11月30日(木)
見上げると、そこには汚れを知らない純白な雪が舞っていた。
寒く凍えそうな空の下、私は僅かな暖を求めて自販機で缶コーヒーを買う。冬の缶コーヒーはどうしてこんなにも人の身も心も温かくするのだろうか。私はコーヒーに口を付けることなく、手にあてがい、暫く暖を取っていた。
けれど、あれほど温かかった缶コーヒーが手の中で現実離れした速度で冷めていく。私は身の危険を感じ、缶コーヒーから手を離そうとする。けれども、缶コーヒーは私の中で離れることなく、むしろ凍り付いたように私の手にぴたりとくっついている。
私は恐怖に声を上げようとした。だけど、声は上がらない。いつの間にか私の手だけではなく、体も、声帯も、そして心までも凍らせていた。
私は抵抗することなく、全てを受け入れた。
どうせ抵抗したところで、私を待っているのは、過酷な運命であり、人として絶対に逆らうことの出来ない自然の摂理だ。
そして、私の世界から色が――。
「――ッ!」
宙に体が浮かび上がる感覚を得て、私は勢い良く体を起こした。
ここは、どこだ。頭が追い付かない。やけに心臓の鼓動が五月蠅く聞こえる。
私は胸に手をやりながら、ゆっくりと息を吐いて、辺りを見渡した。
ノートパソコン以外何も載っていない机、数冊だけ綺麗に本が並べられている本棚、その隣には制服とコート、数着の洋服しか掛けられていない寂しいクローゼット、そして光を遮るための無地のカーテン。娯楽という言葉とはまるで縁のない、必要最低限のものしか備わっていない無機質な部屋だった。
「……私の部屋、か」
ようやく私は現実にいることを認めた。私の心に安堵が押し寄せてきて、ほっと一息吐く。
そうか、あれは夢だったのか。
私のトラウマを抉る夢。この夢を見た理由は――、
「っ」
思考の海に入ろうとする私の耳に、軽快な電子音が鳴り響いた。本能で拒絶したくなる煩わしく嫌な音だ。私は布団から出て、目覚まし時計のアラームを止める。
時刻は八時、どうやら夢によって目覚ましよりも少しだけ早く起こされたようだ。
カーテンを開け、朝の日差しを浴びる。更に目を覚まさせようと、窓を開けて新鮮な空気を部屋の中に入れた。
「――さむ」
空気の冷たさに身震いをし、反射的に窓をぴしゃりと閉めた。
十一月も今日で最後となり、今年もあと一か月。本格的に冬も押し寄せて来る季節だ。気温はいつもよりも寒く感じられた。
***
私立蓮見学院高等学校が運営している学生寮は、蓮見学院の敷地の隣に位置しており、徒歩五分も掛からずに自分のクラスに辿り着くことが出来る。蓮見学院の隣にあるにも関わらずに五分も掛かってしまうのは、蓮見学院の敷地内があまりにも広いせいなのだが、電車で通学して来る学生に比べたらあまりにも恵まれている環境なので文句は言えない。
そんな私の朝の一連の流れは決まっている。
朝八時に起きて、各フロアに備えられている洗面所で顔を洗い、自分の部屋で着替える。その後、学校の荷物を持って下の食堂に行き、塚原さんが準備してくれた朝食を食べる。そうしていれば、始業五分前になり、丁度いい時間になる。
広い蓮見学院の敷地の中を歩く中、同年代の男子や女子が各々ふざけ合いながら校舎に向かっていく姿がある。私はマフラーに顔を埋めながら、なるべくそちらに視線を向けないように歩いていく。次々と同じ制服を着た生徒たちが私を追い越していくが、それでも構わなかった。
下駄箱まで辿り着くと、上履きに履き替えて、五階建ての校舎の真ん中にある二年一組を真っ直ぐに目指す。
階段を昇り三階まで辿り着くと、一番近い教室が二年一組になる。しんとした廊下、それに比べて教室の中は、男女交えた声で騒然としていた。まるで廊下と教室の中が違う世界のようだ。私がどちらの世界に居続けたいか、言うまでもない。
私が教室の扉を開けると、クラスメイトの視線が開かれた教室の扉に集中した。あれほど騒然としていた声も、スイッチ一つで切り替わるようにぴしゃりと止んだ。
しかし、教室に現れたのが私だと気付くと、皆何事もなかったかのように再び騒ぎ出す。相手は教師ではなく、同じ学生なのだ。彼らにとって、静まる理由はどこにもない。
注目を失った私は、誰とやり取りをすることもなく、淡々と窓際の後ろから三番目の席に座る。
そして、席に着くと同時に始業のベルが鳴り、担任によるホームルームが始まる。
これが私の朝の流れだ。
授業の時は、私は眠ることなく真面目に教師の話を聞く。教師の話の中で重要な話があれば、ちゃんとメモを残すようにしている。きっと教師達の中での私の印象は、寡黙な優等生となっているだろう。
けれど、今日の私の授業態度は少しだけ違っていた。
私は教師の声に耳を傾けず、頬杖をついて窓の外に目をやっていたのだ。
青い空に、生い茂った緑が窓の外には広がっている。この寒空の下、校庭で体育の授業が行なわれているのだろう、見ることは出来ないが楽しそうな声だけは私の耳に聞こえて来る。私には縁もゆかりもない音だ。
私は現実から自分の世界に籠るように、目を閉じた。
暗くなった世界で思い浮かんで来るのは、嘉神明人とやり取りを交わした昨日のことだった――。
「じゃあ、カガミプロジェクト第一弾の発表をさせてもらおうかねぇ」
私が契約書にサインをした直後、嘉神は何かを企んだような顔をしながら言った。ニヤニヤとだらしなく浮かべるその表情が、どうも憎たらしく感じた。
私は一言も語らないことで、嘉神に先の言葉を促す。何の反応を示さない私に、嘉神はつまらなそうに一度だけ肩を竦めると、
「では、発表するとしようか」
嘉神は真剣な表情へと切り替わった。
その雰囲気に、私は自然と息を呑んだ。今更ながら、私は少しだけ緊張をしていることに気付く。何となく大したことはないと高を括っていたが、無理難題を押し付けられる可能性だってあるのだ。
嘉神は私の心境を知ってか知らぬか、ゆっくりと腕を上げ、指を突き付けた。眉間にツンとした嫌な感覚が走る。
そして、
「カガミプロジェクト第一弾。自ら、誰かと会話をしなさい」
「……はい?」
私は嘉神の言うことを呑み込めず、思わず聞き返した。
「今、なんて言ったの?」
「自ら、誰かと会話しなさい」
「……」
どうやら聞き間違えではなかったようで、私は開いた口が塞がらなかった。呆れてものも言えない、という言葉をこの時初めて実感した。
あれだけ笑顔を作るとか夢を語っていた割に、やらせる課題が誰かと話すだけだなんて、どれほど程度が低いのだろうか。
「……あんた、本気で言ってるの? そんな話すだけなんて、誰でも出来るでしょう。もしかして私のこと馬鹿にしてる?」
「いや、馬鹿になどしていないさ。この意図は――、まぁ説明するより実際にやって体感してもらった方が早いかな」
嘉神はしたり顔で頷いている。そんな嘉神を、私は冷ややかな目で見つめていた。
しかし、こんな単純で当たり前のことで、どうやって笑顔を取り戻すと言うのか。
これでは、カガミプロジェクトに取り組みたくないのに、自然とクリアしてしまう。
考えを張り巡らせる私に、嘉神は人差し指を上に向けると、
「会話する相手は君が話したいと思った相手が好ましいね。それと、まぁ出来るなら同年代。で、肝心の期限なんだけど――、とりあえず一週間に設定しておこうか。いや、でも話すだけだから、ここまで時間は要らない……かな」
嘉神はにっこりと笑った。嘉神の笑い方に話し方、それはまるで、私のことを子供と同等に扱っているようだった。
どうやら私は馬鹿にされているらしい――。
「――ォさん」
突如、誰かの声が頭の中に割って入った。脳内で嘉神に向けて罵倒をしていた私は、呼ばれた声にゆっくりと目を開けた。
「スノーさん、テスト前に寝てるなんて随分余裕だね。どうでもいいけど、これ早く回してくれないかな」
「……」
私の目の前には、訝しそうに視線を送るクラスメイトの女子がいた。その手には、プリントの束が握られている。
そこで、私は理解した。今日の二時間目である数学の授業で小テストを行なうと、数学の教師が前回の授業で確か言っていた。ボーっと考え事をしている内に、どうやら一時間目の授業が終わってしまっていたらしい。
私は静かに前の席に座っているクラスメイトからプリントを受け取り、自分の分の問題用紙と解答用紙をそれぞれ一部ずつ抜くと、後ろの席に回した。
前の席に座っているクラスメイトが、隣にいる男子生徒と何かこそこそと話し合っているのが目に映った。何を言っているかは、あらかた予想がつく。けれど、そのことに対して言い返してやろうという気力はなかった。そもそも裏で何かを言われることは、蓮見学院に入学してから随分と慣れたものだ。
私は再び頬杖をついて、溜め息を吐く。
「――よし、全員にプリント回ったな。時間は今から二十分。――それでは、はじめ」
けれど、その溜め息は、数学教師の開始の合図とクラスメイトによるプリントを裏返す音によってかき消された。
高校二年の冬に差し掛かる大事な時期だ。この小テストの出来によっても、来年の大学受験に向けたモチベーションにも多少なり影響が出て来るだろう。だから、クラスの殆どが真剣にテストに取り組んでいる。
教室中に机とペン先がぶつかる音が響き渡っていく。まるで、今まで空白だった未来に、必死に自分の未来を書き記していくようだ。
けれど、私には、彼らのように将来の夢も希望もない。
クラスの皆と一拍遅れて、プリントを裏返した。私の目に飛び込んで来た問題は、正直なところ見れば解けるくらい簡単なものだった。
溜め息交じりに周防優希乃と自分の名前を書いてから、問題に取り掛かる。私のペンは止まらない。望んでもいないのに、すらすらと答えを導き出せてしまう。そして、制限時間の半分も掛からずに、テストが終わってしまった。まだ教室中に、小気味よい音が響いている。
教室から目を背けて、窓の外を見る。
きっと今回の数学の小テストも満点だ。しかし、だからといって、私は普通の人のように喜びもせず、達成感を味わうことなく当然のこととして受け止める。どれだけ良い点を取ったところで、どれだけ紙に文字を書き連なったって、私の未来は明確に浮かび上がらない。私の人生も、公式を当てはめるだけで簡単に答えが出るものならば、どれほど楽に生きられただろうか。
窓の外の景色は、私の心とは反して清々しいほどに晴れ渡った青い空が広がっていた。
***
それからいつものように授業を淡々と受けて、昼休みに入る。昼休みになると、私は人気の少ない図書室付近でこっそりと菓子パンを食べ、残った時間は図書室で本を読むのが習慣だ。図書室で過ごす時間が学校の中で唯一心休まる時間であり、一番好きな場所かもしれない。
昼休みが終わる時間に近づくと、私は重たい足で教室に戻り、塞いだ心で自分の席に座る。授業が始まるまで、教室の喧騒をBGMにしてぼんやりと窓の外を見つめる。午後のチャイムが鳴ると、急いで教室に戻ろうとする男子の姿が窓から見えた。どこの誰だか知らないが、いつも同じ顔触れが慌てているように感じる。
午後からの授業は、周りが睡魔と闘っている中、私は頬杖を突きながら教師の話や黒板の板書を、適度にノートに写していく。午後の授業は私一人のためにあるのではないかと思ってしまうほど、クラスメイトは皆眠っている。彼らの怠けた姿を、教師は一度も咎めることはしなかった。
そして、ようやく放課後になると、私は誰の関心を集めることなく、そそくさと教室を後にする。私が向かう場所は、大抵図書室か自分の部屋だ。誰かと遊びに行ったことは、高校生になってから一度もなかった。
ただ淡々と、波風立つことなく時間が流れていく。面白味もないが、大きな問題も起こらない平凡な日々――、これが私の日常だ。
同じことを、もう一年半以上も一人で繰り返し続けている。
亡くなった祖母が今の私を見たら、きっと悲しむことだろう。