11月29日(水)②
「私はスノーちゃんを罰しようなんて、これッッぽっちも思っていませぇん」
嘉神は目の前で手を交差させて言った。真剣だった雰囲気は一気に霧散して、異質な空気だけが留まる。
私がこの場に呼ばれた理由――、それが根こそぎ奪われてしまった。
「……はぁ? なら、なんで――」
「スノーちゃんは、この手紙を読んでここに来たんだろう?」
間の抜けた私の声を遮るように、嘉神は紙を見せつけた。それは私の元に届いた手紙と全く同じものだった。私は思わずコートのポケットに手を入れる。当然、紙の感触が手に伝わる。
「凍り付いたその表情を笑顔で解かし、毎日明るく鏡の前で本当の自分に出会ってみませんか?」
嘉神は手紙に書いてある文字を、私に見せつけながら暗唱する。視覚と聴覚から、忌々しい言葉が私の心をどしんと襲った。
今自分がどんな表情をしているか分からない。けれど、私の全身からは、滝のように冷や汗が流れていた。私は動揺を悟られないように、目の前にいる嘉神を強く睨みつけた。
しかし、当の本人は私の様子など気にすることなく、
「周防優希乃さん。あなたが本当の笑顔を作れるように、私は全力でサポートしよう」
追い打ちを掛けるように、執務室全体に響き渡るように言った。ここで嘉神と顔を合わせてから、一番まともな声音だった。
「――は?」
自分でも驚くくらい間の抜けた声が私の口から漏れ出していた。
「さぁて、まずはスノーちゃんが了承したという証拠を残すために、書類にサインでもしてもらおうかな。なずな君、書類を準備してもらってもいいかい?」
「はーい。えっと、確かこの棚に……」
唖然とする私を置いて、事態はとんとん拍子に進んでいく。私の態度をどう捉えればそういう思考に至るのか分からないが、どうやら嘉神は私がこの話に快諾していると判断したみたいだ。
「あ、ありました! 室長、これですよね」
「ありがとう、なずな君。では、スノーちゃん。早速だが、この紙に署名をお願いしてもいいかな?」
私の前に差し出された書類。そこには、【私、――は嘉神明人が行なうカガミプロジェクトによって笑顔を取り戻すことを、ここに誓います】と書かれていた。良く言えば達筆、悪く言えば乱雑に書かれた文字は、読むことに一苦労した。恐らく「私、」の後にある――の箇所に、私の名前を書けばいいのだろう。
嘉神と月橋は期待の眼差しを惜しみなく私に当てている。
この人達は、一体どれだけお気楽思考なのだろうか。今まで自分の思い通りに人生が進まなかったことなんて、一度もないのだろう。すべては自分の願う通りに進んでいく――、そう信じ込んでいるタイプに違いない。
私は溜め息を吐くと、
「あのさ、私が本当にここにサインするなんて思ってるの?」
ここまで何も言わずにズルズルと来てしまったが、もう限界だ。
「え、ええ! スノーちゃんがこの場所に来たのって、笑顔を取り戻したいからじゃないの?」
私の反応が本当に予想外だったらしく、嘉神は驚きの声を上げている。傍にいる月橋も大きく開けた口を、左手で覆い隠そうとしている。噓でしょ。その彼らの表情が、更に私の神経を逆撫でしてくる。
「常識的に考えて、そんな怪しいものに本気で頼ろうとする人なんているわけないでしょ。私がそもそもこの洋館の前まで来たのは、あんたに一言文句を言いたかったからよ」
「文句……?」
「そう。あんたの行き当たりばったりのくだらない手紙のせいで、蓮見学院の生徒がみんな困ってるの」
嘘だ。誰も困っていない。むしろ、蓮見学院の生徒はこの状況を楽しんでさえいる。
「本当の笑顔を取り戻すサポート? 笑顔の基準なんて、皆違うんじゃないの? 本当の笑顔なんて誰にも分からないし、その人にとっては繊細な問題でしょ」
そうだ。誰にも触れて欲しくない問題だ。上っ面だけの言葉を、私に聞かせるな。
「そもそも何、カガミプロジェクトっていうダサい名前? そんなくだらない幼稚なものに頼れっていう方が、無理があるでしょ!」
一度水面に石が投擲されると暫しの間は波紋が止まらないように、私の心は荒立っていた。自分自身でも止めることは出来ない。
「だから、あんたのやろうとしていることは、全ッ部! 余計なお世話! あんたの勝手な価値観を、人に押し付けようとするな!」
私は次第に語気が強くなり、言い切った後には肩で息をしていた。息は切らしているけれど、私の胸の内は少しだけスッキリとしている。手紙を見た時から、私は相当の鬱憤を抱えていたようだ。
「――そうか」
私の息遣いだけが荒々しく響く執務室に、嘉神の妙に落ち着いた声が静かに割って入った。ようやく目の前の変人に、言葉が通じた。
「……分かってもらえたようで、よかったわ。私の話は、これでおしまい。だから、もう私は帰らせて――」
「じゃあ、君自身が心からの笑顔を出せるようになれば、続けてもいいってことかな?」
「は?」
本日何度目になるか分からない、心からの疑問符。私の言葉を聞いて、この男はどうしてこのような思考に至るのか、全く理解が出来なかった。
まるで私の心境を見透かしたかのように、嘉神は不敵な笑みを浮かべると、
「だって、君はこのカガミプロジェクトを行なうことで、本当に笑顔を取り戻せるか確証がないから、わざわざこの場所まで文句を言いに足を運んだのだろう? 誰だって、確証のないことは怖いからねぇ」
うんうんと頷きながら、言葉を紡いでいく。
「だから、君がカガミプロジェクトを試して、心の底から笑顔を浮かべることが出来るようになれば、君という存在がカガミプロジェクトが成功するという生きた証拠となるんじゃないかい?」
私はこの男に返す言葉が何も浮かばなかった。何を言えば嘉神を言いくるめることが出来るのか分からない。
なぜここまで笑顔に拘るのか。
なぜここまで私に拘るのか。
「――私はね。一人でも多くの人を笑顔にしてあげたいんだ」
言葉を失った私に対して、嘉神は遠慮という言葉を知らないのか、口を噤むことはしない。
「私は自分自身で、笑顔の底知れない力を体験したんだ。人間には、どうしても抗い難い絶望に陥る時がある。独りで、深い深い悲しみの海の底に溺れてしまう時だってあるだろう。けれど、そんな時に、誰かの笑顔を目にすれば、沈んでいた心だって自然と軽くなる。逆も然りだ。落ち込んでいる人の前で笑顔を見せれば、その人も少しずつ笑顔に変わっていく。世界中に住む人が隣にいる人に笑顔を分け与えることが出来れば、この世界で独りになる人はいなくなる。そう信じて、私は行動している」
聞いてもいないことを語る嘉神の表情は、今までに見たことのないほど嬉々としたものだった。一回り以上年齢は離れているはずなのに、まるで私よりも幼い少年のように、純粋で、あどけない。隣で嘉神を見つめる月橋の顔も、微笑ましいものを見守るみたいに、今まで見た中で一番優しいものだった。
嘉神を見ていると、誰かの顔が一瞬だけ脳裏をよぎった。昔、誰かから似たような言葉を聞いたことがある気がする。あれは何の場面だったか――、その時のことは鮮明に思い出せそうにない。
続けて、嘉神は語る。
「私は悲しみの雨に打たれる人に、笑顔という傘を差し伸べてあげたい」
だから、嘉神はカガミプロジェクトと称して、人々を笑顔にしようと考えている。
しかし、そんな嘉神の言葉を、夢を、私は暴論だと受け止める。何故なら、嘉神の夢のせいで、実際に私は怒りを抱き、笑顔から更にかけ離れてしまっているのだ。否、元々私に笑顔などない。私の心は、あの日から凍てつくばかりだ。
嘉神が語った夢物語のおかげで、かえって私は冷静さを取り戻すことが出来た。
嘉神の夢を切り捨てるように冷酷な表情を浮かべると、
「……残念だけど、私はそういうの興味ないから」
「本当にそうなのかい? 普通の人なら、義憤だけではこんなところまで気味悪がって足を運ばないと思うんだ。ましてや、スノーちゃんみたいな女子高生くらいの年齢なら、なおさらね」
嘉神の言葉に、心臓が大きく弾んだ。全身を巡る血流が、大きく乱れる。
実際、嘉神の発言は的を射ている。蓮見学院の中でカガミ相談所まで足を運んだ人の話を耳にしたことはない。
嘉神は私のことを真っ直ぐに見つめていた。まるで、その瞳で私のすべてを見透かされているかのような感覚だ。
「君は心の奥底で願っているんじゃないのかい? ――笑顔になることを、ね」
何度言っても、何を言っても、嘉神は引き下がらない。どうしても私を笑顔にさせたいようだ。だけど、私はそんなもの望んでいない。どう言えば嘉神を諦めさせることが出来るだろうか。
私は目を瞑り、しばし思考に耽る。私に切れる残されたカードは……。
そして、一つの考えに至り、ゆっくりと目を開けた。
「――私には呪いが掛けられているの。この口元が上がるなんてこと、絶対にあり得ない」
これは冗談半分、本気半分だ。
もちろん、呪いだなんて現実的にはあり得ない。しかし、私は笑顔を見せようとする度、あの光景が――、亡くなった祖母とのやり取りが思い浮かぶ。そして、その時の祖母の言葉が、私が笑顔を作ろうとする度、私の心を凍て殺した。何度も何度も凍らされ、終に私の表情筋は動くことなく、凍って固まった。まるで呪いだ。
だから、私はもう笑顔を失い感情を凍て殺すことと引き換えに、あの時のことを思い出さず平凡に生きていた。私の心を起伏させるものを遠ざけるため、実家を離れて、一人暮らしが出来る蓮見学院をわざわざ選んだ。
私が掴み取った選択――その結果得られた物は、楽しくもないが、辛くもない日々。それは、私にとって、とても過ごしやすい環境だった。
それなのに、今日嘉神が送り付けてきた手紙を読んで、久しぶりにあの感覚を思い出してしまった。息が止まるかと錯覚するくらい、心臓が凍てつく感覚。二度と味わいたくなかった感覚。
そうだ。私はあの感情を思い出すくらいなら、喜んで呪いでも何でも甘んじ受けよう。
私の話に嘉神は一瞬驚きの顔を浮かべたが、すぐに唇に指を当てて思案する素振りを見せる。
いくら能天気な嘉神とはいえ、ここまで言ってやれば、私が頭のおかしい人間だと思うだろう。そして、私とは関わるべきではないと判断するはずだ。
これで嘉神から呆れられ、私はようやくこの場から抜け出すことが出来る。その算段のはずだったのに――、
「――なら、私がその呪いとやらを解いてあげよう」
「は?」
しかし、呪いという突拍子もない言葉にも嘉神は全く動じることはなかった。
「私はこう見えても海外に何度も旅をしたことがあってね。呪いやら悪魔やら、そう言った目に見えない分野にも、それなりに精通しているんだよ」
むしろ、呪いという単語は、より一層嘉神のやる気を上げさせてしまったようだ。
私の目の前にいる嘉神は、呪いという阿保らしい言葉を本気で受け取り、本気で心配し、本気で解決しようとしている。
嘉神の真剣な口調に、私の方が一瞬動揺させられてしまったが、すぐに立て直し、
「いやいや、そういうことじゃないでしょ。私のは、そんな本格的なオカルト的な話じゃなくて、比喩っていうか――」
「なら、余計にいいじゃないか」
言葉を濁らせる私に、嘉神は自信満々な声音で言う。
「君の心を凍らせる何かを、解かせばいい」
簡単に言ってくれる。
私は心が荒くれ立つのを感じ、握り拳を作った。あと何かもう一つのきっかけがあれば、嘉神の首元に狂犬のように突っ込んでしまいそうだ。
しかし、嘉神は私のことを静かに見つめるだけで、これ以上は何も言おうとはしなかった。
どうやら、嘉神は私の――否、人の心の機微を察知するのが上手いらしい。
「――はぁ」
私は半ば投げやりに溜め息を吐いた。まるで苛立ちをそこにぶつけたかのような、乱暴な吐き方だった。
ここで、気にならないことがあれば暴れるという獣に似た行動に出れば、さすがに不味い状況になる。
不法侵入に加え、その住民に暴力を振るったとなれば、学校や実家にまで連絡が行くことは容易に予想がついた。
私は握り締めていた拳を、ゆっくりと解いていく。
「……分かった。もうあんたは何を言っても、引く気はないということね」
嘉神はにっこりと笑う。それは無言の肯定と捉えていいだろう。
「だったら、いいわ。あんたの言うカガミプロジェクトとやらに乗ってあげようじゃないの」
あそこまで言ったのに変わらないということは、もう嘉神は梃子でも動かないだろう。
だったら、この場を凌ぐためには、嘉神の言うことに従う他はないようだ。
もちろん、よく分からない怪しいプロジェクトを行なう訳ではない。
わざと失敗して、人を笑顔にすることは無理だということを知らしめる。嘉神に現実を叩きつけてやるのだ。
「そしたら、そこにサインを」
私の思惑を知ってか知らぬか、月橋が私の前にペンを置き、嘉神は手で差し示す。二人とも、邪気のない純粋な笑みを浮かべていた。
私は浅く息を吐くと、ペンを握り締めた。そして、紙にインクを走らせていく。
【私、周防優希乃は嘉神明人が行なうカガミプロジェクトによって笑顔を取り戻すことを、ここに誓います】
嘉神は私のサインの書かれた書類を見ると、
「うん、よろしい! それでは、改めてこれからよろしく頼むよ。周防優希乃さん」
「こちらこそよろしくお願いします。嘉神明人さん」
――まさか、この紙から私の人生が百八十度変わるようになろうとは、この時は思いもしなかった。