001 崩壊【スイウ視点】
黄昏色の空に長く伸びる影が二つ。一人は猫のような耳と尾を、もう一人は狼のような耳と尾を持つ青年。獣の特徴を体に宿すのは魔族である証だ。
猫の青年──スイウは体にまとわりつくような生温い空気を断ち切るように刀を払った。地面の黒いシミから湧き上がる塊を、構えの姿勢をとり迎え撃つ。同時に猫のような耳を動かして周囲を探るが、抜けられそうな隙はない。
「完全に囲まれてるな。どうするんだ?」
「どうするって言われてもなぁ。しっかし、どーなってんだー……こりゃ」
「それは俺が聞きたい」
斬っても斬っても黒い魔物のようなものが湧き出てくる異様な光景。何が起こっているのか確認しに行こうにも、四方八方を塞がれ思うように移動できない。
刀を構えたまま警戒していると、狼の耳と尾を持つ青年──クロミツの尾がスイウの背に触れた。
「邪魔……気が散るだろ」
「おっとと、悪ぃ悪ぃー」
全く反省の色が見えないクロミツの声に小さくため息をついた。
『スイウ、クロミツ……』
新たな気配にとっさに身構えたが、聞き覚えのある声と気配に僅かに驚く。
「え、冥王様?」
クロミツの声と共に、声のした方へ視線だけを向けた。少し離れたところに、確かにぼんやりと冥王が立っている。冥王は言葉を続ける。
『グリモワールを奪われたのだ』
「はぁ? グリモワール!?」
「そんな簡単に奪われててどうするんだ……」
災禍の魔書グリモワール。天界に存在する終焉の角笛と対をなす。願いを叶える代償に人の魂を喰らい、心の魔を引きずり出す。そうして得た負の力と魂を触媒に世界を終わらせると言われている書だ。
『我も書に封印され、多くの魔族もまた封印されてしまった』
よくよく見れば、冥王の姿は若干透けている。封印される前に力を外に残しておいたのだろうと察した。だとすればあまり長くはこの場に留まっていられない。
「それを奪い返せば良いんだな。で、奪ったのは誰だ?」
『すまないがわからぬ』
「えぇー、そりゃないだろ冥王様ぁ……」
『犯人は地上界へ逃げた。そなたらを含め、残っている魔族はできる限り地上界へ送るが……余力がほとんど残っていない故、期待はするな。どこへ飛ばされるかもわからぬが、その魂を代価にしてでも取り戻し、魔族としての使命を果たせ。世界が終わる前に、何としてでも』
普段の尊大でどこか飄々としている冥王からは想像もつかないほど余裕のない姿に、スイウは思わず鼻で笑った。
「承知した」
「了解しましたよ。ったくこんなときまで笑ってるとか……相変わらず余裕だな、スイウ?」
体が青白い光に包まれる。冥界の門からではなく転移術のようなもので飛ばされるらしい。
その光の向こう側に、いたずらっぽく笑うクロミツの顔が見えた。魔族が地上界へ行くことは本来ならまずありえない。基本的に冥界は、生きている人には積極的に干渉しないからだ。
「冥界で働かされて六十年。いい加減飽きたし、ちょうど良い」
「とか言って、太陽に灼かれて蒸発すんなよ〜」
太陽の光は魔族にとって猛毒だ。数分直接浴びれば消滅してしまうらしく、太陽の出ていない夜にしか活動できないと聞いたことがあった。だが一つだけそれを回避する方法がある。
「人と契約すれば太陽も平気なんだろ?」
「はぁー? お前みた……な愛想のない……が、簡……に契約なん……でき……ない……ろ?」
クロミツの声が遠退く。お互いが違う場所へ飛ばされようとしているのがわかり、連携は期待するのをやめた。
「別に、テキトーに騙すなり何なりして契約すれば良いだけだろ」
この声が届いたか届いてないか、クロミツの返事は聞こえなかった。ふわりと宙に浮く感覚、体が反転する。
「健闘を祈る」
今はもう視界にもいない友に向けてスイウは小さく呟いた。魔族特有の耳と尾を視認されないように消す。これから行くところは人の世界だ。無闇に魔族であることを知られるわけにはいかない。その間にもスイウは暗闇の海へ緩やかに沈んでいく。
「グリモワールの厄災の種か」
眼下に見える赤い光の全てがその種だ。人の心の闇を炙り出す種。これから爆発的に魔物も増えるだろう。無数に散り、不気味な輝きを宿したそれは、地上界を目指して降り注いでいた。
赤い星──それは世界の終わりを告げる、最初の予兆であった。
* * *
スピリア連合国、炎霊族自治区首都メラングラム。首都というだけあって、早朝から行商や出勤する人で溢れ返っていた。
そんな街の喧騒を避け、身を潜めるかのように路地裏で蹲る青年が一人。その呼吸は荒く、苦しげだ。乱雑に被ったボロ布の中から、夜空を彷彿とさせる濃藍色の髪が覗く。月の色に似た左目は布の影を受け一層鋭く光っていた。
柔らかいはずの朝の日差しは少し肌にあたるだけで、鋭い刃に貫かれるような痛みだ。肌を晒さないように身を縮めても、ジリジリと焼け付くような痛みと倦怠感が全身を襲う。
魔族は感覚が鈍く、これほどの痛みを感じるのは初めてのことだった。声を漏らしそうなほどの苦痛に耐えながら、青年はゆっくりと視線を大通りへ向けた。
慌ただしく行き交う人々の生き生きとした表情。それらを忌々しそうに睨みつける。弱々しく蹲っていることしかできない惨めな自分。日陰にいても、この体力の奪われようは尋常ではなかった。
兎にも角にも今は動けない。もっと早く到着できていれば夜のうちに身動きがとれたが、転移されたときにはすでに夜明け前だった。羽織で朝日を避けながら、何とか日の当たらないこの場所まで辿り着いたのだ。
青年──スイウは夜を待つ。明るい世界から怯えるように縮こまることしか今できることはない。人目につかないよう、路地裏の物陰にひっそりと寄りかかり固く目を閉じた。