もう一度、きみに出会うから。
この作品はなんのジャンルか悩んだのですが、主人公の出会いや別れ、心情を中心としたストーリーなのでヒューマンドラマに設定させていただきました。
少し暴力表現があります。
燃えるような赤焼けの夕方、俺は君を失った。あの日の太陽のように真っ赤に真っ赤に燃えて、心も体も塵一つ残さず燃えてしまえばよかったのに。
レアナと出会ったのは季節外れの雪が降った寒い春の朝。
孤児院に併設されている教会の前に置かれた小さな籠の中で、君はすやすやと眠っていた。
「うわぁ、赤ちゃんだ!!」
6歳の俺は素直に驚いた。孤児院育ちの俺でも実際に外に捨てられている子供を見つけるのなんて初めてだった。しかも教会前の花壇のまだ蕾のチューリップには雪だって積もっている、こんな寒い朝に。まだ蕾ですらない芽吹いたぼかりのこの赤ちゃんは屋根もない場所にさらされているなんて。そっと赤ちゃんの体に手を置く。暖かい。籠の持ち手も冷え切っていないことにほっとした。揺らさない様に、赤ちゃんを起こさない様に、籠を持ち上げ急ぎ足で運ぶ。
いつも溢れかえるように賑やかな孤児院だが、この時間はまだほとんどの子供たちが夢の中のため静かだった。玄関からまっすぐ廊下を進んだ先にある食堂へと向かう。今朝は玉ねぎのスープだろうか、おいしい匂いと目に染みる感覚がする。広い食堂の奥の厨房で忙しそうに手を動かしているデルタさんを見つけた。いつものように鼻歌まじりで働いているのだろう、体はごきげんに揺れている。
「おはようロデリオ」
俺に気付いたデルタさんはどうしたの?と問いかけるような表情で挨拶をしてくれる。
「ミルク配達に行くところだったんだけど、赤ちゃん拾ったから」
デルタさんは驚きながらも厨房から出てきて赤ちゃんを籠ごと受け取ってくれる、と
「うあぁああぁーーーん!!!!」
盛大な泣き声がした。いつの間にか目が覚めたのだろう。突然の大泣きに驚いたデルタさんは思わず籠を俺に押し返す。
「うぇっうぇっ」
俺の手元に戻った赤ちゃんの泣き声が少しずつ小さくなり、再びそぅーとデルタさんに籠を手渡すと
「うあーーーーーん!!!!」
また大声で泣き出す、というやりとりを3回繰り返したところで、喧騒を聞きつけて現れたシスターに大泣きする赤ちゃんをお願いして、俺は毎朝のミルク配達に向かったのだった。
結局、俺がミルク配達を終えて戻るまでの約1時間、赤ちゃんは泣き続けたらしい。
その日から、雲ひとつない青空のような目のレアナと晴れた日の海の色のような目の俺はほとんどずっと一緒に過ごした。「青い目がお揃いね」とシスターに言われると、嬉しくて歌がこぼれる。レアナは歌が大好きで、俺が歌うと青い目を輝かせてゆらゆら揺れる。俺がそばにいないとすぐに泣いてしまうけれど、そんな時はシスターや年上の子たちが歌を歌うと落ち着いた。
俺たちが暮らす孤児院は国からの援助はあるが、この街の人達にも本当に助けられている。市場のみんなは余った食材を分けてくれるし、もう読まない絵本やまだ着られる洋服などをいただいたりもする。そこらの家よりもおもちゃや絵本がたくさんあるから、近所の子供たちも孤児院にはたくさん集まる。街の大人たちに見守られて、みんなに育ててもらっていると感じる。
俺たちは自分のことが出来るようになったら少しずつ大人に仕事を教えてもらう。感謝は言葉でも伝えるけど、行動でも伝える。たくさんのもらった優しさを俺たちはこれから返していく。みんなにしてもらったようにいつか俺たちも子供たちに与えられるように。そして歌を歌う。みんなにもらった優しさを、ありがとうの気持ちを、みんなと一緒に過ごす楽しさを俺たちは歌に込める。ここに暮らす孤児院の子供たちは歌うことが大好きで、街のみんなも喜んで聴いてくれる。毎週の教会でのミサや教会で開かれるバザー、色んなイベント毎に俺たちは歌う。俺たちの歌をたくさんの人が楽しみにしてくれる。時には隣の街や遠く離れた所からも聴きに来てくれる人がいるほど。
だから、俺たちの日常は歌で溢れている。毎日の歌の練習時間のほかにも、食事の前には短い感謝の歌を歌うし、掃除をするときは掃除の歌を、着替えのときは着替えの歌を、みんなそれぞれ歌う。決まっている歌もあれば、その場だけの歌、個人で好き勝手に口ずさむ歌もある。歌に囲まれていると泣き虫なレアナはごきげんになる。だいたい誰かがなにかしら口ずさんでいるため、結果レアナはいつもごきげんな子供になったのだけれど。
「いててて」
後頭部を引っ張られるいつもの痛みに俺は顔をしかめる。
2歳になったレアナは俺の背中におんぶされて気持ちよさそうに眠っている。後ろで一本に結んでいる伸びた灰銀色の髪を、レアナの手にはちょうどいいのかよく握っている。
早朝のミルク配達に、どうしても着いて来るときかなったレアナを、俺はヒモを使ったおんぶで連れてきていた。もうおんぶするような大きさではないが、朝が早いため眠ってしまうからだ。よくあることなので、ルロ爺さんは優しい顔で受け入れてくれる。
「レア坊もきたのか。ちょうどよかった。今日はいいものがあるぞ」
ルロ爺さんは握った手を俺の前に出し、俺の手のひらに、ころころころといくつかの果実を落とす。
うぇっアスラトの実だ!子供たちが大嫌いなアスラトの実だ!思わず顔をしかめてしまう。直径1cm強の赤い実。艶々として見た目はおいしそうだし、とっても栄養はある。だが、強烈にすっぱい。とくに子供には必要な栄養素がたくさんあるとかで、大人たちはその実を見つけると子供たちに食べさせようとするが、自分たちが子供の頃にされた仕返しとしか思えない。親切でくれた大人を一瞬嫌いになってしまうほどのすっぱい果物だ。
背中でもぞもぞと動く気配がする。なんてタイミングだ。食べるの大好きレアナが目を覚ましてしまった。しかも、レアナはアスラトの実をまだ食べたことがない。絶対欲しがるやつだ。
「あー!それ!それ!」
目当ての果実の名前がわからないため、それと言いながら口をパクパクさせている。
ルロ爺さんに手伝ってもらいながら、背中からレアナを下す。レアナと目線を合わせるようにしゃがみこんでアスラトの実を見せる。
「これはアスラトの実。とっても体にいいけど、とってもすっぱい。食べるか?」
簡単に説明をして実を差し出す。レアナは言い出したら聞かないし、食い意地が張っている。初めてのアスラトの実の洗礼を受けて、一つ大人になるしかない。
小さな手で一粒のアスラトの実をつかみ、一切のためらいを見せずに口に入れる。無知って怖い。すっぱくて泣くぞ。俺はすっぱいって教えたぞ。
「もっと」
レアナはおいしそうに俺の手からアスラトの実をどんどん取って食べていく。全部食べ終わって満足気ににこにこしている。
「レアナ、すっぱくないのか?」
恐る恐る問う俺に、レアナはごきげんで答えてくれる。
「おいしい。すき」
気に入ったようだ。アスラトの実を嬉々として食べる子供なんて、初めて見た。
アスラトの実に打ち勝った者の出現は皆に衝撃を与えた。ルロ爺さんがくれた実が偶然甘かったのではないかと、他でもらった実を食べさせたりと検証した結果、レアナは勇者となった。それ以降、大人たちからもらったアスラトの実はこっそりレアナに献上されることになったのだった。
レアナは5歳になっても風呂と眠るとき以外はずっと俺と一緒だった。どこに行くにもついて歩いて、孤児院の中で俺とレアナはもはやセット扱いだった。今日も俺たちは二人で端切れをもらうおつかいに行った。この端切れは縫い繋げてベッドカバーやテーブルクロスにしてバザーで売るのだ。俺は左手にレアナは右手に端切れを目いっぱい詰めてもらった籠を持っていた。俺の右手とレアナの左手はいつものように繋がれている。俺の指一本を握りこむのがやっとだった手は、まだ小さいながらもぎゅっと手をつなげるようになった。レアナの手は柔らかく、しっとりと暖かい。二人で手を繋いできみの歩幅でゆっくり歩く。
「ねぇロデリオ、今日のお夕飯はなんだと思う?」
レアナの頭の中はだいたいおいしいもので占められている。
「今朝は鶏が卵をたくさん産んだみたいだからオムレツもつくかもしれないな」
オムレツ、と聞いてレアナは目を輝かせる。
「卵がたくさんあったらプリンも作れるかな?蒸しパンも作ってくれるかな?」
卵への期待が止まらない。
「オムレツ♪プリン♪パンケーキ♪ゆで卵にスコッチエッグ♪」
思いつく限りの卵料理を適当なメロディに乗せる。つないだ手をゆらゆら揺らせて今日もレアナはごきげんだ。レアナの明るい茶色の髪もゆらゆらと揺れている。光に照らされて金色に輝き、俺は目を細めた。
卵料理で頭の中をいっぱいにして俺たちは慣れた孤児院にたどり着くと、見慣れない馬車が停まっていた。王都とはいえ、俺たち平民ではあまりお目にかからないような高級そうな馬車だ。かなり高位の貴族のものだと思われる。
「ピカピカ!お客様かな?」
レアナは好奇心に目を輝かせる。平民街の孤児院に不釣り合いな馬車に俺は首を傾げながらレオナの手を引いて中へ入る。
「ただいまー」
「ただいま戻りました」
俺たちはいつも通り元気いっぱいに帰りを告げると、奥から慌てたようなシスターの声が聞こえてきた。
「お待ちください。まずは話をしてから、あっ」
玄関からまっすぐ伸びた廊下の奥の院長室から勢いよく中年の男が飛び出してくる。
ダークブロンドに輝く髪を丁寧に整えた身なりのよい男の明るい青い目はまっすぐにレアナをとらえた。レアナと同じ青だ、と瞬間思う。
背の高い細身のその男の思慮深そうな目は途端に潤みだし、レアナの前に膝をつき、目線を合わせる。
「きみは、きみは、、、」
レアナの明るい茶色の髪をなでる。俺が編んだみつあみを愛おしげに触れた手はそのままふっくらと薔薇色に染まる頬に当てた。
「よく顔を見せておくれ。ああ、ユレリアにそっくりだ」
その男はレアナを宝物のように抱きしめた。
俺の宝物を、抱きしめた。宝物は箱に大事に閉まっておかなければ、誰のものかはわからない。レアナはそのまま北の公爵家の宝物になってしまった。
この国には王家に次ぐ4大公爵家がある。そのうちの北の公爵と呼ばれるノースウェア家に5年前、待望の子供が産まれた。
大切に大切に育てられていたその子供に最初に違和感を抱いたのは家に長く仕えた執事であったという。その理由は、少女がアスラトの実をひどく嫌ったから。子供が嫌がるアスラトの実をなぜかノースウェア家の子は好んで食べてきたことを先祖代々公爵家に仕えてきた執事は知っていたからだ。
それから、執事は見張るように少女の成長を見守った。ノースウェア家の人間は輝く金髪を持つが、その幼少期はほとんどが茶色で、成長するに連れ明るくなり成人する頃には金色に輝き出すのが常であったが、その少女の産まれた頃からの焦茶色の髪の色は変化する様子は無かった。なにより、その容貌があまりに両親に似ていなかった。ノースウェア家の大人は濃淡それぞれ金色の髪にほとんどが青い目を持っており、痩せ型の家系であった。少女の母親も白金色の髪にスミレのような紫色の目をした美しく小柄な女性であった。2年後に産まれた弟は淡い茶色の髪にくりんと大きな青い色の瞳の小柄な子供として成長していた。
少女は硬く毛量の多い焦茶の髪に肉に埋もれた瞼の隙間から見える目は青。腕も足も手も指も子供の可愛らしさとは表現できないほどにふくよかに成長していた。
両親にも弟にも祖父母にも従兄弟にも親戚の誰にも似ていない少女に皆が違和感を覚え始めた頃、執事が少女の父であり当主であった男にアスラトの実のことを告げ、少女が産まれてすぐ一人の使用人が職を辞していたこと、その使用人が公爵家に恨みを持っていたことを伝えた。その使用人が公爵家に産まれた子供を自分が孕ませた女の子と入れ替えたことまで突き止め、公爵家では秘密裏に本当の娘の捜索が開始されたのであった。
その入れ替えられた少女はレアナだった。孤児院に捨てられた時期や身体的特徴はもちろんのこと、その顔立ちが母親である公爵夫人にそっくりだったらしい。他人の空似では済まされないほどに。
それを確かめに訪れた公爵はその日のうちに孤児院に話をつけてレアナを連れて行ってしまった。レアナを拾ってからずっと一緒にいたのに、突然きみは俺の目の前から去ってしまった。お別れを言うこともなく、涙を流す暇もなく。俺の世界から突然きみは消えた。
俺の朝は早い。朝日が顔を見せる前には孤児院を出てミルク配達に向かう。4歳過ぎてからはレアナも一緒だった。もうルロ爺さんはだいぶ腰が曲がってきていて、ミルクを積んだ荷台を運ぶのは俺の役目で、それを各戸の玄関先に走って届けるのはいつもレアナだった。早起きのメグさんにはいつも元気に「おはようございます!」と声をかけていたレアナ。
帰宅するまでに今日の朝食を当てっこをすることももうない。柔らかな白パンをそっと口に含ませてやることも。温かな手を繋ぐことも、俺の後ろで一本に結んだ髪を抱きしめたついでにぎゅっと掴まれることも。彼女の柔らかな細い髪を結ってあげることも。ごきげんに食べ物の名前を適当なメロディに乗せて口ずさむことも。公園の花で冠を作りっこすることも。
レアナが突然いなくなった毎日は、突然色を失ってしまったかのよう。ただ息をして生きていくだけ。
いつものようにミルク配達を終えた後、ルロ爺さんに話があると引き留められた。
「息子が隣の街に住んでいたんだが、子供たちを連れて帰ってくることになった。それで、その」
だいぶ腰が曲がってきていたルロ爺さんが一人で暮らしていることが心配だったからいい知らせだ。もっと笑顔で教えてくれればいいのに、なぜか気まずい表情で言い淀んでいる。
「それでな、息子がこの仕事も引き継ぐと言ってな。でもお前さんさえよかったらこのまま手伝ってくれてもいいし」
若い働き盛りの息子さんなら俺の手伝いなど不要だろう。もしかしたら彼の子供たちが手伝うかもしれないし。優しいルロ爺さんは俺に「もう来なくていい」と言うのが辛いのか。
「わかった。今まで手伝わせてくれてありがとう。息子さんが来るまではこれまで通り手伝うから」
俺はうまく笑えていただろうか。言葉はすらすらと口から出てきて、そのままいつものように別れた。
実の子供が帰ってきて仕事を継いでくれるなんて、いい話だ。俺は俺で、大人ほどではないが背も体もだいぶ大きくなって、ルロ爺さんの手伝いを始めた頃よりきっと色々なことができる。ほかに手伝いが出来ることはたくさんあるだろうし、11歳になった俺はどこかに弟子入りして手に職をつけてもいい年頃だろう。
わかっているのに、俺の頭の中にはルロ爺さんにも俺は必要なくなったことでいっぱいだった。レアナが去ってしまった俺はもう誰にも必要とされていない。
ふいに両親からも捨てられたな、と思い出す。もう思い出すことも少なくなっていたというのに。3歳の頃だから記憶はあいまいだが、俺は両親に捨てられた。父も母も相手に俺のことを託して同じ日に家を出た。残された俺は「母さんと仲良くな」という父の言葉と「父さんを助けてあげてね」という母の言葉を守ることができなかった。仲良くする相手も助けてあげる相手もいなくなってしまったから。どうやって保護されたかの経緯はあいまいだったが、気がつくと今の孤児院に世話になることになっていた。
孤児院での賑やかな毎日の中で、俺はレアナと出会った。俺がいないと泣いてしまう小さな女の子。両親に捨てられた俺は彼女に救われていたんだ。俺の心は彼女で満たされていた。レアナが隣にいてくれたら、今日のルロ爺さんの話もただただ嬉しい報告だっただろう。これから始まる明日に希望を見ていたに違いない。けれど、俺の隣にはもうレアナはいない。俺の明日にも、もうレアナはいない。今頃レアナは立派なお屋敷で両親に囲まれて毎日おいしいものを食べて笑っているだろうか。俺のことを思い出すことなんてあるのだろうか。俺はまだ隣にレアナがいないことに慣れていないのに。
以前まではレアナと行っていたようなおつかいを今日は1歳下のトニオと行った帰り道。
「ロデリオ兄、歩くの遅いよー」
前を歩いていたトニオが振り向いて俺を待ってくれていた。
「悪い」
小走りでトニオの横まで追いつく。年齢が1つしか違わない俺達の身長はほとんど同じで、脚の長さだって似たようなものだから歩幅もほとんど変わらないだろう。
ただ、俺は小さなあの子と並んで歩くことに慣れすぎていて、歩くスピードがとても遅かった。彼女と離れて初めてそのことに気が付いた。
トニオに遅れないように気を付けながら歩いていると、視界の端に自分と同じ年頃の少年二人が入ってきた。二人はあまり清潔とは言えない身なりで、不良と呼ばれる子たちかもしれない。片方の少年が薄汚れた成猫というには少し小さい猫の前足の下の胴を両手で逃げられない様に持っていた。向かいに立つ少年はなにか泥団子のような物を持ち、嫌がる猫の口元にそれを近づけていた。
あれは、鼠退治用の毒団子!
「悪い、トニオ。先に帰ってて」
慌ててトニオに声だけかけて、少年たちの元へと走り寄った。
突然近づいてきた俺に、不愉快そうに少年は視線を向ける。
「何か用かよ」
「その猫、俺が探していた猫かもしれないんだ。見せてくれる?」
とっさに口から嘘が出てくる。
「俺の猫だよ、あっち行けよ」
ちっという舌打ちとともに強い力で右肩を押された。
後ろに2,3歩よろめいてしまうと少年たちは俺をあざけるように笑って背を向けて立ち去ろうとした。
「猫、離せよ」
俺の声に振り向いた少年を睨みつけると、もう一人の少年に右肩を強い力で押されて後ろに一歩下がる。
「離せって」
言葉を重ねて同じように俺も相手の肩を乱暴に押してやる。
「うるせぇんだよっ」
言葉とともに俺の腹に衝撃が与えられ、瞬間息ができなくなった。拳を入れられたのだと気づくまで数秒かかる。それでもなんとか、向かいの少年の猫を抱きしめている手を掴むと、緩んだ隙間から猫が体を翻して地面に着地し、そのまま逃げて行った。
良かった、ほっと息をつく間もなく右の頬を殴られた。
「なにしてくれてんだよっ」
言葉とともに後ろ髪を掴んで引っ張られた。
「あのぅ、道を教えてほしいんだけど」
場違いなのんびりした声を出しながら旅の格好をした男が近寄ってきた。
大人の参入に慌てた少年たちは掴んだ俺の髪から乱暴に手を放し、「ちっ」とか「くそ」とか言いながら走り去っていった。
少し離れたところで様子をうかがっていたらしいトニオが駆け寄って心配そうに声を掛けてくれた。
「ロデリオ兄、大丈夫?」
殴られた腹も頬も痛かったが、我慢して無言で頷いた。
振り向き、声をかけて助けてくれた男性へと返事をする。
「お久しぶりです。スサクさん。どこにご案内しましょうか?」
見知った男は、旅の荷物を抱えて穏やかに微笑んでいた。
「久しぶり、ロデリオ。僕は君を温厚な少年だと思っていたけれど、しばらく見ない間に武闘派になっていたなんて、驚きだよ」
「お久しぶりです。どこが武闘派ですか。一方的にやられてただけなのは見ればわかるでしょう。声をかけてくれて助かりました」
声をかけてきたスサクさんは歌をうたいながら旅をしていて、何年かに一度街に訪れてしばらく滞在していく。2年前に会ったのが最後で、その時はよく孤児院に訪問して知らない土地の話や知らない歌を教えてくれた。
この国では見慣れないスサクさんの濃い緑色の髪が、昇り始めた朝日の光を受けて輝いて見える。俺がいつも見ていたのは薄茶色の、光に当たるとまばゆい金色に輝く髪の毛だった。きらきらと俺を見上げる青い目だった。
スサクさんはしばらく街に滞在するらしい。教会に遊びに行くよ、という言葉を残して宿へと向かっていった。
孤児院に戻ると、ケンカなんてしたことのない俺が顔に痣を作って戻ったためシスターにとっても心配されて、とっても怒られた。
暴力ではなにも解決しない、その通りだと納得したが、でも、この行き場のない心の暗さに暴力はぴったりだな、と思ってしまう。
誰かを殴ったり傷つけたりするのは怖いけれど、俺なんかぺっちゃんこになってしまえばいいんだ。
誰かに暴力をふるうことも振るわれることも出来ない俺は、歌ばかり歌っていた。
みんな揃って歌の練習をする時間以外も、時間が空けば裏庭や空き部屋で一人歌を歌った。
その日も、裏庭で一人、歌っていた。
レアナが好きだった春の花の歌。冬が終わり暖かい風が吹き、色とりどりの花が咲き出す綺麗な歌。
一曲歌い終わると建物の向こうから、ひょこりとスサクさんが顔を出した。
「やあ、ロデリオ。いい歌だね」
この前の約束通り孤児院に遊びにきてくれたらしい。
食堂でみんなで歌を歌ったんだ。と教えてくれる。俺の姿がそこにはなくて探してくれたのだろう。
草の上に直に座っている俺の横に腰を下ろしながら、きょろりとあたりを見回してスサクさんは聞いた。
「いつもきみにくっついていたあの小さい子は?レアナちゃんだっけ?お昼寝?」
ひょろりと背の高いスサクさんにのぞき込まれる。
「レアナは…貴族の娘だったことが判明して親元に帰りました」
事実を簡単に説明する。スサクさんは「それで?」というような表情で俺を見ていた。俺の気持ちを聞いてくれようとしているんだろうか。レアナと別れてから誰にも言えなかったこの気持ちを。少しだけ、いつも一緒にいないスサクさんになら言ってしまってもいいのだろうか。
「帰ったら、貴族様がいて、レアナと同じ色の目のおじさんで、俺の目よりもずっとずっとレアナと同じ色の青い目で、話もできないまま、そのまま連れて行かれてしまった。レアナは俺が見つけて、レアナはいっつも俺にくっついてて、俺の後ろ髪ぎゅうって握って一緒に今日のご飯の歌を歌って、眠る前はおやすみっておでこくっつけあって、朝起きたら俺の足だったり背中だったりどっかにぎゅうって眠い顔しながらくっついてきて、一緒にミルク配達行って、メグさんにおはようって言って、レアナが、レアナがいなくなったんだ」
どうしたんだろう。頭が正常に働かない。これまで口にしなかった、頭の中でぐるぐる考えていたことがどんどん出てくる。
孤児院に暮らす子供たちは15歳になると独り立ちして出ていくし、その前に養子にもらわれたり弟子にもらわれたりして出ていくから、別れるのは慣れていると思っていたのに。
俺はレアナとの別れを受け入れられなかった。そして、身近にいる誰にもそれを伝えることなく、日々は過ぎていっていた。
初めて自分の気持ちを口に出して、俺は自分の言葉に愕然とする。レアナがいなくて俺は寂しい。こんなにも寂しい。レアナに会いたい。身分が違う俺たちは同じ国にいてももう会うことはないだろう。
一気に話したと思ったら急に黙り込んだ俺の横でスサクさんは抱えていた楽器を手に持った。リュートという名前だと以前教えてくれたそれを弾きながら小さなささやくような声で歌った。故郷の歌だろう。空が青くて山があって緑がきれいで、当たり前のことを歌っている。当たり前にそこにあることを称える歌。優しく懐かしいメロディに涙が溢れた。俺の当たり前はレアナなんだ、と思い知る。俺の隣にはレアナがいて朝も昼も夜も、ずっときみがいることが当たり前だったんだ。
当たり前を失ったことを自覚した俺の涙はなかなか止まらなくて、スサクさんはなにか考えるようにしながらも、ずっと俺のそばにいてくれた。
ルロ爺さんの最後の手伝いを終えた今日、俺はなかなか寝付けなかった。何度も寝返りを繰り返したが観念してベッドを抜け出す。どうせもう、明日から早起きの必要はなくなるのだ。まだ起きているだろうシスター達に見つからないようにそっと部屋を出て物置部屋に向かい、そこの天窓から屋根の上に出た。夏の名残を残した生温い風が吹き抜けていく。
白くて柔らかいフルフル揺れるミルクプリンを想像しながら思いついた言葉をメロディに乗せて小さく口ずさむ。
ルロ爺さんの息子さん達がミルクを使った食品を製造、販売していく予定で、そのメインがミルクプリンであることを聞いた時に宣伝の歌をプレゼントしようと思いついたのだ。レアナだったらきっと青い目をきらきらさせてそうしたに違いないから、俺はミルクプリンの歌をつくる。彼女が歌うようにかわいらしく楽しそうなテンポのよい歌を作る。ルロ爺さんにはまだ内緒で、完成したら驚かせる予定だ。できれば販売日初日に孤児院の子供たちを誘って歌いに行きたいと思っている。
さぁっと風が流れて、眼下にある木の葉が揺れた。レアナが登ろうとして落ちて怪我をしてしまった因縁の木だ。木の隣には古いベンチが置いてある。よくあの場所で大人達にもらったアスラトの実をみんなでこっそりレアナにあげた。
俺が育ったこの場所は、どこを見ても何をしていてもレアナを思いだす。外に出てもレアナと手を繋いで歩いた場所ばかり。
ルロ爺さんへの贈る歌が完成したら、俺はこの街を出よう。
大人になったらなにか仕事をして、小さいけれど家を借りて、そこに帰ればレアナが待っていると漠然と思っていた。ここにその未来がないのなら、行く当てなどないけれど、レアナを探さない場所で生きていこう。
殴られた傷は幸運なことに軽くて、お腹に薄い打撲痕が残る程度になっていたが、なんだか骨がきしむように痛んだ気がした。
バザーの合間に孤児院の子供達で歌を歌う。正式な場ではないので季節に沿った歌などを2~3曲。今日歌う秋の始まりの歌の独唱は俺が歌うことになっていた。
秋の恵みと稔りを喜ぶ歌。麦の穂が膨らみ風に揺れる様を、赤く稔る果実への喜びを音に乗せる。声が低くなりつつある成長期、来年にはこの音はもう歌いづらくなっているかもしれない。
歌い終わって舞台代わりの広場の階段から降りるとき、視界の端にスサクさんの姿が見えた。そのまま駆け寄ると、大きな手で頭を撫でられた。
「この前も思ったけれど、きみはいい声で歌うようになったね」
「そうですか?」
自分で自分の歌声はわからない。いつも通り歌っていたつもりだった。
「うん、歌声に深みが出てきた。以前のきみの歌は子供らしく元気で楽しそうだったけど、今は悲しみも寂しさも知っているのが伝わってきた」
スサクさんは言葉を切って、少しためらいながら、でも子供のように目を輝かせながら、俺に聞いた。
「歌をもっと学んでみるつもりはないかい?」
「歌を…?」
歌は俺にとって日常に溢れていて学ぶものではなかったため戸惑う。けれど。
「歌を学ぶとしたらどうすればいいですか?歌を学ぶためにこの国を出ることは叶いますか?」
ここから抜け出せるのなら俺は歌を歌う。なんて不純な動機だろう。きっとこれでは一流になんてなれない。それでも。
「スサクさん、この国を出るにはどうすればいいか教えてくれませんか?」
目を何度も瞬かせてからスサクさんは少し考え込んだ。
「ロデリオ、きみは・・・僕とくるかい?」
今度は俺が目をパチパチと瞬かせる。
「きみの望みを叶えてあげられるかはわからないけれど、旅をしながら僕の家がある国へ行こう。そこで歌を真剣に学んでみるといいよ。今日の続きの明日をきみが楽しみになれるように、歌を歌おう」
明日が楽しみになる日がくるんだろうか。わからない。わからないけれど、ここにいてはきっと俺は立ち止まったままだ。俺の心に明日はこない。
「はい!行きます。どうか連れて行ってください」
勢いをつけて頭を下げると石っころの転がる地面が見えた。
頭を再び撫でられる。今度はわしゃわしゃと少し乱暴に。
「行こう。明日へ。院長先生には一緒に挨拶に行こう」
緑色の優しい目を見上げる。森の奥のような深い緑の優しい目が弧を描いている。
俺はこの日からスサクさんを師匠と呼ぶことになった。
それからの毎日は慌ただしく過ぎた。
師匠と一緒に挨拶に行ったときの院長先生は少し呆れていたようだ。
「あなたは、穏やかだと思っていたのに急にケンカで痣を作ってくるし、今度はここを出て旅に出るなんて言い出して」
ふぅっと大きなため息をついた。
「ここを出ても、いつまでもここはあなたの家です。帰りたくなったらいつでも待っています。私たちはここであなたの幸運を祈っています」
ここを巣立っていくことを決めた子供たちに院長先生がいつも贈る優しい言葉だ。
「ありがとうございます。俺もみんなの幸運を心より祈っています」
深く頭を下げる。
ここはいつも賑やかで優しかった。温かった。自分の勝手で俺はこの包まれていた世界から抜け出す。心から、先生たち、シスター、子供たちの幸運を祈ろう。
旅立ちの荷物を持ったままルロ爺さんの家に立ち寄る。家の前で小さな屋台のような店を出して、今日が初めてミルクプリンを販売する日だった。
すでにほかの子供たちが看板をだしたり商品を並べたりと手伝っている。
ルロ爺さんとはもう別れの挨拶は済んでいる。子供たちと目が合うと声を合わせてミルクプリンの歌を歌い出す。元気いっぱいに。レアナがおいしいものを食べた時の幸せそうな顔を思い出しながら。通りを歩く人たちが気づいて店へと寄って来てくれた。子供たちはそのまま歌を繰り返し歌い、ルロ爺さんとその家族はミルクプリンの説明をしたり売ったりし始める。
試食させてもらったミルクプリンはとってもおいしかった。きっとこのまま商売繁盛となることを祈って、ぺこりと頭を下げる。
少し離れて待ってくれていた師匠のところへ行き、そのまま街を出る。生まれ育ったこの街から、俺は今日出て行く。
師匠の馴染みの土地や見知らぬ場所で、数日宿を取って時々歌を歌ってお金を稼いだ。そして、色んな人に出会った。
茶色や金色の髪に青系から茶系の目が多い自国を出ると、濃い色の髪も薄い色の髪も目も、褐色の肌も黄色い肌の人も、色んな人がいた。
言葉が違ったり、食べる物が違ったり、大切な物が違ったりはしたけれど、みんな同じように歌を歌っていた。
小さな頃に聞いて忘れられなかった、頭の片隅にずっとあったその歌が生き別れとなった兄妹の再会に繋がったと話してくれた人がいた。
酒場で出会ったおじさんは大好きだったけれど身分違いで叶わなかった恋を思い出すと、歌を聴いてほろりと泣いた。
災害が起こったとき、みんなを勇気づけてくれる歌があったこと、みんなでその歌を歌って励ましあったことを聞いた。
赤ちゃんが泣けば子守り歌を歌うし、酒場で盛り上がれば流行りの歌を歌う。みんな歌を歌うし、聞くけれど、みんな同じではないんだ。同じ歌でも楽しいと感じる人も喜ぶ人も、もしかしたら悲しむ人もいる。それぞれの感情で歌って聴くんだ。そして生きていくんだということを考えた。
まだ自分の気持ちはよくわからないけれど、歌に精一杯の気持ちを込める。
きみに出会えた喜びを、きみと過ごした輝く日々を、きみと別れた悲しみを、心から歌に乗せる。
口先だけではなく、お腹の底から声を出して、誰かになにかが伝わるように。
ずっと同じ街で慣れた孤児院にいては気づけなかった。たくさんの人に出会ってたくさんの知らないことに出会って、考えて落ち込んで喜んで泣いて怒って悲しくなって大笑いして、それでも俺の心はいつもレアナに語りかけていることに気づいた頃、師匠の家があるという国へ着いた。
その国の王都はきらびやかだった。色とりどりの花があちこちに植えられ、道行く人々の装いは華やかで、お店の看板も大きく賑やかな彩りで、色んな色があちこちに溢れて歩くたびにきょろきょろと目移りしてしまう。
そしてたどり着いたのは貴族街にある屋敷の一つだった。
「え?師匠、ここの家に用事があるんですか?貴族様のお屋敷ですよ」
躊躇することなく屋敷へと繋がる門へ入ろうとする師匠を慌てて止める。俺にとって貴族は下手に関わると厄介なことになる相手であったから。
けれど、きょとんとした表情で俺を見る師匠は言った。
「僕、貴族なんだけど、話してなかった?」
聞いてない!絶対聞いていない!!!!
俺にとっての師匠は歌を歌いながら旅をする隣国の人で、深い森のような緑の髪と目で、いつも穏やかに飄々としていて、あれ、師匠がこの国の出であること以外、ほとんど師匠のこと知らない。いつもにこにこしながら人の話を聞いて上手に相槌を打ってくれていて、自分の話をあまりしない人であった。
屋敷に入ると枯れ枝を思わせる男性が師匠を坊ちゃんと呼び息つく暇もないほど早口で捲し立ててきた。
「坊ちゃんはまたふらっと姿をくらまして!どれだけ心配をかければよろしいのですか!?あぁ!また御髪のお手入れを怠っておりましたな!?式典まであと3日でございますよ。わたくし、坊ちゃんが病気であるという偽証を行う寸前でございました!この老いぼれの寿命を縮めるおつもりですか!?あれ、こちらの少年は・・・?」
白髪混じりの焦げ茶色の髪と目の痩せて骨ばった高齢のその男は、ジスと言ってこの家の家令であるとのことで、師匠は俺を隣の国から連れてきた弟子として紹介してくれた。
師匠はこの国の伯爵家の出で、自身は子爵の身分であること、3日後に開催される王の生誕祭で歌を披露する予定であること教えてくれた。
続いてジスさんが師匠がどれほど素晴らしい歌い手であるか、数々の式典や催事で歌を披露することがいかに名誉であるか、師匠は幼い頃から抜きんでた歌の才能があり、それ以上に絶え間ない努力をしたこと、さらに歌に対する好奇心も非常に強くまだ知らない歌を求めてふらふらと旅に出て行くこと、それが自分にとってどれだけ心配であるかを、早口で話してくれる。
毎年王の誕生日に祝われるその祭りまでの3日間はあっという間に過ぎた。
その日は、俺も不釣り合いな煌びやかな衣装を着せてもらい、まるで貴族の子息のような見た目にしてもらった。高名な歌い手である師匠の弟子として、それなりの格好をしなければならないらしい。
師匠が歌う場所の近くに控えて見学させてもらえることになったので、とても緊張していた。自国では王都とはいえ孤児院で育ち、時々慰問に訪れる貴族の方々とほんのひと時触れ合う時間があったくらいだった。それがまさか、隣国に来てすぐに王家主催の祭りに関わるなんて、信じられなかった。
王の誕生日は王都全体で祝われる。街中が色とりどりの花で飾られ、大小の国旗がいたる所に掲げられている。王城では夜に盛大な夜会が開催されるが、平民たちは昼間から広場に広がる屋台で楽しめるらしい。
その始まりは王城の前の美しい広場を開放しての式典から始まるそうだ。
初めての王城の豪華さにも驚いたが、式典会場の人の多さには本当に驚いた。今、目の前にいる人間の数だけで、俺がこれまで生きてきて見てきた人数よりも多いのではないだろうか。
石造りの数段高くなった舞台を挟んで左側に王族の方々。右側に来賓である他国の王族の方々。そこを円にして広がるように貴族の方々の席が準備されていた。日差しを遮るように布を張られたその一帯の向こうには椅子も用意できないほどたくさんの貴族が控えていた。
それらを正面にして、たくさんの平民たちが王を祝おうと広場にひしめき合っている。
各国の代表、国の主だった貴族からの祝いの言葉を受け、いよいよ師匠の出番となった。貴族の後ろの席で待ち構えていた楽団が華やかな音色を紡ぎ出す。そこに軽やかな声が乗せられる。この国を代表するとされる5人の歌い手の中に師匠はいた。この国の豊かな自然を称え、絶えまぬ人の努力と繫栄を称えた歌を。楽団の音色に涼やかな女性の歌声、重厚な男性の歌声がかさ重なり合って紡ぎ出される音楽はなんて、なんて美しいのだろう。痺れるような感動が体中を駆け巡る。
歌が終わって、ほぅ、と感動のため息を一つついたが、楽団はそのまま次の曲を奏でだした。俺の国でも誰もが知っている誕生日の祝いの歌だ。
なんということだ!歌い手だけではない、王族も貴族も平民も、そこにいる王以外の人々が歌い始めた。なんて壮大なんだ。耳も体も心も震える。感動で目に涙が溢れた。こんな素晴らしいことがあるなんて。ここはなんて場所だ。歌で王を祝う。国全体で。おそらく、ここに来られない者たちも、今はきっと手を止めて足を止めて、王への祝いの歌を歌っているだろう。
広場が、この国が、歌声で溢れた。俺の心も体もいっぱいになって叫び出しそうなほど興奮していた。歌を歌うことで過去を、レアナを忘れようと考えたけど、歌はそういうものじゃない。歌を歌うということはきっと、俺の人生そのものになるんだ。ああ、この素晴らしい感動をレアナにも伝えたい。この壮大な歌の洪水をレアナにも聞かせてあげたかった。
俺が興奮している間に歌は終わり、式典は終了となった。
この後は王様たちは姿が見える豪華な馬車に乗り、大通りでパレードが行われるらしい。
「顔真っ赤にしてどうしたの?」
控えに戻ってきた師匠が笑いながら問いかける。あまりの興奮に血が昇ってしまったらしい。恥ずかしくて余計に顔が熱くなるのが自分でもわかった。
控えの場所を隠すための布が開き光が漏れた。大柄な男の人が入ってきたようだ。
「スザク、見事だった!相変わらずいい声をしているな。」
師匠に気安く声をかけたその人は、師匠より少し年上だろう男の人。背は高く、引き締まった体つきに豪奢な衣装、白い肌に金色の髪に橙色の目の、王様だった。
えぇ!?声を出すのは我慢できたが、表情には出ていただろう。先ほどまで式典のど真ん中にいた王様が目の前にいる。しかも師匠に話しかけてる。
「お褒めにあずかり光栄です。陛下」
師匠は慌てることもなく会話をしている。というより、わりと親しそうに旅の話などをし始めた。
自由に付近の国へ足を運ぶ師匠を王様はなんだか羨ましそうにしているようにさえ見える。
「こちらの少年がロデリオです。わたしの弟子として育ててまいります」
話の流れで師匠が俺を王様に紹介してくれた。
旅の間に師匠が教えてくれた膝を折って頭を下げる貴族の挨拶をする。遊びで貴族ごっこをしていると思っていたけれど、さりげなく師匠は色んなことを俺に教えてくれていたのだろう。
「ご紹介にあずかりましたロデリオと申します」
「スザクは面白い男であろう。よく学びよく生きろ」
王様は優しく目を細めて言葉をかけてくださった。
「では、そろそろ馬車の準備も整っただろう。スザク、ロデリオ。また良き日に」
奥から王を呼ぶ声が聞こえると、残念そうに王は去っていった。
「驚いたかい?」
師匠が俺の顔を覗き込む。
それは、もう、驚いた。
「王様と話をするなんて、考えてみたこともありませんでした」
ふふふ、と師匠は薄く笑って休憩用の椅子にゆっくり腰かけた。
「僕の生まれた家は伯爵家だったけれど、目立った功績や能力があるわけではない数ある伯爵家の一つで、当主でさえ、王と話すのは夜会での挨拶くらいなんだよ。でもね、この国は美しいもの綺麗なもの、一般的に芸術と呼ばれるものが尊ばれている。音楽もその一つだ。ロデリオ、僕はこの身一つで子爵という身分をいただいたんだ」
森の奥深くのような濃い緑色の目で師匠が俺をみる。
真剣な、それでいて試すような面白がっているようにも見える。
「きみはこの国で、なにを望む?」
師匠がこの国に俺を連れて来てくれた理由を、俺は悟る。
ここで俺は認められれば貴族になれるかもしれない、この国の王と言葉を交わすことも、他国の公爵家の娘と出会うことも可能なのかもしれない。
そんな大それた未来を、夢見る気があるのかと、師匠は俺に問いかけているのだ。
「俺は、レアナにもう一度出会います」
満足気に師匠は笑った。いいね、と呟いて、頭を撫でてくれた。
翌日からジスさんからの貴族教育と家庭教師からの基本知識の勉強、師匠からの歌のレッスンが地獄のように始まることを俺はまだ知らない。
俺の中にあるのは、もう一度きみと出会いなおすこと。
きみに出会える男に俺はきっとなって見せるから、もう一度俺と出会って、レアナ。
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