049 絶望と願いの狭間【アイゼア視点】
「グリモワールでは魔物化の解呪はできん」
スイウは確かにそう言った。思考も何もかもが停止する。しばらく呼吸をするのも忘れていた。ゆっくりと理解が追いつくと共に音を立てて最後の希望が潰えていく。理解したくなかった。
グリモワールが使えないなら、二人を元に戻す方法なんか……この世のどこにも、もう……
「嘘、だよね?」
「グリモワールを使用した代償の魔物化だ。それがよりによってグリモワールの力でなかったことになんてできると思うか?」
そんなこと知るわけがなかった。裏切って傷つけ、エルヴェを殺し、カストルとポルッカの前で醜態を晒してまで何のために戦ってきたというのか。
この槍を彼らに向けたくはなかった。「嫌だ、戦いたくない」と叫んで訴えるもう一人の自分を、何度抑えつけて殺してきたのか。何度も殺して、殺して、殺して、背後に積み上がる悲鳴の山を見ないように目を瞑り、耳を塞いだ。
現実は残酷で無慈悲だ。二人が助からないのなら生きていたってしょうがない。こんなことならやはり大人しく死んでいた方がずっと良かった。
首筋に当てられた刀を見つめ、次にスイウの目を見る。あの不思議な銀色の瞳は今は眼帯の下だ。
もう殺してくれ──
そう口にしようとして「殺さないで!!」と叫ぶ、二つの声に思い留まった。
森の入口で隠れて待っているように言ってあったはずのカストルとポルッカの声だった。
「なんで……」
「だって、お兄様が帰ってこないような気がしたからっ」
「どうして何も抵抗しないんだよ……兄様の馬鹿!!」
大きい黒い熊と二足歩行のトカゲによく似た姿。声も中身も変わらないが姿はもう完全に魔物だった。
スイウは息を吐きながらガリガリと頭を掻く。出会ってしまった。魔物化した二人と対面すれば、スイウのすることは一つしかない。
「……頼む。二人は殺さないでくれ」
「人でいられるうちに死ねた方が幸せだろ」
スイウの刀を持つ手をとっさに掴み、力を込めて引いた。力づくで止める以外に方法がない。
「やめてくれないか」
「ならどうする? 自我を失うまで待ってからがいいのか?」
スイウの問いかけに何も答えられなかった。二人を救う方法など思い浮かばない。思い浮かんでいるならとっくに行動している。二人を死なせたくないのにどうしてやることもできない。
「三人まとめて冥界へ送ってやろうか?」
「……冥界?」
冥界とはどんな世界なのだろう。スイウと出会うまで死後の世界なんて信じたこともなかったが少しだけ気になった。死んでも二人といられるのならそれも悪くない、そんな考えが頭をよぎり自己嫌悪した。
「お前、それも悪くないってちょっと思っただろ」
また心を覗かれたような気がしてドキリと心臓が跳ねる。無言でスイウの瞳を見つめると「今のはただの勘だ」と、またこちらの思いを見透かすかのように言った。
スイウが手を乱雑に振り払う。自由になった刀を見て、今度は二人が腕を押さえた。このままでは振り払われて斬られてしまう。
「頼む、頼むから二人だけは見逃してくれっ」
スイウが二人を振り払おうと腕を引く。刀を振るおうとするその手を必死の思いで掴んだ。
「ならどうするのか提示しろ。無理なら斬るしか──
少し遠くからメリーの声が聞こえくる。同時に抵抗するスイウの動きが止まった。メリーの後ろにはフィロメナと鶯色の髪の女性の姿も見える。
「魔物……! 今助けますっ」
メリーは火球を二つ作り、カストルとポルッカへめがけて放つ。反射的に火球の前に飛び出し、槍で払おうとして持っていないことに気がついた。腕で顔面を庇いながら直撃を受ける。肌の焼ける鋭い痛みと共に吹っ飛び、何度か地面を弾みながら転がった。
「お兄様っ!!」
駆け寄ってきた二人の手を借りて何とか起き上がる。
「阿呆か。お前よりそいつらの方が今は頑丈だろ」
半ば呆れたようなスイウの声がアイゼアの耳まで届く。そんなことはどうだって良かった。二人が痛い思いをしなくて済んだのならそれでいい。
「メリー……二人を傷つけるなんて」
「どうして魔物を庇うんですか」
「魔物なんかと一緒にしないでくれっ!!」
「メリー、あれはグリモワールで魔物化したアイゼアの弟と妹だ」
「はい……?」
困惑しているメリーに説明を買って出たのはスイウだった。
「アイゼアの弟と妹が魔物に……まさかグリモワールを?」
メリーとフィロメナは顔を見合わせる。うぐいす色の髪の女性に至っては何の話かもわかっていないようだった。
「てっきりスイウさんが襲われてるものかと……すみませんでした」
メリーの謝罪に何か答える気にはなれなかった。ただこれで無闇に二人に攻撃を仕掛けられることもないだろう。
「酷い怪我じゃない。スイウ、あんたやりすぎなのよ」
「俺じゃない。大きいやつは治りかけてた傷が勝手に全開になっただけだ」
「あんたのせいで開いたんじゃない。問題大アリよっ!」
フィロメナが甲高い声でスイウを叱り飛ばしながらこちらへと駆け寄る。急いで治癒術を施そうとするフィロメナの手を拒絶した。
「どうして……」
治癒術をかけてもらえば怪我も痛みも消える。だがどうにも罪悪感に苛まれた。自分は裏切り、本気で殺そうとした。そんな相手に治癒術をかけてもらう義理はない。
何よりそうまでして生きる理由が、今のアイゼアにはもうなかった。二人が完全に魔物になり果てるところも、殺されるところも見たくない。見る前に消えてしまいたかった。
「アイゼアは生きる気力がないってよ」
「どうしてですか?」
「知らん。けど、魔物化を解呪する方法もなくて無気力になったのは事実だな」
心を覗いたというだけあってスイウの発言は正しかった。二人のいなくなった世界で、自分だけのうのうと生き延びようとは思えない。
突然、パンッという乾いた音と共に、頬に痺れるような痛みを感じた。フィロメナの平手が直撃したらしい。目に涙を溜めて睨みつける視線が否応なしに突き刺さる。
「冗談じゃない……そんなの許さないわ!」
そう叫んでフィロメナは勝手に治療を始める。瞳にはじわりと透明な粒が滲み始めていた。
「あんたは引きずってでもエルヴェのとこに連れてくって決めたの! エルヴェに謝ってよっ。あんたが裏切ったりするからエルヴェは……!! エルヴェは……なのに今度は生きる気力がないですって? あんた勝手過ぎんのよ!!」
フィロメナの瞳から大粒の涙が溢れる。その涙が零れる度に、体から傷と痛みが消えていくほどに、心は強く強く痛みを訴えた。
「簡単に言えば、グリモワールで魔物化を解呪できるって持ちかけられて俺たちを裏切ったって話だ」
「エルヴェの言ってた止むに止まれぬってそういうことなの?」
フィロメナは涙に濡れる目を悔しそうに伏せた。その顔を見ていられず俯き、地面へと視線を移す。誰かが近づく気配と共に視界に白いブーツのつま先が現れる。顔を見なくてもわかる。メリーだ。
「それで諦めちゃったんですか、アイゼアさん」
純粋に疑問に思ったのか「何で?」と言いたげな声が上から降ってくる。その通り。手詰まりで諦めてしまったのだ。
脳裏に、焼け爛れた体で立ち上がるメリーの背中が浮かぶ。無理だと理解したら立ち上がれなくなる情けない自分を嘲笑ってくれればいい。グリモワールで無理なら、何に縋れば助けてくれるというのだろうか。知っているなら教えてくれと言いたい。
「命に代えてでも守りたい、あなたの言葉はこの程度なんですか?」
声自体は穏やかに語りかけられているようにすら感じるのに、鋭利な言葉が深く心を抉っていく。二人のためなら命も惜しくない、本当にそう思っていたのに。救う手段がなくなれば自分はあっさりと挫けてしまった。命を捧げても救えないという現実に打ちのめされたのだ。ここまでやってなぜなんだ、と。
「人の心の弱みにつけ込む……それが彼らの常套手段です。大方アイゼアさんに私たちを殺させて、最後に処分する気だったんですよ」
ギュッと心臓を握り潰されたような心地だった。それを理解しているから、ストーベルたちはメリーを脅そうとはしなかったのだろう。ミュールを人質に取られても、脅されても、メリーは応じない。それでは救えないとわかっているからだ。
そもそもグリモワールが魔物化を止められない時点で取引は最初から成立していない。メリーの言う通り、初めから利用するだけして捨てるつもりだったのだ。今更気づいたところで全てが遅すぎる。
「あなたはどうしたいんですか?」
「僕は……」
その先の言葉が出なかった。二人を救いたい、助けてほしい。そう言いたいのに言えなかった。
「どうして何も言わないんですか?」
方法も提示できないのに無責任に助けだけ求めてどうする。迷惑をかけるだけだ。困らせるだけだ。裏切った自分が今更何を言っている。そんな思いがアイゼアの胸の内でせめぎ合う。何も言えず俯いていると、突然メリーに胸ぐらを引っ掴まれ視界が揺さぶられた。
「黙ってないで何とか言ってください。アイゼアさんが諦めたら一体誰が救うんですか? 二人はまだ生きてそこにいるんですよ。あなただけは何があっても諦めたらダメじゃないですか!」
「だったら!! ……だったらどうすればいい? 助ける方法もないのに、簡単に諦めるなとか言わないでくれっ!!」
声が上擦るのも、掠れるのも構わずに叫んだ。静かな怒りを滲ませたメリーの視線とかち合う。助けたい。助けたいに決まっている。それでも変えることのできない残酷な現実が目の前に横たわっているのだ。
「助ける方法がないなら探すしかない。あなたは誰かに方法を教えてもらわなければ何もできないんですか」
「僕たちに残された時間はもうない……君は楽観的過ぎるんだ」
「それでも何もしなければ確実に死にます。行動しなければそこで全て終わりなんです! 本当にそれでいいんですか!?」
強く訴えるメリーの肩に、うぐいす色の髪の女性が手を添える。
「メリー、熱くなりすぎ。ちょっと落ち着きなって」
「ペシェ……」
ペシェと呼ばれた女性の言葉でメリーは冷静さを取り戻したのか、胸ぐらを掴む手がゆっくりと離れていく。
「私が聞きたいことはただ一つ。あなたは二人を助けたいのか、それとももうどうでもいいのか、それだけです」
こんなどうしようもない状態の自分などさっさと見捨てればいいのに、なぜまだ話しかけてくるのか全く理解できなかった。
「助けたい。その気持ちに変わりはないよ……ないはずなんだ。けど……」
ただひたすら地面を見つめながら弱々しく本音を絞り出す。声は情けなく震えるばかりで、自分がこんなにも弱く脆いのだと初めて知った。
「君はどうして絶望しない? 兄をあんな姿に変えられて、どうしてストーベルに立ち向かえる……?」
「単に諦めが悪いだけの話ですよ」
メリーは膝をついて屈むと、そっと目の前に手を差し伸べてくる。驚いて反射的に顔を上げると、無意識に彼女の瞳に視線が吸い寄せられた。
「私たちは性格も得意なことも違う、だからこそ連携して戦う。その大切さを私に説いたのはあなたじゃないですか」
乾いた地面に降る雨のように言葉が染み込んでいくようだった。
「警戒心剥き出しの私に、一緒に戦う仲間だと言ってくれたのもアイゼアさんですよ。もう忘れてしまいましたか?」
忘れるわけがない。ふわりとこれまでの旅の記憶が思い起こされる。彼女の仲間意識が低いことは理解しつつも、目的を同じくする者として向き合ってきたことを。
今度は、折れて腐りかけている自分に彼女が向き合ってくれている。こちらへと差し伸べられた手。その手を取りたい。諦めるなと言ってくれたその手を掴みたい。
そう思って伸ばしかけた手が、汚れて見えた。
エルヴェを殺した裏切り者の手。そんな手で、この手を取っても良いのか。伸ばしかけてから行き場をなくした手を、逆にメリーに掴まれてアイゼアは息を呑んだ。
「あなたにはみんながついてます。だからまだ……折れないでください」
「メリー、みんな、僕は……助けたいんだ。諦めたくない」
「グリモワールを奪還して解析、それくらいしか私には思い浮かびません。ですが何もしないよりはきっと良いはずです。やってやるんです、必ず」
揺らぎのない瞳は強い決意に満ち、しっかりとアイゼアの目を見て言い放つ。その紺色は、まるで朝日を待ち望む夜明け前の空のようだと思った。
ギュッと強く握られた手にそっと手が重ねられる。手から伝わる柔らかな優しさがひび割れた心に沁みてヒリヒリと痛むようだった。
「すまない、メリー……」
「誰彼構わず手を差し伸べるほど、私は善良にできてるつもりはありませんよ」
「なら、エルヴェを手にかけた僕にどうして?」
「それは、うーん……理由なんて何だっていいじゃないですか」
少し言い淀んだ後、困ったような微笑みに何となくはぐらかされてしまった。
「ねぇ!」
様子を見守っていたフィロメナが意を決したように声を上げる。
「あたし、試してみたいことがあるの。上手くいく保証はないけど、二人を助けてあげられるかもしれない。でも過剰な期待はしないで。人も足りてないし、メリーたちにも魔力を援助してもらわなきゃ絶対に無理だから……」
フィロメナの表情は決して明るくはないが、何か救う手段を思いついたようだ。
「どんな方法か知りませんが私にできることはしますよ。ペシェとミーリャは私が説得します」
「説得してくれなくてもアタシは協力したげるけど、魔力量は期待しないでよね。ちなみにミーリャはもっと期待できないから」
メリーとペシェの言葉にフィロメナは険しい表情のまま頷く。
「さぁ、今度は私が二人を人質に取りますよ。消し炭にされたくなければ大人しく従ってください、アイゼアさん」
言葉こそ物騒だが、声色から本気でないことくらいはさすがにわかる。これはメリーなりの優しさなのだと。人質に取られてるなら従わなきゃいけない、少しでも心苦しく思わず戻ってくるための口実にわかりやすい芝居を打ってくれたのだ。それがどこかメリーらしいな、とも思った。
「わたくしたちも覚悟はできてます……よろしくお願いします」
カストルとポルッカがフィロメナたちへ頭を下げる。どの道諦めかけていた。だったら、もしダメでも可能性のあるものに賭けて足掻いてみたい。手を差し伸べてくれるなら、その手を掴ませてもらおう。ようやくそう思えた。
「僕は──」
言葉を紡ごうとしたがそれ以上声が出なかった。何度も咳き込み、鼻から血が伝い落ちる。また薬の効果がきれたらしい。薬を五錠取り出し、噛み砕く。血と混ざりあった薬を飲み下すと、すぐに体が楽になってくる。カストルとポルッカを助けるまでは、まだ、燃え尽きるわけにはいかない。
「今、何を飲んだんですか?」
「ちょっとあたしに診せなさい!」
メリーに薬を奪われ、フィロメナは手を額へかざす。するとほとんど診たのかもわからないような早さで、すぐに治療に移る。
「詳しく診るまでもないくらい内臓がボロボロじゃない……なんで言わなかったのよ!」
「内臓が……? アイゼアさんこの薬は何ですか? 効果がきれたときの症状は?」
「身体能力を高める薬の試作品って言ってたよ。効果がきれると全身が痛くてたまらないって感じかな。飲み直すと痛みが引くんだけど……」
「即効性の薬みたいよ。体力もあまり残ってないし、これは治療に時間かかりそうだわ……」
フィロメナが頭を抱えて深いため息をつく。
「即効性、身体強化、内臓の損傷、全身の痛み……フィロメナさん、早いうちに一度内臓だけでなく全身を、特に脳に損傷がないか入念に調べてみてください」
「わかったわ」
メリーは薬の効果や副作用から何か考えを導き出したようだった。フィロメナはひとまず内臓の損傷へと働きかけているらしく、ずっと施術し続けている。
「フィロメナ。できればここは離れたいが、まだ無理か?」
「あともう少しだけ待ってちょうだい」
正面にいるフィロメナの先……奥の森で何かが光るのが見える。まずい、そう思ったときには反射的に飛び出し、メリーを力の限り突き飛ばす。
次の瞬間、迫り上がる生温かい感覚と共に吐血した。カストルとポルッカが悲鳴を上げる。脇腹のあたりを銃弾が貫通しているのが見えた。そんな状況でも間に合って良かったと安堵する自分がいた。
「何であんたはさっきから捨て身なのよ!! もう! 怪我の治療を優先するわ。みんな援護お願い!」
「……ったく、状況は最悪じゃない」
ペシェが鶯に似た使い魔作り出す。
「ミーリャ敵襲よ」
そう言い終わると使い魔は上空へと飛び上がり、フッと消えた。自分と治癒術を施すフィロメナの周りをスイウ、メリー、ペシェの三人で囲み応戦する。
「わたくしたちも戦います!」
カストルとポルッカも輪に加わり、囲いが五人に増えた。声が出ず二人を止めることもできない。
──寒い。
治癒術も間に合わずに死ぬのかもしれない。これはきっと罰だ。薄れゆく意識の中で願う。もし自分が死んでも、二人だけはどうか助かってくれと。




