057 彼ハ愛憎ヲ知ラナイ【エルヴェ視点】
森に同化しながらミルテイユの視界に入らない位置まで移動し、不意を突く機会を伺う。ただ立っているようにしか見えないが、全くつけ入る隙がなかった。
焦れるような気持ちに蓋をし、エルヴェはあくまでも冷静に状況を見定めることに努める。恐らく、単純にまっすぐ攻めても防がれるだけだろう。
音もなく木へと飛び乗り、頭上からの急襲を狙う。二人は多勢に無勢で不利な戦いを強いられ続けている。機会を伺っているうちに殺されてしまっては意味がない。
だが奇襲は一度きり、二度同じ手は使えない。ミルテイユは鉱山での戦いと同じように霧を展開させ、姿を隠しながら次の魔術の詠唱を始めていた。
魔力を感じられないアイゼアだけでなく、霧の魔力に惑わされ詠唱していることに気づけないペシェ。その姿は洞窟でミルテイユと交戦していたときのスイウとメリーの姿を彷彿とさせた。このままでは詠唱が完成し、霧の中で大きな魔術に二人は飲まれることになる。
もう出るしかない……そう思った瞬間、アイゼアの槍から暴風が巻き起こり、霧と周囲の敵を蹴散らす。
「そこっ!」
その隙間からペシェが弾丸のように飛び出し、ミルテイユに接近した。
「おばさん。動かないと腹が弛むんじゃない?」
「あら、心配してくれなくて結構よ」
ミルテイユは詠唱を止め、ペシェの一閃を最小の動きで躱しながら、金属質の鞭を具現化させる。
「さすがに詠唱はさせてくれないのねぇ」
「ヤバっ」
無詠唱で放たれた大量の氷の矢をペシェは剣で弾き、障壁を展開する。鞭に絡め取られてしまった剣を素早く虚空へ返した。
「クランベルカ家関連のお偉いさんね。魔力がなくたってやれるってとこ、見せてやるわ」
ペシェは焦燥を滲ませつつもふてぶてしく笑いながら、丸い玉を素早く投擲する。ミルテイユが氷の刃を放って撃ち落とした瞬間、眩い閃光と美しい光の粒子が散った。
とっさに目元を庇うミルテイユの動きに、エルヴェは幹を蹴って跳ぶ。視界が白く染まる光の中でも問題なくミルテイユを視認できた。脚力と重力の加速がかかった勢いで短刀を突き出す。
「くっ……!」
ギリギリのところで気づかれ、短刀は頬を掠めただけだった。着地と同時に跳躍し、再度攻撃を試みる。素早く振るわれた鞭に遮られ、手数を増やすために左手にも短刀を握る。
放たれた氷の矢が腹部に突き刺さる。構うことなく何度も攻撃をたたみかけたが掠りもしない。
「怯みもしないなんて、厄介な子ねぇ」
自身の傷が一方的に増えていく。アイゼアとペシェが敵を引きつけてくれたが、ミルテイユを討つという役目を果たせず罪悪感が込み上げる。
「なーんて素直で正確な剣筋、かわいいわね。そんなに熱っぽい視線で見つめられたら虐めたくなっちゃうわぁ」
狙いが読まれているのはミルテイユの動きを見ればわかった。最短で殺すことばかりを考え、一点に狙いを定めすぎていたようだ。
殺すための最適解。正確に狙い澄まされた斬撃。規則正しく模範のような動きはミルテイユ相手には通用しなかった。
だが、どうすれば良いのかをエルヴェには算出できない。変則的な動きとは何か、頭で考えればそれは変則的なリズムという一定の動きになってしまう。
「そんな顔しちゃダメよ。こんなことで心乱すなんて無駄の多い機械ねぇ。可愛げだけはあるけど」
ミルテイユの放った水術に足を絡め取られかけ、とっさに飛び退る。次から次へと襲い来る追撃を躱し、投げナイフを投擲して追撃の手を阻害する。
「うふっ動揺したの? だから機械に感情なんて不要なのよ」
「不要……」
「ご覧なさいな。アナタの仲間はどっち? アナタと同じ機械たちを平気で殺した人? それとも無惨に散らばった機械たち?」
離れたところで戦うアイゼアのペシェを一瞥する。その足元には無残に破壊された自動機械装置たちの残骸や魔物の死体が転がっている。
仲間は誰かと問われれば、当然アイゼアとペシェだ。だが自動機械装置たちも仲間ではないと断言できなかった。彼らは紛れもなく自分と同じ、機械という同じ括りにいる存在なのだから。
「あの二人はアナタも平気で殺すわよ。機械に命なんてないし罪にも問われない。躊躇う道理がある?」
壊れた記憶の断片から無残に散っていった同胞の姿が蘇る。消耗品のように扱われ破壊された目の前の機械たちの姿と重なって見えた。人々は機械であるエルヴェたちが壊れていくことに心を痛めることはなかった。その犠牲が顧みられることもなかった。
人から見れば自分たちは所詮道具だということは理解していても、一度悲しみを覚えてしまったら忘れることはできない。
「機械は所詮消耗品。どんなに人のフリをしたってそれは覆らないわよ」
ほくそ笑むミルテイユの視線に絡め取られていく。まるで体ごと縛りつけられたかのように、動けなくなっていくようだった。
「指摘されずとも……理解しておりますよ」
「でしょうねぇ。だからアナタの目はこんなにも悲しい。愛されたい、大切にされたい……そうでしょう? 違うかしら?」
違わない。ミルテイユの言う通りだ。ぐらりと心が揺らぎ、締めつけられるような妙な感覚に囚われる。耳を傾けてはいけないとわかるのに、もっと話を聞いてみたいと思っている自分もいる。知的な興味なのか、自分の思いに共鳴しているからなのかはわからない。
「ワタシもアナタと同じ。愛されて、大切にされたかったわ。どんなに強い思いも届かなきゃ意味ないのよねぇ。悲しくて苦しくて、それでも愛しくて……」
「同じ……?」
ミルテイユの言葉は苦くも、温かな響きを持ってエルヴェの心に染みついて侵食していく。
「アナタはそんな虚しい思いを抱えていくの? ワタシの手を取れば解放してあげる。アナタの心がもう悲しんだり苦しむことのないようにね」
今までに見たこともないほど穏やかに微笑むミルテイユに、この人にも欠片のような優しさがあるのかもしれないと思わされる。残酷なことをしていても、多くの罪を重ねても、それでも彼女も『人』なのだ。
「アナタを救えるのは彼らではないの。同じ痛みを抱えるワタシよ、エルヴェ」
名前を呼ばれ、動力を送り出す部位が強く鼓動を打つ。まるで主から命令されたかのように、名を呼ぶ声が思考の中で反芻している。蠱惑的で甘やかなその声を求めてしまいそうになる。
仕える主を失い彷徨うエルヴェに、彼女の存在は強く強く焼きついた。自我は拒絶するが、本能が彼女を求めている。仕えるべき絶対的な存在を。
「あぁ……なんてかわいそうな子。いたずらに感情を持たされて苦しんでいるのね。愛してほしいならワタシが満たしてあげる。感情が要らないならワタシが奪ってあげる。さぁ、こっちへいらっしゃい」
ミルテイユがこちらへゆっくりと手を差し伸べてくる。奉仕型の本能的思考と積み重ねて生まれた自我がぶつかり合い、正常な思考が乱れる。雑然とした感情と本能が絡まった糸のようにぐちゃぐちゃになり、感情の処理が追いつかなくなっていた。
「エルヴェ、惑わされるな!」
アイゼアの声が思考の海に沈んでいたエルヴェを掬い上げる。
「僕たちかミルテイユか、それは君が決めればいい。でもミルテイユの手を取れば、今度の君は人形になるだけだ!」
「人、形……」
「機械は機械、人形も大して変わらないわ。結局どう足掻いたって人にはなれないのよ? それよりも心が満たされる方がずっと大切でしょう。苦しみを忘れて過ごせる方が幸せじゃない? アナタはこの子に苦しめって言うの?」
ミルテイユの言っていることはもっともだ。どうやったって人になれるわけではないことくらい理解している。人形のように大切にされていくのが自分の求めていた幸せなのだろうか。
愛されるとは、大切にされるというのはどういうことなのか。人のようになりたい、人と同じように接してほしい、漠然と口にしていた言葉の中身が途端にわからなくなる。
「人として生きるってのは綺麗なことばかりじゃない」
アイゼアは敵と応戦しながらも必死に訴えてくる。
「だからこそ相手を思いやれる。ささやかな日常が幸せだと理解できる。君が君として自由に生きたいなら、苦しむことを恐れたらダメだ!」
それでも苦しいものは苦しい。今まで通り、主に仕える生き方を選びたい。苦しむことを選び、新たな生き方に飛び込む勇気もない。何より機械である自分の本能が変化を求めていなかった。それでも自我が問いかける。本当に変わらないままでいいのか、と。
「わ、私は……」
「……僕は生きるのが、たまに……すごく怖くなるときがある。でも……一人じゃなかった。だからこの先も生きようって思える。エルヴェも一人じゃない、苦しいときはみんなに助けてもらえばいい。そうやって僕たちが生きているように、エルヴェも生きてみないか?」
「アイゼア様……」
「みんな、エルヴェが帰ってくるのを待ってるよ」
染みついたミルテイユの言葉が優しく洗い流されていく。エルヴェはアイゼアが謝りに来たときの記憶を思い出していた。良心の呵責と罪悪感に今にも押し潰されそうになっていた姿を。彼が自分にくれた言葉の一つ一つを。彼もまた、悩み苦しみながら生きている“人”なのだと。
「私も生きてみていいのでしょうか。アイゼア様たちと」
「もちろんだよ」
「許可なんて要らないのよ。アンタには好きに生きていい権利があるってこと!」
「私の、生きる権利……」
多く中の一つではなく、ただ一人の存在だと認められたこと。みんなに信頼されていたこと。大切に思われていたこと。機械のままでも人と同じように受け入れてくれる人がいること。アイゼアは真剣にそれを教えようとしてくれていたのだ。
素直に嬉しかった。涙を流せる体なら、きっと嬉しくて泣いてしまったに違いない。そんな思いを知ってか知らずか、ミルテイユは小馬鹿にしたように笑い飛ばす。
「アナタお馬鹿さんねぇ。あの裏切り者の言葉を真に受けたの? 彼は双子ちゃんのためならどこまでも冷酷になれるような人よ」
「貴女の言う通りかもしれません。ですが、アイゼア様は心を痛めておられました。本当の意味で冷酷な人ではないのです」
ミルテイユは肩を竦めて嘆息し、憐れむようにエルヴェを見つめる。
「だからなぁに? 思いなんて意味ないのよ。結局現実は行動と結果が全て。心が痛んでたと言い訳されたところで、殺す選択をした事実は変わらないの」
「悲しい選択をしなければならない状況から救えば、結果は変わると信じたいのです」
「殺されるかもってのに暢気なこと。その二人は調子の良い事言ってるだけよ。人は簡単に嘘をつくの。ワタシの言っていることは真理だと思うのだけど?」
「それでも私には、信じたい人と言葉があるのです。貴女は私と同じ思いをしていると仰っていましたね。ストーベルが貴女を蔑ろにするのなら、私と共に来ませんか?」
同じ苦しみを抱えているのなら、そこからミルテイユを救いたい。多くの罪を背負ってもやり直せる。そう信じたくて今度はこちらから手を差し伸べてみた。ミルテイユは一瞬驚いて目を見開き、くつくつとこらえるように肩を震わせて笑う。
「アナタ、本っ当に救いようのないお馬鹿さんねぇ。ワタシは敵よ。それも殺し合いをしてるの。手を取り合うなんてできるわけないじゃない」
「そうでしょうか? 同じ苦しみを抱えた者同士、手を取り合って生きていくことはできると思います」
「傷の舐め合いをしろって言うのかしら? とにかく無理よ」
「どうしてですか? 貴女もストーベルの道具として利用されているだけではありませんか」
「ワタシの心配なんて、優しいのねぇ……ってよりは甘いって言った方がいいのかしらぁ?」
細められた血のような色の瞳に憂いが滲む。それまでの強気が、微かに揺らいだように見えた。ただそれも、たった一瞬のことであった。
「そんなアナタに良いこと一つ教えてあげる。人ってのは存外不自由な生き物なのよ。生まれ、性別、能力、地位、財産、世間体、欲望、数えきれないほどいろんなものに雁字搦めになって生きてるの」
「貴女も縛られているから、私と共に生きることはできないということですか?」
「さぁ? どうかしらねぇ。でももう全て遅すぎるってことだけは言えるわ。何もかもが手遅れ、ワタシはワタシの生き方を肯定するためにもアナタたちを殺すわ」
「遅いなんてことはありません! 今からでもまだ──」
「遅い。もう十年も前から……手遅れだったのよ」
それまでの柔和で妖艶な笑みが消え、険しい表情へと一変した。一気に生成されて放たれる氷の矢を短刀で弾きながら躱す。
「残念です。ですが、貴女が私を気にかけてくださったことは素直に嬉しかったです。ありがとうございます」
彼女を殺すのに躊躇いも悲しみも抱かない分、本心を言葉にして伝えておく。後悔のないように。
「愚かね、気にかけるわけないわよ。アナタを丸め込むための方便……言ったでしょう、人は平気で嘘をつくって。少しは学習しなさいな」
エルヴェは再び攻撃をしかけるために駆けた。鞭を避け、突き出した短刀は氷の盾に阻まれる。
「機械は人に従ってればいいのよ」
ミルテイユの目を見つめたまま、エルヴェは短刀を突き出す。動きを読まれてしまうなら、時折最適解とは違う行動をあえて選べばいい。
致命傷を狙わない、あくまでも傷つけるだけの斬撃はこれまでの動きとリズムが違うのか相手のペースを崩していく。次第にミルテイユの反応が遅れるようになった。
「私はただ人に従うだけの愚直な機械から脱却します」
「脱却ぅ? 馬鹿馬鹿しい。自発的に考えて動くとか感情豊かに振る舞うなんて機械には求められてないのよねぇ!!」
右手首に鞭が絡みつき動きを封じられる。エルヴェは前進しミルテイユへ肉薄する。短刀を軽く躱され、至近距離で冷気の衝撃波を受ける。体からミシミシと軋むような嫌な音がした。
ミルテイユは間髪入れず、力任せに鞭を引く。右手首は拘束されたまま体は前へと投げ出され自由が利かない。
長く鋭い氷の棘が生成され、エルヴェを貫かんとしていた。
とても空いている左手だけで何とかできるような代物ではない。ミルテイユの動きが酷くゆっくりと見えた。眼前に迫る氷の棘をただ見つめる事しかできない。
「させないよ」
その声と共に投擲されたアイゼアの槍が氷の棘を砕く。槍だけが武器のアイゼアにとって、それは自身を危険に晒す決死の選択だった。砕けた氷の破片がキラキラと月の光を浴びて煌めいて散る。
「……アナタどこからっ!」
動揺したミルテイユの隙を見逃さない。エルヴェは右手から短刀を放し、鞭を掴むと思いきり引いた。
「くっ……!!」
自身が投げ出された勢いもそのまま急速にミルテイユとの距離が縮まる。短刀を握る左手に力がこもる。目を見開くミルテイユが左手に魔力を込める。
二人の距離がゼロになろうとしていた。エルヴェは鋭く短刀を突き出す。同時にミルテイユの左手から放たれる冷気の衝撃波を受け、吹っ飛ばされた。着地した足は勢いに耐えきれず縺れ、回転するようにして地面に投げ出される。
「な、まさ……か」
震えるミルテイユの声に、とっさに顔を上げて体を起こす。左胸に深く突き刺さる短刀を、青褪めた顔で凝視するミルテイユの姿があった。立ち上がり、少しだけふらつきながら隙だらけのミルテイユへ近づく。
「こない、で……ワタシは負けるわけに……」
ミルテイユは口から血を吐き、蹌踉めきながら後退すると尻もちをつくようにして仰向けに倒れた。その胸に刺さる短刀を引き抜くと、傷口から溢れる血が地面をみるみる赤黒く染めて範囲を拡げていく。
「ミルテイユ様っ……まずい、撤退だ!!」
動揺が波及し、戦意が削がれた部下たちが慌ただしく逃げていく。勝敗が決したのはほんの一瞬のことだった。
「どうする? 残党狩りやる?」
「いや、追うのはやめよう。目的は鉱石だしね。捕虜にするならともかく、戦意のない相手を殺すのは気が引ける。それに援軍に囲まれても困るから」
「騎士のくせに温いこと言いますね、ってメリーなら文句言いそう。ま、アタシは殺しがしたいわけじゃないから、やんなくていいならその方がいいけどさ」
ミルテイユはすでに虫の息で、口から湧き上がる血に咽せている。誰もミルテイユを連れて帰ろうとせず、あっさりとこの場に見捨てていった。
彼女は『人』だ。それも人に指示できる立場の。それでも扱いはやはり……道具のそれだった。相手の薄情さを気の毒に感じながら、エルヴェは最期の情けにトドメを刺そうと血に塗れた短刀を逆手に持つ。ミルテイユは死にかけとは思えないほど力強い目でエルヴェを凝視していた。
「こんな結末になるのなら、貴女は私の手を取るべきだったのです」
「冗談じゃないわ。機械のくせに、生意気よねぇ。アナタは所詮機械、人の支配からは逃れられ……ない」
「いいえ、私は私として生きられると証明してみせます」
「周りには……受け入れられない、わよ。ふふっ、アナタの思い……は、いつか凶器に、なる。報われない思いは、憎しみと殺意に……変わるの。狂ってくのを、見届けて……あげられないのが……残念……ね」
ミルテイユは血を吐きながらも不敵な笑みを貼り付けていた。視線が誰かを探すように彷徨い、震える唇がゆっくりと動く。
「 」
声になっていないのか、エルヴェですら聞き取れない。だが小さな唇の動きから何を呟いたかはわかった。
「どうして今──」
その意味を知りたくて口を開いたが、途中で止める。既にその瞳が何も映さなくなっていたからだ。
思いはいつか凶器になる──
そんな呪詛に近い言葉をエルヴェの心に刻みつけていった。
「大丈夫、エルヴェはそうならない。僕たちがそうさせないからね」
ポンと頭に置かれたアイゼアの手のひらから温もりが伝わる。その手が安心感と同時に不安を掻き立てた。この温もりが自分を淡々と置いていくことを知っている。
年月をかけ、やがて老いて朽ちていく。それが生きる者の理なのだから。わかっていて共に生きることを選んだ。正直に言えば、この選択が正しかったのかはわからない。恐怖心も拭えない。
それでも彼らのように生きてみたいと感じたのは事実だ。アイゼアの手から離れ、エルヴェはミルテイユの傍らで屈むと開いたままになっている目を手のひらでそっと閉じた。今際の際に発したミルテイユの唇の動きが記憶の中で再生される。
『ミュール、さ……ま……』
ミルテイユはなぜ最期にメリーの兄の名を呼んだのだろうか。ストーベルでもなく、自身の家族でもなく、ミュールの名前を。僅かに笑みを浮かべて固まった顔は黙したまま──その理由を知る術はもうない。




