047 咎人の懺悔(2)【アイゼア視点】
貧民街の負け犬。人殺し。そんな評価に、少し前の自分なら抗ったかもしれない。だが今では、見下されるのも当然なのかもしれないと思う。染み付いた負け犬根性は消えてくれそうになく、無意識に乾いた笑いが漏れた。
「お、お兄様?」
あまりにも情けなくて二人の顔を見る勇気はなかった。たとえ二人が幻滅して離れていったとしても、もう構わない。それで二人を守れるのなら何を失ってもいい。尊厳も命も……今更自分の中に捨てられないものなど何一つ存在していないのだから。
「僕を痛めつけてください。どうぞ君の満足するまで」
最後の抵抗にいつもの「胡散臭い」と定評のある満面の愛想笑いをくれてやった。
「よくできました〜。でもちょっぴり生意気ね」
ミルテイユの不気味な笑みに潜んだ狂気が表へと現れる。瞬間、みぞおちを蹴られ意識が飛びかけた。
迫り上がる吐き気に咽せる。間髪入れず腹を、傷口を、頭を、何度も何度も蹴られ、踏みつけられた。雨のように絶え間なく浴びせられる暴力を、ただ地面を見つめて耐え続ける。
こんなもの貧民街では日常茶飯事だった。幼少から鍛えられてきているのだから舐めてもらっては困る。
もう二人の声は聞こえないフリをした。何も考えない。何も感じない。体と心が分離し、俯瞰するように自分を見ている心地になる。
「やっぱり声を上げないのねぇ。うちにもこのくらい骨のある人材がほしいくらい」
強い衝撃と共に肩に鋭い痛みを感じた。僅かに顔を向けて確認すると氷の棘が深々と突き刺さっている。
それでも声は出さなかった。こういうのは棒切れや道端の小石のように静かに転がっているのがいい。無反応でやり過ごすのが一番早く終わる。
「あーあ、つまらない子ね」
しばらくしてミルテイユの攻撃が止む。口の中が血の味でいっぱいだ。全身が鈍く重く痛む。蹴られたことで目元が腫れ、狭まった視界に大きな氷の棘を生成しているミルテイユが見えた。
「これならどうかしら」
その口元が三日月のようにつり上がった。大きさからも刺されれば間違いなく死ぬだろう。
二人は悲しむだろうか。きっと目の前で人が殺される姿は、一生消えない光景となって残ってしまう。
そんな呪いをかけて死んでいく自分をどうか許してほしい。そしてあまり気に病まないでほしい。怒ってもないし、悲しくもない。自分のことなど道端の石ころのように忘れてくれれば良い。そう願うことしかできなかった。
亡き養父母の姿が頭の中に蘇る。幸せなんて知らなかったアイゼアに温もりを教えてくれた。貧民街の陰惨な世界の中で全てを憎みながら死んでいただろうことを思えば、幸せを知って死ねる自分は幸福だとさえ思える。無念なのは、やはり二人を助けられなかったことだろうか。
自分の前に立ち塞がるエルヴェの姿が浮かぶ。その姿にアイゼアは声をかける。君が宣言した通り二人を救ってやってほしい、と。何を今更都合の良いことを、と言われるに違いない。ふっと自嘲の笑みが漏れた。
氷の棘が振り下ろされようとしている。
二人が「兄様」と叫ぶ。その声ももうすぐ聞けなくなる。できればもう少し穏やかに呼んでほしい……なんて贅沢な願いは叶わない。
自分を救ってくれた両親を死なせた原因となり、その子供を巻き込み、仲間を裏切り、果てにはこんな場所で惨めったらしく死んでいく。恩知らずの自分にはお似合いの最期だ。静かに目を閉じてその時を待つ。
──だが終わりはやって来なかった。
「相変わらず醜悪な趣味をしているようだね、ミルテイユ」
突然降ってきた男の声。コツコツとこちらへ近づく足音。目を開けばミルテイユの手が止まっていた。
「あら、カーラント様にジューン様。何かご要件でもおありでしょうか」
「いや、特にあるわけではないのだが……ははっ、これはすごい。相当ねちっこく痛めつけられたようだ」
カーラントと呼ばれた男がアイゼアの顔を覗き込むと、笑いながらも僅かに顔を顰めた。メリーと同じ髪の色。ただ瞳の色は冷たく澄み切った氷の色をしていた。
「このくらいは普通じゃないかしら?」
「生憎、私は男の悲鳴を聞いて悦ぶような趣味はないのでね」
「この子全然面白くなかったのよねぇ……」
ミルテイユはこれみよがしに大きなため息をついた。
「つーかコイツ、ネレスで襲ってきたクソ野郎じゃねぇか! ブッ殺す」
「ジューン、やめなさい」
カーラントがジューンのフードを掴んで止める。ジューンは勢い余ってつんのめると、不満気にカーラントへ視線を向けた。
「でも兄貴。コイツを生かしといても何も良いことねぇだろ? 見せしめに殺してメレディスを動揺させてやる」
「ジューン……メリーは人一人死んだところで動じない。クランベルカに名を連ねているならそのくらいわかるだろう?」
メリーは人一人死んだところで動じない……彼女のこれまでの姿を思い、その言葉に妙な現実味を抱く。情がないとまでは言わないが、兄妹を殺されて自分の死すら厭わずに燃え続けているのを見ると、他人の死に心を動かして狼狽えているのが想像できなかった。
ミルテイユはやっと興味が削げたのか、作り出していた氷の棘を消し去る。
「そうだとしても、バラバラにして撒き散らかして、目の前に頭を転がしたら……さすがにあの双子ちゃんたちは良い感じに暴走してくれそうじゃない? きっと今度こそ魔物化まで一瞬よ、一瞬」
「あなたも妄想から戻ってきなさい。そう都合良く事は運ばないものだよ」
「あらあら……それは申し訳ございません、カーラント様。以後気をつけるわ」
やり取りから、この中では一応カーラントが一番上の立場だとわかる。
「ですが、生かしておいて何に使うおつもりで?」
これ以上何の使い道もないと仄めかすミルテイユに対し、答えたのはカーラントではなかった。
「もう一度殺しに行かせたらいい」
別の男の声がする。カーラントやジューンのものよりも低く、高圧的で威圧感のある……初めて聞く声だ。
「……ローアン兄様、ここに来ていらしたとは」
カーラントの声は緊張感を帯びている。『兄様』と呼んだということはカーラントだけでなく、メリーの兄ということでもある。
薄く目を開けて確認すると、メリーと同じ薄紅色の髪をしており、血のように深い紅の瞳をしているのが見えた。
「お言葉ですが、ローアン様。それは有効とは思えないわね。一度失敗したのに、とても成功するとは思えないのだけれど?」
「それはそうだ。けど、アレを試すのにはちょうどいい。なぁ、カーラント」
「父様に命令されたのはあなただ。私に押しつけないでいただきたい」
馴れ馴れしく高圧的に絡むローアンに対し、カーラントの声が更に冷ややかさを帯びた。そこにハッキリと嫌悪と軽蔑の色が滲む。
「私の部隊は優秀だから、このような治験は不要だ。幻術ばかりが取り柄の軟弱なカーラントの部隊にこそ相応しい」
「私の部下を貶める前に──」
「何か勘違いしてねぇか、年だけ食ったおっさんがよォ? 兄貴が次期当主に一番近いって評価なの、忘れてんじゃね? 図が高ぇんだっつーの、格下野郎」
「……格下、か。今はそうでも明日はわからないがな」
主人が格上でもジューンはただの従者でしかないのだろうに、何の迷いもなく喧嘩を売っている。その短絡さからか、カーラントの静かに嘆息する声が聞こえた。メリーとだけでなく、兄弟仲は全体的に良くないことが垣間見える。当主の座を狙って、奪い合っているといったところだろうか。
「にしても、相変わらずカーラントの駄犬はキャンキャンよく吠える。知能指数が下がりそうだ」
「ローアン兄様は、“犬”と戯れられるほど暇なようで」
「……何?」
「命令を放棄するというなら引き受けても構わないが、父様には報告させてもらう。さて、どうされますか?」
カーラントは試すような声色でローアンに尋ねると、ローアンは静かに舌打ちをした。
「この人間は私が使う」
「構わないが、介入はさせてもらう。メリーと接触できる可能性をみすみす他人に譲るつもりはないのでね」
「部下が無能だと、わざわざ出向かなきゃいけなくて大変だな?」
「メリーを前に高みの見物を決め込むとは……さすがローアン兄様、その余裕を私も見習わなくては」
温度のない冷ややかな嫌味の応酬が続いている。同時にカーラントとローアンの思考や価値感の違いも見えてくる。
カーラントとローアンは同じ当主候補という立場のようだが、ローアンは自らは動かず部下に任せるのに対し、カーラントは自らが現場へと赴くタイプのようだった。
「おい、そこの下等生物。二人を助けたいなら、メリーを殺せ。まぁ、下等生物には無理な話だが、治験薬が上手く作用すれば、あのバケモノを殺れるかもしれない。この私が直々に手を差し伸べてやったんだ。ありがたく受け取るがいい」
目の前まで近づいてきたローアンの、ぐつぐつと煮え滾るような紅い瞳がアイゼアを見下ろす。その色はアイゼアへの蔑みだけでなく、怒り、嫉妬、野心、複雑で粘度の高い感情が宿されているように見えた。
「では、私はここで失礼させてもらう。暇ではないのでね」
カーラントは洗練された動きで一礼すると、ミルテイユとジューンをそれぞれ一瞥する。
「ミルテイユ、例の件を進める。段取りはこちらで済ませるからあなたはすぐに動くように」
「承知しましたわ」
「ジューンは私についてきなさい」
「了解したよ、兄貴」
三人の気配が遠退き、部屋から出ていく。その代わりにぞろぞろと数人の気配が近づいてくる。
「医務室へ運べ。治癒術の実験に使う。治験には使えても動けないでは話にならないからな」
ローアンから部下たちに命令が下ると、アイゼアは抱え上げられ、なす術もなく運ばれていく。
「カーラント……貴様の揺らぎは掴んだ。精々今のうちに楽しんでおくといい」
静寂に、微かなローアンは呟きが吸い込まれていく。その声は苛立ちではなく、どこか愉快そうに弾んでいた。ローアンはカーラントを引きずり下ろす何かを持っているのかもしれない。
だが、アイゼアにとってそんな話はどうでもよかった。頭を占めるのは、またメリーたちの前に敵として立たなければならないということだった。
戦いたくはない。だが戦って殺さなければグリモワールを使わせてもらえない。失敗すれば今度は魔物化したカストルとポルッカを手にかけなければならなくなる。どちらか片方なんて選びたくはなかった。
それでも選ばなければならない。だとすればアイゼアが選ぶ道はすでに決まっている。意識が途切れるまで、心の中で何度も何度も謝り続けた。共に旅をしてきた仲間たちの姿を思いながら。




