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境界線に立つ者たちへ──その『執念』は全てを覆す  作者: まな板のいわし
本編:未来を負う者たちと、過去を追う者
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040 遺されし想いの残照に【メリー視点】

 ひとしきり泣いたせいか、まぶたがぼーっと熱を持ち、腫れぼったい。きっと今、鏡を見たら酷い顔をしているのだろう。


 メリーは膝を抱えて座り、ぼんやりと水面に映る月を眺めていた。妹のフランを抱きしめることはあっても、自分が抱きしめてもらうのは久しぶりだった。背中をさするスイウの手。その柔らかな温もりがメリーの古い記憶を呼び覚ます。


 まだ幼かった頃、言いようのない不安に駆られることが何度もあった。そんなとき兄のミュールがメリーを抱きしめ、背中を優しくさすってくれた。そして自身もフランを抱きしめて同じように背中をさすってあげた。


 三人で寄り添い、温もりを分け合って生きてきた。鮮明に覚えていると思っていた温もりが、ずいぶんと遠くなっていたという現実をつきつけられる。


 忘れたくないのに、ミュールやフランとの時間は次第に過去のものになってしまうのだろう。それが怖くてたまらない。背中に残っていたスイウの温もりが外気に溶けて消えていくように、全てが自分の中から消えてしまうような気さえした。


怖い。忘れたくない。


 ミュールとフランが遠ざかっていく。置いていかないで、一人にしないでと心が叫ぶ。また目頭が熱くなり、鼻の奥がツンとする。震えそうになる体に、膝を強く抱いて誤魔化した。


「私、ミュール兄さんやフランのこと忘れていっちゃうんですか?」

「当たり前だ。全部を昨日のように覚えてるなんてのは無理な話だろ」

「……忘れたくないんですけどね……」

 唐突な質問に、スイウは淡々と当然のことだと答える。膝を抱く力が無意識に強くなる。それからまた少し沈黙が続いた。


「俺はいつまでも覚えてるなんてのはごめんだ」

 スイウはぽつりと呟いた。胡座(あぐら)をかいて背を丸めたスイウは水面の月を見つめているようだった。目元は眼帯に隠され、その横顔から表情は伺えない。


「良い記憶も悪い記憶も残り過ぎると前に進めなくなる。俺は昔の記憶なんか一切ないが不自由したことなんてないしな」

「それを、寂しいとは思わないんですか」

「別に。ないならないで、何とでもなる」


 記憶を失くしてるのは初耳だった。記憶を失う前のスイウには忘れたくないことだってあったかもしれない。

 でも忘れてしまえばそんなものなのかもしれないとも思った。そうやって痛みも苦しみも喜びも……全部薄れて何も感じなくなる日が来てしまうのだと。


「死んだ方が生きてる方の記憶から消えてくのは優しさだ。すぐに立ち直れとは言わんが、あんまり縛られ過ぎるのは死んだ方も気の毒だろうな」

 その言葉を聞いて、むしろ置いていくのは自分の方かもしれないと思った。


 ミュールとフランの時間はあの日に止まった。それでも自分の時間は前へ前へと勝手に進んでいく。二人は置いていかないでと叫んだのだろうか。たとえ叫んでいたとしても、その声はメリーの耳に聞こえるはずもない。


「少しは落ち着いてきたか?」

 そう問われて頷いた。迷惑をかけた記憶がふつふつと湧き上がってくる。八つ当たりをして、何か喚いて、みっともなく泣いて、背中をさすってもらって、まるで幼子同然だ。急に何とも言えない気まずさが込み上げ、顔を膝に押し付けた。


「いい大人が情けない話ですよね」

「全く同感だな。世話の焼けるガキそのものだ」

「ガキ……」

 年齢的にはもう立派な大人だというのに。長命な魔族にとっては子供みたいなものかもしれないが、何とも居たたまれない気持ちになる。


「すみません」

「……別に気にしてない。現実と向き合って迷いながら生きてく。それが人って生き物だと俺は思ってる」

 僅かに顔を上げるとゆらゆらと揺れる水面の月が瞳を不安定に照らし出す。


「メリーには道具になれる素質が確かにあった。でもそうならなかったのはなんでだ?」

「……ミュール兄さんとフラン」

 名前を呼んで、再び目頭が熱くなる。閉じたまぶたの裏に二人の姿が蘇ってきた。


「『心』を二人が遺していったから、今のメリーがあるんだろ」


 その言葉にメリーは思わず息を飲んだ。


『答えは自分の中にある』


 スイウの言った言葉の意味がやっとわかった。二人が最期に遺してくれた大切なものだったのに、見えていなかった。メリーは顔を上げてスイウを見る。まっすぐなスイウの瞳が、池の水面のように静かにメリーの姿を映している。


「それを自分で踏みにじるつもりか?」

 止まっていた涙が再び零れ、胸を締め付けられるような痛みが心を(さいな)む。


「人をやめるな、メリー」


 メリーは少し間をおいてから、力強く一度だけ(うなず)いた。今の自分があるのはミュールとフランのおかげだ。たくさんの感情を抱えて人らしく生きていられる。


 それを知っていながら気づかずに一度捨てようとした。自分が人でなくなったら、二人の生きた証も遺したものも消えてしまう。二人の思いを、他でもない自分が踏みにじって良いはずがない。


「スイウさんの言ってた意味、わかりました」

 どうしてこんな大切なことを忘れていてのか。本当に馬鹿だ。悲しいことや、つらいことばかりを何度も何度も頭の中で繰り返しては、怒りと憎しみを募らせて。そんなことに……何の意味もないのに。 


「私を止めてくれてありがとうございます」

 深呼吸し、目元を乱雑に拭ってから(うつむ)き気味だった顔を上げる。やっと前を向けるような気がした。


「ですが、どうやってストーベルを殺せば良いのか。私の力では及ばないことは変わらないですし」

「そのための俺だ。今まで通り目的のために利用すればいい。おまけに何だかんだ助けてくれるお人好しまでぞろぞろ連れてるだろ」


 メリーはすぐに返事ができなかった。人をやめるな、というスイウの言葉に救われた。全てを見失いかけていた自分に道を示してくれた。思えば自分の近くには必ずいつも誰かがいて、助けてくれた。


ミュール兄さんとフラン。

友人のペシェとミーリャ。

アイゼア、エルヴェ、フィロメナ。

そしてスイウ。


 最初は利用価値しか見ていなかった。一緒に旅をして、次第に彼らの持つ力を信頼するようになっていった。好意的に接してくれることを良い事に、内心ではその力をどうやって最大限に利用するかばかり考えていた。


 力を貸してほしいと頭を下げ快諾してくれたとき、自分の真意は伝わっていないと安堵(あんど)した。良い人のフリをしながら、腹の中では『利用してやろう』と企んでいるだけなのだと勝手に決め付けて。そうやって自分を正当化しながら、彼らの善意につけ込んだ。


 クズとしか言いようがない。人を道具のように利用して、自分の目的を叶えようとする。その行為は自分が心から憎んでいるストーベルと何が違うというのか。


 否、何も違わない。まさにこの親にしてこの子あり。これではまるで生き写しではないか、と自分自身に吐きそうな程の嫌悪感を(もよお)す。同時に言いようのない罪悪感がメリーの心を責め立てた。裏切り行為と同然だ、と。


 ネレスの研究所でミュールの気配を感じたとき、スイウとエルヴェを置いて先行した。ついてこられないなら自分だけでも何とかしてみせると。根拠のない驕りが今回の事態を招いた。


 もしきちんと信頼して連携を図っていれば、もしかしたらミュールを破壊しなくて済んだかもしれない。あれは愚かな選択だったのだ。


 だからもう仲間を利用しようなんて思うのはやめる。人の善意につけ込むのもやめる。二人を失って初めて気づいた。全て失ったはずの自分が、まだ決して一人ぼっちではないことを。


一人では届かなかった杖の切っ先。

ミュールまでの道を守り抜いてくれた盾。

ミュールの魔晶石まで切り拓いてくれた刀。

ストーベルの陰謀を阻止し、研究所を掌握した技術。

焼け爛れて動かなくなった右手は傷一つなく綺麗に修復し、遜色なく今も動く。


何より何度も失敗してきたその杖の切っ先が、ミュールの魔晶石まで届くと信じてくれたこと。


 ミュールをあの場で終わらせることができたのは、そして今もストーベルを追えるのは、(まぎ)れもなくみんなの力があってこそだった。


 メリーが彼らにすべきことは一つ。それが受け入れられなくとも義務はある。そして人の心を持ったままストーベルを殺してみせる。


 ここで立ち止まったら未来はない。今はただ、前へ前へと進むだけだ。だから──


「利用するのはもうやめます」


 メリーはまっすぐ強く言い放った。スイウはその言葉を予想していなかったのか、少しだけ驚いたように眉が上がった。


「そんなふうに驕ってるから足元を掬われるんです。スイウさんのおかげでいろんなものが見えてきたような気がします」

「……そうか」

 スイウが少しだけ微笑んだような気がした。首にかけている魔晶石と橙色の花の入った布袋に服の上から手を添える。


「思いを踏みにじろうとしたこと、ミュール兄さんとフランに謝らないといけないですね」

 静かに目を閉じ、二人へ謝罪と決意を伝える。


──私はみんなと共に、失われた自分の未来を奪い返す、と。


「アイゼアが天灯流しの池で待ってるって言ってたが行くか? 無理なら宿に戻ってもいいが」

「いえ、行かせてください」

「そうか。ならいい」

 スイウが先に立ち上がり、こちらへ手を差し伸べてくる。その手を躊躇(ためら)いなく掴むと、引っぱり上げられた。


「ありがとうございます」

 二人は池を後にする。前を歩くスイウの背中が以前に比べて頼もしく見えた。しばらく歩くと少しずつ街灯りが見え始める。その光の方へと一歩ずつ歩んでいった。

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