サイドストーリー 『氷の女王が溶けるとき』――孤独な塔に囚われていた私が、復讐の共犯者である彼に心を奪われ、不器用な恋を知るまでの物語
私立神楽坂学園の最上階にある特別室。そこから見下ろす校庭の風景は、いつもミニチュアの箱庭のようにちっぽけで、退屈なものだった。
「……くだらない」
私は手元のタブレットを放り投げ、革張りのソファに深く身を沈めた。
私の名前は天城夜空。この学園の理事長の孫娘であり、生徒たちからは「氷の令嬢」などと呼ばれ、恐れられている存在だ。
容姿、頭脳、家柄。全てを持っていると人は言うけれど、私にあるのは底なしの退屈と、周囲の人間に対する冷めた諦観だけだった。
すり寄ってくるのは、私の「家柄」に媚びを売る教師か、私の「容姿」に目をつけた浅はかな男子生徒ばかり。彼らの瞳の奥にある欲望や計算高さを見るたびに、胸の奥が冷えていくのを感じていた。
この世界は嘘と欺瞞でできている。
誰も私自身を見てはいない。
だから私は、自分だけの「塔」に引きこもり、学園の監視システムを通じて、彼らの滑稽な生態を観察することだけを楽しみにしてきた。
そんな私の灰色の日常に、強烈な色彩が飛び込んできたのは、あの日――弓道部の横領事件が起きた時のことだった。
***
「九頭竜咲夜。……彼が犯人?」
報告書を見た瞬間、私は鼻で笑った。
学園のサーバーにアクセスし、裏の情報を握っている私には、真犯人が誰かなど一目瞭然だったからだ。
蛇神錬次。あの爬虫類のような目をした顧問教師。以前から女子生徒への接触が多く、経理の処理も杜撰で怪しいとマークしていた男だ。
九頭竜咲夜という生徒のことは、少しだけ知っていた。
弓道部のデータ管理をしている、地味で目立たない男子生徒。成績は中の上。素行に問題なし。
特筆すべき点のない「モブキャラ」。そう思っていた。
(可哀想に。教師の不正の身代わりなんて。きっと今頃、泣きながら親にすがっているか、絶望して部屋の隅で震えているでしょうね)
興味本位で、私は校門の監視カメラの映像を切り替えた。
そこには、ちょうど学校を追い出され、とぼとぼと歩く彼の姿が映っていた。
だが、彼がふと足を止め、夜空を見上げた瞬間。
モニター越しに目が合ったような錯覚を覚えた。
その目。
絶望に濁った、死んだ魚のような目ではない。
暗く、深く、静かに燃える青白い炎を宿した目。
理不尽な運命を呪いながらも、決して屈服せず、喉笛を食いちぎる機会を虎視眈々と狙う、傷ついた狼の目。
「……ふふっ」
喉の奥から、久しぶりに熱いものがこみ上げてきた。
面白い。
こんなに面白い「目」をする人間が、この退屈な学園にいたなんて。
「いいわ。気に入った。……私が力を貸してあげる」
私はすぐに秘書に連絡し、車の手配を命じた。
これは単なる気まぐれだ。
腐敗した教師を排除するための駒として、彼が使えると判断しただけ。
そう自分に言い聞かせながら、私は鏡の前で髪を整え、少しだけ口角を上げた。
***
「復讐したいんでしょう? 力を貸してあげてもよろしくてよ」
校門の前で彼に声をかけた時、近くで見たその瞳は、モニター越しよりもずっと綺麗だった。
彼は私を警戒していたけれど、私の差し出した手を握り返してきた。
その手は熱く、力強かった。
私の冷たい指先が、彼に触れた瞬間、ジンと痺れるような感覚が走ったのを覚えている。
彼を私の隠れ家であるマンションに招き入れた時、私は少しだけ緊張していた。
男子生徒を部屋に入れるなんて初めてだったし、ここには私の趣味であるハイスペックなサーバーや機材が詰め込まれている。
「オタクっぽい」と引かれるかもしれない。そんな不安が一瞬よぎった。
けれど、彼は私の機材を見るなり、目を輝かせた。
「すごいな……これ、全部君の?」
その言葉には、お世辞や媚びは一切なかった。純粋な敬意と、同好の士としての親近感。
彼は私の「家柄」ではなく、私が作り上げた「要塞」を見てくれたのだ。
そして、彼の実力もまた、私の想像を遥かに超えていた。
キーボードを叩く指の速さ。論理的な思考。セキュリティホールを見抜く鋭い直感。
私が教えるまでもなく、彼はプロ顔負けのスキルを持っていた。
(……すごい。私と対等に渡り合える人間がいるなんて)
二人でモニターを並べ、夜通しデータを解析する時間は、不思議と心地よかった。
サーバーの排熱音と、キーボードを叩く音だけが響く部屋。
時折、「コーヒー、飲む?」「ありがとう」と言葉を交わす。
それだけのことが、どうしようもなく満たされた時間のように感じられた。
だが、そんな穏やかな空気は、彼が仕掛けたカメラの映像を確認した瞬間に凍りついた。
彼の恋人だった姫川璃々花と、蛇神の密会映像。
彼女が彼を裏切り、嘲笑いながら、あの男に抱かれている姿。
あまりにも残酷な真実。
「う、ぅぷ……っ!」
彼が口元を押さえ、机に突っ伏した時、私は咄嗟に彼に駆け寄っていた。
背中をさすり、冷たいタオルを首筋に当てる。
普段の私なら、他人に触れることなんて絶対にしない。ましてや、吐き気を催している人間に近づくなんてありえない。
でも、この時は体が勝手に動いていた。
彼の震える背中から、言葉にならない悲鳴が聞こえてくるようだった。
信じていたものに裏切られる痛み。
世界が崩れ落ちる音。
それが痛いほど伝わってきて、私の胸まで締め付けられた。
(許せない……)
彼を傷つけたあの女が許せない。
彼を陥れたあの男が許せない。
私の「共犯者」を、ここまでコケにした連中を、絶対に許さない。
「……よく見たわね」
私は彼に声をかけた。
同情はいらない。彼は狼だ。ここで慰めて牙を折ってはいけない。
彼に必要なのは、共に怒り、共に戦うための武器を渡すことだ。
「殺意に近い復讐心、か。……いいわよ。その目、ゾクゾクするわ」
顔を上げた彼の瞳には、以前よりも冷たく、鋭い光が宿っていた。
その強さに、私は思わず見惚れてしまった。
傷つきながらも立ち上がり、戦おうとするその姿は、どんな宝石よりも美しかったから。
***
文化祭当日。
私たちは放送室をジャックし、断罪のショーを開始した。
私の役割は、システムを掌握し、教師たちの介入を阻むこと。
彼の役割は、真実を突きつけ、彼らを地獄へ叩き落とすこと。
阿吽の呼吸だった。
言葉を交わさなくても、お互いの次の行動が分かった。
まるで一つの生き物になったような一体感。
スクリーンに映し出される蛇神と璃々花の醜態。
慌てふためく教師たち。
掌を返す生徒たち。
モニター越しに見るその光景は、最高のエンターテイメントだった。
でも、それ以上に私の心を震わせたのは、隣にいる咲夜の横顔だった。
彼はマイクを握り、冷静に、淡々と、しかし確実な言葉で彼らを追い詰めていく。
迷いはない。慈悲もない。
ただ純粋な正義の執行者として、彼はそこに立っていた。
「……ああ。すっきりしたよ」
全てが終わり、ヘッドセットを外した彼が、小さく息を吐いた。
その表情には、憑き物が落ちたような安堵と、少しの寂しさが混じっていた。
私は思わず拍手をした。
「ブラボー。最高のショーだったわ、咲夜」
彼を守りたかった。
復讐を終えて空っぽになりそうな彼の心を、私が埋めてあげたいと思った。
いつの間にか、私の中で彼は「面白い観察対象」から、「なくてはならないパートナー」へと変わっていたのだ。
放送室に教師たちが雪崩れ込んできた時、私は悠然と紅茶を啜ってみせた。
「私の彼に指一本触れさせない」
言葉にはしなかったけれど、全身でそう威圧した。
彼は私が守る。誰にも文句は言わせない。
それが、私の新しい「退屈しのぎ」……いいえ、生きる意味になった。
***
グラウンドでの最後の幕切れ。
璃々花が彼にすがりつく姿を見て、私はどす黒い嫉妬と、激しい嫌悪感を覚えた。
なんて浅ましい女。
自分から彼を捨てたくせに。彼の価値に気づかなかったくせに。
今さら「愛してる」なんて、よくもぬけぬけと言えたものだ。
「……触るな」
咲夜が彼女を拒絶した時、心の中で快哉を叫んだ。
そうだ。お前に彼はもったいない。
彼はもう、私だけのものなのだから。
彼が彼女を振り切り、私の元へ戻ってくる。
隣に並んで歩き出した時、彼の手が私の手に触れたような気がした。
実際には触れていないけれど、私たちの間には、誰にも断ち切れない見えない糸が繋がっていると確信できた。
***
騒動が落ち着き、彼が名誉を回復した後。
学園は平和を取り戻した。いや、以前よりもずっと風通しが良くなった。
腐敗した教師たちは一掃され、いじめに関与した生徒たちも消えた。
祖父である理事長は、咲夜のことを大層気に入ったようで、「将来は私の右腕に」なんて冗談交じりに言っている。
放課後の屋上。
そこは、私たち二人だけの秘密の場所になった。
夕日が校舎をオレンジ色に染める中、フェンス越しに並んで街を見下ろす。
「遅かったじゃない」
私はわざと不機嫌そうに言った。
彼を待っていた時間を悟られないように。本当は、授業が終わってからずっと、彼が来るのを心待ちにしていたなんて、口が裂けても言えない。
「悪い、ちょっと担任と話しててさ」
彼は申し訳なさそうに頭をかいた。
その無防備な仕草も、私だけに向けられる柔らかい笑顔も、全てが愛おしい。
かつての「氷の女王」はもういない。ここにいるのは、ただの恋する一人の少女だ。
「ねえ、咲夜。私との契約、まだ覚えてる?」
私は勇気を出して切り出した。
復讐という共通の目的がなくなった今、私たちが一緒にいる理由はなくなってしまったのかもしれない。
そんな不安が、胸の奥で渦巻いていた。
もし彼が「もう用済みだ」と言ったらどうしよう。またあの孤独な塔に戻るのは嫌だ。
「契約? ……復讐を手伝う代わりに、俺のITスキルを貸すってやつ?」
「そう。復讐は終わったけれど……契約終了にするつもり?」
声が震えないように必死だった。
彼は少し驚いた顔をして、それから真剣な眼差しで私に向き直った。
そして、私の手をそっと取った。
「契約終了なんて言わせないよ。……俺は、これからも君の隣にいたい」
ドクン、と心臓が跳ねた。
期待していた以上の言葉。
「最初は利害関係だけだったかもしれない。でも、今は違う。俺は、夜空のことが好きだ」
好きだ。
その言葉が、私の頭の中で反響する。
耳が熱い。顔が火が出るほど赤いのが自分でも分かる。
ああ、もう、格好がつかない。クールな令嬢を演じていたのに、台無しだ。
「……な、生意気ね。私を守るなんて、百年早いわよ」
照れ隠しで、精一杯の憎まれ口を叩く。
でも、口元が緩んでしまうのを抑えられない。
「でも……あなたがそう望むなら、特別に許可してあげる。私の隣に立つ権利を、あなたにだけあげるわ」
私は彼の手を強く握り返した。
この手を、もう二度と離さない。
彼が私を孤独から救い出してくれたように、私も彼を支え続ける。
どんな理不尽な敵が現れても、二人なら怖くない。
だって、私たちは最強の「共犯者」なのだから。
「ありがとう、お嬢様」
「もう、その呼び方はやめてってば」
私たちは顔を見合わせ、笑い合った。
西日に照らされた彼の笑顔は、今まで見た中で一番優しくて、温かかった。
これが、私の初恋。
少し歪で、過激で、でも最高に幸せな物語の始まり。
ねえ、咲夜。
私の硝子の靴は砕けない。あなたが隣にいてくれる限り、私は自分の足で、どこまでも歩いていけるから。




