064 燦然と輝く希望の舟歌《バルカローラ》【フィロメナ視点】
ノーグへ向かう船にフィロメナはいた。昨日までの大雨が嘘のような清々しい青空が広がっている。フルーツサンドを片手にデッキへ出ると、設置されたベンチにスイウが腰掛けているのが見えた。
「隣、いいかしら?」
「公共の物だし、ダメな理由がないだろ」
「そういうことが言いたいんじゃないんだけど……まぁいいわ」
どこか的外れな返答が返ってきたものの、とにかく許可は得られたと判断し隣に腰を下ろした。穏やかな海風に髪を遊ばせながら、買ったばかりのフルーツサンドにかぶりつく。
ふかふかのパンに瑞々しいいちごとぶどうが挟んであるフルーツサンドは、酸味を感じる滑らかなクリームと果物の爽やかな甘さが何とも言えないほど美味しい。思わず顔が綻んでしまうほどだ。
「それ美味いのか?」
「食べてみたらどうかしら?」
フルーツサンドの入った紙の容器を差し出すと、スイウは一つ手に取りかぶりつく。顔色一つ変えず黙々と咀嚼しており、美味しいのか不味いのかわからない。
「どう?」
「食べやすいし悪くない」
飲み込んだタイミングを見計らって感想を聞くと、何とも食べさせがいのない淡白な答えが返ってきた。
青い空からは暖かな陽光が降り注ぎ、波の音と共にゆったりとした時間が流れていく。争いや戦いもないこのひとときがとても尊く感じられた。あの陰惨な世界は、ただの悪夢だったのではないかと錯覚しそうなほどだ。
「そういや昨晩、メリーが異様に心配してたが」
「そうだったわね。でもそのわりに帰ってきたときには眠ってたじゃない」
「それは言ってやるなよ」
昨晩ソレッタたちに呼ばれた際、メリーは過剰なほど心配してくれていた。だが話が終わって部屋に戻ってみると、メリーはすっかり夢の中だったのだ。
「まぁ心配してくれてたのは事実だもんね。起きたらメリーにお礼言わなくちゃ。あ、それとあんたにもね」
「は? 俺に礼? 頭打ったか?」
訳がわからないと言わんばかりに、普段はジトっとした鋭い目が大きく見開かれている。スイウの滅多にない反応にフィロメナはじわじわとニヤける。
「何だその顔、気持ち悪っ……」
スイウは頬を引きつらせ、少し距離を置いて座り直す。
「気持ち悪いって失礼ね。せっかくお礼を言おうと思ってたのに」
「悪かった悪かった。で、礼の理由は?」
謝り方がいささか雑な気もしたが深くつっこむのはやめ、咳払いをして仕切り直す。
「堕天はね、心と魂の穢れなの。今まで知らなかった醜い感情が自分の中に生まれてしまうのよ。でも、それを受け入れられるのはみんなのおかげだってわかったから」
「なら揃ってから言えばいいだろ。俺は特別何かした覚えもないしな」
「ううん。スイウはあたしを咎めるとき、いつも何がダメなのか必ず説明してくれてたもの。それに昨日はあたしの力を信じてくれたじゃない」
フィロメナはこれまでのことを思い返しながら、昨晩のことを少しずつ話すことにした──
* * *
雨はやみ、雲の隙間から月が顔を覗かせている。街から少し外れた森の中、険しい表情のソレッタと彼女を取り巻く天族たちと対峙していた。
「単刀直入に聞きましょう。心が穢れ、あなたは天族としての役目を全うできるのですか?」
鋭いソレッタの視線が容赦なくフィロメナにぶつけられる。その問いかけにフィロメナは何も答えられなかった。
ずっと考えてきたことだった。天族の役目とは何なのか。醜い感情を抱え、正しい判断を下し、信じる正義を全うできるのか。自分ではなく人々のために行動できるのか。何かに直面する度に醜さと戦い、それを乗り越えて信念を貫こうとしてきた。
だがそれがこれからもできるかはわからない。いつか弱く醜い心に負けてしまう日が来るかもしれない。そもそも自分の掲げる正義が本当に正義なのか。歪められてはいないか、その判断も難しく感じるようになっていた。
わからない。
その言葉が頭に響き、ハッと気づく。同じように迷ったことが何度もあったことを。わからないなら知っていけばいいのだと、旅を通して学んだ。
自分で考えて行動して、指摘されたり肯定されながら、少しずつ答えを探してきた積み重ねが自分にはある。たとえハッキリと答えが出せなくても、一つずつ物事に真剣に向き合えばいい。今までだって何度もそうしてきたではないか。
穢れた心とは何なのか、まだ全てをわかっているわけではない。見つめることは怖いし、知りたくないと思う気持ちがないと言えば嘘になる。それでもきっとここで逃げるのが一番ダメなことだとわかる。自分に負けることだけはどうしても嫌だった。
『変えられるのは今と未来』
メリーがそう言っていた。穢れることを承知で、カストルとポルッカを救う道を選択した。行動と結果、その全てに一切の後悔はない。ならば堕天したという結果を受け止め、自分と向き合って乗り越えていくしかない。
『今』動き出せば、きっと『未来』は変わる。
今は醜くても、未来にはその醜さを変えていけるかもしれない。だから逃げない。
大きく息を吸えば澄んだ森の空気が、大きく手を広げれば静かな月の光がフィロメナに活力と魔力を与える。それは天族だったときと何も変わらない。変わらないものだってちゃんとある。穢れを背負っても、自分の中にある本質は何も変わってはいないと信じたい。だからこそハッキリと偽りのない思いをソレッタへぶつけることにした。
「そんなのわからないわ」
静かに返答を待っていたソレッタは面食らったような表情をしていた。堕天することがどういうことなのか、それは堕天した者にしかわからないだろう。
「わからないのなら、あなたをここで返還する。道を外れた者を野放しにはできない」
天族は皆一様に堕天することを恐れるが、フィロメナ自身は強く心を持てば前へと進めるという確信だけはあった。自分は決して一人ではない。苦しいときに苦しいと言える仲間がいるから。
「いいえ、返還なんてさせないわ。ソレッタ天使長の望むような役目を全うできるのかはわからないけど、穢れと戦っていく覚悟はある。あたしは一人じゃない。一緒に戦って、道を正してくれる仲間たちがいるもの」
思いの丈を全て、堂々と胸を張って言えた。堕天しても何も変わってないな、とヒースは嬉しそうに笑う。
ソレッタは小さくため息をつくとそれ以上何も言わず、ただ一言、峠でフィロメナの言葉を無視したことを謝罪した。僅かにこちらを見る目の険しさが和らいだように見えた。
自分の選んだ道、その姿勢を認めてもらえたような気がした。天界へは結局戻れなくなってしまったが、こうして再び和解できたのは共に旅をしてきた皆のおかげだろう。改めて共に旅してきた仲間たちに感謝した──
* * *
「スイウのことずっと冷酷なヤツだって思ってたわ。あんたの考えは間違ってる、あたしが正しいって。でも間違ってるときもいっぱいあったし、間違ってないって思えることもあった。あんたがいてくれたから気づけたって思えることが沢山あるから」
「だから感謝してるってか?」
それを聞いたスイウは鼻で笑った。少し小馬鹿にされたような気がして、一瞬ムッとしてしまう。
「何よ……馬鹿にしなくたっていいじゃない」
「悪い。別に馬鹿にしたつもりじゃない」
「じゃあ何よ」
「よくそんな小っ恥ずかしいこと、面と向かってべらべら喋れるなーって感心してただけだ」
スイウが何を言っているのか理解できず、思わず首を傾げる。お礼を言うことと恥ずかしいという感情がフィロメナの中で全く繋がらなかった。
「あたしそんな恥ずかしいこと言ったかしら?」
「マジか……」
そんなつもりは全くなかった。思ったことや感謝を伝えたかっただけで、それを恥ずかしいことだと捉えられてしまうとは。他人の感性というものは自分とは大きく違っていて難しい。
「ごめんなさい。お礼を言うのが恥ずかしいことだってわからなかったから……」
途端に申し訳なくなって謝るとスイウはぎょっとした顔をしてこちらを凝視する。
「違う。礼を言ったことじゃない……確かに理由を聞いたのは俺だが、詳しく説明しすぎって話だ。聞けば聞くほどむず痒いような居心地が悪い感じになるような……って、何でこんなことクソ真面目に解説してんだ? 俺の方が恥ずかしいヤツだろコレ」
スイウは「最悪だ」と小さく呟き、両手で頭を抱える。
「居心地が悪い? あたしは感謝してるんだし、むしろ堂々と胸を張って誇っても良いことじゃないかしら!」
「そういうことじゃない……」
スイウは深刻そうに深く深く長いため息をついた。
「とにかく、あんたのおかげでわかるようになったことがたくさんあるって話! 」
「……そうか。まぁ、俺としてはもう少し慎重に物事を考えてから行動できるようになってほしいところだが」
「悪かったわね。あたしはあんたほど薄情じゃないもの。反射的に体が動くことだってあるわよ」
「あー……知ってる」
スイウは前髪を乱雑にかき上げ、気怠げに空を見上げている。
「人と秩序を守るのは共通の役割だってのに、どこで差がついたんだか。種族ってよりは、もう俺とお前の個体差って感じだな」
「そっか。天族も魔族も立場が違うだけで根本的には同じよね」
世界の秩序を管理し、人を守る。と言っても直接守っているわけではない。天族は発生しすぎた魔物を狩ったり、地上界が人の暮らせる世界であるように調整して守っているだけだ。
人の善意も悪意も人に委ね、直接干渉はしない。人を傷つけるなんてもっての外だ。それは魔族も似たようなもののはずだ。ただただそのままの世界を維持するためだけに存在している。
「ねぇスイウ。聞きたいことがあるの」
「聞きたいこと?」
「人には贖罪に生きる権利があって、あたしたちは慈悲をもって見守ってる。それでも贖えない罪は冥界で清算するのよね……でも贖罪する気どころか、悪いことしてるって思ってなくて人々を不幸にしてるヤツもいるわ」
「あぁ、残念ながら腐るほどいるな」
「そういうヤツらまであたしたちは守ってあげないといけないのかしら? 善良に生きる他の人たちが傷つくってわかってても」
フィロメナは昨晩の闇オークションのことを思い出す。メリーは珍しいことではないと言っていた。あんなことが平然とまかり通る世界を黙って見過ごすのは正しいことなのだろうか。知っていて見過ごすことはどれほどの罪になるのだろうか。
「それでもそれがお前らの役目だろ。死んだ後で罪を贖わせるのが俺ら。そういうヤツを取り締まるのは人がやりゃいい。今は非常事態だからともかく、基本的には不干渉が鉄則だ。お前もわかってるだろ」
スイウの言っていることはその通りだった。役目以上のことはすべきではない。それは天界でも常識だ。
しかしそれでは納得できない自分がいる。少しでもより良い世界にするために、自分に何かできる事はないのだろうか。
「……まさかどうにかしようだなんて考えてないだろうな?」
「えっえぇ〜? そんなことあるわけないじゃない!」
慌てて取り繕うとスイウは心底呆れたように重いため息をついた。
「顔に出過ぎ、嘘も下手過ぎ、思考回路も単純。あまりのお粗末さに泣けてくるな」
努力の甲斐もなく、考えてることは筒抜けのようだ。スイウは腕組みすると背中をベンチの背もたれへと預ける。
「変えるなんてのは簡単じゃない。かといって皆殺しにしてもきりがない」
「皆殺しってあんたね……」
「さすがに冗談だ。だが方法の一つではあるだろ」
「そうだけど、あたしはもっと根本からどうにかしたいのよ」
悪い人は消せばいいという問題ではなく、悪いことを未然に防いだり起こらないようにしたいのだ。そうでなければ意味がない。だが思っていてもどうすればこの問題が解消されるのかフィロメナには全く見当もつかなかった。
「良くしたいなら何か行動するしかないってのは間違いないが、歪み全部を是正するなんてのは到底無理だろうな」
「え?」
「一つ覚えとけ。人の性質的に根絶は絶対無理だ。人ってのはお前が思ってる以上に悪意や欲望に満ちた生き物だからな。根を詰めると絶望するぞ」
「急にどうしたの……あんたらしくない。天族が人に干渉するなって止めないの?」
急に咎めるどころか、むしろ後押しするようなことばかり言い始め不気味さを覚える。
「止めてほしいのか?」
「そういうわけじゃないんだけど……」
「よくよく考えれば天界を追放されたお前が天族として役目を果たしてやる義理なんかないだろ。嫌でも地上界で暮らすんだから好きにすりゃいい」
天界を追放されたからといって役目を放棄していいのかはわからないが、天界に帰れない以上地上界で暮らすことになるのは間違いないだろう。思考が追いつかず呆けていると、スイウの表情はみるみる渋くなっていく。
「フィロメナ、ホントに意味わかってんだろうな? いつも誰かが尻拭いしてくれると思うなよ。自分の行動には責任を持て」
「わっ、わかってるわよ!」
「ハッ、どうだか。その点に関しては全く信用ないからな」
「うぐっ……」
スイウの言うことはもっともだ。今まで何か問題を起こしてしまったとき、必ず誰かが助けてくれた。これでは自分の行動に責任を持てていないと言われても仕方ない。
「ね、ねぇ。それよりエルヴェは元通りに動けるようになったのかしら?」
責任を持って行動することは肝に銘じるとして、気まずさから逃れるために話を逸らす。
「さぁ? メリーのところに使い魔でも来ればわかるが、肝心のメリーは爆睡してるしな」
「そうよね。あっちは大丈夫なのかしら……」
「人数のわりに戦えるヤツが少ない。アイゼアは子守に護衛にで大変だろ。ま、自業自得だけどな」
「自業……自得?」
スイウの一言にフィロメナの中でゴングが鳴り響く。
「それは聞き捨てならないわね! アイゼアだって好きであんなことしたわけじゃないってあんたでもわかるでしょ?」
「つっても事実だろ。エルヴェが壊れなけりゃキルシェタニアなんてそもそも行く必要もないしな」
やはりスイウという人物はどこか思いやりに欠ける。決して冷酷さだけではないことを知っているために、なぜそんなことを言うのかますます理解できず無性に腹が立った。
「だから何よ。そんな冷たいこと言う必要ある?」
「本人に直接言ったわけじゃないだろ。一々大袈裟なヤツだな」
スイウの冷ややかな視線と火花を散らしていると、視線を遮るように手のひらが差し込まれた。
「また二人で痴話喧嘩ですか。私もいるというのに、すぐ二人だけの世界にいってし──」
「おい、それ以上はやめろ」
声のした方へ顔を向けると、メリーがやや芝居がかった調子で大仰に肩を竦めている。それに対しスイウは恨めしそうに睨みながら身震いし、両腕を擦っていた。
「メリー、お前よりにもよって『痴話喧嘩』って言いやがったな」
「えーっと、今なんて言いました? 聞こえなかったのでもう一度言ってもらえませんか?」
「その逆撫でするような言い回し、アイゼアの真似か……?」
楽しそうににこにことしたメリーの顔とげんなりとして遠い目をしているスイウを交互に見る。先程から繰り広げられているやりとりをフィロメナは飲み込めずにいた。
「ねぇちょっと、その『ちわげんか』って何? げんかは喧嘩のことよね。ちわは?」
メリーが来る直前までの会話は喧嘩に近かったことを思えば、この部分はおそらく間違ってはいないはずだ。それにも関わらずスイウがここまで嫌悪感を示しているのが妙に気になった。
「お前知らないのか……意味」
「天界では聞いたことない単語ね」
「痴話喧嘩っていうのは、んぐっ……」
「阿呆っ、説明しなくて良い! 面倒なことになるだけだろっ」
スイウがメリーの口をとっさに塞ぎ、言葉を遮る。
「えー、教えてくれたっていいじゃない。知らないことは知りたいもの!」
「知らなくて良いこともある。メリー、絶対説明するなよ」
スイウを押し退けてメリーに詰め寄るがすぐにスイウに引き剥がされる。
「わかりましたよ。フィロメナさんどころかスイウさんまで面倒臭そうですからね」
「もー! こうなったらアイゼアかエルヴェに聞くから良いもんねーっ」
メリーが教えてくれないのなら仕方ない。だがここまで来たら知らないままというのも気持ち悪い。二人と合流したら真っ先に聞いてやろうと心に誓った。
「意味を知っても絶対突っかかってくるなよ。言ったのはメリーだってしっかり覚えとけ」
「何でもかんでも突っかかるわけでしょ」
「さて、どうだかなぁ」
「人のこと馬鹿にしてぇー」
スイウとの言い争いをメリーが再び間に入って止めてくる。
「あのー、そもそも何でまた言い争ってたんですか?」
メリーは服の乱れを直しながら改まった様子でこちらへ向き直る。事の経緯を掻い摘んで説明していると少しずつ落ち着きを取り戻し、感情的になりすぎてしまったことを反省する。
どうにも正義感を掻き立てられると心を乱してしまう。冷静に考えれば、原因や事情はどうあれアイゼアのしたことで招いた結果でもある。それを自業自得だと言うのなら間違ってはいない。だが兄妹を救うためだったと知った以上、アイゼアだけを責める気にはとてもなれなかったのだ。
「落ち込まないでください。アイゼアさんを庇いたくなる気持ちは私もわかります」
「へ?」
「物事には様々な側面があるんですから、複雑な事ほどいろんな意見があって当然です」
スイウの言葉が正しいと否定されると思っていただけに、フィロメナは内心驚いていた。
「自業自得って思う人もいれば、そんなことないと思う人もいていいってことかしら?」
堕天する前はどこかで自分の考えは間違っていないと信じて疑わなかったように思う。今は堕天して自分の中に醜さが生まれたことで、何が正義かだけでなく、その考えが本当に正しいのかについても考えるようになってきた。だがまだ詰めが甘かったということだ。
「そうですね。いろんな方の話に耳を傾けて考えてみるのもいいんじゃないですか?」
「他人を気にしすぎだろ。俺は何と言われようが好きなようにやる」
耳を傾けるのも、自分の考えを重視するのも自由。考え方や価値感、正義ですら人によって変わる。自分の正義はあくまで自分の価値観に添ったものでしかない。
人々のために、弱者のために。彼らを救うための必要な正しさと選択。きっと迷うことや、判断がつかず、時には間違うことだってあるかもしれない。そういう可能性に気づくことができるようになった。
ならば自分は、価値観の押し付けにならないようにしたい。もっと相手の立場に立って物事を考えて判断できるようにならなければ。
言葉にすれば簡単だが、実行するのは難しい。それでもまず考えてみることが大切なのかもしれない。強い決意を胸に、燦々と降り注ぐ太陽を見上げた。




