088 涙の凱旋歌(トライアンファルソング)【フィロメナ視点】
メリーからグリモワールを託され、浄化を試みていた。だが穢れが酷いのか思うように進んでいかない。
「フィロメナ様、魔力は足りそうでしょうか?」
「エルヴェのおかげで今のところはね」
カストルとポルッカのときは頼ることができなかったが、エルヴェは自然界から魔力を集め、それを動力に変えているらしい。そのため魔力の収集に集中し、得られた魔力を分け与えてくれていた。
メリーが判断し、エルヴェをこちらに割いてくれたのだ。メリーの魔力のように穢れは持っていないおかげで以前のような激痛はないが、それでもあり得ない量の魔力を受け入れているため体に負荷はかかり続けている。
グリモワールは呪いの塊というだけあって、一つ浄化しても、次から次へと呪いと穢れが噴出してくる。内包されている呪いも千差万別で、強いものから比較的弱いものまで様々だ。あまり長時間向き合っていると体にも影響を及ぼしてくるだろう。堕天の先は消滅だ。
暴走したサクが、轟音と地響きを伴わせ暴れまわっている。遠巻きに悲鳴や怒号が聞こえてきた。急がなくては。犠牲を一人でも多く減らせるかは自分にかかっている。焦りばかりが募り、浄化は思うように進んでいかない。
実際浄化を試みたのはカストルとポルッカのときが初めてだった。あのときは二人を助けたいという気持ちで頭が一杯でとにかくありったけの魔力で何とかした。
だが、グリモワールはそういうわけにはいかない。一つ一つの呪いにこもった穢れの具合を見極め、魔力を使わなければならないほどギリギリの攻防になるだろう。
浄化を進めていると、足音が一つこちらへと近づいてくる。騎士の一人が、怪我をした騎士を背負って避難してきたのだ。
「すまない、巻き込まれないようコイツをここに避難させてやってくれ」
そう言い残し、騎士はまたサクのいる方へと戻っていく。置いていかれた騎士は足と肩に大怪我を負っており、出血も酷い。すぐに治癒術をかけなければと立ち上がりかけるフィロメナをエルヴェが制した。
「フィロメナ様はグリモワールを。ひとまず私が止血と応急処置をしておきます」
エルヴェが一旦離れ、騎士の手当を始める。必死に進め、何とか三分の一の浄化が終わった。メリーには負荷に耐えきれず消滅すると言われたがこの調子なら最後まで上手くいくかもしれない。
そんな希望を抱いたときだった。突然バチッと手を弾かれ、グリモワールに浄化を拒まれる。
「ど、どういうこと?」
再び浄化するため魔力をかざしても強い力で拒絶される。ならばと手を離して試みるが、今度は力が伝わらなさ過ぎて浄化が進んでいかない。
「どうなさいました、フィロメナ様」
「グリモワールに浄化を拒まれるの。エルヴェ、あたしの手を思いっきり押さえておいてちょうだい」
エルヴェは不安そうにこちらを伺いながらも、グリモワールに手を乗せたフィロメナの手の上に強く手を重ねる。
「いくわよ……」
一気に浄化の魔力を込めた瞬間、全身に電流が走ったかのような衝撃と痛みに襲われる。
「こんなとこで……もたもたしてる場合じゃないのよっ」
歯を食いしばり、強引に浄化を継続する。だが押し返される力に負け、フィロメナとエルヴェは思いきり吹っ飛んだ。
無防備に地面に落ちて転がる。体が軋み、痛みを訴えていた。だが痛みに気を取られているわけにはいかない。咳き込みながら、震える足でグリモワールの元へ戻った。
「フィロメナ様! 大丈夫ですか?」
「あたしは平気よ……全然、平気」
エルヴェは何かを口にしかけ、押し黙る。重症を負って避難してくる騎士の数は増えていっている。中にはあの場で力尽きた者もいるだろう。
スイウ、メリー、アイゼア、三人は今もあの場で戦っている。どんどん戦える人も減り、残っている者たちはより危険に晒されていくことになる。
「エルヴェ、あっちに戻って」
「ですが……」
「魔力はまだ大丈夫。足りなくなったときは浄化を続けながらそっちに飛んでいくから!」
エルヴェから魔力を分けてもらっているおかげで余力はある。今浄化ができないのは魔力量の問題ではない。
「みんなが死んじゃう前に助けてあげて、お願いよ」
「わかりました。魔力が足りないときはすぐに来て下さい」
エルヴェは意を決したように、すぐに立ち上がる。その背中を見送って、すぐにグリモワールに集中し始めた。
「あたしがグリモワールを浄化しきってみせる……あたししかいないんだから」
自分に言い聞かせるように強く鼓舞した。だがそれから何度試みても上手くはいかなかった。全身が痺れ、力が入らなくなってきている。
グリモワールの穢れが体に回ってきているせいもあるだろう。ガタガタと震える手で魔力を込めたところで、すぐに弾かれてしまう。
「呪いの力が強すぎるのね……あたしの力では、取り除ききれないの?」
挫けそうになる心に、思わずじんわりと涙が滲んだ。また泣いてしまうのか。フィロメナは自分の弱さと脆さに辟易した。結局自分は守られているだけで、誰かを守ることはできないのだろうか。
情けない自分が悔しくて悔しくてたまらなかった。旅をしてきたことや仲間の顔がフィロメナの脳裏に浮かぶ。みんなが成すべきことのために命をかけて戦っていた。
どんな敵も恐れず立ち上がり続け、決して諦めようとはしなかったメリー。
常に周囲を観察し、確実な方法を模索して皆を纏め、導いてきたアイゼア。
他人を思いやり、自分のすべき最適な行動を判断し、皆を守ってくれたエルヴェ。
成すべきことを常に見据え、危険な場所へも先陣を切って飛び込み、戦ってきたスイウ。
自分にはない強さを持っている皆が羨ましかった。ずっと助けられ、励まされてきた自分が、皆が死んでいくのを見ているしかない。それだけは……それだけは嫌だった。
その思いだけがフィロメナを突き動かす。無謀だとか、考えなしだと笑われたって構わない。自分の取り柄はどんなときも前向きで未来を信じられることだと、そう思いたい。
フィロメナはグリモワールを胸に強く抱きしめ、全身に浄化のための魔力を巡らせる。全身を襲う激痛に耐えながら、弾かれないよう必死でグリモワールを強く抱え込み地面に押さえつけた。このまま離さずにいれば必ず浄化を果たせるはずだ。
諦めない限り、未来はある。天族としての役目を、氷像にされた者たちの分まで果たすのだと誓った。必ず成し遂げてみせる。耳を劈く雷鳴のような音が頭を揺さぶり、突き上げるような衝撃に体がバラバラになりそうだった。
怖い、怖くない、怖い、怖くないっ……固く目を閉じて、ただひたすらに浄化のときを待っていた。
「やめなさいっ! それではあなたが先に壊れてしまう!」
誰かの叫ぶ声と共に上へと引っ張られ、グリモワールを無理矢理奪われた。メリーと同じ薄紅色の髪、冷たく澄んだ氷のような色の瞳が目の前にある。声の主はカーラントだった。
「何するのよ……浄化をしなくちゃ、みんなが……お願い、返して……」
グリモワールの穢れを受けたせいか全身が重怠く、声を上げることすら気力がいるほど満身創痍だった。
「このままじゃ、みんなが死ぬの……あたしがみんなを、世界を守らなくちゃいけないのよっ」
カーラントの持つグリモワールへ向けて、必死に伸ばした。その手がガタガタとみっともないくらいに震えている。
助けたいのに。守りたいのに。無理じゃない──勝手に決めつけないで。
今にも折れそうな心を何とか奮い立たせ、何か言葉を思いのままに叫んでいた。カーラントは何も語らず黙したままフィロメナの震える手を掬い取るように握る。
「フィロメナ殿、気をしっかり持ちなさい」
叱りつけるようなカーラントの強い言葉に、暴走しかけていた感情が寄せて返す波のように引いていく。
「落ち着いて。ただ感情に任せたところで何も解決はしないのだよ」
乱れていた感情が静まり、少しずつ呼吸が楽になってくる。
「あたしの力だけじゃ浄化が上手くいかなくて……このままだと……」
ぽろりと一つ涙が零れて落ちた。また泣いてしまった。それが悔しくてフィロメナは俯く。
諦めたくなかった。だが自分の力不足を痛感させられ、悔しさが込み上げる。スカートを強く握りしめ、シミを作っていく涙を懸命に止めようと思った。
泣いている場合じゃないのはわかっている。今はただ、前を向かないと。折れそうになっている心を何とか立ち上がらせようと必死だった。
「変えられるのは今と未来だけ」
「え……」
「あなたが私にそう言ったのだ」
ゆっくりと顔を上げると、カーラントの真剣な眼差しが目の前にあった。
「あなたは諦めない。ならば未来は望む方向へと変わる。そうではないのかね」
「カーラント……」
カーラントはフィロメナの前にグリモワールを置き、開く。自身の手をかざし、何かを施し始めた。
「フィロメナ殿。私のこの手にも、あなたのように未来を変える力はあるだろうか?」
そう問われ、カーラントを静かに見つめる。不安を滲ませながらも、グリモワールと向き合い何かを施している。
その目は決して諦めてはいない。そして彼の言葉は、間違いなくフィロメナを奮い立たせてくれていた。
「……変えられるわ。ううん、今変えたの。諦めそうになってたあたしを……ダメになりそうだったあたしの未来を、今カーラントが変えたのよ!」
カーラントは驚いたように顔を上げ、大きく目を見開いたまま固まっている。澄んだ氷のように冷たそうでありながら、突き抜けるような透明感は、まるで天界の空のような色だと思った。その瞳がふいっと下に逸らされる。
「そこまで言ってくれるのなら、意地でもやるしかあるまいな」
グリモワールの上に小さな法陣が浮かび、その紋様が少しずつ動きしばらくして消えた。
「フィロメナ殿、浄化を試してみてくれないかね?」
「わかったわ」
グリモワールに手をかざし、浄化を行う。弾かれることもなく素直に穢れが祓われ、次の呪いと穢れが噴出する。何が起きたのかはわからないが、カーラントが何かしたおかげで浄化ができたということはわかった。
「上手くいったか。メリーとの相談も無駄にはならずに済んだな」
カーラントは安堵したように息を吐くと、再び小さな法陣を出現させ、何かを施し始める。霊族に浄化の力は使えないはずだが、一体何をしたのかフィロメナにはわからなかった。
「フィロメナ殿、速度を上げていこう。解呪と同時進行で浄化をしていく」
「解呪?」
フィロメナは浄化を施しながらカーラントに尋ねる。
「そうだ。グリモワールにも解呪が通るのではないか、とね。メリーと結界を解除しているときに、グリモワールとあなたについて話をしたのだ」
「解呪って霊族にできるものなの?」
「呪術が得意であれば、だが。できないのは浄化の方だな」
「そうだったのね」
「メリーにもグリモワールの浄化が始まったら協力するよう託されて来ている。メリーよりは幾分かマシな働きをすると保証しよう」
そう言って皮肉っぽく笑うカーラントのおかげで、フィロメナの心に少しの余裕が生まれる。カーラントは解呪を続けながら、メリーと交わした会話の話をし始めた。
* * *
【カーラント視点】
ストーベルへの策も無事に決まり、結界の前にはカーラントとメリーの二人だけが残されていた。メリーは結界の解除を継続しながら、ずっと険しい顔をしている。その理由は大凡検討がついていた。
「フィロメナ殿をどうやって死なせないようにするか考えているのかね?」
メリーに尋ねると、チラリとこちらを一瞥し「そうです」と短く無愛想な返事を返してきた。カーラントは、メリーたち五人が交わしていた会話の中に一つ気になるところがあった。
「先程スイウ殿が魔族と天族は世界の理の一部……みたいなことを言っていただろう?」
「雨が降って雑草が生える、でしたっけ」
「あぁ。私たちから見れば一線を画した存在である天族や魔族がそうなら、グリモワールも神に等しい力のように見えて、ある程度はこの世界の理に沿ったものだと考えても良さそうだと思わないかね?」
グリモワールを管理している彼らの存在が世界の理の一部なら、グリモワール自体もその世界の理の一部だという想定も成り立つのではないか、とカーラントは仮説を立てたのだ。
「グリモワールは世界にかけられた大きな呪いのようなもので、本自体は無数の呪いを一つにしたものだとモナカさんは言ってましたけど……」
呪術は属性魔術の外枠にある魔術の一つだと考えられている。正しくは魔法に分類され、弱いものは『まじない』と呼ばれており、これは人間でも行使できる。
属性魔術は霊族にしか使えないが、魔法に分類されるものは属性を含まないか、人間でも扱える術を含む。
例えば魔法薬や魔法雑貨、魔法道具なんかも簡単なものであれば人間にも作成できるため、魔術ではなく魔法という言葉を冠している。ただ歴史の浅いものの中には例外もいくつかは存在しているが。
「呪いだと表現したということは、冥界の未知の力というよりは、呪術か呪術と魔術を複合したものに何らかの方法で冥界の気を取り込ませ、いくつも呪いを重ねて強大な力を持たせた……という可能性が高いのかもしれませんね」
「ふむ……グリモワールの使用法を魔術体系に当てはめるなら、呪術を使用するための魔導書に分類されそうだな。グリモワールから放たれる術は穢れを帯びた呪術なのだろう」
メリーは何かを思い出すように考え込みながら、こくりと小さく頷く。
「そうですね。魔族の持つ特殊能力ですら本質は呪術でそれに穢れが含まれてるものっぽかったですし。本自体も無数の呪いを固めたものということですから、単なる魔導書というだけでなく呪いそのものでもあると思いますけど」
メリーの言葉にハッと気付く。それはメリーも同じだったのか、同時に顔を見合わせた。もしかしたら、霊族である自分たちにもまだできることは残されているかもしれない。
「……本自体が呪いということは、呪術の塊ということになるな」
「呪術なら解呪ができます。グリモワールそのものにも解呪が使えるかも、ですよね?」
「浄化が呪いと穢れの両方を祓うものだとして、解呪で呪いを取り除けるなら、フィロメナ殿の負担は浄化のみ。単純計算で半分になるな」
グリモワールの呪いと穢れは一見同一のものに見えるが、魔術理論に当てはめれば全くの別物だとわかる。呪いは物によっては人間ですら扱うことのできる術で、穢れは冥界の手の届かない世界のものだ。
グリモワールを特別視するあまり見失いかけていたが、一つ一つ紐解いていけば、それは恐ろしい神の力などではなく、理論に則ったものだとわかる。
「カーラント、解呪は頼んでもいいですか? 私はあまり呪術は得意ではないので」
「だろうな」
そんなことは百も承知だ。逆に自分にとって呪術は得意分野の一つでもある。
「幻術と同じで、呪術も術者の精神が密接に関わってくる。鍛錬の足りないあなたが苦手なのも道理だ」
「……フィロメナさんをよろしくお願いします。解呪が上手くいかなくても──何かで、絶対なんとかしてください」
「言ってることが無茶苦茶だな……」
メリーは少し不満そうにこちらを睨みながらも、能力には信頼してくれているように思えた。
まだ自分にできることがあるのなら、全力を尽くす。自分にも未来があると言ってくれた、彼女を救うためにも。
* * *
【フィロメナ視点】
メリーとカーラントが、自分を救うために懸命に考えてくれていたことにまた泣きそうになった。滲んだ視界を手の甲で拭う。
解呪と浄化を別で考えたことはなかった。便宜上解呪と呼ぶことはあったが、浄化と同じものだとフィロメナは思っていたからだ。
カーラントのおかげで魔力の消費量も体への負担も圧倒的に軽くなっていた。エルヴェが魔力を分けてくれていたおかげで、残り少なくなってきた穢れも祓いきれそうだ。
一気に気合を入れ、浄化する力を強めた。更に速さを増して解呪されていく。やがてフィロメナの浄化の力がグリモワールに侵食し、白く淡い光を放ち始めた。
「グリモワールが消えてく……?」
光の粒子が溢れ、グリモワールの穢れた気配が薄くなる。やがて粒子は風に流されるようにして消えた。
その瞬間、一際大きな地響きが天界の大地を揺らす。遠くに見える無の王が灰のように白くなり、ボロボロと崩れていくのが見えた。
「みんな、大丈夫かしら」
不安に駆られかけた心を叱咤する。きっと大丈夫だ。今はこの場にいる怪我人の治療をしなくては。まだフィロメナの戦いは終わっていない。
しばらくしてから、戦っていた皆がこちらへ歩いてくるのが見えた。エルヴェが片手を大きく振り、アイゼアは一度片手を高く上げ、メリーは小さく手を振っている。スイウはその様子を横目で見て、こちらにも見えるくらい大げさに肩を竦めていた。
無事だったことが嬉しくて、景色がじんわりと滲む。泣きそうになるのを堪えながらフィロメナは思いきり両手を振った。無事でよかったという安堵と、皆が笑って生きるこの世界を守りきったのだという誇りを胸に。




