甘い指先
秘密だよ、と嗤うと私の手を握る彼は神妙な顔で頷いた。
内緒だよ、と微笑むと目の前の彼は空虚な瞳でただその炎を見ていた。
彼を助けたかった私たち。
私たちの望みは彼の笑顔だったのに、なのに。
***
「何を入れたの?」
幼馴染三人が揃って大学を卒業した記念に、今日は久しぶりにお泊まり会をしていた。
散々語り合った後、ご飯を作ると彼はーー侑斗はお酒を用意するよ、と一言口にして立ち上がった。
そして、今彼は一つのグラスに粉を入れたのだ。
ーー恐らく、殺傷能力のある物を。
「奈々美……」
彼の表情はいつも以上に硬いけれど、私に見つかった事で彼が動揺している風ではなかった。
リビングからテレビの音がする。
そうだ、椎名の好きなバラエティーの時間だった。
緊迫したキッチンの雰囲気を壊すように、リビングの椎名がつけたテレビの笑い声が響いた。
「知ってるんだ、全部」
「ーー……」
「奈々美、お前が俺の母さんを殺したのか?」
疑問符を打つくせに、その口調は確信めいている。
グラスに注がれたお酒に浮かぶ氷が音を立てた。
ここで嗤って頷くのが私の使命だ。
あの日私たちはーー私と椎名は、そう約束したのだ。
侑斗は永遠に間違い続けるだろう。
私と椎名の嘘に躍らされて。
怒声が響くのはいつもの事だった。
私の家から百メートル程離れた椎名の家の向かい側。
可愛らしい塗装の施された二階建てのお家が侑斗とその母親の家だった。
「もしもし、奈々美?」
「どしたの椎名」
「まただよ、行こう」
夜の八時によく椎名から出動の電話が来た。
この電話を取った後は急いで靴を履き、全速力で侑斗の家に向かう。
鍵の掛けられていないドアから、小さい頃から遊び慣れたその家に無断で入り込み、倒れた侑斗の手当てを私が、泣き崩れる翔子おばさんの背中を椎名が摩った。
私と椎名が三歳の頃に越して来た侑斗たち中村一家は誰が見ても幸せな家庭だった。
美人な翔子おばさんと背の高い優しいおじさんに、美しい顔の気弱な侑斗。
誰もが羨む家族。
私たちが中学二年生になった年の夏、おじさんが亡くなるまでは。
おじさんが事故死した後は転がっていくように素早く、鮮やかな変化が起きた。
ヒステリックな泣き声、何かが倒れる音。
向かい側に住む近藤のおじさんーーつまりは椎名の父親はこの異変にすぐに気がついた。
近藤のおじさんは、翔子おばさんが落ち着くまで侑斗を預かると提案した。
それを拒否したのは他の誰でもない侑斗だったのだ。
「俺がいないと、母さん、死んじゃうから」
そう笑った彼の瞳はその晴れやかさを失い、雨が降る前の曇天のようだった。
「侑斗…侑斗が死んじゃうよ…っ」
「お前殺されたいのかよ」
私と椎名がどんだけ泣いても、彼が首を縦に振ることはなかった。
だから私と椎名はいつも翔子おばさんの声が止むとすぐに侑斗を助けに行った。
本当は殴られるのを未然に防ぎたかったけれど、一度荒れる翔子おばさんを止めようとしたらますます激しく彼女が彼に暴力を振るおうとしたので、それきりとなった。
「侑斗、痛い?…しっかりして」
制服の白いシャツに血が飛んでいる。
床にはカッターが転がっていて、何があってこんなに出血しているのかすぐに検討がつく。
「ん。……大丈夫」
彼は手当てを終えるといつも私を一度だけ強く抱きしめた。
私は彼に体温があることに安心し、小さく抱きしめ返すのだった。
「翔子さん落ち着いたよ」
「椎名…ごめんな」
「今更だよ」
翔子おばさんを寝かしつけた椎名はまるでなんでもないように笑いかける。
そして私と椎名は侑斗の家を出ると泣きながら、手を繋いで帰るのだ。
無力な存在をその手のひらだけが受け止めていた。
そんな日々が中学三年生の冬まで続いた。
一年が終わる日、大晦日。
私はその日最悪なことに熱を出していた。
前日から続く熱は少しずつ収まり、微熱程度になっていた。
父母が旅行に行くなか、私だけが残された家では寝ることの他なく、起きた時にはもうすっかり夜が更けていた。
汗が不快で、せめてタオルで体を拭こうと思い立った、そんな時だった。
夜の九時、いつもより一時間も遅れてその電話はやって来た。
私は今でも後悔している。
もしあと一時間早く起きていたら。
三十分前の椎名からの着信を取れていたら。
きっと、きっとーー
「殺した、と言ったらどうするの?」
挑発的に笑った私に侑斗の瞳はあからさまな失望を滲ませた。
「あの日、火をつけたのは奈々美だったと…そう認めるということ?」
「そうね、そうかもしれないわね」
「ふざけないで答えて」
侑斗の苛立ちがこちらにまで伝わってくる。
私はそれに恐ることはない。
むしろ結末の到来に喜びさえ思った。
「ふざけてないよ、大真面目」
そう口角を上げた途端、大きな音がして私の視界が反転した。
押し倒されたと気づくのは数秒後だった。
「どうしたー?何かあった?」
テレビの音を上回る音量の、椎名の声。
「ううん、なんでもないの。お皿落としちゃったけど、割れなかった」
そう大声で返した私に、侑斗は驚いた表情を一瞬だけ見せて、すぐに無表情になった。
「椎名に助けを呼ばないの?」
「呼ばないわ、椎名には関係ないもの」
そう口を動かしながら、実は椎名は私たちの状況に気づいているんじゃないかと思った。
椎名は気づいて、でもあの真実を守ろうと貝のように閉口しながら、愚かなフリをしてただテレビを眺めているんじゃないだろうか。
天使のような男の子を見た時、私と椎名は喜んだ。
彼と友達になれることに喜んだ。
閉鎖的なこの街に降り立った天使に感謝したのだ。
侑斗以前に問題があったのは、私と椎名だったのだから。
家族から愛されなかった私と、母親のいない椎名。
プライバシーも何もない田舎でヒソヒソと噂される私たちは、その新たな登場人物にどれほど救われただろう。
ーーお二人とも仕事人間だものねぇ
ーーネグレクト?
ーー母親は誰かしら…
ーー家を出て行ったって聞いたけど…?
大人の馬鹿げた推理が繰り広げられるなか、
彼は、彼だけは、私と椎名を悪く言わなかった。
私と椎名は、侑斗のために何かしようといつも思っていたのだ。
無垢さ故に私たちを助けた侑斗。
汚れた故に侑斗を救った私たち。
どこで、間違えたのだろうか。
「私を殺す?」
侑斗の白い指が私の首に触れた。
冷たい体温に体が思わず小さく跳ねる。
侑斗はその問いには答えない。
「いいよ、殺しても。
あの女殺したのは私なんだから、侑斗には私を殺す権利がある」
彼の指が食い込む。
あぁ、ようやく終わらせる事ができる。
侑斗、私は愛した貴方に殺される事ができて嬉しい。
そう言ったら彼はどんな顔をするだろう。
母親に殴られながら、母親を抱きしめ続けた侑斗。
そんな姿に恋をした私は狂っていたのかもしれない。
好きだと言えずじまいなのは悲しいけれど、でもこれも私の一つの秘密として墓場まで持って行くわ。
聡い椎名はきっと気づいていただろうけど。
でも彼もきっと何も口にすることはないでしょう。
意識が白濁色に堕ちていく。
さよなら侑斗。
愚かな貴方がいつまでも騙されてくれますように。




