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境界線に立つ者たちへ──その『執念』は全てを覆す  作者: まな板のいわし
本編:未来を負う者たちと、過去を追う者
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017 天族少女の序曲《オーヴァーチュア》(1)【フィロメナ視点】

 (さかのぼ)ること数日前。赤い星の降った夜、天界は突然の事態を把握しきれず、騒然としていた。


「冥界はどうなってるんだ!?」

「あれは厄災の種じゃないか! 冥界は勝手にグリモワールを使用したってことか?」

 地上界へ繋がる『天青(てんせい)水鏡湖(すいきょうこ)』にその様子が映し出されていた。


「落ち着きなさい。慌てたところで状況が変わるわけではない」

 天界の王、天王(てんおう)の一声で騒然としていた天族達が静まり返る。天王(てんおう)は取り乱す様子もなく、じっと映し出された地上界の様子を眺めていた。しばらく考え込んだあと、天王(てんおう)は口を開く。


「冥界と地上界へ天使を派遣する。最も重要なのはグリモワールの確保だ。冥界へ行く者は速やかに冥界を制圧せよ。魔族は捕えて事情を聞いた後、直ちに魂の『返還』をさせる。地上界へ行く者は大量発生するであろう魔物に備えよ。人を助け、被害を最小限に抑える。細かな采配は天使総長に任せる」

「御意」

 天王の命令が下ると同時に天使総長が淡々と割り振りを決め、天使長達が慌ただしく動き出す。


「フィロメナ。俺たちやっとまともな任務につけそうだね」

「ちょっと、その発言は不謹慎過ぎじゃないかしら?」

 声をかけてきた同期のヒースは、戦闘を含む任務を心待ちにしていたようで、わくわくとした表情を隠そうともしない。


 ヒースを(たしな)めたものの、フィロメナ自身も天界の外には強い興味があった。憧れの外の世界で、自分の力を役立てられるときが来たのだと思うと素直に嬉しかった。


 フィロメナには戦闘の才能はあまりなかったが、治癒術が使えるおかげで天使になることができた。どちらもできなければ魂をこの世界に返す『返還』を行使されていたはずだ。


 天族や魔族に明確な死という概念はないが、その者がいなくなることを死と定義するのなら、消滅したときか『返還』でこの世界の循環へ還されるときに死ぬのだろう。

 そうならないためにもしっかり役に立たなくては、とまだ見ぬ世界への期待を抑える。


「ほら、フィロメナも何だかんだ言って楽しみにしてるじゃん?」

「あたしは新たな場所で役に立てることが嬉しいだけよ?」

 会話していると、フッと影がかかり上を見上げる。天使長のソレッタがゆっくりと降りてくるのが見えた。


「ソレッタ天使長、俺たちはどっちですか? 冥界ですか? 地上界ですか?」

「我々は地上界へ参ります。ですが、フィロメナには天界での待機を命じます」

 フィロメナは驚きのあまり声も出なかった。予想していなかったソレッタの言葉に胸の奥がギュッと握り潰されたような心地になる。同じ隊の仲間の視線がフィロメナに容赦なく突き刺さっていた。


「どうして天界で待機を?  理由は教えてもらえないのかしら?」

 動揺が伝わらないよう平静を装ったつもりだが、声が僅かに震える。


「今の戦闘力では足手まといなのです。この任務は治癒術だけでは厳しいものがあります。あなたには天界に戻った怪我人の治療が適任なのです」

 天族には地上界に湧く魔物を秘密裏に狩り、バランスを保つ隊がある。その隊員たちの治療がフィロメナの主な任務だった。しかしそれでは今までと何も変わらない。変われない。フィロメナは急速に自分の世界が閉じていくのを感じていた。


「地上界へ参りますよ」

 ソレッタの後に続き、数人の隊員が湖の中へ飛び込んでいく。


「フィロメナ、あんまり落ち込むなよ。機会はまたくるさ」

 ヒースの憐れむような視線に、()(むし)られるほどの悔しさがこみ上げる。


 湖の側で膝をついて覗きこむと、沈んでいく隊員の背中と無数に散る赤い光が見えた。フィロメナはただ見送ることしかできない。命令に従い、与えられた任務を遂行することが天族の存在意義なのだから。ぎゅっと噛み締めた唇に弱い痛みが走る。


本当にこのままでいいの?


 自分で自分に問いかけた。天界に待機する天使たちも持ち場へと戻り始め、しばらくすると湖の周りの人影は(まば)らになっていた。


 それでもフィロメナは水面を凝視し続ける。その若草色の瞳は、湖に映し出された赤い光の散る空だけを映す。やがて静寂が訪れた頃、ぽたりと一つの波紋が広がった。


赤い星──それは一人の決意が旅立つ合図であった。



* * *



 ドルミンを出発して数日が経っていた。ここ数日は天気があまり良くなく、雨は降ったり止んだりを繰り返している。暗い雲の垂れ込めた空から雨が降り出したのは、昼食を済ませて少し経った頃だった。


 静かにしとしとと降る雨はすぐに止みそうにはない。フィロメナは荷台の幕を僅かに持ち上げて外を伺う。ちょうど森の中の街道を進んでいるらしく、木々は鬱蒼(うっそう)と生い茂り、薄く霧も出ているのか若干視界が悪い。それがまた何とも言えない陰鬱な雰囲気を醸し出していた。


 静寂の中、雨の音だけが鼓膜を優しく叩く。そんな穏やかにも感じられる時間は、ガタリと物音を立てて打ち破られた。スイウは左手で刀の柄を握り、明らかに警戒した様子で片膝をついている。


「アイゼア、この先から気配を感じる」

 その一言で荷馬車の中に緊張が走る。


「魔物じゃない。人と人が争ってるような声がするな……警戒しろ」

「了解したよ」

 アイゼアは槍を手元に手繰(たぐ)り寄せ、いつでも戦えるようにしている。


「遠距離で迎え討つなら指示してください」

「その時は頼んだよ」

 メリーも幕を片手で僅かに持ち上げ、アイゼアの斜め後ろで杖を握って控えている。エルヴェも無言で短刀を握りしめていた。


 突然何が起きているかもわからないまま緊迫した空気に飲まれ、フィロメナは手が冷えていくのを感じていた。何か起こったわけでもないのに、この程度で怯えていてはダメだと自身を奮い立たせ、フィロメナも臨戦態勢をとる。


「おい、お前は戦うな」

「え?」

 スイウの鋭い視線がフィロメナを射抜く。戦闘が得意でないことは重々承知している。スイウはそれを見抜いているのかもしれないが、戦力として数えてもらえないのは内心複雑だ。


 だがスイウから発せられた次の言葉でそんなざわざわとした思いも急速に鎮まっていく。

「羽を隠して戦えないなら控えてろ。魔族や天族の存在は本来人に知られて良いもんじゃない。そんくらいはさすがに知ってるだろ」


 それは天界でも聞かされていたことではある。フィロメナも十分理解しているつもりだが、戦わなければならないときは仕方ないのではないかとも思う。


 天族も魔族もそうだが、本来の姿を隠している状態というのは力も制限されている状態だ。耳も尻尾も隠して、平然と戦闘をやってのけようとするスイウは相当腕に自信があるに違いない。


 それに比べて自分はどうなのか。魔術や光輪を使うにも、羽を出した状態でなければまともに機能しない。羽なしで辛うじて使えるのは僅かな治癒術だけだ。明らかに劣る戦闘力。だから地上界への任務に連れていってもらえなかった。


『今の戦闘力では足手まといなのです。この任務は治癒術だけでは厳しいものがあります。あなたには天界に戻った怪我人の治療が適任なのです』


 天使長のソレッタの言葉が蘇る。フィロメナは無力な自分が悔しくて唇を引き結んだ。


「あの道を曲がったら遭遇する」

 スイウが低く(うな)るように警戒を促す。

「とりあえず初動は僕に任せて。極力戦闘は避けたい。まずければ合図する」

 荷馬車は速度を緩めることなく進み、とうとう緩やかな曲がり角へと差し掛かる。


 耳には鼓動の音だけがうるさく響き、雨の音などもうフィロメナの耳には届かない。薄い霧の中に人影が見え、それらが徐々に色を帯びて鮮明になっていく。その姿を見てフィロメナは目を見開いた。白い羽の生えた人物が七人。天族だ。


 襲われているのは三人の若者、そのうち一人は小さな女の子のようだ。天族が人を襲うことはない。人は保護対象なのだ。だとすれば、あの三人のうち少なくとも一人は魔族か。


「天族でしょうか。もしかしてフィロメナ様がはぐれたお仲間というのは……」

 エルヴェの声もフィロメナには音としてしか入ってこなかった。荷馬車は少し距離をおいて止まる。ドクンと一際強く鼓動が脈打つ。その天族たちはみんな知っている顔だったからだ。その中にはソレッタ天使長の姿もある。


「君たち、そこで何をしてるのかな?」

 アイゼアは緊張感のない声音で天族たちに尋ねる。

「人間か……その荷台に何を(かくま)っている? その禍々しい気配は魔族ではないか」

 ソレッタは細身の剣を(たずさ)え、こちらへ真っ直ぐと歩いてくる。アイゼアが右手を槍に添えた。


「待ってください! ソレッタ天使長!!」

 フィロメナは考えるよりも先に飛び出していた。


「フィロメナ!?」

 アイゼアの戸惑う声を背に、荷馬車とソレッタの間にふわりと降り立つ。ソレッタは驚いたように目を見開き、フィロメナを凝視した。


「フィロメナ、あなたには天界での待機を命じたはずです」

「す、すみません。命令違反の罰は受けるつもりよ。でもその前に、あたしの話を聞いて……」

 ソレッタは何も言わない。その沈黙を肯定と捉え、フィロメナは昨日の出来事を思い起こしながら言葉を探す。


「魔族はグリモワールを悪用してない。魔族は地上界に来て、グリモワールを奪還しようと動いてるわ。目的はあたしたちと同じ……争う必要はないの!!」


 フィロメナの声が、しんとした森の中に吸い込まれていく。だが、向けられる敵意は変わらない。


「なぜそうだとわかる?」

「それは、魔族が教えてくれたからっ」

 ソレッタの目をフィロメナは見つめ返す。ソレッタならわかるはずだ、これは無益な戦いだと。だがそんなフィロメナの思いを裏切り、ソレッタは(あざけ)り笑う。


「フィロメナ、魔族の戯言(ざれごと)を信じたのですか?」

「ざれ、ごと……?」

「薄汚い魔族が我らの手を逃れるためについた嘘でしょう。そんなものも見抜けぬとは、愚か過ぎますよフィロメナ」


 ガツンと頭を殴られたようだった。先程の比にもならないほど、鼓動が早金を打つ。スイウのあの言葉は嘘だったのか。言われてみれば、それが本当だという確証などないことに気づく。


どうして信じたのだろう。

いや、嘘だという確証もない。

真実はどっち?


 フィロメナはカタカタと震える手に力を込める。


「それに、話の真偽など我々には関係ないのです」

 思ってもみない言葉に、フィロメナの視線はソレッタに釘付けになった。カラカラに乾いた喉。(かす)れた声で必死に言葉を絞り出す。


「それ、は……どういう……?」

「グリモワールの奪還と魔族の返還、それが天王様のご命令。それを忠実に遂行するのが我ら天族。ご命令に従い、秩序を守ることが我々の存在意義。個人の意思や考えなど些末事(さまつごと)に過ぎません。天使でありたいのなら私情など棄てなさい」

 ソレッタは再びこちらへと歩み出す。背後の荷馬車に乗る四人を殺すつもりだとすぐに理解した。


「待って、お願い……ソレッタ天使長っ」

 力の限り叫ぶと、ソレッタははたと歩みを止めた。しかしその目に以前のような温かさはない。侮蔑の色を帯びた冷ややかな目がフィロメナを貫く。


「魔族を庇うとは、毒されたのか? これよりあなたを裏切り者として、天界より追放します」

「え……」

「ソレッタ天使長、それは!!」


 フィロメナは立てる足場を失ったようにへたり込んだ。震えが止まらない。止まれ止まれと念じても、震えは収まるどころか大きくなる。同僚だった天族たちや仲の良かったヒースの抗議もソレッタには聞き入れられなかった。


「この場で斬られないことを感謝しなさい。返還を望むなら、我々がすぐに世界へ還してあげましょう」

 ソレッタの聞いたこともないような冷たい低い声。戦闘が未熟なフィロメナに「あなたにはあなたしかできないこともある」と励ましてくれた頃の面影は欠片も残ってはいなかった。


「ソレッタ隊、この場にいる魔族勢力の殲滅(せんめつ)を命じます!」

 その号令と共に、戸惑いながらも天族たちは荷馬車を襲撃にかかる。同時にメリーの淡々とした声が響く。


「もう、話すだけ無駄でしょう」


 ザワリと心臓を撫でられるような嫌な魔力の気配と共に、複数の紅蓮の火球が放たれる。それは狼の形に姿を変え、天族たちに襲いかかった。まるで本物の獣のような動きで翻弄(ほんろう)して追撃し、その一匹が天族の腕に喰らいつく。


「ぐっ……あぁっ! なんだ、この魔術っっ!!」

 振り払うように腕を振っても喰らいついた焔の狼は離れない。それだけ魔術が強力なのだということが一目でわかる。

 その狼をヒースの剣が切り払った。焔の狼に喰らいつかれた腕は火傷だけでなく、まるで痣のように赤黒く染まっている。その異様な腕を見て恐れ(おのの)きながら叫ぶ。


「『黄昏の月』……けっ穢れが!! 堕天したくないっ……嫌だ!!」

「しっかりしろ、この程度なら治る!」

 錯乱する天族にヒースが必死に声をかける。


「馬鹿者、落ち着きなさい。そう簡単に堕天はしません。誇り高き天族が醜態(しゅうたい)を晒すとは何事ですか。不浄の者共に屈してはなりません!」

 ソレッタの鼓舞に、恐怖で削がれていた天族たちの士気が戻る。フィロメナの頭上を一つの黒い影が通り過ぎた。


「残念だが、お前らは全員地べたに這い(つくば)ってもらおうか」

 ソレッタの剣とスイウの刀が鋭い音を立てて火花を散らす。


「出たな。貴様が魔族か」

 スイウは刀で剣を押し返し、宙でくるりと一回転し音もなく地に降り立つ。


「エルヴェ、フィロメナを頼んだよ!」

「お任せください!」

 アイゼアの指示を受け、エルヴェがフィロメナへ駆け寄る。


「フィロメナ様、立てますか? 荷馬車の中へ避難しましょう。ここでは戦闘に巻き込まれてしまいます」

 エルヴェの言う通りだ。早くここから移動しなければ。それでも足に力が入らず、羽で飛ぶ力も出ず、動けそうもなかった。ここにいれば足手まといになってしまう。気ばかりが急いて、もがくように焦りが募った。


「フィロメナ様、失礼いたします」

 フィロメナの様子を見かねたのか、エルヴェは軽々とフィロメナを横抱きにして持ち上げてみせた。この小さな体のどこにそんな力を秘めているのかと驚く。


 抗う力もなく、されるがままにエルヴェに運ばれながら、フィロメナはふと疑問に思う。自分は今、一体どちらの足手まといになると思ったのだろうか……と。


 フィロメナは荷馬車の荷台の中央に降ろされた。相変わらず震えが止まらない。そんな自分が余計に悔しくて、ギュッと拳を固く結んだ。拳に、エルヴェがそっと手を重ねる。冷え切った手に柔らかな温もりが伝わってくる。


「大丈夫です、フィロメナ様」

 エルヴェの優しい目がフィロメナを映している。こんな年端のいかない少年に慰められた惨めさと、何もできない己の無力さと見放された絶望感。今まで感じたこともないようなぐしゃぐしゃの感情。その心にエルヴェの温かさが沁みた。


 剣戟(けんげき)の音や魔術の音、地響き、悲鳴、怒号。外では戦闘が続いている。フィロメナは現実から目を背けるように固く目を閉じ、両手で耳をふさいだ。

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