サイドストーリー 『道化の断末魔』――すべてを操っていたつもりの傲慢な教師が、自ら仕掛けた罠に溺れ、社会的抹殺という名の地獄へ落ちるまで
「……よし、これで五十万。今月の支払いは何とかなるか」
深夜の職員室。蛇神錬次は、デスクの引き出しの奥で、抜き取ったばかりの紙幣の束を数えていた。
指先が震えるのは、恐怖からではない。これから始まる「愉悦」への武者震いと、ギャンブルで作った借金を返済できる安堵感からだった。
俺は優秀だ。
誰よりも賢く、誰よりも魅力的で、誰よりも世の中の仕組みを理解している。
教師という職業を選んだのも、それが「最も効率よく自尊心を満たせる場所」だったからに過ぎない。未熟な生徒たちは、少し優しくしてやれば簡単に俺を信じ込み、崇拝する。特に女子生徒など、チョロいものだ。
「先生、すごいです」「先生、素敵です」
そんな言葉を浴びながら、適当に授業をし、部活の顧問として君臨する。
そして裏では、部費を自分の財布代わりに使い、気に入った女子生徒を食い物にする。
これこそが、選ばれた人間に許された特権だろう?
だが、最近その完璧な王国に、小さな染みができた。
九頭竜咲夜。弓道部の会計係をしている、あの陰気な眼鏡だ。
目立たないモブキャラの分際で、俺の帳簿の不整合に気づき始めていた。鋭いというより、小賢しい。
あいつが余計なことを上に報告すれば、俺の楽園は終わる。
だから、消すことにした。
「ふふっ……最高のシナリオだろ?」
俺はポケットから、九頭竜の彼女――姫川璃々花とのツーショット写真を取り出した。
璃々花はいい素材だ。顔も体も極上だが、何より頭が空っぽで依存体質なのがいい。
『君には才能がある』『彼氏は君の足を引っ張っている』『僕ならもっと君を輝かせてあげられる』
そんなありきたりな言葉を囁くだけで、彼女は簡単に俺の腕の中に落ちてきた。
九頭竜に横領の罪を着せ、学校から追放する。
そして、傷心の璃々花を俺が慰め、完全に自分の所有物にする。
金も、女も、名誉も、すべて俺のもの。
九頭竜という生贄は、俺の人生を彩るためのスパイスに過ぎないのだ。
***
計画は完璧だった。完璧すぎるほどに。
「ごめんね、咲夜くん。私……見ちゃったの」
生徒指導室での璃々花の演技は、アカデミー賞ものだった。
俺は内心で爆笑するのを必死に堪えながら、悲痛な面持ちで九頭竜を見下ろしていた。
『僕はやってない!』と叫ぶあいつの無様な顔。
信じていた恋人に裏切られ、信頼していた教師(俺だ)に断罪される絶望。
その表情を見ているだけで、酒が何杯でも飲めそうだった。
学年主任や校長といった無能な管理職どもも、俺のシナリオ通りに動いた。
彼らは「事なかれ主義」の塊だ。面倒な調査をするよりも、一人の生徒を切り捨てて解決とする道を選ぶ。俺はそれを利用しただけだ。
「九頭竜、君には失望したよ」
そう吐き捨てて部屋を出た後、俺は璃々花を連れて近くのホテルへ向かった。
彼女は少し罪悪感に怯えていたが、俺が「大丈夫、これが正義なんだ」「君は正しいことをした」と抱きしめてやれば、すぐに雌の顔になった。
九頭竜の悪口を言わせ、あいつが見ているかもしれないという背徳感を煽りながら彼女を抱くのは、この上ない快感だった。
俺は神だ。
この学園という箱庭の中で、俺は絶対的な支配者なのだ。
***
そして迎えた文化祭当日。
俺の人生の絶頂となるはずの日。
「先生、私、なんだか胸騒ぎがするの……」
ステージの袖で、璃々花が不安げに俺の袖を掴んできた。
今日の彼女は特にかわいい。フリルのついたワンピースは俺の趣味だ。これから全校生徒の前で「理想のカップル」として喝采を浴びる。
「大丈夫だよ、璃々花ちゃん。九頭竜はもう学校に来られない。誰も僕たちの邪魔をする者はいないさ」
俺は彼女の髪を撫でながら、心の中で舌打ちをした。
いつまでもウジウジと鬱陶しい女だ。このイベントが終わったら、適当な理由をつけて捨ててもいいかもしれない。どうせもう飽きてきたところだ。新しいターゲットは、一年生のあの子にしようか。
「さあ、行こう。みんなが待っている」
俺たちは光の中へと歩み出した。
割れんばかりの拍手。歓声。
これだ。この瞬間こそが、俺にふさわしい。
何百人もの人間が、俺を見上げ、称賛している。
俺はマイクを握り、用意していた美辞麗句を並べ立てた。
「教師として、生徒と真摯に向き合ってきた結果だと思っています」
自分でも酔いしれるような完璧なスピーチ。
璃々花も、健気なヒロインを演じきっている。
このまま表彰を受け、俺の評価はさらに上がり、ボーナス査定もアップするはずだった。
『キィィィィィン……』
耳をつんざくようなハウリング音が、俺の思考を中断させた。
なんだ? 放送部のミスか? 後で説教してやらないとな。
そう思った直後、背後の巨大スクリーンが消えた。
そして、悪夢が始まった。
『真実を知る準備はできているか?』
九頭竜の声だ。
なぜだ? あいつは自宅で泣き寝入りしているはずじゃないのか?
なぜあいつの声がここから聞こえる?
スクリーンに映し出された帳簿データを見て、俺の心臓が早鐘を打った。
それは、俺が隠していた「裏帳簿」そのものだった。
バカな。あのデータは俺の個人のパソコンにしか入っていないはずだ。パスワードもかけてある。一介の高校生に見つけられるはずがない。
「捏造だ! こんなのデタラメだ!」
俺は叫んだ。だが、声が裏返る。
冷や汗が背中を伝う。
観客席の空気が変わっていくのが肌で感じられた。賞賛の熱気が、急速に冷却され、疑念と軽蔑の冷気へと変わっていく。
そして、止めの一撃。
あの音声データだ。
『咲夜くんより、錬次さんとの生活の方が大事だもん』
璃々花の声が、大音量で響き渡る。
俺たちが密室で交わした、醜悪な共犯の誓い。
さらには、ホテルでの情事の映像まで。
「ひっ……!」
璃々花が悲鳴を上げて座り込む。
俺は立ちすくんだ。
足元のステージが崩れ落ちていくような感覚。
スポットライトが、まるで取調室のライトのように俺を焼き焦がす。
視線が痛い。
何千もの瞳が、俺を見ている。
さっきまでの憧れの眼差しじゃない。
ゴミを見るような、汚物を見るような、絶対的な拒絶の目だ。
「ち、違う……俺じゃない……」
言い訳をしようとするが、言葉が出てこない。
スクリーンには、俺のスマホのLINE履歴が流れている。
女子生徒たちに送った卑猥なメッセージ。校長へのゴマすりメール。九頭竜を陥れる計画のメモ。
俺のプライド、俺の知性、俺の作り上げた虚像。
すべてが剥ぎ取られ、裸のまま晒されている。
放送室の方角を見る。
そこには、きっと九頭竜がいる。
あの「モブ」が。取るに足らない「陰キャ」が。
俺を見下ろして笑っているのか?
俺が、あいつごときに負けたというのか?
「ふざけるな……ふざけるなああああッ!」
俺は錯乱した。
認めない。こんな結末は認めない。俺は特別な人間なんだ。こんなところで終わっていいはずがない。
「警察だ! 大人しくしろ!」
制服警官がステージに駆け上がってきた。
その手には手錠が握られている。
現実感がない。ドラマの撮影か何かか? 俺が手錠? ありえない。
「は、離せ! 誤認逮捕だ! 弁護士を呼べ!」
抵抗する俺の腕がねじり上げられる。激痛が走る。
そして、俺は見てしまった。
ステージの袖で、冷ややかに俺を見つめる二人の姿を。
九頭竜咲夜。
そして、その隣に立つ、理事長の孫娘・天城夜空。
九頭竜の瞳は、怒りすら超えた、無機質な氷のような色をしていた。
まるで、道端の石ころを見るような目。
あいつにとって、俺はもう「敵」ですらない。「処理されたゴミ」なのだ。
その瞬間、俺のプライドは粉々に砕け散った。
俺はあいつに負けたのではない。
あいつの掌の上で、滑稽に踊らされていただけだったのだ。
「あの女だ! 姫川璃々花が誘ったんだ!」
俺は無様に叫んだ。誰でもいい、道連れが必要だった。
自分だけが泥を被るなんて御免だ。
璃々花を指差し、罵声を浴びせる。彼女が絶望の表情で俺を見るが、知ったことか。俺は被害者なんだ。魔が差しただけなんだ。
だが、警官は冷淡に俺の手首に金属の輪をかけた。
カチャリ、という冷たい音が、俺の人生の終焉を告げる鐘の音のように響いた。
***
「……以上が、押収した証拠と被害者の証言です。蛇神錬次容疑者、言い逃れはできませんよ」
取調室の狭い机。
目の前の刑事が、分厚いファイルを叩いた。
そこには、俺の余罪が山のように記されていた。
今回の横領だけではない。過去に遡っての着服、未成年者への条例違反、さらには違法賭博への関与。
九頭竜と天城夜空の手によって、俺が墓場まで持っていくはずだった秘密が、すべて掘り起こされていた。
「そ、そんな……まさか……」
「特に悪質なのは、教育者という立場を利用した洗脳に近い行為です。情状酌量の余地はないでしょう。実刑は確実です」
実刑。
刑務所。
教員免許の剥奪。
そして、何より恐ろしいのは、塀の外で待っている「借金取り」たちの存在だ。
職を失い、社会的信用を失った俺に、彼らがどのような取り立てを行うか。想像するだけで失禁しそうになる。
「俺は……俺はただ、少し人生を楽しみたかっただけなんだ……」
涙と鼻水が溢れ出てくる。
かつての爽やかなイケメン教師の面影はどこにもない。
ただの、薄汚れた犯罪者の中年男がそこにいた。
留置所の冷たい床に転がされ、俺は天井を見上げた。
コンクリートの染みが、人の顔に見える。
九頭竜の顔だ。
あいつは今頃、どうしているだろうか。
名誉を回復し、あの理事長の孫娘と幸せな学園生活を送っているのだろうか。
「……クソッ、クソッ、クソオオオオオッ!」
俺は壁を殴りつけた。拳から血が滲むが、痛みは感じない。
後悔? 反省?
そんな高尚なものはここにはない。
あるのは、失ったもののあまりの大きさと、これから訪れる地獄への底知れぬ恐怖だけだ。
「誰か……誰か助けてくれ……」
その情けない声は、誰の耳にも届くことなく、冷たい鉄格子の中に吸い込まれていった。
俺の人生という物語は、ここで唐突に、そして無様に打ち切りとなったのだ。




