036 たとえ届かないとしても【メリー視点】
不気味なほど音のない廊下にメリーの足音だけが響く。ミュールの魔力の気配にメリーの鼓動は早鐘を打つ。息が切れるのも構わずにひたすら走った。
いつの間にかスイウとエルヴェがいなくなっている。どこにいるのかはわからないが、戦闘していることだけは、自分の中から抜けていく魔力量から推測できた。
ついてこられないなら一人でも行く。ずっと追いかけてきたミュールの存在を前に止まることはできない。魔力を辿るように走り、その気配は徐々に強くなっていく。それはここにミュールがいることを示していた。
どうしても拭いきれない不安がメリーの心を苛む。扉を一つ開けると小さな小部屋になっていた。そしてその奥の扉からミュールの気配がする。うるさい鼓動を無視して、更に扉を開けて中へと入った。
中は大きく開けた空間になっており、見たことのある造りをしている。二階から階下のこちらを観察できるような窓のついた部屋と隣接している大部屋。模擬戦や実験を行っていた部屋によく似た空間だった。
ミュールの気配はするが部屋には人気がなく静まり返っている。ゆっくりと中央へ向かって歩きながら周囲を観察していると、隅に置かれたいくつかの装置の一つに人が入っているのが見えた。
急ぎ駆け寄るとそれがフィロメナだということに気づく。鳥籠のような形をした装置は周囲が円柱状のガラスになっており、憔悴しきったフィロメナの顔が見えた。
「フィロメナさんっ、助けに来ましたよ」
「め……リー?」
ガラスを叩いて声をかけると、フィロメナはうっすらと目を開けた。メリーは虚空から杖を呼び出し魔力を纏わせると、杖を力いっぱい叩きつけた。やはり特殊なガラスらしくヒビすら入らず、固い音だけが無情に響く。
「すぐに助け出します。待っててくださいね」
装置を操作して助け出すしかなさそうだと操作パネルに触れようとしたとき──
「よくぞ戻ってきてくれた。メリー」
感情のこもらない低い声が、しんとした空気を僅かに震わせた。この声をメリーは知っている。
「ストーベル……」
憎くて憎くて、滅多刺しにしてやりたいほどの憎悪を込めてその名を呼んだ。部屋の中央にメリーと同じ薄紅色の髪、同じ紺色の瞳の男性が佇んでいる。
「父さんとはもう呼んでくれぬのか?」
これは挑発だ。一呼吸置き、メリーは気持ちを落ち着ける。
「そんな大昔の話を……脳の代わりにアルバムでも詰めてるんですか?」
「久々に会う父親にあんまりな態度ではないか。優しく迎え入れてやろうと思っていたのだが」
ストーベルはこちらへと手を差し伸べてくる。
「穢れているとはいえ、お前のバケモノじみた魔力は魅力的だ。私に従うのであればこれまでのことは全て水に流してやろう」
「冗談。あなたに従うくらいなら首吊った方がマシですね」
抑えきれない殺気を放ちながら杖を構える。一方ストーベルは余裕すらも感じるような癇に障る笑みを浮かべ、やれやれと肩を竦める。
「ふむ……反抗期の娘の扱いは難しいな。帰ってくるならお前の願いを少しは聞いてやろうと思っていたのだが」
「……私の願いは三つ。まず一つはフランを生きたまま返すこと。二つめはミュール兄さんの解放。三つめはあなたを殺すこと。それ以外に望むものはない」
その瞬間、ストーベルは待っていたと言わんばかりに口角を上げて笑った。メリーと同じ色の瞳が、同じ色の昏さをもってメリーを映す。
「一つ目と二つ目の願い、我が理想郷でなら叶うと言ったらどうする?」
ザワリと胸の内側がざわめく。メリーの脳裏に二人と過ごした幸せな光景が、腕にフランが『解離』して死ぬ瞬間の感触が同時に押し寄せる。
ミュール兄さんとフランが、帰って来る……?
必死で抑えていた怒りが、急激に萎んでいく。グースとハックルの言葉を信じるなら、ストーベルの理想郷は『優しい人が死ななくて済む世界』であり、『不死』や『蘇り』を仄めかしていた。
その言葉が少し現実味を帯びたような気がして、私は微かな希望を見出しそうになっていた。ミュールもフランも心の優しい人たちだった。条件は満たしている。ストーベルの元へ戻れば、二人を取り戻せるかもしれない。
正直なところ、メリーは二人が戻るのなら世界が破滅したって構わない、そう思っている。
だが、メリーはストーベルという人をよく理解していた。ストーベルは弱みにつけ込んで他人を利用するのが上手い。
今も、ミュールとフランの存在を利用している。この心の中にある弱みに触れて、優しく優しく撫でられているような不快感と気色の悪さ。握りしめた手にじっとりと冷たい汗をかき、思わず身震いする。
──騙されるな。会いたい気持ちに流されるな。
私が……“私たち”が本当に叶えたかったものが何なのか、思い出せ。
ストーベルの提案を受け入れることは『ミュールとフランを道具にしたくない』というメリーの願いに反するものだ。ストーベルと共に二人を取り戻してしまったら、二人の存在はその『計画』の一部として同化してしまう。
それはつまり最終的に、理想郷を作るための“道具”、もしくは構成する“パーツ”に、メリー自らの手で仕立てるということでもある。『人として生き、人として死にたかった』その切実な願いに、この手で泥を塗るようなものだ。
他でもない私が、二人の心を踏みにじるわけにはいかない。
「嘘がずいぶんと下手になったようで。嘆かわしい」
メリーが鋭くストーベルを睨むと、ストーベルは喉の奥で低く嘲笑った。それはまるで、こちらの“心の揺らぎ”を見抜いているような笑い方だった。
「交渉は決裂か。実に愚かな」
「愚かなのはあなたの方だっ」
メリーは火球を瞬時に生成し、ストーベルめがけて叩きつける。だがその火球は信じられないことにストーベルの体をすり抜けた。避けたわけではない。間違いなくすり抜けていた。
「残念だが、私はこの場にいない。魔工学で姿をこの場に投影しているだけだ」
一気に間合いを詰めて杖を振り下ろしても、手には何の感触もなく突き抜ける。こらえたようなストーベルの笑い声だけが耳障りに響く。奥歯を噛み締めて睨むメリーを、愉快そうにストーベルが見下ろしていた。
「ミュール兄さんをどこへ連れて行ったんですか! 気配は近くにあるんですっ」
「まぁ、そう急くな。会いたいなら、望み通り会わせてやろう」
ストーベルが奥の壁へと目を向け、それにつられてメリーも視線を移す。よくよく見ると奥の壁に扉のような隙間が見える。あの奥にミュールがいるのだろうか。
どくりと心臓が強く脈打つ。きっと無事ではない。それでも自分が絶対に助ける。扉が横へとスライドし、隙間だったものが大きく開いていく。奥で何かが揺らめくのが見えた。
「ミュール兄さん……?」
ゆっくりとこちらへ近づく何かの姿が、次第に露わになっていく。メリーはその姿を見て目を見開いた。
杖が手から滑り、カランと音を立てて床に落ちた。上手く空気が吸えず、胸元に手を当てる。メリーはその姿から目が逸らせない。
「どうだ。素晴らしいだろう」
ぎこちなく顔をストーベルに向けると、恍惚とした様子でそれを見つめていた。
「あのガラクタも手をかけてやればこんなにも有能な駒になる。これも一重に研究を続けてきた賜物だ。ベッドに横たわってるだけの役立たずも泣いて喜んでいることだろう」
「がら、くた……?」
燃えるような炎の体は薄ぼんやりと人の形をしているような気がした。スティータでウィルの話していた倒し損ねた魔物の話が頭を過る。
『炎が意思を持って動いてるような感じ』
目の前にあるものがまさにそうだった。焼け落ちた東区で、本当に、本当に僅かにミュールの魔力を感じたのはやはり気のせいではなかったのだ。
心臓あたりの位置に赤く強く輝く何かがある。その赤く輝く何かから、悲しいほどにミュールの魔力が放たれていた。
「試用実験も素晴らしい成果だったと聞いている。小さな街とはいえ一区画を焼き払い、多くの人間共を焼き殺したとな。お前もスティータで見てきたのだろう?」
嬉々として語るストーベルの顔。その瞳は狂気を孕む。本当に僅かだったせいで気のせいだと言い聞かせてきたが、悪い予感は当たってしまったらしい。
間に合わなかった。何もかもが手遅れだ。フランからミュールが連れ去られたと聞いた時点で、ミュールはもう人の形は保っていないだろうと半ば確信していた。
魔力飽和による解離を引き起こさせ、更に魔力を注ぐことで魔晶石に変える。触媒の生成方法と同じ要領だ。フランから吸い取った魔力もこれに使われているのだろう。
魔力に富み、許容量も大きいミュールはさぞ質の良い魔晶石になったに違いない。そしてそれを使用したものがこれだ。こんなくだらないものになり果てた。
たとえ魔晶石にされたとしても、道具として消費される前にこの手で終わらせるつもりだった。そう思ってノルタンダールからずっと追いかけてきた。助け出すためなら何でもしてやろうという覚悟で。スイウもアイゼアもエルヴェもフィロメナも友人も自分の命さえも……何もかもを利用して。
それなのに目の前にいるミュールはすでに兵器として開発され、試用とはいえ運用もされてしまった。あれほど人でいられることを望んだミュールの末路がこれなのか、とメリーは絶句した。
「再会が嬉しいか。そんなに喜んでくれるなら会わせがいもあるというものだ」
杖を拾い、ストーベルに何度も殴りかかった。その度に杖は、何度も何度も虚しく空を切る。魔術は、杖は、この手は、ストーベルには届かない。ストーベルの高笑いだけが頭の中に妙に響いた。
「ミュール、その力でメリーを殺してやるといい」
ストーベルの命令に、今までじっとしていたミュールが動きだす。炎の腕が伸び、緩やかな動きでメリーに襲いかかる。
「ミュール兄さん……やめてっ」
見る影もないミュールの姿に、胸の内側を八つ裂きにされるような気分だった。吐く息すらも震えるほどに。
「ミュールとメリー、どちらが勝つか見物だな」
ストーベルの純粋に楽しんでいるような場違いな声がメリーの心を逆撫でる。今はこの場に体のないストーベルに構っている暇はない。
ミュールへ杖を向けて構える。その先が情けないほどカタカタと震えていた。
ミュールが生きて戻ってくることはないと最初からわかっていた。最悪道具として使われている可能性も視野に入れていた。そうなった場合は自分の手で破壊すると決めていたはずじゃないか。何を今更迷っている、と奮い立たせる。
メリーは自分の情けなさに唇を噛み締めた。決心は鈍る。ミュールとの思い出が次から次へと浮かんでは消えていく。
ひとりぼっちのメリーに優しく声をかけてくれたこと。
作った夕食を美味しいと褒めてくれたこと。
魔術や勉学を丁寧に教えてくれたこと。
悩みも話もたくさん聞いてくれたこと。
フランと一緒に誕生日をお祝いしてくれたこと。
生まれを疎ましく思っていた自分が、生まれてきたことを祝われるのは不思議な気持ちだった。初めて生まれてきて良かったと思えた。素直に嬉しかった。
何気ないはずの些細なことだったかもしれない。それでもメリーにとっては尊く、希少で、大切な時間だった。
フランもミュールも戻ってはこない。あの幸せが戻ることは二度とない。もう二度と。そしてその幸せに、完全に終止符を打つのはこの手だ。
──私が、ここで全てを終わらせる。
材料にされるだけだと嘆いていた。父の道具ではないと訴えた。人として生き、人として死にたいと願った。何一つ思いが届くことのなかったミュール。これ以上道具として使われることは、誰よりミュールが望んでいない。
今のメリーにできる唯一のことだ。自分にしかできない。そう言い聞かせ、感情も……思い出すらもかなぐり捨てる。
心臓の位置で輝く何かはミュールの魔晶石だ。あれを何とかして奪還する。それが無理なら破壊するしかない。
杖を虚空へと返すとミュールに向かって駆け出す。ミュールの体から放たれる炎をかい潜り、肉薄する。その熱が肌を焼く前に障壁を展開し、ミュールの魔晶石へ手を伸ばそうとするが、すぐに光の膜のようなものが展開し弾き飛ばされた。
「あっあぁぁっ!!」
くぐもった誰かの悲鳴が耳に届いた。地面へ無造作に投げ出され、強く体を打ち付ける。全身に痛みが奔り、呻き声が漏れた。
スイウの戦闘は終わらないのか魔力もみるみる消費されていく。倒れていても容赦なく襲い来る炎を障壁で防ぐ。
痛みで軋む体に鞭打ち、立ち上がった。くぐもった悲鳴はまだ断続的に続いている。それがフィロメナのものだと、苦しむ姿を見て理解した。
「なんと、素晴らしい!! 天族の魔力がここまでのものとは」
その言葉からフィロメナの魔力でミュールに何かを施しているのだと察する。だが機材を破壊して万が一暴発でもすれば、メリーもフィロメナも命はないかもしれない。
機材の操作が正しく行えるかもわからず、のんびり試行錯誤している余裕はない。愚かだとわかっていても、ミュールに力業で立ち向かうしか方法がなかった。
今のメリーは「たった一人」だった。
障壁を消し、炎を躱しながら再び杖を呼び出す。カバンから小さな赤い魔晶石と乾燥させた薬草を調合した粉を取り出す。触媒を生成する時間はなく、そのまま素材を触媒として使用する。
「前進、刺突、貫通、紅蓮の槍──」
ミュールとの距離を縮め、跳ぶ。重力の力を借りながら炎をまとった杖を突き出す。前進を詠唱に組み込んだことで、杖の前方へと推進力が働いているが、それでも弾き飛ばされそうになるほどだ。
膜を突き破ると次は声を上げたくなるほどの熱風がメリーの全身を包み、近づくことを拒む。それでも諦めず、死に物狂いで魔晶石へと手を伸ばす。
「ぐっぅ……ミュール兄さんっ……今、助けるからっ」
破壊したくない、魔晶石は魂も同然。できれば綺麗な形のまま連れ戻したい。右手が魔晶石近くまで伸びる。
手袋は焼き切れ、次に露わになった手が焼かれていく。比べ物にならない程の鋭く刺すような痛みが右の手のひらを支配した。言葉にならない声は叫びとなり、抑えることもできず吼えるように喉の奥から溢れ出す。
とうとう耐えきれず魔術の効果も切れて吹っ飛んだ。受け身も取れず壁に叩きつけられ、鈍い音と共に頭から地面へと落ちた。
たった一度魔晶石に手を伸ばしただけで満身創痍だった。瞬く間に魔力負荷が体に蓄積する。右手の感覚はない。焼け落ちたかと思ったが、焼け爛れているものの何とか残っていた。ただ、もうこの手は使えない。
ミュールを終わらせるには魔晶石の破壊しかない。綺麗なまま助け出す力はメリーには残っていなかった。
あの魔晶石は紛れもなくミュールの魂。それを破壊する。覚悟を決めていたつもりだった。想像するだけで泣き崩れたくなるくらいの思いが押し寄せる。それでも……やらなくては。ミュールの願いを、なかったことにはしないと決めたのだから。




