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クレーター島

 


 海上にそびえ立つ断崖に荒れ狂う波がぶつかり、白い飛沫が舞い上がる。その岩肌は波に削られ続け、鋭利な刃のように尖り、近づく者を寄せ付けない。

 その頂を目指して駆け上がる上昇気流は、遠く水平線を覆う黒い雲を空へと集めていく。荒れた海に囲まれたこの孤島は、世界との関わりを拒絶するかのようだ。

 そんな恐ろしい島へと、一艘の小舟が波に殴られながらも果敢に近づいていった。


 船には、剣を携えた女と年老いた船乗り。老人が深い皺に覆われた顔をしかめ、ぼそりとつぶやいた。


「あんた本当に行くのかい?」

「――どうしても会いたい人がいるの」

「あんたの帰りを願ってる人が、いるんじゃないのかい?」

「――ごめんなさい。捨ててきたの」

「……十日後、また来る」

 短い会話を終えると、彼女は激しく揺れる小舟を後にした。


 ここは海上に突き出た絶海の孤島、『クレーター島』。

 船着き場などあるはずもなく、足場に使えるのは波に削られ続ける岩礁のみ。ここも次に誰かが訪れる頃には、海の藻屑となり跡形もなく消えていることだろう。


 彼女は「ふーっ」と、大きく息を吐き、遥か彼方に見える頂きを見上げた。そして、目を凝らし少しでもしっかりしていそうな岩を探し出すと、そっと手を掛けた。

 全身の体重をゆっくりとかけ、慎重に登り始めたが、


「ちッ!!」


 懸命な試みをあざ笑うかのように、ぼろりと剥がれ落ちる岩に、思わず舌打ちがこぼれる。しかし、これしきのことでは彼女は諦めない。腰袋から短い岩杭を取り出し、ハンマーを握ると、その頭を力強く叩いた。

 道具の助けを借り、慎重に足場を作りながら登り進めるも、岩に手を掛けた瞬間、指先にぬるりとした感触が走った。

 熱くも冷たくもないのに、皮膚がじわりとふやけていくような――そんな感覚。

 やがて手のひらから血がにじみ出し、岩肌は無感情にその赤を吸い取っていく。

 ――ただの石なはずがない。

 挑む者を払い落とそうとする、明確な意思が感じられた。

 でも、そんなことで引き返すわけにはいかない。


「……本当に、“ただの岩”じゃない。何これ……皮膚の奥まで蝕まれてる……

――まぁ、いいわ。それなら、どうかあの話も本当であって……」


 彼女は、絶壁を睨めつけながらそう呟き、ぎゅっと皮手袋を嵌めると再び岩壁を登り出した。



 ◇ ◇ ◇ ◇



 彼女は、二日二晩、つき纏う疲労と痛みに抗いながら、非情な断崖を登り切った。

 足元に広がるのは、まるで悪魔が空を喰らおうと口を開けたかのような巨大な火口。

 黒煙を吐き、地鳴りすら呑み込むその景色は――ただの異形ではなかった。

 それは、人の心の奥底にひそむ原初の恐怖を、無理やり引きずり出すかのような不気味さに、満ち溢れていた。


 見渡せば、火口の縁にぽつんと建つ小屋。周囲に満ちる不気味さの中、その存在はかえって孤独を際立たせていた。


 近づくにつれ、その異様さは、ますます濃くなっていく。ぶくぶくと膨れ上がる赤黒いマグマ。その表面は、本来感じられるはずの熱を一切放たず、見る者の背筋に冷たいものを這わせる。不調和に満ちた一連の光景は、この場所が現実の理から外れた異界であることを否応なく彼女に突きつけていた。


「死後の世界にあるのは、普通お花畑でしょ……」


 彼女は、乾いた笑いを交えてつぶやいたが、その声は風にさらわれ、虚空へと消えていく。返答の代わりに唸る火口が、まるで彼女の強がりを鼻で笑うかのように、不気味な共鳴を響かせていた。


 乾ききった喉はひりつくような痛みを訴えてくるが、彼女はそれを意にも介さない。視線は火口の縁に佇む不気味な小屋へと真っ直ぐ向けられる。全身を貫く疲労と、得体の知れぬ恐怖を振り払うように、一歩、また一歩と足を進める。

 やがて、木目調の分厚い扉の前に立つと、奇妙な魔物の意匠が彫られたノッカーに手をかけた。だが動かない。錆びついているのかと思い、力を込めても、ビクリともせず、まるで意志を持つかのように沈黙を貫いていた。

 両手で掴みなおそうと視線を落とした、その瞬間――ぞわりとした感覚が背筋を撫で、彼女を襲った。


(見られている……)

 その気配に、彼女の背筋がわずかに震えた。

 剣士としての本能が、「確かに何かが見ている」と告げている――。

 疑念はすぐさま確信へと変わる。

 だが、それでも彼女は構わず拳を振り上げ、扉を叩いた。

 その直後、見計らったような間合いで、音もなく扉が開かれるも、出迎える者の姿はない。不審に思い辺りを見回すと、ふいに、足元――いや、地面すれすれの高さから声が響いた。


「おやおや、ずいぶんと外が騒がしいと思ったら、お客様でしたか。これはこれは、お出迎えが遅れてしまい、誠に申し訳ありません」


 エコーのかかったような不思議な声音が耳奥を震わせた。その瞬間、空気が凍りついたように張り詰め、まるで見えない糸に全身を縛られたかのような圧迫感が襲いかかる。

 その束縛に抗うように、声の主へと視線を落とすと、そこには、手のひらほどの小さな存在が床から宙に浮かんできた。


 銀色の髪が、風もないのにゆらりゆらりと揺れる。背中には、光を生み出すような光沢を帯びた、鳥のような羽が携えられていた。現実から乖離した神秘的な美しさが、彼女の目を捉えて離さない。それはまさしく、


「……精霊」


「左様でございます。私は、案内精霊のメモリアと申します。本日は、いかなるご用向きでお越しでしょうか?」


 彼女の呟きを拾い、精霊は柔らかな微笑を返す。だがその瞳には、底知れぬ闇が宿っていた。まるでこちらの心の奥底、隠し通したい感情や記憶に冷たく指を差し入れてくるような視線だった。

 目を見張るような存在感と、礼を尽くした言葉遣い。整ったその外見に反して、注がれる視線には確かな威圧が潜み、精霊の放つ一語一句が、単なる歓迎ではないことを本能に直接告げていた。


 息を呑む音が、沈黙に包まれた空間に響く。精霊の存在は、静かにして圧倒的。そこに立つだけで、空気の流れすら変えてしまうようだった。その張り詰める沈黙の中で、彼女の中にひそむ不安がじわじわと輪郭を現していく。


 ――それでも。

 ――それでも、ここで退くわけにはいかない。


「ここに……『記憶の迷宮』があるんでしょ? 私は、その迷宮に挑みに来たの。


 震える心を内に押しとどめ、視線を逸らさぬまま、言葉に決意を込める。その一声は、覚悟と祈りの入り混じった叫びだった。


 精霊はしばし黙し、値踏むように彼女を見つめた後に、唇の端をわずかに持ち上げて静かに問うた。





「あなたの大切な記憶は、何ですか?」




 その問いは、単なる言葉ではない。

 精霊の声が空間そのものを震わせ、彼女の心に見えない波紋を作り出す。それは、闇の中に隠していた記憶さえも暴き出す言の葉だった。



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