偽の鼓動
偽の鼓動
「ねぇ、生きてる?」
思い出したようにかけられた言葉がこれだ。こういう時、人は笑えると感じるのだろう。
視線を下ろせば、腕の中の彼女は少し不満そうに自分を見上げている。少し上目遣い。心持ち眉の角度が急で、口角は反対に下がっている。ごくごくわずかの差異で人は多彩な感情を表現できるのものだ。
大丈夫、彼女は怒ってはいない。彼女はただ不安なのだ。
ちゃんと機能してますよと告げるために、ため息のような大げさな息を吐いてみせる。
それで安心するのか、彼女は身じろぎして身体を丸める。とはいっても、妙な角度に傾いだ車内なので、あまり動けない。
大失態をしでかしてしまった。
彼女が自分で運転すると言い張るのを説得できなかった。先日、優秀な成績で運転免許試験をパスしたばかりなので、ついつい彼女のおねだりに従ってしまった。郊外を走る分にはそれで構わなかったが、彼女が峠に向かうコースを選択した時点で、それが無理なら、雨がみぞれ混じりになった時点で自分が運転を換わるべきだった。もしくは、強制的に運転をオートに切り替えるか。ハンドルを握る彼女がすごく楽しそうで、申し出るタイミングを誤った。自分の失態だ。
悪い事は重なるもので、スリップした先にはガードレールがなかった。藪の斜面を滑り落ち、今、車は半回転して横倒しみたいな角度で樹に引っ掛かっている。どうにかならないかと身体を捻ると車が揺れる。どうも微妙なバランスのようだ。無茶をして更に落ちたら洒落にならない。この場合はレスキューが到着するまでおとなしく待っているのがベストなのだろう。もう、そろそろのはずだ。
しかし、しくった。後でマスターにこっぴどく叱られるに違いない。あちこちぶつけたので、調整とメンテもセットだろう。気が重い。しかし、彼女にも自分にも損壊箇所がないのはラッキーだった。そう考える事で自分を慰める。
エアコンが切れた車内は少しずつ冷えて来ている。自分は平気だが、彼女はどうだろう。後部座席の上着を手繰り寄せて彼女を包んだけれど、効果はあるだろうか。足りない分を補おうと、意識して体温を上げる。腕に力をこめて、彼女に身を寄せる。
それに気付いた彼女がクスクスと笑い、自分もつられて笑顔を作った。照れ笑いの共有だ。
「なんだか不思議。普段からこのくらい積極的ならいいのに」
「いや、それは無理だよ」
即座に答える。それは非常時以外ではわきまえておくべき行為だ。自分の立場では。
彼女は不満げにため息を吐く。
今度ははっきり怒ったのが分かった。
どうすれば傾いた機嫌を戻せるのかが分からず、仕方なく肩にかけた手に力をこめた。彼女の心拍数はかなり落ち着いてきた。……はずだったのが、また少し速くなる。事故直後のショックから大分脱したと思っていたのに。いや、しかし、体温は少し上がっている。不思議な反応だ。
落ち着けというつもりで背中をトントンとすれば、彼女も身体を寄せてくれた。
「ねぇ、生きてる?」
思い出したように、また言う。
「生きてる……。どうだろう? 私、生きていますかね?」
「気が利かないヒトね! こういう時は嘘でも生きてるって言って! こんな山の中で私一人だと寂しいのよ」
「それは……そうだね」
今時、旧道の峠道を通る車などほとんどいない。まして、雪がチラつく夕暮れだ。事故を起こして十数分たったのに、まだ一台も上を通らない。時折り、暗い木立ちの向こうから奇妙な鳥の声が響くだけだ。こんなところに一人で放り出されれば、それはそれは寂しくて不安だろう。
「そうだね。でも今は私がいるから。でも……こんなのでも生きてるって言っていいのかな?」
「じゃあ、言い方変える。体温を上げて。息を吸って、そして吐いて。瞬きして。そして私を見て、目を逸らさないで。……助けが来るまででいいから」
肩に置いた自分の手の上に、彼女の手が重ねられる。まだ平常よりも少し冷たい。
もう一度ざっとスキャンして、出血がないのを確認する。外傷はない。本当に、それだけはありがたい。
「……あなた、役立たずねぇ。何それ?って機能は無駄に色々ついているのに、どうして腕力は人間とあまり変わらないくらいの出力設定なの? こういう時は私を抱えて颯爽と崖を駆け上がるべきじゃない?」
「はぁ……。まだ試作段階ですからね。うっかりして傷つけてしまわないよう、抑え目に作ってありまして」
「んもぉっ! 何のための自律型ヒューマンタイプなのよ! 役に立たないところまでリアルの男に似てなくてもいいじゃない!」
彼女が何に怒っているのかがよく分からない。
とりあえず、自分は実際の人間男性とよく似ていて、そこが気に入らないようだ。
思案顔を作って、睨み付ける彼女に視線を合わせて首を傾げてみせる。しばし見詰め合った後、彼女は急に笑い出した。
「本当に……よく出来ているわ」
「おそれります」
「褒めてないわよっ!」
彼女の言い回しはとても難しい。よく出来てる、で、まさか褒めていなかったとは。
「ちゃんと息して。あなた、何回かわざとらしくした後はすぐ忘れちゃうでしょ」
「分かりました。気を付けましょう」
そう答えて、必要のない呼吸を繰り返す。穏やかに、ゆっくりと。彼女が心地いいと感じる温度に温めた空気をそっと吐く。
彼女がコトンともたれて来た。自分の胸に……もっふりした素材のセーターを着用した自分の胸に、彼女が顔を埋める。
「…………これで、トクントクンってしてたら完璧なのにね。そこまではしてくれないのね」
「すみません。その機能は実装していません。必要なら、次の改良で提案してみます」
彼女がまた、おかしそうに笑った。顔をセーターに埋めたままなので、彼女の吐息で胸の辺りが熱い。
遠くからサイレンの音が聞こえてきた。