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苗床



   苗床




 ぽかりと目が覚めた。

 水面に浮かんで漂っているような感覚がする。

 首を傾けて光量を落とした表示を見れば、日付が変わる2分前だった。右手を持ち上げてアラームを解除する。ベルが鳴る少し前に目を覚ますのは僕の特技だ。ここで暮らすようになってからアラームに起こされたことはまだ一度もない。

 だから、目覚めの報せに何の曲を設定したのか、忘れてしまった。それともデフォのままだったろうか。判然としない。

 ぼんやりと暗い天井を見上げていると、しばらくして部屋全体がスィッと明るくなった。

 午前0時。

 Aシフト班の起床時刻だ。

 のろのろと起き上がり、僕はまず用を足して健康チェックに回す。実はかなり催していたのだ。次に手と顔に消毒洗浄用ミストを吹き付け、両手でまんべんなく行き渡らせる。余った分は髪にも撫でつけ、寝グセ直しの代わりにする。目頭に目ヤニが残っているような気がして仕方ない。ティッシュを一枚とって慎重に拭いた。鏡を見る。よし、万全。

 ティッシュはリサイクルボックスに入れる。

マイセキュを起動させて今日の予定とCシフト班からの引き継ぎ事項を確認する。

 これといった注意事項はない。A班のトマトも収穫していい頃合いだと、これは農場担当のエレナからの伝言だ。僕がやたらトマトを好きなことを覚えていてくれたらしい。少し気分が上がる。

 循環システムはかなりいい調子で回るようになったようだ。ここのところ、酸素と水のストックが目減りしなくなった。この数値がずっと継続できればいい。

 情報を読み飛ばしつつ、仕事着に着替える。両隣の部屋からもパタンパタンと不定期に物音がする。皆が朝支度しているのだ。

 と、僕の部屋のドアが軽くノックされた。シドだ。真向いの部屋に住んでいて、いつも朝ごはんの誘いに来る。僕もちょうど最後のファスナーを上げたところだ。ドアを開錠して、脱いだ寝間着を丸めてランドリーボックスに放り込む。ボックスで飼われている酵素が僕の皮脂や老廃物を分解して、次に着用するまでに綺麗にしてくれるだろう。

 ドアが開き、シドが大股で部屋に入って来た。相変わらず背筋がシャキンと伸びていて姿勢がいい。中年とは思えない若さと活力を周囲に放っている。

「おはよう、ユージン」

「あぁ、うん。おはよう」

 対照的に、僕はもごもごと挨拶して、シーツの皺を直す。彼女は腰に手を当ててクスッと笑った。

「几帳面ね」

「あぁ……うん、そうかな? そうかも……ちょっと気になって……」

 主旨のはっきりしない答えを返して、僕はシドの隣に並ぶ。背丈はほとんど変わらない。案外、体重や筋力もそう変わらないのかもしれない。北欧系の彼女は見るからに骨太で頑丈そうだ。

「今朝の食事はスペシャルらしいわよ」

 食堂へ向かう道すがら、思い出したようにシドが言う。心なしかウキウキしているように見える。ここの生活は基本、とても単調だ。普段と違う献立が出るだけでもニュースになるのだ。

「へぇ……何だろう? 誰かの誕生日?」

 しかし、それならマイセキュが起床時にそれを知らせてくれたはずだ。そんな情報はなかった。それに、誕生日を理由にスペシャルを出すのなら、昼食か夕食が妥当だろうと思う。

「ううん、多分……」

 シドが言いさしたところで食堂に着いた。カウンターの上にはもう2人分のトレイが出されている。僕らが部屋を出たタイミングで調理と盛り付けが始まるのだ。カウンターの向こうでは、他の5人の分の温めと盛り付けも始まっている。

「へぇ……これは……」

「あら? すごい!」

 僕らは同時に目を見張り、そして声に出した。カウンターに詰め寄り、トレイにおっかぶさるような姿勢でその綺麗な赤を見詰める。

「やられた。ひと足先に収穫したのね」

 言葉とは裏腹に、シドは実に嬉しそうだ。僕などは嬉しさを通り越して夢見心地になっている。

 トレイにあるのはビタミン強化のブレンドジュースと、僕はパリッと焦げ目をつけた薄切りトースト。シドはふすま入りのクラッカー。そして、メインが収まるべき凹みには、トマト丸1個分のスライスとモツァレラチーズが赤と白のストライプに重ねられていた。

  生の、切っただけのトマトが皿に乗っている。

 トマト味の何か……ではなく、正真正銘の、トマトだ。

 そのままのトマトなんて何日ぶりだろう。いや、単位は年だ。ここに来てからはもちろん初めてだし、その前も月に来てからは全く口にしなかった。

 シドに促されて、いつもの席で食事を始める。まだどこか夢見心地だ。ゆっくりとジュースをひと口。いきなりトマトに行くのがもったいないと、心のどこかで思っている。トーストを半分に割いて、片方を口に運ぶ。サクリという感触で少し我に返った。パンの甘味が口の中に満ちる。早くトマトに行けと脳内で自分が要求している。面白い。

 パンを飲みこんで、おもむろにフォークを手に取った。まずはトマトだけ。端っこのひと切れに突き立て、まず、顔の前に持って来た。スンと息を吸う。ちゃんとトマトの匂いがする。

 向かいのシドはすでに半分ほども食べ進んでいる。顔中の筋肉をフルに使って、実に美味しそうに咀嚼している。

「このトマト、最高」

 ささやくように言って、僕にウィンクした。

 つられるように、ひと口目を口に入れる。甘い。そして少し酸っぱくてしょっぱい。オリーブとバジルの香りが追って来る。見た所バジルの緑は見当たらないのだが、オイルにバジルが漬けられていたのかもしれない。

「……」

 ぼくはもう言葉もない。舌の付け根の辺りがキュッとなる。待ち望んだ味を感知すると、この感覚がする。美味い。

 ふた口目、今度はチーズとトマトを一緒に刺して食べた。これがまた美味い。もすんとした感触のチーズを歯で切り裂いて、その下のトマトからはグズリと果汁が溢れだす。たまらない。

 ふぅとひと息ついてジュースを飲んでいる時に、後発組のA班の面々が食堂にやって来た。それぞれがトレイを見て歓声を上げている。皆、素材そのままの食事と決別して久しいのだ。

「じゃあこれ、C班のトマトなの?」

 マリアがマイセキュに確認している。

「そうなるのかな? 今日は僕らのトマトも収穫していいって連絡が来てるよ。後で採って来る」

 暗に、それは僕の権利だと主張して、それからトレイを片付けに立った。ついでにシドの分と2人分、コーヒーをカップに注いで席に戻る。厨房では新たな作業が始まっているようだ。C班の夕食の用意だろう。やはりカプレーゼが出るようで、8枚並んだトレイの一画にそれぞれ赤と白のストライプが収まっている。

「私たちのトマトは、じゃあ……B班の朝食になるのね。最盛期になったら、それぞれの出来を競って試食会をしたいわ」

 はしゃぐ皆を置いて、僕とシドはカップを持って食堂を出た。就業時間にはまだ少しあるけれど、先に農場の様子を見たかったのだ。トマトの熟し具合も見ておきたい。

 長い通路を何度か折れて、入り口前の控室で除菌マットに念入りに足を擦り付け、両手にアルコールを吹き付けられて、それから紙製の帽子と上着を身に着ける。そこまでやって、ようやく農場棟へ入れるのだ。入り口の戸が開くと、濃密な空気がもわっと僕らを包んだ。

 ……最初の違和感は、その空気だった。いつもと違う匂いが混じっている。甘く、香ばしく、それでいて、臭い。気温はいつも通りなのに、熱気を孕んだ何かが溶け込んでいる。

 シドも何か感じたらしい。僕の方に向き直って、眉間に皺を寄せて見せた。あなたは何か感じた?と言いたいらしい。僕は小さく頷く。何が昨日と違っているのだろう。

 二、三歩進んでから見渡す。通路は狭く、並んでは歩けない。両側の培養土は黒々として、水気を含んでふかふかしている。そこに、僕らの肩くらいまで育ったトマトが赤や緑の実をたくさんつけて並んでいる。

 何も異変はない。多分、ない。

 畝の向こう側まで来た。大した距離じゃない。トマトばかりそんなに大量に栽培しても仕方ないから。振り返ったところで……気付いた。天井だ。天井に何かシミがある。赤黒い液体が天井の一部を汚している。

「何?」

 シドが、今度は疑問を声に出した。僕は小さく首を振る。分からないと答えたつもりだ。

 何だろう。あの色、そしてこの臭い。液体はまだ乾いていない。ポタリと雫がしたたった。そのすぐ下、したたった先のトマトの苗の列が凹んでいることに気付く。倒れているのだろうか?

 通路から外れて、培養土の上を歩く。苗をそっと掻き分けて、そこに向かう。

「ひっ!」

 シドが悲鳴にならない悲鳴を吐く。僕も反射的に手で口と鼻を覆った。

 その一画の培養土が濡れている。苗もトマトも濡れている。黒々とした土の色がひと際黒くなっていて、赤黒い液体をたっぷりと吸ったのが分かった。その真ん中に、チャーリーが突っ伏していた。

 首筋に大きな傷。そこから血が噴き出したのだろう。辺り全てが濡れている。すぐ脇に鉈という刃物。これもまた赤黒く濡れている。もう間に合わない。何故か、すぐに分かった。でも、このままという訳にはいかない。手探りで端末を取り出し、マイセキュを起動した。まず、キャプテンだ。次にドクター。後、誰に連絡を取ればいいんだろう?

 頭が全く働かない。

 シドが弾かれたようにチャーリーに駆け寄り、首に手を当てて脈を診ている。脈を打つ液体が失われて、もう拍動しない脈を探している。

 呼び出し音を聞きながら、辺りのトマト全てもまた濡れていることに気付いた。


 シフトが非常時用に移行した。自由時間の行動が制限され、自室待機モードになる。チャーリーが死亡したことは全員に知らされたが、詳しいことはまだ伏せられたままだ。僕とシドは暗に黙っておくように要請され、他のメンバーとの接触もそれとなく禁止されてしまった。この措置は仕方ないとも思うし、一方ではそれなら、僕らにも更に詳しい情報を教えてほしいという不満もある。

 リーダーグループは何も教えてくれないままだ。ドクターが検死したのだから、何かしら新たなことが判明しているはずなのに。それに、施設内のカメラを検証してチャーリーの行動は逐一見られるはずだ。彼に何があったのかはすぐに分かるはずなのに。この小さな閉鎖環境で、限られた人数のグループの中で何が起こったのかなど……。

 僕は何杯目かになるコーヒーを淹れてデスクに戻った。すぐ横の席でシドは俯いたままだ。時折、何かに怯えたように部屋の隅を見る。何か声をかけるべきか迷って、結局、視線を合わせて頷くだけで終わってしまう。僕はカップを脇に置き、やっぱり俯いて同じ考えをループする。

 何故、手を下した者が不明なままなのだろう。メンバーの行動記録を精査すればすぐに判明しそうなのに。それとも、この少数の中での犯人捜しは拙いという判断だろうか。

 確かに……犯人を特定して、それからどうするのだと問われれば確かに困る。普通ならば警察に引き取ってもらって、それから然るべき法的手順が始まるのだろうが。ここは普通が成立しない。全くの治外法権だ。今、リーダーグループが何も動いていないように見えるのは、これからどうすべきかをまだ決めかねているということだ。

 犯人を捜して制裁を加えるべきだろうか? が、この人数を更に減らしていいのか?という疑問も湧く。ただでさえ、僕らはチャーリーを失っているのに。

 かといって、誰が犯人なのか分からないままに今まで通りの生活を再開できるものだろうか? それは長期的には、犯人捜しをするよりも瓦解の可能性が高い気がする。

 いや、そもそも、他殺だったのだろうかという疑問もある。

 彼の頸動脈を断ち切ったのは鉈という刃物だ。自分に振り下ろすにはかなり不便な形状だとは思う。しかし、誰かが振り下ろして命を絶つのも難しいのではないだろうか。僕らは、他者の命を絶つのに慣れていない。

ここは月の裏側の、どこからも断絶された実験プラントだ。長期の星間旅行のための、外界から全く干渉を受けないよう配慮された閉鎖空間、それがここだ。食べる物は全て……動物性のアミノ酸すらも化学合成したモノだ。僕らはもう何世代も前から、他の命を絶って食べるという習慣を持っていない。故に、殺し方もよく分かってないのだ。殺し方など、知識でしか知らない。

遺伝子操作で創った植物プランクトンを主軸にエネルギー循環システムを回し、ようやくそれが軌道に乗ったところだ。少しだけ余裕もできた。持ち込んだ苗木と種から作物を育て、初めての収穫を得たところだったのに。

彼の切り傷の角度はどうだったのだろう。それを調べれば、自殺か他殺かくらいは分からないだろうか。いや、そんなことはキャプテンだってとっくに思いついているのだ。犯人捜しをすべきかどうかで悩んでいるのだ。

 僕がわずかの間に見て取ったこと。彼の傷にためらった様子はなく、すっぱり一太刀。すごい勢いで血が噴き出し、血のほぼ全てが当たりの培養土にしみこんでしまった。それだけ。

 僕はふと想像する。

 チャーリーの死体が片付けられて……この培養土で新たに何かを育てたら、その実は彼の味がするのだろうか、と。実際にはあり得ない。彼の成分は地中のバクテリアが分解して別のモノになる。そもそも、彼の味とは何だ? 彼の味がするとして、彼を……人間の味を知らない僕が同じかどうかを判定できるとも思えない。

 そんな妙なことを考える。

 育てるまでもない。彼の血がたっぷりかかったトマトは厨房に並べられている。苗木を始末するにあたり、食べ物を廃棄していいものかどうか迷って、結局、熟した実を洗って厨房に運んだらしい。すっかり洗浄され、洗い流され、そのトマトはツヤツヤと光沢を放ってカウンターの上に並べられているらしい。けれど、手を伸ばす者はいない。多分、現れない。

「どうして……」

 シドが何か呟いた。多分、続きは分かる気がする。

「どうなるんだろうね。地球に連絡取って判断を仰ぐのか、それとも、これも克服すべき課題としてこのまま続けるのか……」

 窓に視線を向ける。正確には、窓のようにデザインされたモニターだ。外の様子をそこに映している。いつもと変わらない星空。今は夕暮れ期で、太陽は地平の際で存在を主張している。地球は……当然見えない。

 もし、このまま隔絶実験を続行するのなら……。

 僕は想像を続ける。

 彼の、チャーリーの遺骸をどう処理するのだろう。もちろん、途中で誰かが死亡するケースは想定されていた。その場合の対処も処理法もマニュアルにあるはずだ。でも、僕はそれを知らない。どうだったろうか。廃棄? それとも、コンポストで分解処理?

 トマトの味を不意に思い出す。舌の付け根の辺りがキュッとなる。

 少ししょっぱく、少し酸っぱくて、そして甘い。

 きっとあれが彼の味だ。

 あのトマトはどうなるのだろう。結局、誰も手を付けないままに腐って、あれも廃棄になるのだろうか。

 廃棄され、コンポスト行きになり、そこに棲む微生物が分解し、分解し……。

 その土がまた農場に戻されて、新たに植えられた苗がそれを汲み上げ、成長し、実を結ぶ。そしてまた。厨房の棚に並ぶのだ。ツヤツヤと光沢を放って。

 その繰り返しの果てに、やがて誰かが手を伸ばすのだろう。血の恐怖はいつか薄れる。

 案外、最初は僕なのかもしれない。

 その頃には、この閉鎖環境からは出ているだろうか。実験はいつになったら終わりだったろうか。何故か思い出せない。

 ここから出て、地球に戻って、自然の大地で育てたトマトなら、それなら食べられるだろうか?

 結局、そのトマトだって、誰かの血と肉を汲み上げて育ったものじゃないのか?

 その考えが僕の中でグルグル回っている。

 たとえば……この実験を基にどこかの遠い星に旅する日が来たとして……。

 その大地で育てたトマトも、血の味がするのだろうか。殺戮の記憶が遺伝子の中に、物質を構成する原子の中に宿ったりするものだろうか。ヒトの罪深さ、ヒトの罪深さ……。

 それらを全て噛み締めて、それでもヒトはトマトに歯を立ててしまうのだろう。

 案外、最初は僕かもしれない。



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