サイドストーリー 『硝子の靴は砕け散り』――愛してくれた少年を裏切り、欲望のままに堕ちた少女が、独りぼっちの部屋で噛みしめる絶望の味
カーテンを閉め切った薄暗い部屋には、埃とカビの臭いが充満していた。
スマートフォンの画面だけが、青白く私の顔を照らしている。
『姫川璃々花、転校先特定w』
『田舎に逃げても無駄だぞ、ビッチ』
『先生とヤレてよかったね(笑)』
SNSのタイムラインを指で弾くたびに、新しい罵倒が湧き上がってくる。
ブロックしても、アカウントを変えても、彼らはどこまでも追いかけてくる。まるで、腐った肉に群がるハエのように。
「……うるさい。うるさい、うるさい!」
私はスマホを布団の上に投げつけた。
ここは、私の家じゃない。東京から遠く離れた、母方の祖母の家だ。
あの日――文化祭での「公開処刑」以来、私は学校にいられなくなった。家にいれば毎日のように無言電話がかかり、近所の人たちの冷ややかな視線に両親が耐えられなくなり、私はここに「隔離」されたのだ。
窓の外からは、虫の鳴き声しか聞こえない。
かつて「学園のアイドル」ともてはやされ、スポットライトを浴びていた私の世界は、今や四畳半のこの薄暗い部屋だけに縮んでしまった。
どうして、こんなことになったんだろう。
どこで間違えたんだろう。
ぼんやりとした頭で、私はあの輝かしくて、そして残酷だった日々のことを思い返す。
***
きっかけは、ほんの些細な「退屈」だった。
九頭竜咲夜くんは、良い彼氏だった。
優しくて、誠実で、私のことを一番に考えてくれていた。
弓道部で私がスランプに陥った時も、黙ってそばにいてくれた。私のわがままも、笑顔で許してくれた。
中学からの付き合いで、親同士も仲が良い。このまま高校を卒業して、大学に行って、いずれは結婚するんだろうな……なんて、漠然と思っていた。
でも、それが物足りなかった。
咲夜くんとの日常は、あまりにも平穏で、刺激がなくて、まるでぬるま湯に浸かっているようだった。
「璃々花、かわいいよ」「璃々花はすごいね」
彼がくれる言葉はいつも同じ。安心感はあるけれど、ドキドキしなかった。
そんな私の心の隙間に入り込んできたのが、新しく顧問になった蛇神錬次先生だった。
「姫川さん。君の射は美しいね。でも、どこか寂しそうだ」
放課後の道場で、先生は私の背中にそっと手を添えて言った。
大人の男性の、低い声。洗練された香水の匂い。そして、生徒を見る目ではない、熱を帯びた視線。
咲夜くんにはない「危険な香り」が、私をどうしようもなく惹きつけた。
最初は、ただの指導だった。
でも、先生との距離は日に日に縮まっていった。
『君には才能がある。彼氏のような凡人には理解できない輝きだ』
『僕なら、君をもっと大人の世界へ連れて行ってあげられる』
先生の言葉は、私の承認欲求を完璧に満たしてくれた。
咲夜くんは私を「守る」対象として見ていたけれど、先生は私を「対等な女」として扱ってくれた。そう、勘違いしてしまったのだ。
あの日、部室で初めて先生に抱きしめられた時。
私は抵抗しなかった。むしろ、咲夜くんに対する背徳感が、恋の炎をさらに燃え上がらせるスパイスのように感じられた。
「咲夜くんなんて、もういらない」
先生の腕の中でそう呟いた時、私は自分がとてつもなく特別な存在になったような気がした。
つまらない日常を捨てて、ドラマティックな悲劇のヒロインになったような陶酔感。
それが破滅への入り口だとも知らずに。
***
「九頭竜を追い出そう。そうすれば、僕たちはもっと自由に愛し合える」
先生から横領の濡れ衣を着せる計画を聞かされた時、さすがに少し躊躇った。
咲夜くんを犯罪者にするなんて。あんなに優しかった彼を。
「……でも、彼がいると君の才能が開花しないんだ。彼は君の足枷なんだよ」
先生はそう言って、優しくキスをしてくれた。
その甘い毒に、私の良心は麻痺していった。
そうか、咲夜くんが悪いのよ。いつまでも私を子供扱いして、縛り付けようとするから。
私はもっと高く飛びたいの。先生と一緒に。
だから、私は嘘をついた。
生徒指導室で、まっすぐに咲夜くんの目を見て。
「ごめんね、咲夜くん。私……見ちゃったの」
あの時の咲夜くんの顔。
信じられないものを見るような、世界が崩れ落ちたような顔。
胸がチクリと痛んだ。でも、すぐに先生が肩を抱いてくれたから、痛みは消えた。
これでいいの。私たちは「共犯者」。二人だけの秘密が、絆を強くするんだから。
咲夜くんが停学になり、学校に来なくなってからの日々は、まさに絶頂だった。
邪魔者はいなくなった。部活中も、放課後も、先生は私だけのものだった。
「かわいそうな被害者」を演じる私に、みんなが同情し、優しくしてくれた。
私は悲劇のヒロインであり、同時に先生という王子様に選ばれたプリンセスだった。
咲夜くんが家でどんな思いをしているかなんて、考えもしなかった。
たまに思い出すとしても、「今ごろ反省してるかな」とか「早く退学してくれればいいのに」といった、冷酷な感想しか浮かばなかった。
私は完全に、自分だけの世界に酔いしれていたのだ。
***
そして、文化祭。
あのステージの上は、私の人生のクライマックスだったはずだ。
フリルのついたワンピースを着て、先生の隣に立つ。
何百人もの視線が私に注がれる。
「かわいい」「お似合いだね」
そんな声援を浴びて、私は有頂天だった。
見て、咲夜くん。私、あなたがいない方がずっと輝いているでしょ?
あなたみたいな地味な彼氏じゃ、私をここまで連れてくることはできなかったのよ。
そう思っていた。
あの不快なノイズが響き渡るまでは。
『咲夜くんなんていらない! 先生がいい、先生のがいいぃッ!』
スピーカーから流れてきたのは、紛れもない私の声だった。
部室での、情事の最中の声。
恥ずかしさと恐怖で、全身の血が逆流した。
「嘘……やめて……」
スクリーンに映し出されるLINEの履歴。先生と笑い合っている映像。
観客席の空気が一変する。
さっきまで私を称賛していた瞳が、ゴミを見るような目に変わっていく。
軽蔑。嫌悪。嘲笑。
数えきれないほどの敵意が、矢のように突き刺さる。
「ち、違うの……!」
助けを求めて先生を見た。
先生なら、きっと何とかしてくれる。私を守ってくれる。
だって、あんなに愛してるって言ってくれたんだから。
「そ、そうだ! あの女だ! 姫川璃々花が俺を誘惑したんだ! 俺は被害者だ!」
……え?
耳を疑った。
先生は、警察に捕まりながら、私を指さして叫んでいた。
顔を真っ赤にして、唾を飛ばして。
「全部お前が悪いんだ! 俺の人生を返せ! この売女が!」
売女。
先生が私に投げつけた最後の言葉。
私の心の中で、何かが音を立てて砕け散った。
ガラスの靴が割れたのではない。
最初から、ガラスの靴なんて履いていなかったのだ。
私が履いていたのは、欲望と虚栄心で固めた、泥だらけの靴だった。
先生にとって、私は愛する人なんかじゃなかった。ただの遊び相手。都合のいい道具。
咲夜くんを追い出すための駒に過ぎなかった。
「あ、あああ……」
腰が抜けて、その場にへたり込む。
先生がパトカーに乗せられていく。
残されたのは、泥にまみれた私だけ。
クラスメイトたちの冷ややかな視線に耐えられず、私はうずくまって泣くしかなかった。
***
「……終わったわね」
冷たい声がして顔を上げると、そこに咲夜くんがいた。
少し痩せたけれど、以前よりもずっと背が高く、凛々しく見えた。
その隣には、あの天城夜空さんが立っている。
そうだ、咲夜くんにお願いしよう。
咲夜くんなら、きっと許してくれる。
だって、あんなに私のことを好きでいてくれたんだから。
私が泣いて謝れば、きっと優しく抱きしめて、「大丈夫だよ」って言ってくれる。
そうすれば、この悪夢から助け出してくれるはず。
「さ、咲夜くん……待って……!」
私は這うようにして彼にすがりついた。
なりふりなんて構っていられなかった。今の私には、彼しかいないのだから。
「ごめんなさい……私、どうかしてたの。先生に洗脳されてて……本当は、咲夜くんのことしか好きじゃないの」
必死に言葉を紡ぐ。
半分は嘘で、半分は本音だったかもしれない。
先生がいなくなった今、私が頼れるのは咲夜くんだけだ。彼を取り戻せば、また元の「守られた場所」に戻れる。
「……離せ」
咲夜くんの声は、氷点下の冷たさだった。
私を見下ろす瞳に、かつての温かさは欠片もなかった。
そこにあるのは、無関心と、深い軽蔑。
「昔の君はもう死んだんだよ。俺の中でな」
その言葉が、心臓を抉った。
死んだ? 私が?
違う、私はここにいるよ。あなたの璃々花だよ。
「あの映像を見たよ。君が俺のことを『いらない』って言って、あいつと笑い合ってる映像を。……あれを見て、俺が君を愛せると思うか?」
彼の囁き声に、私は息を呑んだ。
そうだ。私は言ってしまった。「いらない」と。
あの一言が、咲夜くんの心を殺したのだ。
先生に媚びるために吐いた言葉が、ブーメランのように戻ってきて、私の喉元を切り裂いた。
咲夜くんは私の手を汚いものでも払うように振り解き、天城夜空さんと共に歩き出した。
彼らの後ろ姿は、とても美しかった。
お似合いだった。
私なんかよりもずっと、彼にふさわしいパートナーに見えた。
「いやぁぁぁぁッ!」
私は絶叫した。
失ったものの大きさに、今さら気づいたからだ。
無償の愛。絶対的な信頼。穏やかな幸福。
それらすべてを、私は一時の快楽と引き換えにドブに捨てたのだ。
ダイヤモンドを捨てて、ただのガラス玉を拾った愚か者。それが私だった。
***
それから、私の地獄が始まった。
学校では誰も口をきいてくれなかった。
机には『裏切り者』『教師キラー』と彫られた。
上履きには画鋲が入れられ、トイレに入れば水をかけられた。
かつての取り巻きたちは、手のひらを返したように私を攻撃した。自分がターゲットにならないための生贄として、私を徹底的に叩いた。
家に帰れば、両親の怒鳴り声。
「お前のせいで会社にいられない」「恥さらし」「こんな娘に育てた覚えはない」
父は私を殴り、母は泣き崩れた。
家庭は崩壊した。
そして、私はここに捨てられた。
祖母は何も言わずに食事を運んでくれるけれど、私の目を見ようとしない。
腫れ物を触るような扱い。
「……寒い」
布団にくるまり、私は小さく震える。
ふと、スマホの通知が鳴った。
恐る恐る画面を見る。
それは、誰かがSNSに上げた、今日のテレビニュースの切り抜き動画だった。
『IT技術で若者を支援、注目の高校生社長・九頭竜咲夜さんインタビュー』
画面の中の咲夜くんは、自信に満ちた笑顔でインタビューに答えていた。
隣には、秘書のように寄り添う天城夜空さんの姿。
「支えてくれたパートナーのおかげです」と、咲夜くんは彼女を見て微笑む。夜空さんも、愛おしそうに彼を見つめ返している。
幸せそうだ。
眩しい。
直視できないほどに、輝いている。
もし、あの日。
先生の誘いに乗らなければ。
咲夜くんを信じていれば。
あの場所に立っていたのは、私だったかもしれないのに。
「あは……あはは……」
乾いた笑いが漏れる。
涙はもう枯れ果てていた。
後悔? そんな言葉じゃ足りない。
私は自分の手で、自分の人生を殺したのだ。
画面の中の咲夜くんは、もう私の方を振り返ることはない。
彼は未来へ進んでいる。
私は、過去という泥沼に沈んだまま、一生ここから抜け出せない。
「ごめんなさい……咲夜くん……ごめんなさい……」
誰もいない部屋で、謝罪の言葉を繰り返す。
それは誰にも届かず、湿った空気の中に溶けて消えていく。
雨が降り始めた。
冷たい雨音が、私のすすり泣く声をかき消していく。
明日は来ない。私にとっての明日は、もう永遠に来ないのだ。




