005 反撃開始(2)【スイウ視点】
「この部屋から見て右から気配を感じる」
部屋入口から角にかけての廊下付近に気配がないのは幸いだ。
「わかりました。少し遠くなりますが左から行きますね」
このまま見つからずスムーズに脱出できるのがベストだ。気配は極力抑え、過剰に警戒はせずに進む。地下三階から二階へ上がる。一階への階段へ向かう途中、左前方の角から強い気配を感じた。
「メリー、左前方」
声を潜めて知らせる。だが引き返せば階下での遭遇は免れられない。
「このまま行きます」
どうせ遭遇するなら出口に近い方が良いと判断したのだろう。小さな返事のあと、そこから数秒遅れて白衣の男を一人視認する。相手もこちらの姿を認識するとあからさまに警戒の色を強めた。
「何者だ! 止まれ!」
男が叫ぶ。魔力をまとい始め、臨戦態勢に入った。それに臆することなくメリーはコツコツと優雅に歩み出る。
「何者とはなんです? 私はマール・クランベルカですよ」
メリーは小さな何かを取り出しながら凛とした声で言い放つと男は突然警戒を弱めた。
「そのピンバッジは間違いなく……! 申し訳ありません、クランベルカ家のご息女と知らず。ですがなぜこのような場所へ?」
メリーの右手には金色の小さなピンバッジ。相手の反応から察するに、このピンバッジを持てるのはクランベルカの血を引く者だけらしい。
「ストーベル様に直接ご報告したいことがありまして……どちらへ?」
終始落ち着いた様子で語りかけるメリーはとても演技には見えない。堂々としてるようにと言われたが、開き直って配下のフリをするつもりだったということか。
「そういうことでしたか。ストーベル様は一昨日ここを発たれたのでこちらにはおりません。どこに向かっておられるかも我々は存じ上げておりませんので……」
「そうでしたか。親切にありがとうございました」
「いえいえ! 少しでもお役に立てて光栄でございます」
メリーは丁寧に頭を下げると、一階の階段へ向けて歩き出す。
「あの、マール様。こちらの方は?」
その問いかけに歩を止め、メリーは柔らかく微笑みかける。
「腕の立つ方なので、私が部下として雇っているのですよ」
「そうでしたか。引き止めて申し訳ありませんでした」
男はスイウたちとは反対の方向へ歩いていく。ホッとしたような表情をしていたあたり、何とかやり過ごせたようだ。
無事に研究所から脱出し、足早に離れる。
「上手く騙しきれて良かったですね」
メリーは胸に手を当て、緊張の解けない面持ちで呟く。ずいぶんと堂々とした対応だっただけに、緊張したのは自分だけかと思ったがそうでもなかったらしい。
「あぁ。思ってたより上手くやってくれて助かった」
スイウが労うと、ようやく安心したのかホッとしたような笑みを浮かべていた。
「フードマントの色を指摘されたらどうしようかと思いましたが、家紋のピンバッジの力が思いの外強くて助かりました。兄弟が多いことも良い方向に働いてくれましたね」
「マールってのもお前の兄弟なのか」
「そうです。昔一緒に住んでいた姉で、たぶん亡くなってるはずです。その辺の研究員なら把握してないでしょうし」
うーんと唸る様子からも、だいぶ古い記憶を辿っているらしい。だからといって相手が把握してないという確証はない。
「把握してたらどうするんだよ……」
そんな不確かな情報で賭けに出たのかと内心ヒヤリとする。
「八十三人、カプセルの数を引いても五十前後はいるんですよ? 一人一人全員なんて名前どころか生死すら実の兄弟でも把握できてないくらいなんです。あの若い研究員が知るわけないですよ」
メリー自身も兄弟の数を把握してないような反応をしていたことを思い出し、その考えもあながち間違いではないように思えた。
小高い丘まで逃げ、振り返るとすでに研究所がかなり小さく見える。メリーはカバンからリモート式の爆薬のスイッチを取り出す。
それを押せば、あの研究所と中にいる人の命全てが奪われる。親指がスイッチにかかる直前、スイウは口を開いた。
「お前、人を殺すことに躊躇いはないのか?」
深い意味はないが、なんとなく気になって聞いてみたくなった。
「……当然ありますよ。あるに決まってるじゃないですか……スイウさんはあの研究所を見てどう思いました?」
「いや、どうって言われてもな」
みるみる感情の色を失っていくメリーの瞳は、底が見えない深海のように仄暗く冷たい。
「研究員たちは命を命とも思ってない。それにあのカプセルの兄弟たちも生まれるべきじゃない。私はそう思いました。ただ、それだけです」
カチリ、と固い音がする。メリーは何の感慨もない表情で押した。研究所は一瞬にして赤く半円球状に膨れ上がり、少し遅れて轟音と爆風が二人を襲う。
「そういうのを躊躇いがないって言うんだけどな」
というスイウの呟きは爆発の轟音と爆風にかき消される。メリーは怯むことなく、研究所のあった場所を記憶に焼き付けるように見つめている。紺色の瞳にはただだだ爆散していく研究所の姿が映っていた。
やがて風はやみ、辺りは次第に夜の静寂を取り戻す。爆発力は十分過ぎるほどだった。跡地に散らばる瓦礫と抉られた地形からは、もう生命の気配を感じられない。おそらく死んだのだろうという漠然とした現実に、スイウもまた、何も感じるところはなかった。
ただあの研究所の胎児たちは死んだとき、冥界のどこに送られるのだろうか。スイウはそれだけが少し気になった。