エピローグ 『雪解けの季節に、君と誓う未来』――復讐の炎が消えた跡に咲いたのは、これ以上ないほど温かくて優しい恋の花
季節は巡り、あの騒がしかった秋が嘘のように、学園は静謐な冬の空気に包まれていた。
吐く息が白く染まる早朝の通学路。マフラーに顔を埋めながら歩く生徒たちの姿には、以前のような殺伐とした空気は微塵もない。
俺、九頭竜咲夜は、生徒会室の窓からその景色を見下ろしていた。
手には温かいコーヒーが入ったマグカップ。隣には、山積みになった書類と格闘している銀髪の少女がいる。
「……咲夜。手が止まってるわよ。その予算案のチェック、今日中に終わらせないと理事長がうるさいんだから」
凛とした声で俺を急かすのは、天城夜空。
この学園の影の支配者であり、今では俺の恋人でもある大切なパートナーだ。
彼女は生徒会長の椅子に優雅に座り、ペンの先でコツコツと机を叩いている。その仕草一つとっても絵になるのが憎らしい。
「悪い悪い。ちょっと考え事をしてたんだ。平和になったなと思ってさ」
俺が苦笑して答えると、夜空はふん、と鼻を鳴らしながらも、その表情を柔らかく緩めた。
「そうね。毒が抜けたみたいに空気が綺麗だわ。……誰かさんのおかげでね」
「俺だけの力じゃないよ。君がいてくれたからだ」
俺たちはあの事件の後、理事長直々の指名で生徒会役員に任命された。
表向きは通常の生徒会活動だが、実質的には学園内の不正監視やトラブルの早期解決を担う、特務機関のような役割だ。
俺のITスキルと夜空の権力。この二つが組み合わさった俺たちのチームに、もはや敵う者はいない。
「謙遜は美徳じゃないわよ。さあ、仕事に戻る。これが終わったら、ご褒美にクレープ奢ってあげるから」
「はいはい、お嬢様」
俺はデスクに戻り、キーボードを叩き始めた。
以前は孤独な作業だったデータ処理も、今は隣に彼女がいるだけで、心地よい時間に変わっていた。
***
昼休み。俺と夜空は、生徒たちで賑わう食堂ではなく、特別棟にあるサンルームで昼食をとっていた。
ここは一般生徒の立ち入りが制限されている場所だが、生徒会特権で自由に使わせてもらっている。
「はい、あーん」
夜空が卵焼きを箸で摘んで、俺の口元に差し出してくる。
顔をほんのり赤く染めながら、上目遣いでこちらを見ているその姿は、破壊力が凄まじい。
かつて「氷の令嬢」と呼ばれ、人を寄せ付けなかった彼女が、今ではこんなにも無防備な顔を見せてくれる。
「……恥ずかしいから、自分で食べるよ」
「ダメ。私が食べさせたいの。ほら、口を開けて」
強引な彼女に負け、俺はパクリと卵焼きを口に入れた。
甘くて、少し出汁が効いていて、家庭的な味がした。
夜空の手作りだ。お屋敷のシェフが作ったものではなく、彼女が早起きして俺のために作ってくれた弁当。
「どう? ……焦げてない?」
「うん、すごく美味しいよ。毎日腕が上がってるね」
「当然よ。私は何をやらせても完璧なんだから」
彼女は胸を張って見せるが、その指先に小さな絆創膏が貼ってあるのを俺は見逃さなかった。
俺のために、慣れない料理を頑張ってくれている。その健気さが、胸を熱くさせる。
「ありがとう、夜空。本当に幸せだよ」
俺が素直に伝えると、彼女は真っ赤になって顔を背けた。
「……バカ。急にデレないでよ」
そんな穏やかな時間を過ごしていると、ふと、窓の外を歩く数人の生徒たちが目に入った。
かつて俺をいじめていたクラスメイトたちだ。彼らは停学処分が明けた後も、以前のような派手な振る舞いは影を潜め、目立たないように静かに生活している。
俺と目が合うと、彼らはビクリと肩を震わせ、慌てて頭を下げて通り過ぎていった。
恐怖と、畏敬。それが今の彼らが俺に向ける感情だ。
以前は彼らを見るたびに黒い怒りが湧き上がっていたが、今はもう何も感じない。
彼らは俺の人生における「背景」に過ぎない。俺の物語の主人公は俺であり、ヒロインは目の前にいる夜空だけなのだから。
「……まだ、気にしてる?」
夜空が心配そうに俺の手を握ってきた。
俺は首を振って微笑んだ。
「いや、全然。ただ、昔とは景色が違って見えるなと思って。あの頃は、世界中が敵だと思ってたけど……今は、こんなにも鮮やかだ」
「そうね。あなたが世界を変えたのよ」
彼女の温かい手が、過去の古傷を優しく撫でて消していくようだった。
***
放課後。生徒会の仕事を終えた俺たちは、校門を出て駅前の繁華街へと繰り出した。
今日は金曜日。週末のデートも兼ねて、映画を観に行く約束をしていた。
街はクリスマスムードに包まれ始めていた。
イルミネーションが輝き、ジングルベルのメロディが流れている。行き交う恋人たちは皆、幸せそうな笑顔を浮かべていた。
一年前の俺なら、こんな光景を見て吐き気を催していただろう。
璃々花との別れ、裏切り、そして孤独なクリスマス。あの時の絶望は、今思い出しても寒気がするほどだった。
だが、今は違う。
俺の隣には、銀色の髪を夜風になびかせ、俺の腕にしがみついている世界一可愛い彼女がいる。
「ねえ咲夜、あの新作のコート、可愛くない?」
「似合いそうだな。試着してみる?」
「うーん、でも今日は映画の時間があるし……今度ね」
ウィンドウショッピングを楽しみながら歩いていると、ふと、路地裏の薄暗い一角から聞き覚えのある声が聞こえてきた気がした。
「お願いします、もう少し待ってください……必ず払いますから……」
弱々しい、何かに怯えるような男の声。
そして、その後に続く、粗暴な男たちの怒鳴り声。
「ふざけんなよ! いつまで待たせる気だ!」
「金がないなら、臓器でも売ってこい!」
俺は足を止めた。
あの声。間違いない。蛇神錬次だ。
「……咲夜?」
夜空が怪訝そうに俺を見上げる。
「ちょっと、確認したいことがある。待っててくれるか?」
「……分かったわ。でも、無理はしないで」
夜空は察しが良く、それ以上は聞かずに頷いてくれた。
俺は彼女を安全な場所に待たせ、声のする方へと慎重に近づいた。
路地裏の影で、数人の強面の男たちに囲まれ、土下座をしている男がいた。
ボロボロの作業着を着て、髪は伸び放題、頬はこけ、目は落ち窪んでいる。
かつての爽やかなイケメン教師の面影は、見る影もない。
蛇神だ。
執行猶予がついたのか、あるいは保釈中なのかは知らないが、塀の外には出られたらしい。だが、そこには彼が恐れていた「地獄」が待っていたようだ。
闇金か、違法賭博の借金取りだろうか。
「あ、あ……頼む、殴らないでくれ……」
蛇神は涙を流して懇願している。
俺はその姿を、冷ややかに見つめた。
同情? 哀れみ? そんな感情は湧かなかった。
ただ、「因果応報」という言葉が頭に浮かんだだけだ。
彼が俺にしたこと、璃々花にしたこと、そして多くの生徒たちにしてきたこと。そのツケを、今払っているに過ぎない。
俺は黙って背を向けた。
声をかける価値もない。彼に関わる時間は、俺の人生にとって一秒たりとも無駄だ。
彼は一生、あの暗い路地裏で怯えながら生きていくのだろう。それが彼に与えられた永遠の罰だ。
「終わった?」
大通りに戻ると、夜空が心配そうに待っていた。
「ああ。人違いだったよ。行こう」
俺は嘘をついた。彼女にあの醜悪なものを見せる必要はない。
夜空の手を取り、明るい光の中へと歩き出す。
俺たちの未来は、あんな暗い場所にはない。
***
映画を見終わった後、俺たちは予約していたレストランでディナーを楽しんだ。
高層階にある窓際の席からは、宝石箱をひっくり返したような夜景が一望できる。
「美味しかったわね、あの映画」
「ああ。最後のアクションシーン、迫力あったな」
「私は、主人公がヒロインを助けるために命を懸けるシーンが好きだったわ。……誰かさんと重なって見えたし」
夜空がグラスを傾けながら、意味深な視線を投げてくる。
「俺はあんなに強くないよ。パソコンいじってるだけのオタクだし」
「ふふ、また謙遜。……でも、私にとっては誰よりも強いヒーローよ」
彼女の言葉が、ワインよりも甘く俺を酔わせる。
俺はグラスを置き、改まった表情で彼女を見つめた。
「夜空。……俺、起業しようと思ってるんだ」
「え?」
「今の生徒会での活動、もっと本格的にビジネスにできると思うんだ。セキュリティコンサルティングとか、データ解析とか。理事長も出資してくれるって言ってくれてる」
これは、最近ずっと考えていたことだ。
俺のスキルを活かして、自分の力で道を切り拓きたい。
夜空の「家柄」に頼るだけでなく、彼女の隣に立つのにふさわしい男になりたい。
夜空は少し驚いた顔をした後、嬉しそうに微笑んだ。
「いいじゃない。あなたなら、きっと成功するわ」
「それで……事業が軌道に乗ったら、言いたいことがあるんだ」
俺はポケットから、小さな箱を取り出した。
指輪ではない。まだ高校生だし、気が早いかもしれない。
中に入っているのは、俺が自作したペアのキーホルダーだ。銀色の狼と、青い月のモチーフ。
「これ……」
「俺たちの『共犯者』としての証であり、これからの『パートナー』としての誓いだ。……夜空、これからもずっと、俺のそばにいてほしい。君がいない未来なんて、考えられないんだ」
プロポーズのような言葉。
顔が熱い。心臓がうるさい。
でも、伝えたかった。本気だった。
夜空は目を見開き、やがてその大きな瞳に涙を溜めた。
ポロリと一雫、真珠のような涙が頬を伝う。
「……ズルい。そんなの、断れるわけないじゃない」
彼女はハンカチで涙を拭うと、最高の笑顔を見せてくれた。
それは、かつての「氷の女王」の仮面が完全に溶け落ちた、ただの恋する少女の顔だった。
「こちらこそ、お願いするわ。……私を、一生幸せにしなさいよ。咲夜」
「ああ。約束する」
俺は彼女の左手をそっと取り、その薬指にキスを落とした。
レストランの照明が、俺たちを祝福するように優しく照らしていた。
***
帰り道。
雪が降り始めた。
ひらひらと舞い落ちる白い欠片が、街を幻想的に染めていく。
初雪だ。
「わあ、雪! 綺麗……」
夜空が空を見上げてはしゃいでいる。
俺は自分のマフラーを外し、彼女の首に巻いてあげた。
「風邪ひくよ」
「……ありがとう。咲夜のマフラー、温かい」
彼女はマフラーに顔を埋め、俺の匂いを吸い込むように深呼吸した。
その愛らしい仕草に、俺の胸がいっぱいになる。
かつて、俺はこの季節が大嫌いだった。
寒くて、寂しくて、孤独を突きつけられる季節だったから。
でも、今は違う。
この冷たい空気さえも、二人の体温をより鮮明に感じさせてくれるスパイスのように思える。
ふと、璃々花のことを思い出した。
風の噂では、彼女は遠くの親戚の家に引き取られ、引きこもり生活を送っているという。
かつて愛した人が、あんな風に壊れてしまったことに対して、全く心が痛まないわけではない。
だが、それはもう「終わった物語」のエピローグにすらならない、遠い過去の出来事だ。
彼女には彼女の人生があり、俺には俺の人生がある。それだけのことだ。
俺は隣を歩く夜空の手を強く握った。
彼女も、俺の手をしっかりと握り返してくる。
この温もりだけが、今の俺にとっての真実だ。
「ねえ、咲夜」
「ん?」
「来年の冬も、その次の冬も、こうして一緒に雪を見ようね」
「ああ、もちろん。……おばあちゃんになっても、隣で雪を見てくれる?」
「ふふ、気が早いわよ。……でも、悪くないわね」
俺たちは顔を見合わせ、笑い合った。
雪は降り積もり、過去の傷跡も、悲しみも、全てを白く覆い隠していく。
そして春になれば、その雪解け水が新しい命を育む糧となるだろう。
俺たちの未来は、まだ始まったばかりだ。
どんな困難があろうとも、この手さえ離さなければ、きっと乗り越えられる。
冤罪という地獄の底から這い上がり、手に入れたこの幸せを、俺は一生かけて守り抜くと誓った。
「帰ろう、夜空。俺たちの家に」
「ええ。帰りましょう」
白い息と共に紡がれた言葉は、夜空に吸い込まれ、永遠の約束となって星空に輝いた。
俺の復讐劇は幕を閉じた。
そして今、最高にハッピーなラブストーリーの幕が上がる。




