お母さんと呼ばないで。
ありえない。
保健室が静寂に包まれる。
この女本当にありえない。
「昨日、この子がずぶ濡れで帰ってきたわ?あんな雨の中。かわいそうに。傘を持っていなかったのよ。」
良太は謝罪した。
「昨日、僕のお見舞いに来てくれた彼女を、雨の中返したのは僕です。」
ぶたれた頬をかばいもせずに、真っすぐに彼女の目をみて言い放った。
そして、深く頭を下げた。
「本当に申し訳ありませんでした。」
「謝って済む話じゃないわ。あなたの常識を疑うわ。お見舞いをしにきてくれた女の子を雨の中に放り出すなんて。」
良太は頭を上げない。
「親御さんは?その時ご在宅じゃなかったの?」
「はい。」
良太は頭を上げない。
「そ。じゃあこれ以上あなたと話すことは何もないわ。美月。帰るわよ。」
母の服の裾をミツキは掴んだ。
「……お母さん。お願い。良太に謝って。」
「なにを……。」
「……お願い……。」
これ以上カッコ悪い姿を美月に見せないで。
美月に残さないで。
母は短くため息をつく。
「いいから。行くわよ美月。」
「謝って!」
ミツキの叫び声に母は驚きの顔を見せる。
「あなた。またなの?また薬ちゃんと飲んでないの?」
母の言葉があまりにショックで情けなくて、涙が流れた。
「飲んでる。ちゃんと飲んでるから。」
「美月はそんな口きかないのよ!」
親の言葉には呪いのような重みがある。
きっと大多数にはなんの効果もない呪い。
でも美月を縛ってきたこの呪いは。
いじめもなんとも思わなかったミツキをも縛っている。
当たり前だ。
他人じゃないんだから。
「……あ……。」
母はミツキの顔を掴む。
「今朝は?今朝はちゃんと飲んだの?」
「今朝は、市販の風邪薬飲んじゃったから。」
「……だから?」
「……飲んでない。」
母はミツキの顔を強引に持ち上げ、目の前に母の顔を近付く。
「嘘よ。嘘。あなたは嘘ばっかり。美月から出て行きたくないだけでしょ?あんたの意見なんてきいてないんだから。さっさと飲みなさいよ。今ももってるんでしょ?今は風邪薬もなにも飲んでないわよね?ね?じゃあ飲まない理由はないわよね?」
「え?」
この後病院行きたかったのに、いけなくなるじゃん。
「今はちょっと……。」
「あんたの意見は聞いてないのよ!」
母は乱暴にミツキの鞄を漁ると中から未開封の錠剤を取り出す。
錠剤を手に持ち、口に無理やり押し込もうとする。
「飲みなさい!」
「あの、病院行きたい。」
「飲みなさい!」
「具合が悪いの。」
「美月を返しなさい!」
突然、母の圧力が止まった。
母の腕を掴んでいたのは、他でもない良太だった。
「……ミツキ、先に病院にいきたいんだってさ。」
「連れていくわよ!飲んだ後にね!」
「……でも、病院で先生に相談してからでもいいんじゃないですか?」
大人の母を、子どもを諭すように静かに言葉を選ぶ良太。
「こいつはね!ごまかしたいだけなのよ!」
「……薬。ちゃんと減ってます。」
「……え?」
どうして薬のこと、良太が知ってるの?
「お母さんに連絡するときに、カバンの中を見させてもらって……。」
ちらっとミツキの方を見る良太。
今のはミツキに言ったみたいだった。
「最近処方された薬ですよね?それ。ちゃんと日数分減ってますよ。」
良太は母の腕を離した。
「だから、今日は病院の先生と相談してから決めてもいいと思うんです。」
母の拳は堅く握られたまま震えていた。
「……じゃない。」
母の声も震えていた。
「あなたには関係ないじゃない!何も知らないくせに!美月をこんなにしたくせに!」
どれだけ煽られても、良太は眉毛一つ動かさなかった。
「そうですね。……何も知らない僕の方がきっとミツキを理解できていますね。」
嫌味ではない。
これはきっと本心だ。
「……さい。うるさ!」
「お母さん!」
「お前がお母さんと呼ぶな!」
母がミツキの方を、確かにそう叫んで振り向いた。
母には今のミツキがどんなふうに映っただろうか。
前歯で錠剤を咥えて笑うミツキが。
ミツキはそのまま錠剤を飲み込んだ。
「心配かけてごめんね!ワタシが悪かったわ。病院、早く行きたい。」
無言でミツキの腕をつかんでベットから引きずり出した。
そして強く抱きしめた。
「……ごめんね?ごめんね。」
まるで小さな子どもを叱った後に慰めるようにミツキをなだめる。
彼女にはミツキを受け入れられないのだ。
……きっとその娘の美月も受け入れられてないのかもしれない。
母越しに良太と目が合う。
ミツキは手で帰るように指示した。
これ以上、こいつを見せたくない。
良太は少しためらったが、自分がいてもミツキに迷惑がかかるのを理解したのだろう。
静かに保健室を出ていった。
出ていく直前、ミツキに口パクで何かを伝えた。
それは五文字の言葉。
母を止めた良太はちょっとだけカッコよかったのに、それがあまりに可愛くて少し頬が緩んだ。
ミツキも口パクで返す。
「あ・り・が・と・う」
それを見届けると軽く手を振り帰って行った。
母がミツキの髪を撫でる。
さっきの良太、本当にかっこよかったな。
前もこんなことあったっけ。
ああ、これはミツキじゃなかったんだ。
美月が良太と初めて話したのも、確かここだったっけ。
美月は良太のこと、その時からずっと好きだったのかな。
それとも旅行の時?
ミツキはいつ好きになれるんだろう。
『……何も知らない僕の方がきっとミツキを理解できていますね。』
鼓動が少しだけ、強くうった。




