割り切れぬ想い
「あなたの大切な記憶は何ですか?」
銀色の髪を仄かに揺らす精霊が、刃のような輝きを宿した瞳で見据える。
その視線に囚われた瞬間、空間が凍りつく。時間までもが、止まったかのようだった。
例えるなら、高位の魔物と相対した時の恐怖。いや、それを超える畏怖といえるだろう。
「失礼。少し、答えを急ぎ過ぎてしまいました。私は案内精霊のメモリアと申します。まずは、お客様のお名前をお聞きかせいただけないでしょうか?」
剣を携えた女は、止まっていた呼吸を整え、鋭い視線を精霊に向けながら声を張り上げる。その動作は、震える指先を隠すようなぎこちなさを伴うも、
「――私は、エレノア・キーファー。剣士よ」
エレノアは、虚勢を見抜かれないよう胸を張り、顎を引いたが、知らぬ間に剣柄に手が乗っていた。それは戦いに構えてのことではない。そのことはエレノアが一番よく分かっていた。無論、精霊を恐れてのことでもない。この迷宮を恐れてのことだ。
そんな彼女の心の内を見透かすように、――いや弄ぶように精霊は言葉を繰り返した。
「あなたの大切な記憶は何ですか?」
再び問いかける銀色の瞳に必死に食らいつくエレノア。その反応を楽しむように性悪な精霊は、言葉を続けた。
「あなたの大切な記憶を対価に『記憶の迷宮』への挑戦を認めましょう。
見事迷宮を踏破したあかつきには、あなたが望む死者と引き合わせることを約束いたします」
あまりにも簡単に提示された答え。それは、エレノアが渇望し、夢にまで見た答えだった。
その事実に、彼女は思わず身をこわばらせた。こんなにもあっけなく、求めていた答えに手が届いてしまうものなの?
それは、迷宮の最奥にあるはずの宝を、いきなり目の前に置かれたような感覚だった。
(……そんなはずがない。そんな簡単に、たどり着けるはずが――)
「おや?もしや驚かせてしまいましたか?
ですが、お客様は良質な記憶をお持ちのようなので、つい興奮して先走ってしまいました。非礼をお詫びします」
「い、いいわ。挑戦することに変わりはないもの。でも、一日だけ時間をいただけない?あの理不尽な崖を登らされて、体中ボロボロなの」
「これはこれは、重ね重ね先走り申し訳ありません。お客様の旅疲れにも気づかないとは、案内精霊としてあるまじき愚行。どうか、お許し下さいませ。それでは、本日は、ここまでといたしまして、お部屋に案内いたします。さぁ、こちらへ」
そういうと、精霊は重力を無視した動きで、羽を使うことなく空中を滑るように移動し始めた。
「181号室」エレノアにあてがわれた部屋だ。
「……なんで181号室なのよ。何か意味があるの?」
メモリアは特に返答をせず、にこやかに会釈した。
「――どうぞ、ごゆるりと。ああ、忘れておりました。お客様は大丈夫でしょうが、他の部屋を勝手に開けることのないようにお願い申し上げます」
「も、もちろんよ」
「何かあれば、すぐに伺います。それと、規則書は必ずお読みください。『知らなかった』では済まないこともありますので――」
エレノアは181号室のドアを開き、中へと入った。
そこは拍子抜けするほど普通の部屋だった。中央にシングルベッドが置かれ、フットスローが整然とかけられている。枕元の棚には、陶器のランタンと一枚の羊皮紙が置かれていた。
先ほどの言葉を思い出しつつ、エレノアは羊皮紙を手に取って目を通した。
簡潔だが、どこか意味深な文言が並んでいる。
「……言い回しが、いちいち引っかかるのよね」
そう呟いて規則書を棚に戻すと、改めて部屋の中を見渡す。
床が軋むこともなければ、天井に子どもの手形が残っているわけでもない。あえて異質な点を挙げるとすれば、窓がないことくらいか。
「まるで、冒険者ギルドが経営するような宿ね……」
吐き出すようにそう言った瞬間、ふと脳裏に、懐かしくも苦い記憶がよみがえった。
出会いと別れが日常だった冒険者ギルド。喧嘩は挨拶代わりで、腹を割ることなく互いを探り合う仲間たち。それでも、時には羽目を外してバカ騒ぎをし、団結して困難に立ち向かったこともあった。もちろん、人並みに恋をすることだって――。
そんな郷愁に、口元がふと綻んだ。しかし、その微笑みはたちまち苦痛に染まり、やがて形を失っていった。自分がこの迷宮を欲した理由。思い出の全てを黒く塗りつぶしてでも、どうしても会いたいただ一人の存在。そのために――。
「……ルーカス。ママがもうすぐ会いに行くからね」
爛れた手を強く握りしめながら、エレノアは静かにその名を呼んだ。
∴∴∴∴∴
「――エレノア!! 前を向くんだ」
(……)
「――エレノア!! ルーカスはそんなこと望んでいない!!」
(……さい)
「――エレノア!! 僕は君が……」
(五月蠅い!!)
――あの日から、安らぎは敵になった。
エレノアは汗だくの体を拭うこともせず、枕元に置いていた強い酒を無造作にあおると、無理やり瞼を閉じて暗闇を見つめた。
∴∴∴∴∴
「おはようございます、エレノア様。顔色がすぐれないようですが、本日はどうなさいますか?」
案内精霊メモリアが、じっと覗き込むようにエレノアを見つめた。
その瞳には、心の奥を見透かすような冷たい光が宿っている。
一瞬、息が詰まりかける。だがエレノアは、その圧力を振り払うように声を張り上げた。
「――挑むわ!!『記憶の迷宮』に!!」
エレノアの鋭い決意の声が響く中、メモリアの口端がゆっくりと綻んだ。その笑みは、まるで全てを見通した者だけが浮かべる余裕のように見え、どこか不気味な期待がその瞳の奥に揺らめいていた。
「分かりました。それでは、迷宮に挑まんとする者に対価を求めます!迷宮への挑戦権として差し出していただく対価は――、
【御令息ルーカス様】、もしくは【伴侶マティアス様】のいずれかの記憶でございます!」
その瞬間、エレノアの心を嘲笑うように、性悪な精霊――いや、『記憶の迷宮』の深淵から這い出る悪意がすっと姿を現した。