第21話 女中不提当年勇
「メイド、武勇を語らず」的な意味です。
文字通りの意味でお荷物となった俺の配送先は冒険学部の正門付近だった。
正門といってもそこまで大それたものではない。3メートル程度の高さしかない鉄の大扉と、小さな詰め所が一つあるだけだ。人の侵入を防ぐことはできるが、大型の魔物相手にはいささか心許ない。
とはいえ、一番割を食っているのは俺たちではなくここを警備する衛兵だと思う。外敵はもちろんのこと、内側にいる狂人にも注意を払わなければならないのだから。例えば格闘学科とか。
「はい、到着です! お疲れ様でした!」
両足をぴたりと合わせ、地面を滑るように急ブレーキをかけるセイレン。停止と同時、背負い投げをするような動きで俺を解放した。
「ぐえっ!」
したたかに背中を打ち付け、潰れたカエルみたいな声を上げる俺。かろうじて受け身のポーズだけ取れたのは日々の鍛錬の賜物だ。
体の土を払いながら上体を起こすと、セイレンが屈託のない表情で俺を見下ろしていた。
悪い人では無いのだが、どうにも彼女は俺の耐久力をラオフー先生基準で考えているようだ。できるだけ早いうちに誤解を解いておかないと、俺の命がふとした切っ掛けでロストしかねない。
だが、今は保身よりも優先すべき事柄がある。俺は周囲を見回しながら、
「それらしい人はまだ来てないみたいだけど……。セイレン、待ち合わせの時間は?」
「午後2時です。メイド学科を出たのがだいたい1時半ですから、今は……」
「じゃあ1時半だよ」
スピードスター・セイレンの移動時間を考慮する必要はない。メイド学科からここまで何百メートルあるのか知らないが、どうせ所要時間は数秒だ。
セイレンの手を借りて立ち上がった俺は、そこで改めて彼女と向き合った。
「久しぶり、って言えばいいのかな。そっちの調子は?」
「すこぶる順調ですよ。師範も元気にしています。何でも私の稽古がひと段落ついたらしくて、最近はますます精力的に活動されるようになりました」
「それは良くない傾向じゃないかな……」
セイレンはラオフー先生と対等に渡り合える唯一の生徒だ。
そのポテンシャルは冒険学部生の中でも群を抜いており、クリシュカ全土を見渡しても彼女以上の強者は数えるほどしかいない。
身体能力だけなら冒険学部最強。まさに武術のために生まれた逸材。時代の寵児だ。
問題ばかりの格闘学科が未だお取り潰しの憂き目にあわないのも、彼女の活躍によるところが非常に大きい。
なお、延命させる価値があるのかという疑問についてはノーコメントだ。
ともあれ、セイレンの存在が格闘学科の最後の安全弁となっている事実は否定できない。ラオフー先生が彼女の指導に注力している限り、新たな犠牲者が増える心配は無いのだから。
……訂正しよう。犠牲者が増える心配は無かったのだから。ついさっきまで。
「率直な意見を聞かせてくれないか? 今回のこと、どう思う?」
「新入生が格闘学科に興味を持ってくれるのはもちろん良いことだと思いますよ。ただ……」
そこまで言って、はきはきと喋っていたセイレンが途端に口ごもった。
「まあ、そうだよな……」
俺たち2人は互いに形容しがたい表情を突き合わせた。
俺たちは知っている。ラオフー先生の教育方針がいかに常軌を逸しているのか。
先生のロジックはいつだって首尾一貫している。端的に言うと「成長に苦難はつきもの」だ。
カナヅチにビート版を渡して息継ぎのやり方を教えるのが一般的な教育。海に叩き落として無理矢理泳ぎを覚えさせるのがラオフー式だ。結果的に行程は短縮できるが、同時に寿命も短縮される。
俺だって後輩が増えることが嬉しくないわけじゃない。俺はただ、後輩の墓を増やしたくないだけなのだ。
セイレンもそれは重々承知しているのだろう。だからこそ彼女はこうして俺と2人だけで話せる状況を作ってくれた。
「やっぱり俺は講義をやめさせるべきだと思う。ラオフー先生は過激すぎる。しかも相手は入学したての1年生だ。最悪、何が起こるか想像もつかない」
「ですが、それでは教えを乞いに来た後輩たちを門前払いすることになります。それは自由と自立を重視する冒険学部の精神に反するのでは?」
「自由と自立より安心と安全だよ」
「なら、私たちがその安全を担うのはどうでしょう? 私たちが師範に代わって後輩たちを守れば、ちょうどバランスが取れると思いませんか?」
「理屈の上ではそうだけど……うーん」
なおも食い下がるセイレンを前にして、俺は悩ましげにうなるしかなかった。
ラオフー先生の行動に目を光らせることで受講生の安全を確保するという考えはある程度理に適ったものだ。だが、俺としては講義そのものを取り止めにしたいという気持ちの方が強かった。
その一方で、せっかくのチャンスを逃したくないというセイレンの主張も理解できた。彼女が格闘学科の衰退を危ぶむ気持ちは、掛け持ちの俺とは比べ物にならないほど大きいということも。
(……こんな時、先輩ならどうするんだろう?)
今頃はいがみ合うポピー先生とラオフー先生を必死になだめているところだろうか。それとも面倒事をユニに押し付けて優雅にお茶でも飲んでいるのだろうか。
そこそこ付き合いは長いが、あの人の考えを完ぺきに予測することは難しかった。
だが、こんな時に彼女が言いそうなセリフは予想できる。
先輩はメイドだ。メイドという存在は、決して相手の願いを無下にしないのだ。
俺はしばしの逡巡ののち、仕方ないなあといった風に、
「はぁ。委細承知いたしました、って言うしかないんだろうな、この状況だと」
「ソウタさん……!」
キラキラと子供のように目を輝かせるセイレン。どこまでも真っ直な感情を向けられた俺は照れがちに目をそらした。
「よりましなプランを選んだだけだよ。どうせあと30分もしないうちに講義が始まるんだから、今さらジタバタしても意味ないかなって」
「あ……ありがとうございます! このご恩は絶対に忘れません! 末代まで語り継ぎます!」
「恥かしいから語り継がないで……」
何を大げさなと思うかもしれないが、セイレンは社交辞令でこんなことを言う人間ではない。やると言ったら本気でやる。俺はすんでのところでソウタ英雄伝の爆誕を阻止することができたのだ。
とにかく、こうして腹を決めたからには四の五の言っても仕方がない。
青空の下、俺たちはまだ見ぬニューカマーの姿を求めて校舎の方に目を向けた。
授業時間はすでに終わっている。人の流れは冒険者ギルドのある食堂付近から始まり、探索の準備を終えた学生たちが次々に正門をくぐっていく。
「あれ?」
その中に見知った顔を見つけた俺は、わずかな驚きに目を見張った。
迷彩柄の衣服をきっちりと着こなした長身の青年。以前と変わらず気難しそうな顔を浮かべた彼は、学園から出るルートを離れてこちらに向かってきた。
「もう来ていたのか。こちらも10分前集合を心掛けていたつもりだったが」
「ダリル先輩! どうしてここに?」
戦士学科の4年生。ヨルム討伐の件でメイド学科に同行を依頼した、あのダリル先輩だった。
ダリル先輩は俺の言葉に眉を寄せ、
「どうしても何も、君たち格闘学科が集合場所を決めたんだろう。我々はそちらの指示に従っただけだ」
「指示ってことは……まさか、ダリル先輩が新しい受講生? いや、でも1年生って話じゃ」
ちぐはぐな展開に危うく目を回しそうになる俺。セイレンも頭の上に疑問符を浮かべている。
こちらが困惑していることを理解したダリル先輩は、少し申し訳なさそうな顔で言った。
「誤解させてすまない。受講希望者は私ではなく、私の後輩なんだ。私は格闘学科を紹介した立場上ここまで付き添いに来ただけだ」
「後輩? ……ってことは、戦士学科の子なんですか?」
ダリル先輩はいくつもの学科を受講しているが、最も力を入れているのは戦士学科だ。
念のために確認してみると、いかにもダリル先輩らしい理路整然とした説明が返ってきた。
「ちょうど今くらいの時期になると、向上心の強い1年生は複数学科の受講を視野に入れ始める。折しも彼らは格闘学科にコンタクトを取る手段を探していて、私は偶然にもそれを知っていた。後は頭の軽い女が口を滑らせるだけだ」
ダリル先輩の肩越しに校舎を見やると、これまた見覚えのある女性──レナ先輩が手を振りながらこちらに歩いてくるのが見えた。その後ろには2人の少年の姿が。
一人はやんちゃで、もう一人は気弱そうだった。冒険学部に年齢規定は無いが、垢抜けない顔立ちは明らかに新入生特有のものだ。
「わわ、本当に1年生ですよソウタさん! 私たちの学科に! 初めての1年生が!」
「俺も先月まで1年生だったんだけど……」
「もう、そういう意味じゃないのに」
初々しいとかそういうことを言いたいんだろうか? 思えば、当時の俺に彼らのような初々しさは無かったような気がする。期待に沿えず申し訳ない。
「それにしても、どうしてダリル先輩が格闘学科と連絡を取る方法を知ってたんですか? ほとんどの人は知らないのに」
神出鬼没のラオフー先生に用がある場合、俺とセイレンは書置きという手段を使う。
基本的には職員室に置いておくのが確実だが、急を要する場合は複数の場所に手紙をばらまいておく必要がある。
どこぞの木の下、町の裏路地、岩場の影……まるでスパイのやりとりみたいだが、こうでもしないとあの人は捕まらないのだ。
で、特に用の無い時に限って押し掛けてくるものだから、俺はいつも気の休まる暇がない。
若干話はそれたが、要はダリル先輩が格闘学科に強い興味を持っている可能性がある、ということだ。
「もしかして、ダリル先輩も昔は格闘学科に入ってたとか?」
「近いが違う。たしかに格闘学科の受講を検討していたことはあったが、最終的には受講しなかった」
「どうして格闘学科を選ぼうとしたんですか? 普通なら候補にすら入りませんよ」
セイレンが非難がましい視線を向けるが、ここだけは譲れなかった。現状を正しく受け止めない限り物事の改善はありえないからだ。
「冒険者はあらゆる状況に対応しなければならない。武器を失った状態でも戦える技術があるとしたら、それは多少のリスクを負ってでも学ぶ価値があると思わないか?」
「あのっ、それならどうして受講なさらなかったんですか?」
しゅたっと挙手して食い気味に質問するセイレン。ダリル先輩はしみじみと目を閉じ、
「"多少どころのリスクではない"と判断したからだ。……先輩がたに全力で止められたよ。もっとマシな死に場所を探せとな」
しなしなとしおれていくセイレンをよそに、俺はもっともらしく首肯した。
「正常な判断だと思います」
「よりにもよって君がそれを言うのか? 君とて格闘学科に籍を置く身だろう」
「だからこそっていうか、被害者を増やしたくないっていうか……そんな感じです」
「……複雑な事情があるようだな」
ダリル先輩は俺に配慮したのかそれ以上聞くことは無かった。その目はいつにも増して優しさに満ちている。
何か盛大に勘違いされているような気もするが……ま、まあいいや。
「だけど、いいんですか? そこまで事情を知ってるなら、なおさら後輩を止めるべきだと思いますけど」
「本人たちが受講を強く希望している以上、部外者にはどうすることもできまい。少なくとも遊び半分ではないようだしな」
「危険ですよ」
「それでも得るものはあるんだろう? ならば後は当人が決めることだ」
「そうは言っても、得るもの以前に失うものが大きすぎるんですよ」
手とか足とか、命とか。
あのセイレンでさえ、格闘学科に長く留まっていたせいで一般常識を失いつつある。人間は投げ飛ばされたら簡単に壊れるということをそろそろ思い出してほしい。
そんなことを話しているうちに、後輩たちを引き連れたレナ先輩が合流してきた。
レナ先輩はこちらを見るなりに両手でサムズアップ。俺とセイレンもやや戸惑いがちに親指を上げた。ダリル先輩はクールに無視した。
「おーっす、ソウちゃん! 元気してた?」
「お久しぶりです、レナ先輩。今は元気ですよ」
これからどうなるかは分かりませんけど、とは言わなかった。
「もうダーリンから話は聞いてるよね? 補足要る?」
「大丈夫です。あ、でも……自己紹介は必要かもしれません」
俺はそう言うと、レナ先輩の背後から飛び出してきた少年に目を向けた。
「アスファルだ! 一度しか言わないからよく覚えとけよな!」
背の低い金髪の少年が犬歯を見せて笑う。
年齢は中学生くらいだろうか。いたずら好きそうな、それでいて愛嬌のある少年だった。小柄な割に筋張った体と野暮ったい外見が"戦士の卵"というイメージにマッチしていた。
「アスっちは戦士学科の期待の星なんだ。複雑なことは覚えられないんだけど、何にでも体当たりでぶつかっていくから飲み込みがすっごく速いの」
「習うより慣れろ、だからな! ドーンて行ってバーンってやるのが男ってもんだろ?」
アスファルは不敵な顔で拳を握ると、
「だからここに来たんだ。格闘学科に入ればもっとすげえ力が手に入るって話を聞いたからな。だったらもう、行くしかないだろって!」
「戦士学科らしい考え方だなぁ……。格闘学科向きではあるんだけど」
底なしのバイタリティとひたむきさ。まさに冒険学部を擬人化したような少年だった。
期待通りの"初々しい1年生"の登場に、セイレンも顔をほころばせる。
「ふふっ、すごく元気いっぱいな子ですね。思わず圧倒されてしまいました」
「あー、ちなみに入学した頃の俺はどんな風に見えてたんだ?」
「ええと、吹けば飛びそうな感じでした」
「セイレンに吹かれて飛ばないのはゴーレムだけだよ……」
さて、ゴミ同然の自尊心がこれ以上傷つく前に話を進めるとしよう。
俺はやや前屈みになると、レナ先輩の背中に隠れていた少年と視線を合わせた。
「それじゃあ、君がもう一人の受講希望者かな?」
「はっ、はい! フェザーっていいます! よろしくお願いします!」
フェザーと名乗った少年はおっかなびっくり前に出ると、ぎこちない動きでお辞儀をした。
アスファルとは正反対の、臆病そうな子だった。さらさらの青い髪に伏し目がちな視線。背丈はアスファルより高いが、どことなく頼りなげな印象を受けた。
「フェザーくんはアスっちの友達なんだって。そんなに目立つ子じゃないけど、うちの先生たちが目を掛けるくらいだからきっと凄い才能があるんじゃない?」
「レナ……お前、もう少しまともな説明はできないのか? 伝聞と憶測ばかりで何の参考にもならん」
「じゃあダーリンがお手本見せてよ!」
高音でさえずるレナ先輩。ダリル先輩は呆れたように首を振ると、
「見ての通り、フェザーはあまり戦いに向いていない。技術的な意味ではなく、精神的な意味でな」
にべもない言葉だが、こういうことを本人の前ではっきり口にするのがダリル先輩だ。この人は良くも悪くも事実を偽らない。
「個人的には戦士より後衛職に転向するべきだと思うが……そんな彼がなぜ不向きな戦士学科を受講し続けているのかは私にも分からない。格闘学科にこだわる理由もな」
俺の目から見てもダリル先輩の批評は正鵠を得たものだった。
この少年はどう見ても自分から積極的に動こうとするタイプではない。
だというのに彼は戦士学科を選び、そのうえ早くも2つ目の学科に手を出そうとしている。しかもそれが悪名高い格闘学科なのだから驚きだ。
強引なアスファルに誘われて断り切れなかったのだろうか? だとすれば無理に彼を連れていくべきではない。
そう思った俺がそれとなくフェザーを促すと、予想だにしない答えが返ってきた。
「その、最初はアスファルが一人で受講するはずだったんです。だけど、この学科にソウタ先輩が所属してるって聞いて、それで」
「えっ、俺!?」
俺はあんぐりと口を開けて立ち尽くしすしか無かった。
最強のセイレンならともかく、なぜ俺がいることが受講の決め手になるのか。それ以前に俺ってそこまで有名でも無かったような……。
だが、当のフェザーは俺の疑問などお構いなしに、興奮した様子で話し始めた。
「冒険学部に来てからソウタ先輩の活躍を何度も耳にしました。その時からずっと憧れてたんです。だから、ソウタ先輩みたいに強くなれるならって思って、格闘学科に来たんです!」
「活躍って、別に何も…………あ」
思い出した。あの時ユニが言っていたやつだ。
先輩がメイド学科の宣伝用に打ち出した根も葉もない与太話。あの噂が人づてに伝わっていくうちに、おそらく俺の名前だけが独り歩きしてしまったのだ。
(くそっ、先輩も余計なことを……!)
なんという運命のいたずらか。あの人の軽はずみな行為がきっかけで格闘学科の犠牲者がまた一人増えてしまった。
俺は頭痛に耐えつつ、尊敬の眼差しでこちらを見るフェザーに毅然とした口調で告げた。
「どんな噂を聞いたのか知らないけど、全部嘘っぱちだよ。噂っていうのは面白おかしくするためにありもしない出来事をでっちあげるんだ」
「でも、真に迫った話でしたよ。巨大なトロールを指先一つで気絶させたとか、この前なんてソウタ先輩がガッツポーズを決めただけでボダッハが三枚下ろしになったって!」
「何だそりゃ……いくらなんでも尾ヒレが付き過ぎだよ」
「違います! 尾ヒレもちゃんと切り分けたって言ってました!」
「いやそういう意味じゃなくて……とにかく、君も冒険者を目指すなら怪しい情報をうのみにしちゃ駄目だよ。出所の分からない噂とか、うさんくさい情報屋には金輪際関わらないように」
「ただの噂なんかじゃありません! ちゃんと聞いたんです! そこにいるメイドさんから」
振り返ると桃色髪のメイドさんがほほ笑んでいた。
「……先輩、なんでここにいるんですか? いや、それより何てことをしてくれたんですか?」
「南で蝶が羽ばたけば、巡り巡ってクリシュカの氷原に嵐が起きると申します。では、わたくしどもは蝶を憎むべきでしょうか?」
「責任逃れのスケールがデカすぎる……」
先輩は俺の視線を華麗に受け流すと、蝶のような動きで俺たちの前に出た。
「さあさあ、それよりお時間でございます。間もなくラオフー様もいらっしゃることですし、各々準備に取り掛かられてはいかがでしょう?」
先輩の一言を契機に、場の空気が変わった。
アスファルは待ちきれない様子で準備運動を始め、フェザーは緊張した面持ちで服装の乱れを整える。ダリル先輩とレナ先輩も用は済んだとばかりに踵を返した。
「付き添いはここまでで十分だろう。ソウタくん、彼らを頼んだぞ」
「頑張ってねー!」
校舎に去っていく2人を見送った後、一向に帰る気配を見せない先輩に目を向ける。
「帰らないんですか?」
ぶっきらぼうにたずねると、先輩はすまし顔で、
「何をおっしゃるのですか。大仕事を前に逃げ出すメイドなどおりません」
「今日はメイド学科の仕事じゃないんですけど……」
「呼ばれてから動くのは二流。助けを求める方の下に自ら馳せ参じるのが一流のメイドでございます」
「まるで押し売りですね……」
「営業とお呼びくださいませ」
「はいはい」
これ以上の問答は無意味だ。この人を止めることなんて誰にもできやしない。
なぜ、と理由を聞くのは野暮というものだ。
格闘学科の活動には常に危険が伴う。何かあった時のことを考えれば、動ける人間はできるだけ多い方がいい。
だから俺は、いくつかの事柄をあえて見なかったことにした。
たとえばそれは先輩の乱れた髪であり、泥で汚れた靴だったりする。
セイレンはほんの数秒でここまで来たが、そんなことができるのは彼女だけだ。普通の人間なら全力で走っても数分はかかるだろう。
だけど先輩は何も言わなかった。にじみ出る汗を密かに拭い、乱れがちな呼吸を咳払いでごまかしている。
俺は何も見なかった。何も気付かなかった。
うっかり全てを見落とした俺は、それでも一言だけ、
「ありがとうございます、先輩」
と言った。




