プロローグ そして全てを失った私は【メリー視点】
しんしんと降る雪が、街灯の明かりに浮かび上がる。メリーは積もった雪の上に足跡を残しながら、闇夜に溶けるような静けさを切り裂いていく。妹のフランが……腕の中で苦しそうに身じろぎ、微かに呻いた。
「……メリー……おね…ちゃ……」
フランの顔色はすっかり青ざめ、息も絶えだえになっている。吐く息は、白くならないほどにか細い。
「大丈夫だよフラン。もうすぐ病院につくからっ」
メリーはフランを一瞥し、目の前に広がる暗闇へ視線を戻す。足を止めることはない。薄紅色の髪と紐状の髪飾りを振り乱し、吐く息は荒く、砕けるように白く散る。心臓の音は急げ急げと、けたたましく内側から叩きつけてくる。
「もう、ダメ……」
「フラン諦めないで!」
『霊族』と呼ばれる、魔力を持つ種族は、その体に保持しておける魔力許容量より魔力が枯渇したり飽和することに弱い。魔力を吸いつくされ『解離』が始まっているフランの体は、人とは思えないほどに軽かった。
「お願い……ミュール……お兄……を」
「うん。後で必ず私が助けに行くから」
「ごめん……ね……メリー、お、姉ちゃん。わたしの、せい……で……」
その後に続く言葉をメリーは聞き取ることができなかった。目の前が一瞬にして橙色に染まる。腕の中からふわりと吹いた柔らかな風がフランの言葉を遮った。
一年のほとんどが冬の気候であるこのノルタンダールに似つかわしくないほど暖かく優しい風。フランの髪と同じ橙色の花が腕から溢れて零れ落ち、はたりはたりと音を立てる。
「え……」
走る速度を緩め、やがて止まる。腕の中にはフランが着ていたはずの服とたくさんの橙色の花。
恐る恐る振り返ると、自分の足跡を彩るように花が落ちている。灰色の石畳。純白の雪。漆黒の闇。橙色の花。花が、花が……落ちていく。
無彩色の景色に花の色だけがゾッとするほど華やかに映え、メリーの目に焼き付く。フランは『解離』した。
『解離』とは、体と魂がこの世界の自然に還る現象のことを指す。端的に言えば『死』とほぼ同義だ。フランが自然へと帰してしまったのだ、と停止していた思考がゆっくりと理解し始めた。
「フラン、フランっ!!!」
メリーの叫びは届かない。降り続く雪の中へ虚しく吸い込まれていくだけだった。走り続けていた足が震え、膝から崩折れる。たまらずフランの服をギュッと握りしめて抱えこんだ。
──私はどうすれば良かった?
ほんの数時間前まで、たわいない会話を交わしていた。夕飯の買い出しから帰ってきたときにはすでに手遅れで。
玄関ホールに倒れていた妹のフランに駆け寄って、兄のミュールが連れ去られたことを知った。買ってきた食材をどうしたのかは覚えていない。
魔力を補填したが、すでに『解離』の始まっている体には効果がなかった。それでも病院に行けばもしかしたら、と一縷の望みをかけて走ったのに。
『ごめ……なさい。わたしが弱いから、白い人たちに……ミュールお兄、ちゃんが……』
フランの言葉が、表情が、まぶたの裏に蘇る。最期の言葉も「ごめんね」だった。これがまだ九歳の女の子の最期だというのか。
「利用価値もないと吐き捨てたのはあなたの方でしょう……!」
このやり口と「白い人」という単語で犯人はすぐにわかった。憎い相手の顔が、声が、記憶がちらつく。
『なぜお前は穢れているのだ』
おぞましいものを見るような目で、そう吐き捨てる父の姿が脳裏を掠める。握りしめた拳を新雪の上に叩きつけると、痺れるような強い痛みと凍りついた石畳の感触がした。
その冴えた痛みが煮え滾るような思いを凍てつかせ、閉じ込めていく。「何事においても、冷静さを欠いた方が負ける」いつか兄のミュールが口にしていた言葉を思い出した。冷えた夜の空気を肺いっぱいに吸って、吐き出す。
「フラン、ミュール兄さんは必ず連れ戻すからね」
メリーはキッと天を睨む。月の見えない夜。雲の切れ間から血のように赤い星が降るのを見た。
赤い星──それは復讐の始まりを告げる黎明の光であった。
* * *
雪の上に橙色の花が咲き乱れるように落ちている。この花全てが『解離』してしまった妹フランの成れの果てだ。その橙色の花を壊れてしまわないように優しく一輪掬い上げ、布に包む。
この光景と思いを忘れないように瞳の奥に焼きつけながら右手を前へと差し出す。魔力を込めると淡い光が手のひらを包んだ。
次の瞬間、花たちは橙色をより一層濃くしながら舞い上がっていく。その幻想的で温かな光に、亡き妹フランの面影を重ねる。
『メリーお姉ちゃん!』
フランの声が鮮明に蘇り、キリキリと胸の奥が締め付けられていく。息苦しさに呼吸を浅く繰り返す。じんと痺れるように熱くなる目頭に思わず目を伏せた。閉ざされた真っ暗な視界の中に、まるで光が差すかのようにフランの笑顔が浮かぶ。
いつも明るく健気な姿は、どこかくたびれてしまった兄のミュールやメリーの心を明るく照らす光そのもので。子を道具としか思わない残酷な家系に生まれたとは思えないほど、本当に心根の優しい子だった。
再び目を開くと、花弁は最期の煌めきを放ちながら夜の闇に溶けていくのが見えた。
「フラン、助けられなくてごめん……」
小さく呟くと、メリーは踵を返し、足早に屋敷へ向かった。後ろは振り返らない。立ち止まらない。感傷に浸っている暇などない。今はただひたすら前へ。握る拳に、踏み出す足に力を込めた。
まだ私には為すべきことがある──
一人戻ってきた屋敷は信じられないほど静まり返っていた。魔力で部屋に明かりを灯すと、荒らされた中の様子が嫌でも視界に飛び込んでくる。
小物が散乱し、家具や壁に所々傷跡が残っている。フランのお気に入りのマグカップも、ミュールが大切にしていたオルゴールの小箱も、友人たちが贈ってくれた置き時計も全て壊されていた。
散乱した家具や小物を避けながら荒れた自室に入る。机の引き出しから長い紐のついた小さな布袋を取り出した。
花柄の刺繍が歪ながらも丁寧に施されているフランお手製の布袋だ。匂い袋だったものだが、中身を抜き、布に包んでいた花を移し替える。それを首から下げ、服の中へとしまった。
本当はあのときに全て自然へ還すべきだったが、まだ離れたくないという思いを断ち切れなかった。申し訳なく感じつつもこうして何かに縋らなければ、絶望に押し潰されてそのまま消えてしまいそうだった。
フランの最期の願いを聞き届けるために、今はとにかく自分を奮い立たせ前へ進まなければならない。
メリーはクローゼットを開け、ハンガーにかけてある服を両端へ寄せると、奥の壁に向かって魔力を注ぎ込む。
指先から広がるように、青白い光を放ちながら魔法陣が浮かび上がっていく。陣の中央に現れた扉の中には術式を詰めた試験管とお金が入っている。
特に見つかった形跡もなくホッと胸を撫で下ろし、カバンに詰めた。部屋にある空の試験管や魔術の触媒に使えそうなもの、他にも役に立ちそうなものを全てかき集め、入るだけ詰め込んでいく。
準備を終えると、カバンを腰に下げた。クローゼットから赤いフード付きのケープを一着取り出すと、慣れた手付きで羽織り、部屋を出ようと一歩踏み出す。何かを踏む感覚と同時にパキッと固い音がした。
足元には砕けたガラス片と壊れた写真立てが落ちている。中にはミュールとフランとメリーの三人が幸せそうに笑って写っていた。フランの誕生日に記念に撮った写真だ。
当主候補に選ばれるほど才能があったのに、父からの実験で虚弱体質になってしまった兄。新月の日に、母方の血筋を引いて地霊族で生まれてしまった妹。
そして満月の日に生まれながらも月食に阻まれ、穢れた魔力を宿すメリー。父から「利用価値もないゴミ」と見放され、この屋敷へと追いやられた。自分たちは利用価値のある他の兄弟たちとは違う──はずだった。
ひっそりと平穏に暮らせるのではないかと淡い期待を抱いていた。今になってその期待は愚かなものだったと気付かされることになるとは。それも、取り返しのつかないものを代償にして。
こんなことになるのであれば監視官を殺し、ミュールを背負ってでもどこかへ逃亡すべきだったのかもしれない。
後悔と自責の念で心が軋むのに気付かないよう、拾った写真を四つ折りに畳み、大切な記憶と共に封じるようにして布袋の中へしまい込んだ。
屋敷を後にするメリーの顔に、最早感情の色は見えない。降る雪で輪郭のぼやけた足跡を辿るように歩き出した。
魔術鉄道のノルタンダール駅。最終列車に乗り、炎霊族自治区の首都メラングラムを目指す。ミュールを救い、父ストーベルへ復讐を果たすために。到着する頃にはもう夜も明けているだろう。