見せているのか?
光る両眼が俺を捉える。
そこにいるのは冒険学部の教師ではない。
己の不足ゆえに部下を失った将。劉の国にその人ありと歌われた武人ラオフーだ。
息ができない。見えない何かに首を絞めつけられているような感覚。俺はこの時、生まれて初めて殺気で人が殺せることを知った。
死にたくない。今すぐにでも土下座して許しを乞いたい。
だけど、それだけは絶対に嫌だ。
ようやく、ようやくこの時が訪れたのだ。
多少のイレギュラーはあったが、どうにか俺の待ち望んでいた構図に持ち込むことができた。このチャンスを逃してたまるか。
強烈な圧迫感を払うように腕を張ると、俺はラオフー先生の眼光を真っ向から受け止めた。
「一つ、先生の勘違いを正しておきます。冒険学部の生徒に覚悟のお勉強なんて必要ないんですよ」
「……何だと?」
ただでさえ恐ろしいラオフー先生の顔がさらに険を深めていく。
だが俺は構わず、2本目の虎の尾を踏んだ。
「いいですか? 冒険学部は生徒の安全を重視してるんです。彼らはプロの指導の下、必要な知識を学び、十分な力を蓄えてからダンジョンに挑む。自分の実力に見合わないクエストは受けられないし、もちろん危険度の高いダンジョンに行くこともできない。万一ダンジョンで危険な目に遭っても、その時は教師や先輩が救助に来てくれます」
俺は肩をすくめると、
「ほら、覚悟の使いどころなんてどこにも無いでしょう? 無くてもどうにかなるんですよ」
「痴れ者が! そんなものはただの甘えに過ぎぬ!!」
「そうですね。だけど、それのどこが悪いんですか?」
「貴様──」
来る、と思った時にはもう目の前にいるのがラオフー先生だ。
うなる拳が風を巻き上げ、人体の限界を超えた速度で迫りくる。
だが、見える。
こちらが攻める時は手も足も出なかったが、今度は立場が逆だ。今の俺なら向こうの攻撃に対処することくらいはできる。
このまま軸をずらせば、紙一重で回避することは可能だ。
しかし、俺はそうしなかった。
両手を重ねて前に出すと、肘を軽く折り曲げ、
「────────ッッ!!」
受けた。
ラオフー先生の顔に驚きの色が混じる。
両手の骨がビキビキと音を立て、刺し貫かれたような痛みが走る。
受けた、と言ったが実際は正面からぶつかりに行ったようなものだ。ダメージを軽減できたとは言い難い。
だが、受けたという事実は変わらない。俺はラオフー先生の本気の一撃を耐えきったのだ。
一瞬の隙。相手が拳を引いて次の攻撃に移る刹那の間に、俺は反撃の言葉を叩き込んだ。
「甘えて何が悪いんですか。甘やかして何が悪いんですか。ここは戦場じゃなくて学園ですよ? ──学園は、生徒の未熟さが許容される場所だ!」
二発目が来た。あご狙いの痛烈な蹴り上げ。当たれば瞬時に俺の首が飛ぶ。
俺は震える両手を交差させ、胸元に盾を作った。
「──!」
抜けるような痛みとしびれ。衝撃で体が数センチ浮いた。
それでも、致命傷ではない。ならば、何の問題もない。
「学園は社会に出る準備をするための場所なんです。ここでは弱いことが許されます。失敗も許されます。何度でもチャンスが与えられます。だから俺たちは安心して色んなことに挑戦できる。いつか避けられない本番に備えるために!」
「ならばなおのこと、覚悟を教えるべきであろうが!」
息つく間もなく破城槌のような打撃が畳み掛けられる。
「戦場の過酷さを知らぬ軟弱者を学び舎から送り出して何とする!? 地獄の鬼を肥え太らせるだけぞ!」
「それが勘違いだって言ってるんですよ! どうして生徒がいつまでも成長しないって決めつけるんですか!?」
攻撃を受ける度に俺の体が悲鳴を上げる。
裂けた皮膚からとめどなく血があふれ、いくつかの指は脱臼しつつある。骨が折れていないのが奇跡だった。
だが、避けるつもりは無い。
全部受ける。受けきってみせる。
「卒業まで何年あると思ってるんですか? その間に生徒たちが何も学ばないとでも? お前らは無知だから、自分が教えてやらなきゃ永遠に気付かないだろうって? はっ、笑わせる!」
渾身の力を乗せた回し蹴りが俺の体をへし折ろうとする。
俺は腕で十字を作りつつ、蹴りの威力を殺すようにスウェーバックした。
しかしそれでもまだ足りない。俺の体はさらに十数メートル後退し、靴底が砂利の上で耳障りな音を立てた。
直後、遠くでざわめきのような轟音が響いた。攻撃の余波が後方の林にまで到達し、いくつかの木々をなぎ倒したのだ。
だが後ろに気を取られている暇は無い。前方に目を向ければ、鬼の形相となったラオフー先生が地面を蹴鳴らしながら走ってくる姿が見えた。
勢いを乗せた攻撃は間違いなく最強の一撃となるだろう。
ここだ。
俺が待っていたのはまさにこの瞬間だった。
「ショック療法で押し付けられる覚悟なんてこっちから願い下げです。だって、俺たちは長い時間をかけて少しずつ覚悟を積み上げていくんだから。恐怖と絶望にあらがえるのはお仕着せの覚悟なんかじゃない。人生の重みそのものだ!」
俺の両手はすでに限界だった。腕を上げるのがやっとで、とてもじゃないが次の攻撃に耐えることはできないだろう。
痛む体に鞭を打ち、俺は形だけでも防御の姿勢を取った。自分の"覚悟"を示すために。
自分で言うのも何だが、俺は主体性に欠けた人間だ。
よく分からないまま異世界に飛ばされ、その場の勢いで冒険学部に入り、ラオフー先生に上手いこと乗せられて格闘学科に入り、ミスティア先輩に押し切られてメイド学科に入った。
「年末年始は日本に帰りたい」という言葉だって本当だ。
この国はそれなりに好きだが、故郷を捨てるほどの決意は無い。かといって、ここでの日々を無かったことにするのも嫌だ。俺はどっちつかずなのだ。
だが、そんな俺だからこそ伝えられることもある。
俺のような半端者が、到底勝てるはずのない相手に立ち向かうことができたなら。それだけの覚悟を見せつけることができたのなら。
それは、俺の言葉に大きな説得力を与えることができるのではないだろうか?
そう、俺は初めからこの勝負を捨てていた。
俺が望むのは逆転の勝利ではなく、劇的な敗北だ。俺がズタボロになればなるほど俺の覚悟は証明され、ラオフー先生の主張を打ち負かす論拠となるのだから。
賭けの内容なんてラオフー先生をその気にさせるための方便に過ぎない。先生は俺と戦っているつもりかもしれないが、俺は戦いという状況を利用して相手を論破する材料を集めていただけだ。
事ここに至ってようやく俺の目的に気付いたのだろう。拳を振り上げるラオフー先生の目には激しい動揺が見て取れた。
だからといって攻撃の手を緩めないのがこの人だ。そうでなくては意味がない。
おそらく俺の両手は二度と使えなくなるだろう。なんなら跡形もなく吹き飛ぶかもしれない。あまり考えたくはないが、そのまま死ぬ可能性だってある。
それはそれとして、俺は逃げなかった。
「────────!!」
その瞬間、大気そのものが震えた。
圧縮された空気が朝霧と共に弾ける。
しぶきのような衝撃波をもろに受け、俺はたまらず顔を覆った。
「……あれ?」
おかしい。
顔を覆う、ということはつまり……顔を覆うための手が健在であるということで。
「……なんで?」
おそるおそる手を下ろした俺の目に、意外過ぎる景色が飛び込んできた。
ラオフー先生の拳は俺に届いてはいなかった。間に割り込んだ何者かが、先生の拳を受け止めたのだ。
「……セイレン!?」
俺とラオフー先生はほぼ同時に叫んでいた。
そこにいたのは確かにセイレンだった。
彼女はラオフー先生が手加減抜きで繰り出した必殺の一撃を、片手一本で握り潰すようにつかんでいた。女性らしい滑らかさを備えた手には、傷一つない。
予想外の展開、そして規格外のパワーに絶句する俺たち。
つかんだ拳をゆっくりと押し返すと、そこで彼女はようやく口を開いた。
「師範、もういいでしょう」
ラオフー先生をも驚愕せしめる力で戦いを止めたセイレン。しかし紡がれた言葉はとても穏やかで、まるで懇願しているようでもあった。
「師範がどのような思いで私たちに接してきたのか、完全に理解することはできません。ですが、もう少し私たちを信じてくれても良いと思うんです」
「信じる……だと?」
「私たちは未熟ですが、いつまでも未熟さに甘えているわけではありません。他の先生方も、私たちを一人前に育て上げるために日々努力しています。覚悟を育もうとしているのは、師範だけじゃないんです」
何より、と続け、
「こんなやり方を続けていたら、師範の思いは誰にも届かないじゃないですか。私は……自分が誰より尊敬するお方が誤解されていく姿をこれ以上見たくありません!」
一筋の涙が彼女の頬を伝う。
ラオフー先生は、何も言わなかった。言えなかった、というべきだろうか。
先生は唇をわずかに開けたまま硬直し、歯噛みするように閉じた後……静かに目を覆った。
「老いては子に従え、か」
ため息のような一言。
ラオフー先生のまとっていた闘気がみるみるうちにしぼんでいく。それは戦いの終わりを告げるものだった。
「皮肉なものよ。若者に教訓を伝えねばと意気込んでいたつもりが、まさか年寄りの冷や水に過ぎなかったとはな」
「考え方そのものは立派だと思いますよ。ただ、もうちょっと長い目で見てほしいんです」
「そうよな。万里は一日にしてならず。子供に矢を射掛けたところで、すぐさま大人になれはせぬ」
「ええ。だから最初は矢じゃなくて毛糸玉をぶつけてください。そこから始めていきましょうよ」
「……ふっ」
割と本気で言ったのだが先生は冗談だと受け取ったようだ。俺の言葉を鼻で笑うと、やや照れがちに笑顔を見せた。
その表情を見れば分かる。俺の言葉は、この人の心に届いたのだ。
「師範……!」
セイレンが安堵の息をつくと同時、俺はその場にへたり込んだ。
もうくたくただ。極限の緊張状態を維持し続けたせいか、俺は気力体力ともに尽き果てていた。
体は重いわ腕は痛いわ、もう散々だった。他に方法が無かったとはいえ、こういう無茶はもう二度とやりたくない。
そんな俺の情けない姿を見て、ラオフー先生は複雑な表情を浮かべていた。
「まったく……まさか、そなたがここまで向こう見ずな真似をするとは思わなんだぞ」
「たしかに無茶ですけど、無謀ではないですよ。勝算あってのことです」
セイレンの介入は予定外だったが、それ以外はおおむね計画通りに進めることができた。
何しろこっちは上手な負け方だけを考えればいいのだから、勝つことに比べれば楽なものだ。
「だとしても、一歩間違えれば二度と戦うことができなくなっていたのだぞ。その時はどうするつもりだったのだ」
とがめるようなラオフー先生の言葉に、俺は笑って、
「ああ、その時はメイド学科に専念すればいいだけなので、別に……どうでもいいかなって」
「何ィ!?」
「いや、ちょうどいい機会だと思ったんですよ。普通に転向したら逆恨みされそうだけど、腕が駄目になったらさすがにラオフー先生も諦めると思って」
「そ、そなたは師を何だと思っておる!?」
あっけらかんと言い放つ俺。顔を真っ赤にして怒るラオフー先生。
そんな俺たちの姿を、セイレンがほほ笑みながら見つめていた。
長い夜が終わり、冒険学部に日が昇っていく。黄金色に染まる世界は、俺たち格闘学科の未来を祝福しているように見えた。
……などというセリフで綺麗に締められると思っていた俺は、とんでもない大馬鹿者だった。
「あらあら皆様、こんなところにお揃いで何をなさっているのでしょうか?」
ぎり、と強く砂利を踏みしめる音がした。
俺たちは一斉に振り返り、そこにいた彼女を見て、その表情に戦慄した。
温かみにあふれていた場の空気が、一瞬にして氷点下へと落ちる。
ただならぬ雰囲気を放つ彼女は、まず視線を俺たちに向け、次にメチャクチャになったグラウンドに向け、ぼろきれみたいになった俺の腕を見て「ふうん」とつぶやくと、最後にもう一度俺たちに視線を戻し、
「このわたくしを差し置いてずいぶんと盛り上がっていらしたようですが……説明、していただけますよね?」
先輩が、能面のように張り付いた笑みを浮かべていた。




